第一章 祝武子の場合 第一節 1945年8月
あの戦争が終わった時、祝武子はまだ10歳だった。1945年8月。ちょうど誕生日を迎えたばかりだった。良く理解はしていなかったけれど、武子は戦争に関するすべての物を見ていた。何でも記憶してしまうお年頃だったから、世の中が手のひらを返すように変わったのも、すべて見て、記憶してしまった。大人って、こんなものかと思った。学校のお勉強は出来る方だったし、本を読むのも好きだったから、ちょっとナマイキな子だったのよね。
武子の短い生涯で一番忘れられない記憶は「ひもじい。おなかが空いた」と言うこと。食糧配給制と言ってね。お金はあっても、お店に食べ物が無いの。本当に、どこに行っても食べ物がなくて、アメリカのボランティア団体に食糧援助してもらうほど、食べ物が不足していたのよ。武子は体が弱くて、いつも病気ばかりしていたけど、痛いとか苦しいとか、そっちの記憶はあんまり無いの。「痛い」よりも「ひもじい」の方が強烈だったのね。死ぬほど痛い時には「ああ、死にたくない」と思ったけど、ひもじくて心が折れそうな時は「いっそ殺して」と思ったもの。もう本当に、勝ち目の無い戦争だけは、まっぴらごめんよ。ただ、あの大熱は、さすがに覚えているわ。むし暑い夏の晩に、夏より熱い大熱出して、日が昇った頃には、もう手遅れで、両目が見えなくなっていた。武子が13歳の時よ。
体が動くようになってから少しして、武子は祈祷所の子になった。目の不自由な巫女さんの養女になったの。武子の親は巫女さんとは知り合いだったし、武子も巫女さんに気に入られてた。巫女の跡継ぎにと望まれて、武子は養女になったの。祝は巫女さんの姓なの。あの頃は福祉どころか、特別支援学校もろくに無い時代だったからねえ。両親は武子の行く末を心配したんでしょう。