命を奪わぬ者
命を奪う。それは、勇者として当然のことなのだろうか。
誰かを殺す覚悟。それができなければ、この異世界で生きてはいけないと、皆が言った。
けれど一真には、それがどうしてもできなかった。
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剣を握る手に、震えが残っていた。
前線から戻った翌朝、一真は訓練場に立っていた。王国騎士団の教官が、容赦ない声で怒鳴る。
「お前は勇者だろう! なぜ手を抜く!」
「抜いてるわけじゃない……!」
「ではなぜ、殺せなかった!」
教官の怒号に、一真は返す言葉が見つからなかった。
殺したくなかった。ただ、それだけだった。
背後で訓練を、見ていた兵士たちの視線も冷たい。
あの勇者、やはり異世界の子供だ——そう言っているようだった。
この世界の常識が、自分のものと違うのは、もうわかっている。
けれど、だからといって簡単に命を奪えるわけがない。
その夜、神殿の回廊を一人歩いていると、月光の中に白い衣が揺れた。
「……エリシア」
「こんばんは。こんな夜更けに、散歩ですか?」
優しく微笑むその姿は、まるで天使のように美しかった。だが一真は、なぜか彼女の笑顔に、僅かな影を感じていた。
「……皆、俺を疑ってる。勇者らしくないって」
「あなたは、優しい人ですね」
エリシアは静かに答えた。
「戦場で命を奪わなかった。レイヴァンという魔将とも、互いに手を引いた。それは……この世界では、異常とされる。でも、私はそれを……正しいと思います」
一真は目を見開いた。
「……正しいって……?」
「ええ。誰かの命を奪うことでしか終わらない戦いなら、そんなもの、最初から間違っているんです」
エリシアの声は、確かに優しかった。けれど、どこかに妙な切実さがあった。
「あなたが……選ばれし者でなければ、きっと壊れてしまう。だから……私が導いてあげたいんです」
「……?」
「いえ、独り言です」
彼女はふっと微笑んだが、まるで、何かを知っているような眼差しだった。
「一真さん。あなたは、神に近づきつつあります。だから、もっと強くならなければなりません。剣ではなく……心が」
「心が、強くなるって……どういう意味なんだ?」
その問いには、彼女は答えなかった。
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数日後、軍議の席で再び前線行きが命じられた。
一真は剣を握り、戦場へと赴く。
その日は小規模な斥候戦。だが、相手は明らかにこちらの動きを読んでいた。
伏兵、罠、そして……彼が現れた。
「また会ったな、勇者」
レイヴァン。前回と同じ、銀髪の魔将。
彼女は単独で現れ、剣を抜くことなく歩いてきた。
「今度こそ、決着を……」
「やめろ!」
一真は叫んだ。
「こんな戦い、意味がない! あんたもわかってるはずだ!」
「……ならば、私に何を求める?」
「対話だ。理由を教えてくれ。なぜあんたは戦う? なぜ魔族と人間は殺し合う? 俺はそれを知らずに剣を振るえない」
沈黙。風が草原を揺らす。
レイヴァンはゆっくりと目を細めた。
「お前……まるで、かつての誰かに似ている。何故だろうな……」
その声には、奇妙な懐かしさと、憐れみがあった。
「……答えを知るには、お前が、本当の自分を思い出す必要がある。だが、それができたとき、お前は、今の自分を捨てることになるかもしれない」
「どういう意味だ、それ……」
レイヴァンは一歩、近づいた。剣を抜く気配はない。
「お前の中に眠る欠片が目覚めれば……門が開く」
「門って……異界の門か?」
その問いに、レイヴァンは何も言わず、ただ一言だけ呟いた。
「私は……お前を殺せない。なぜなら、私は——」
その瞬間、王国軍の援軍が駆けつけ、レイヴァンは剣を引いた。
「……また、いずれ会おう。勇者よ。私は、お前が何者なのか……知りたい」
そうして彼女は再び霧の中に消えた。
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その夜、一真は再び神殿でエリシアと会う。
「戦ったけど……やっぱり殺せなかった」
「……いいんですよ」
エリシアは微笑んだ。だが、その目は濡れていた。
「あなたが命を奪わない限り……門は完全には開かない。だから……」
「エリシア?」
その言葉の続きを、彼女は飲み込んだ。
「いえ、何でもありません。あなたはそのままでいてください。一真さんが……壊れないように、私が傍にいます」
その言葉は優しくて、あまりにも哀しかった。
彼女の微笑みの奥に隠された祈りが、どこかで響いていた。