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第六話「諦めは現実の妥協なのか?」 3

「私たち?」


「正確には、燐の世界だけど」


 裁定者、燐は目を伏せて、うつろな表情だ。


「彼女が最初の被験者?」


「ミチルに聞いたのね」


 祈と彩花が交互にうなずいた。


「ミチルにはとても感謝しているわ。こんなところまで連れてきてくれたもの」


『融ける』ことで何が起こるか、祈はわかっていたのだ。


「そもそも、なぜ『融ける』のに個人差があるのでしょう」


「それは」


 祈の言う通り、同時期に始めたはずの黒井姉妹でも差があった。最後発の彩花は、ほとんどゲームをしていないのにすでに『融けて』しまっている。


「それは、『現実感の薄さ』」


「現実感?」


「そう、まるで自分が現実に存在していないような浮遊感、ここではないどこかを希求する心、そういったものの個人差。彩花にはわかるでしょう?」


 彩花は言葉にして返さなかった。


 ない、といえばもちろん嘘になる。


 リアルでも、そしてヴァーチャルでも、いまいちなじめていないことによる疎外感もあった。


「私と同じ」


 祈が嬉しそうに言った。


「だから、私はあなたを誘ったの、彩花」


「学校で?」


「そんな相手を探していた。ずっと、ずっと」


「そんな……」


「蝶が見る一瞬の夢が、現実であるように、ここは燐の見ている夢の世界。もう一つの現実。あるいは、現実でも夢でもない世界」


「だから、彼女が、創造主」


「そうよ」


「祈は……」


「私の願いごとは叶ったから」


「なにを願ったの」


「私の願いは、『ここ』にいること、そのもの」


 祈が床を指して言った。


「ここは、なんでもできる。願えば、どんなことでも実現できる。もしもの世界を無限に試行することができる」


 ゲーティアのプレイヤーにとって本来リスクであった『融解』を、祈は望んでいた。


「それが、あなたの願いだっていうの、祈」


「そうよ」


 祈が即答する。


「KLSは私を利用しているし、お互い様でしょう? 私は、ここに来たかった。こここそが私のいる場所」


 祈が嬉しそうに言う。


「彩花、あなたはなにを願うの」


「私の、願いごと」


 ミチルにも聞かれたことだ。それは今でも変わりない。


「『ここ』なら何でも叶う。本当に素晴らしい世界だわ」


 祈の言葉で彩花が気づく。


「それじゃ、もしかして」


「最初からKLSにはプレイヤーの願いごとを叶えるつもりなんてない。ただ、ゲームを続けてもらえればそれでいいと思っている」


「Aクラスにだけ願いごとを伝えたのは」


「Aクラスにいるということは、グリモアの扱いになれているということ。それは、融解しやすいということ。願いごとは、グリモアをもっと使わせるための餌」


「リスクの説明も」


「精神を揺さぶって、融解を促進させるため」


 すべてKLSの思惑通りだったのだ。


 それを、祈はすべて受け入れたのだろう。


 というよりも、それを願っていたのだ。


「さあ彩花、願いごとを。それを叶えましょう、この世界で」


 彩花は逡巡をして、それでも同じ答えを導き出す。


「……私は、ここから、みんなを連れて帰りたい」


「……そう、それは叶えられないわ。今の私たちに叶えられるのは、この世界でできることだけ。この世界からはもう逃れられない。それだけは叶えられない」


 祈はミチルと同じことを言った。


「肉体と精神を結ぶヒモは完全には切れていない。なにかの拍子に、リアルに戻されてしまう」


 ミチルが言っていた、片足を突っ込んでいるというのはそういうことなのだろう。


「そのヒモを断ち切って、精神だけを取り出して肉体を放棄して、もう一つの世界にアップロードさせるのが、KLSの最終目標。そうすれば、人間は寿命という厄介な概念から解放されることになる」


