紅き瞳の魔将
それは、まるで夢の中にいるようだった。
燃え上がる草原。空を裂く雷鳴。剣戟の音と、怒号と、死の匂い。
一真は剣を振るうこともできず、ただ立ち尽くしていた。
命を奪う覚悟——それが、彼にはなかった。
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「……前に、進め」
指揮官の怒声が響く。だが足が動かない。隣で剣を振るう兵士たちが、次々と倒れていく。
「くそっ……!」
とっさに身をかがめる。風を裂いて斬撃が通り過ぎ、後方の兵士の肩が血飛沫をあげて吹き飛んだ。
恐怖が喉元までこみ上げる。頭が真っ白になる。それでも——逃げることだけはしなかった。
そこに、彼女は現れた。
紅い瞳。銀の髪。黒き軍装をまとい、淡い月光を背負うように立つその姿は、どこか現実離れしていた。
「勇者。一日で前線に出されるとは、哀れなものだな」
魔族将、レイヴァン=アズレイド。
その声は低く、氷のように冷たい。
「……やっぱり、お前が……」
一真の声は震えていた。身体が勝手に反応している。だが、相手の瞳には、怯えも殺意もない。
「会うのは二度目……なのか?」
不意に、レイヴァンの目が揺れた。
「……そのはずはない。だが……何だ、この感覚は……」
彼女は剣を構えるが、すぐに切りかかってはこない。一真もまた、動けなかった。奇妙な沈黙が流れる。
「お前……何者だ?」
「聞きたいのは、こっちだ」
返した言葉は、自分でも驚くほど落ち着いていた。彼女の姿を前にすると、不思議と恐怖が引いていく。
——どこか、懐かしい。
「……!」
次の瞬間、レイヴァンの剣が閃いた。一真は咄嗟に剣をかざし、受け止める。
「……見せてみろ。その力を」
「力なんてない!」
跳ね飛ばされる。地面を転がり、肩に走る激痛。剣が手から離れ、転がっていく。だが、レイヴァンは追撃してこなかった。
代わりに、静かに言った。
「ならばなぜ、私の中の何かが、お前に反応する……?」
「何か? お前の中に……?」
そのとき、空間が軋んだ。何かが軋む音。まるで見えない歯車が、少しだけ噛み合ったかのような違和感。
「また……これか……」
一真の胸元が、微かに光る。割れたはずの護符の破片が、淡く脈動するように輝いた。空間が揺れ、足元の大地が震える。
レイヴァンが、驚愕したように一歩引いた。
「……その力……創造神の……」
「創造神?」
一真が問い返すより早く、敵軍の援軍が迫る足音が響いた。混乱の中、両軍が後退を始める。
レイヴァンは背を向け、霧の中に消えていこうとする。
「……おい、待て!」
「……殺さなかったこと、後悔するなよ勇者」
それだけ言い残し、彼女は姿を消した。
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王都・神殿。
翌日、一真は回復のために神殿へと連れてこられていた。体の痛みは引いてきたものの、心の中のざわめきは消えなかった。
「……創造神か……」
ベッドの脇に座り込んでいると、エリシアが静かに扉を開けて入ってきた。
「体調はどうですか?」
「まあ、なんとか……。それより、聞きたいことがある。創造神って……何なんだ?」
その言葉に、エリシアの顔から笑みが消えた。
「その名前……誰に聞いたのですか?」
「魔族の将軍、レイヴァン。……戦った。いや、戦ったけど……互いに剣を引いた。俺にも、奴にも……何かが反応してた気がする」
エリシアは黙ったまま、やがて静かに答えた。
「この世界にはかつて、創造神と呼ばれた存在がいました。世界を形作り、命を授け、そして……去っていった神です」
「去って……?」
「ええ。神が去った後、残された力がいくつかの欠片となり、この世界のどこかに散らばったと言われています。そして、それを継ぐ者——鍵が現れるとき、門が再び開くと」
エリシアは一真の胸元、砕けた護符の破片を見つめた。
「貴方の中にある欠片が、反応しているのかもしれません。……異界の門に」
「……異界の門……」
再び、あの言葉が浮かぶ。
——門は、再び開かれる。
「もし、あなたが……選ばれし者でなければ……」
またその言葉だった。だが、エリシアはそれ以上何も言わず、一真の髪にそっと手を添えて微笑んだ。
「どうか……無事でいてくださいね」
それは祈りのような、哀しみのような、奇妙に胸を締めつける言葉だった。
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その夜、一真は夢を見た。
誰かの叫び。燃える空。崩れ落ちる神殿。そして——紅き瞳の彼女が、涙を流しながら言った。
——私は、お前を殺せない。
目を覚ますと、夜明けの光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
だが、あの夢の中の声だけは、現実よりも確かに感じられた。
「お前が選ばれし者なら、次に会った時は——」
それが、約束だったのか、警告だったのか、一真にはまだわからなかった。






