第一章 祝武子の場合 第三節 海からの襲来者
その頃、アイツがやってきたの。海の中から、まっ黒い化け物が。口から火を吹く、大きな大きな黒い牛。いや、牛みたいな形をした物。牛鬼。
あの怪物は人を踏みつぶし、武子が住んでた海辺の町を焼いたの。戦争から5年たって、ようやく建てた家を焼いた。少しは物が並ぶようになったお店も焼いた。満州から一人で引き揚げてきた女の人が死んだ。シベリアから帰ってきたばかりの男の人も死んだ。武子はそれを自分の目で見なくて済んだ。でも、実家が焼けて、家族がみんな死んだと聞かされて卒倒した。
牛鬼は、それから3日も居座ったわ。逃げられる人は逃げたけど、牛鬼は町も工場も鉄道も念入りに焼き払い、踏みつぶして行った。まるで子どもが砂場遊びでもしているように。4日目、ようやく軍隊が重い腰を上げたけど、ジェット機は牛鬼が口からはいた炎で打ち落とされ、戦艦もあっさり沈められたそうよ。そりゃあ、すごい音だった。巫女さんと武子は、祈祷所で必死にお祓いしてたわ。悪魔退散、悪霊退散って。その内、「あぶないから、逃げろ」と近所の人たちが言いにきた。その時だったのよ、私、立ち上がって言ったの。
「我を牛鬼のもとへ連れて行け。」
みんな、ギョッとして私の顔を見たわ。見えたのよ、みんなの顔が。
「舞装束の準備をせよ。神楽鈴と竜笛も。さあ、早く!」
みんな、その通りに動いてくれた。誰もナニも言わなかった。そうするのが当然と言う感じで。そういう空気の中に私はいたの。私は私じゃなくなっちゃったみたい。だって、舞も笛も一度もやったこと無いのに。みんな、普通じゃなかったんだと思う。