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異世界の勇者

 夜明け前の空は、墨を垂らしたような暗さに包まれていた。


 電車がホームに滑り込む。車内はまばらな人影だけで、月曜日の始まりを拒むような沈黙が漂っている。大学へ向かう通学路。毎日変わらない風景——のはずだった。


「……っ!?」


 急ブレーキの音が鼓膜を裂いた。視界が、横へ、斜めへ、崩れるように回転する。目の前を横切った影。叫び声。光。


 次の瞬間、世界は——変わっていた。


 ====


「目覚めよ、選ばれし者よ……」


 重く、深い声が頭の奥に響く。まぶたを開けると、そこは見知らぬ空だった。蒼穹。古びた石の円形広間。光が差し込む天窓と、幾重にも重なる魔法陣。まるでゲームやアニメで見たような——異世界だった。


「……冗談だろ……」


 戸惑いながら身体を起こす。黒髪の少年、一真かずまは自分の姿を見下ろし、無傷であることにまず驚いた。そして次に、自分を囲む数十人の兵士たちの視線に、居心地の悪さを覚えた。


「目覚めましたか、勇者様」


 声をかけてきたのは、金髪の女性だった。年の頃は十七、八だろうか。神官服のような白装束をまとい、どこか浮世離れした美しさを持っている。


「……誰ですか? ここは……」


「私はエリシア=ルクレール。聖教会の聖女です。貴方をこの世界へ召喚した者の一人」


「召喚……?」


 エリシアはうなずいた。


「このアルゼンティア王国は、今まさに滅亡の危機に瀕しています。貴方はその危機を救う鍵——勇者なのです」


 耳に残る単語は勇者。冗談じゃない。俺はただ大学に行こうとしてただけだ。普通に、平凡に、生きていきたかっただけなのに——


「待ってくれ。俺は戦えない。剣も魔法も使えない。……間違いなんじゃないのか?」


「いいえ、間違いではありません。貴方には、無限の可能性があります。まだ目覚めていないだけ……」


 慰めのように微笑む聖女の言葉が、妙に現実味を帯びていた。あの光、あの世界が崩れるような感覚。確かに、何かが呼んでいた気がする。


 だがそれでも——。


「……人を殺せって言うのか?」


 場の空気が凍りついた。


 王宮の老臣が咳払いし、険しい表情で口を開いた。


「勇者殿。我が国は魔族との戦争状態にあります。貴方の力がなければ、民が国が滅びるのです」


「それが、俺に命令する理由になるのか?」


 真面目な顔で一真は言った。理性が先に立つ。納得できないことには首を縦に振れない性格だ。それが、彼の強さでもあり——生きづらさでもあった。


「……時間がありません」


 エリシアが苦しげに口を挟んだ。


「貴方が来た召喚陣は、完全ではなかったのです。以前にも似たような儀式が行われ、失敗しています。ですが、今回は……」


 彼女の瞳が揺れる。


「門は再び開かれる——そう記されていました。これは……運命なのです」


「……門?」


 エリシアは答えなかった。


 ====


 翌日、一真は早くも戦場に立たされることになる。


 装備は粗末な鎧と貸し出された剣。戦う気のない彼に、それはただの鉄の重みでしかなかった。


 戦場は森の外縁。敵は魔族軍。だが、魔族といっても異形の怪物ではない。彼らもまた人と同じ言葉を話し、文化を持ち、家族を守っている存在だった。


 ——そして、その中に彼女はいた。


「……お前が勇者か」


 紅い瞳。銀髪の女将軍。美しくも冷酷なその眼差しが、一真を射抜いた。


 レイヴァン=アズレイド。魔族軍の将。人と魔族の混血。


 「名乗る気はない。だが、斬る理由はある」


 レイヴァンは魔剣を構え、影のように地面から黒い刃を放つ。それはまるで感情を持った獣のように一真を襲った。


「ぐっ……!」


 防御する余裕もない。吹き飛ばされ、地面を転がる。その拍子に胸元のペンダントが割れた——召喚時に与えられた、魔力安定の護符。


 ——カシャン。


 音と共に、何かが弾ける。空間が微かに軋んだ。


「なっ……?」


 レイヴァンが、ほんのわずかに驚いたように目を見開いた。


「……お前……その力は……まさか……」


 だが、続きは聞けなかった。


 突如、戦場に飛来した破裂音。指揮官の退却命令。両軍が混乱の中で撤退を始める。


 静寂の中、一真とレイヴァンは、再び向かい合った。


「……殺すべき相手だったはずなのに。なぜ、手が……」


 レイヴァンが呟く。剣を下ろしていた。


「……俺もだ。……お前を殺せる気がしない」


 不思議な感覚だった。初対面のはずの彼女が、どこか懐かしい。


「……見覚えが、ある……?」


 レイヴァンはそう言うと、身を翻して去っていった。影が消える。霧が立ち込め、彼女の姿を呑み込んでいく。


 そこに残ったのは、剣を握りしめたまま、何もできなかった一真だけ。


====


 夜。城の一室。


 一真はエリシアと再会していた。彼女はやさしく、微笑んでいた。


「……勇者様。今日のこと、気に病まないでください。貴方は……優しすぎるのです」


「……違う。俺は、何もできなかっただけだ」


 拳を握る。その手に残るのは、誰も救えなかったという事実だけだった。


「もしあなたが……選ばれし者でなければ、私は……」


 エリシアの言葉が途切れる。だが、一真には、その続きを聞く勇気がなかった。


 この世界は、思っていたよりもずっと残酷だ。


 だが、彼はまだ知らない。


 自分がこの世界に、無能力として呼ばれた理由を。


 彼の中に、創造神の欠片が眠っているということを——


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