 ただのゲームでも、ただの夢でもなく、ただの仮想現実でもない。


 もう一つの現実を作ること。


 KLSはそんな実験をしていたのだ。


「じゃあ、ヒモが切れていない今なら」


 戻れるのではないか。


「それは、私が許さない」


 きっぱりと祈が言った。


「ねえ、彩花、あの話を覚えている? 夢が現実と同じように一つの世界だったら、の話」


 リアルコミュニケーションで祈が言っていたことだ。


 こくんと彩花はうなずく。


「この世界は、まだ燐の世界。いずれ燐の世界は現実を侵食して、もう一つの現実として今ある現実に取って代わることになる。いずれ研究が進めば、燐さえも要らなくなるかもしれない。だけど今はまだ燐という媒介がないといけない」


 KLSにとって燐はその先に進むための研究材料でしかない、ということだ。


「だから、今は燐を失うわけにはいかない。燐、サミジーナを私に移して」


「命令権を移行します」


 淡々と、燐が古ぼけた機械音声のように言った。


「サミジーナ」


 そう言ったのは祈だった。


「サミジーナ、戻りなさい」


「あ、れ」


 サミジーナは彩花から離れて、祈の元へと移動する。


「グリモアはキー。完全にこの世界に留まるための」


 彩花が咄嗟に自分の指を見る。


 指輪は消失していた。


「だから、せっかくだけど、返してもらう」


 祈が自分の左手を見せる。その手には指輪が嵌められていた。きっと、今まで彩花がしていた、元々は祈のものだった指輪だろう。


「私に指輪を渡したのは、どうして?」


「もちろん、すべてはあなたに会いたいからよ。だけど、いつかは返してもらわないといけないの」


 指輪を愛おしそうに撫でながら祈は言った。


「燐、アップロードを」


「対象は一条祈、サミジーナを触媒にアップロードを開始します」


 感情のこもっていない声で燐が焦点の合わない瞳のまま虚空に向かって告げる。


「アップロードが完了しました」


「これで、私は終わりね」


 祈の見た目には変化はない。


「グリモア、チップ、レンズ、この三つが揃って、アップロードが完了する。どれが欠けてもいけない。あなたもアップロードしましょう、彩花」


「私は」


 それを望んでいない。


 そう続きを言う前に、祈が言い出す。


「大丈夫よ、彩花、あなたの分だってある」


「え?」


「予定通り、一つ余りができた」


 ふふっと祈が笑う。


「燐、ゼパールを呼び出して」


 燐、と呼ばれた裁定者が抑揚のない声で喋る。


「グリモアを召喚します。ゼパール」


 彩花の足元にサークルができる。


 そこに現れたのは蘇我のゼパールだ。


「あなたにあげる、彩花」


「あげるって」


 ゼパールが彩花のそばに立つ。


「彼女は夢で損傷しすぎた。もう助からない」


 助からない、と彼女は言う。


「何でも叶うこの世界で、唯一精神に傷をつけられるのがグリモア。その勝負に負けた彼女はもうどちらの世界にもいない」


「それって」


「現実の世界で言えば、『死』」


「なんで、こんなこと……」


「回りくどいことをしたの。私からじゃ、彩花は受け取ってくれないもの」


 祈と直接的な接点はそれほどない。


 さすがに彩花も、祈からの指輪を受け取ってはいないだろう。


「幹は私の言葉に従ってくれた。私が最終的に何を望んでいるかも知らず、に。彼女の願いごとは叶えられない」


「そんなことの、ために、蘇我さんを」


「そんなことが大事なの!」


 彩花の言葉に被せる。


「蘇我さんは、なにを望んだの」


「あの子はこの世界で私といることを望んだ。だけど私はそれを望まなかった。それを利用させてもらったの」


「そんな……」


「あの子は現実を知っていて、そして現実に負けた。だから仕方がない。あんな子に負けるだなんて」


 祈は紗希のことをあんな子、と呼んだ。


「だから、あの子は消えてしまった」


「……そんなこと、あのときは知らなかった」


 蘇我をグリモアごと貫いたのは紗希だが、彩花もただそれを見ていた。


