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第一話「レンズは現実の拡張なのか?」 2

挿絵(By みてみん)

 学校システムに『達成度』というものが導入されて久しい。科目合格制度と言えばいいのかもしれない。高等学校に在籍しているうちに、規定の単位を取れば卒業となる。


 リアルコミュニケーションはその中で必修科目となっていた。


 這々の体でカリキュラムを終えた少女、久慈(くじ)彩花(あやか)は壮大な溜息をついて、教室の隅の席に腰を下ろした。


 今日もなんとか乗り切ることに成功した。


 昼休みになり、席で自宅から持ってきたヨーグルトを食べる。これ以上の食事を摂る気になれないだろうと思っていた。その目論見は当たっていたといえる。それからいくつかのサプリメントを飲み込んだ。


 同じくカリキュラムを終えた生徒たちが銘々に動いている。彩花と同じように一人で座っている者もいるし、連れ立って昼ご飯を取りながら談笑をしている者もいる。


 彩花はこの生徒たちの輪の中には入らない。


 いや、正直にいえば入れないのだ。


 彩花にはリアルに友達と呼べる相手がいない。ネットにいるかといえばそれも怪しいが、それでもリアルよりはネットネームを知っている。


 現代では、人間は大きく二つに分かれているのでは、と彩花は思っている。


 それは、とりわけリアルで、コミュニケーションを取ることができる人間と、できない人間だ。更に言えば、人と接してもコミュニケーションポイントが減らない人間と、確実に減っていく人間だ。


 彩花はどちらも後者に属していた。


 今日はコミュニケーションポイントをたくさん使ってしまったな、とまだ終わっていない一日を彩花は振り返っていた。覚えることがほとんどないリアルコミュニケーションはカリキュラムではかなり簡単な方だ。


 いくつかの話題、時事ニュースや自身の興味のあることなどについて、ランダムに決められた相手とペアを組み、イヤフォンを外し、レンズによる補佐なしで会話をする。たとえば、新型のペットロボットを飼っている話であるとか、最近火星へ向けて飛び立った片道切符の宇宙船の話であるとか、とにかく雑談をすればそれでいい。


 入れ替え入れ替え、それを時間いっぱい繰り返す。


 これだけだ。


 顔見知りもいるし、初対面もいる。


 彩花以外の生徒はただの時間潰し程度の気持ちで受けているようだった。


 しかし、これが間違いなく彩花には苦痛だった。


 リアルコミュニケーションを必修にした大人たちの意図が心底わからない。


 こんなの、ネットでいくらでもできるじゃないか。フェイスアバターを使えば、相手の表情だってリアルと遜色なく再現できる。リアルでもデータの交換ならレンズを通してできる。リアルで顔を突き合わせて発話する必要などどこにもないのだ。


 実際、週に一度の登校日である金曜日以外、リアルで会話をするのは両親以外ではコンビニエンスストアでお弁当を買ったときの店員の、「温めますか」に対する「いいえ」くらいしかない。


 あとはネットのヴァーチャル音声が彼女の日常を占めている。


 だから最初は言葉に詰まってしまって、なかなか上手く話せなかった。


 彩花だけではなく、少なからずそういう生徒はいる。だからこそ国はこんなカリキュラムを必修にしたのだろう。今後、これが活用される世界にはますますならないだろう、という気はしているが、人間はまだ直接コミュニケーションをしているし、形骸化されつつはあるが家族制度は残っている。


 いつか、彩花もリアルで誰かに出会うかもしれない。


 恋をしたり、家族を持ったりするかもしれない。


 そう思うだけで、また大きな溜息をつく。


 リアルなんてなくなってしまえばいいのに。


 こんなところ、私の居場所じゃない、早くネットに帰らないと、と彩花は心の中で独り言を言った。


 そうだ。


 リアルといえば、あいつ今日はいなかったな。


 リアルにほとほと関心がない彩花でも、記憶に残る生徒がいた。


 学校から支給されている8インチほどの端末を取り出す。全面が特殊な強化ガラス、余白もない一見するとただのガラス板だ。端末の右端をコツンと叩いて起動させる。これが教科書代わりだ。


 その中から、生徒リストを検索する。


 リアルコミュニケーションでやり取りをした相手と仕方なく連絡先を交換することがある。学校からも推奨されていることだ。まさに昔聞いた友達百人できるかな、だと彩花は思った。


 その連絡先が一覧になっていて、学校へのログイン状況がわかるようになっている。ログインしていれば学校に来ていることを示していて、それを確認しながらカリキュラム外でもコミュニケーションを取りなさい、という学校からのアドバイスだ。


 こういうところがお節介なんだと彩花は嘆息しつつ、その覚えている名前を見つける。


 やっぱり、ログインしていない。


 それも、一ヶ月もだ。


 彩花と同じ金曜クラスのはずだから、四回連続で学校に来ていないことになる。


 その名前は一条(いちじょう)(いのり)


 大体の生徒は一条のことを知っているだろう。


 一言でいえば、変わり者だ。


 自由な服装と言いつつ、多くの生徒が指定制服を着て登校している中で、彼女はトラディショナルな和服、つまり着物を着ていた。彩花と話したときは藤色の着物を着ていただろうか。腰近くまであるストレートの黒髪と相まって、学校内では注目されていた。