「知っているかどうかなんて関係ないわ。いずれにしても、彼女はもうどこにもいない」


「でも、私は」


「さあ、あなたも、アップロードして、私と一緒にここで暮らしましょう」


 彩花の言葉には聞く耳を持たず、祈が続ける。


「燐」


「対象は久慈彩花。ゼパールを触媒にアップロードを開始します」


「やめて!」


 祈の指示で勝手にアップロードを始めようとした燐を彩花が止める。


「アップロードを中止します」


「どう、して」


 祈が言葉を詰まらせる。


「あんな世界、私がいるべきじゃない。もっとふさわしい世界があるはず。この世界ならなんでも思い通りになる。嫌なものは消して、好きなものだけで暮らしていける。それも、永遠、永遠なの!」


 想いが込められた言葉はどんどん早く、強くなっていく。


「あなたも、そうだったよね?」


 それは事実だ。


 少なくとも祈と初めて会話をしたときはそうだった。


 彩花はずっとこの世界に、あの現実に居心地の悪さを感じていたし、自分の居場所がないと思っていたし、どこかにもっとふさわしい場所があるに違いないと思っていた。


 だから、祈に共感していた。


 だけど、それは、ほんの少し前のことだ。


「友達がいるの」


 小声だが、確かに祈に聞こえる声で彩花が言う。


「だから、私はここにいられない。アップロードはしない」


 祈が顔を歪ませる。


「どうして?」


「祈の言うこともわかるけど。私だってリアルコミュニケーションは苦手だけど。引きこもりだし、友達も少ないけど」


「ほら」


「だけど、みんなのいるところに帰らないと」


 祈の気持ちに負けないように、胸に手を当てて返す。


「私は帰る。帰ることを選ぶんだ」


 決して届かない距離がありながら、彩花は祈に手を差し伸べた。


「祈も、一緒に帰ろうよ」


「私はもうアップロードが完了している。だから、もうあの世界には帰れないし、帰りたいとも思わない」


「それじゃ」


「そう、彩花はどうしても嫌というの」


 落胆した顔で祈は少しだけ目を伏せた。


「残念」


 肘を曲げ、祈は頬に手を置いて考え事をする。


 そして思いついたように祈が笑顔で言った。


「私の言葉が伝わるまで、少し、お灸を据えなくちゃいけないみたいね」


「ちょっと、祈」


「バエル」


 燐のそばにいたカエルがぴょんぴょんと跳ねる。


 燐は畳んである日傘を水平に持ち、くるりとバトンのように一回転させた。


「お願い、やめて」


 言葉は燐に届かない。


「私は、みんなと帰りたいだけなの」


「無駄よ」


 燐の背後にいた祈が言う。


「今の燐に自我なんてない。最初の到達者にして、最初の願望を叶えることに成功した私が望んだことは、彼女の制御権を得ること」


 祈の本来の願いがこの世界に来ることだったのだから、もう一つ願いごとが叶うというのか。それともこの世界なら、望んだことはすべて叶うのか。


「私も、それを望んだら? 燐の主導権を得て、帰ることを望んだら?」


「それは、できない。先に決めた者の勝ち。それに私がさせないもの」


「そうなの、じゃあ、帰るには、燐を倒すしかない?」


「正確には、燐をこの世界で殺すしか、よ。それは彩花にはできない」


「どうして」


「燐を殺せば、燐はもう何者でもなくなる。現実に居場所がないのだから、燐の世界を壊してしまえば、燐はただ植物人間として生きることになるだけ、いいえ、精神を殺すのだから、たぶん、それすらできなくなって現実でも死んでしまう。それでも燐を殺すことができる?」


「それは……」


 自分が帰ることを選択して、それを実行するとすれば、確実に一つの命は失われる。生きているのかもしれないが、それは心臓が動いている、というだけの状態だろう。


 それでもその選択ができるのか、と祈は彩花に問いただしているのだ。


「心配しなくて大丈夫よ彩花」


「え?」


「グリモアもないあなたでは私と燐に勝てっこないから」

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