 おまけに、レンズではなく、型の古い音声入出力も兼ねた複合型の黒縁メガネをしていた。


 リアルで悪目立ちする痛い子、というわけだ。


 注目はされていても、それを咎める人はいない。


 人の趣味嗜好には極力立ち入らないのが現代では当たり前になっているからだ。


 大抵は一人きりで彼女はいた。人を寄せ付けない雰囲気のようなものもあった。


 登校していれば嫌でも目につく。だから彩花も覚えていた。登校するたびに見かけていたから、普段は彼女も真面目に登校していたのだろう。それが一ヶ月も登校していないとしたら、なんだか不思議だ。


 不思議ではあるが、それ以上詮索する気にもなれなかった。


 他人が登校しようがしまいが彩花には関係ない。ただ顔と名前を知っているというだけの相手だ。


「ねえねえ、知っている」


「なになに?」


「噂なんだけど」


 教室で、ひそひそと一人の生徒が目の前の生徒に語りかける。


 本当に聞かれたくないならレンズだけが認識できるくらいの小声で話して、プライベート回線を通してお互いのレンズに文字表示すればいいのに、と彩花は思ったが、会話することをなにより重要視する人間は大人だけではなく、同じ年代にもいることは知っているし、仕方のないことだ。


「あの一条さん、失踪しちゃったんだって」


 言い含んだ『あの』という言葉にすべてが集約されている。


 低い身体に乗った小さな頭を揺らし、前髪を切り揃え、全身を黒でコーディネートしているこの生徒も相当な変わり者のように彩花には見えた。


「失踪?」


「うん、なんか先生たちが心配していたみたいで」


 失踪、とその生徒は言った。


「でも、失踪なんて」


 もう一人の生徒が疑問を持つのも当然だ。校内指定の端末でもレンズでもメガネでも、今はGPSを内蔵している。それで警察は追跡できるし、なくしたとしてもそれが切れた場所まではわかる。


「だから、見つからないみたい」


「うわー、事件とか?」


「それは、知らないけど、ほら、ここで」


 彩花の存在に気が付いているのか、その生徒はパブリック回線で空間に地図を表示した。それはレンズを装着してネットに繋がっていれば誰でも見られる一時的な空間表示だ。


 位置情報と合わせて永久に残されるパブリック表示は公共機関や私有空間に限られていて、一定時間を経ると消滅するようになっている。なぜなら、永久に残ると悪戯書きやゴミ情報がパブリック空間に溢れてしまうからだ。


 マーカーされたポイントは彩花にはすぐに見当がついた。自宅に近い、普段降りる停留所から歩いていける港の岸壁付近だ。


「あ」


 間違って、その地図を自分のレンズに保存してしまい、その生徒に気が付かれて、顔を合わせてしまう。


 その生徒は記憶から彩花の存在を辿っているようだった。


「あーえっと、久慈さんも気になる?」


「え、え、え、と、そんなんじゃなくて、ごめんなさい」


 どもりながら答えて、下を向いてしまう。


「ううん、いいよ」


 そこで会話が打ち切られてしまった。生徒はもう一人の生徒に向き直り、新たに会話を始める。


「でね……」


 急に会話を振られて、上手く答えられなかった自分が恥ずかしくてそのあとの二人の会話はまったく耳に入ってこなかった。きっと今日の夜寝る前に思い出してもんどり打ってしまうだろう。


 午後の体育をこれも無難に乗り切り、帰宅する時間になった。


 帰りのコミュータに乗って、彩花は自宅方向へと向かう。


 気が付くと、彩花は普段降りる停留所より一つ前で降りていた。


 彩花に確固たる理由があるわけではなかった。ただ単に、時間が余っているからたまにはリアルのヴィジュアルを見て回ろう、そのくらいの気軽さしかなかった。


 日が長くなっているからだ、そうに違いない。


 リアルコミュニケーションにやられてしまったからだ、そうに違いない。


 自分に色々な言い訳をして、彩花は岸壁に近づいていく。


 岸壁には釣り人が何人かいて、それぞれ赴くままに釣りをしていた。リアルで釣りをする必要がどこにあるのか彩花にはわからないが、そういう趣味があってもいいだろう。何事も本人の自由だ。


 一条が姿を消したのはどこだろうか。この辺りでGPSの信号が途絶えたとすると、と彩花は眼前の海を眺める。


 ゆらゆらと波が揺れていた。


 今日は風も強くない。


「過去一週間の天気を表示して」


 彩花は端末に命令をする。


 視界の右上に日付ごとの天気が並んだ。その中から、一条が失踪した日付に視線を合わせた。詳細な天気が表示され、濃霧だったことを知らせてくる。


 ああ、そうだったな、と彩花は数日前の天気をようやく思い出す。データに頼りすぎて、ここのところは直接関係がないと思ったものに対する記憶力がどんどん悪くなってきているのを感じている。


 岸壁。


 濃霧。


 一歩間違えればそこは深い海。


 一条の端末はメガネだ。防水機能はついているだろうが、海水にどこまで耐えられるタイプだろうか。


 脳裏にぷかりと着物少女が海面から顔を出した瞬間が浮かぶ。


 単純な連想が頭をよぎる。


 もちろん、それくらいは警察も承知の上だろう。


 KLSのネットワークの効果もあり屋外ならGPSの精度は数センチだ。


 だから、なんだというのだろうか。


 いまさらながらここに来た無意味さを感じて、彩花は踵を返して家に帰ろうとした。


「そこのあなた」


 すると、近くから話しかけられてしまった。


「あなたです」


「え、あ、い、はい」


 話しかけてきたのは少し離れていたところにいた女性だった。


 女性は黒いスーツを着ている。髪は金色で、目は青く、典型的な日本人の顔立ちとは違っていた。


 岸壁には少数の釣り人がいるだけだ。その中で、スーツ姿の彼女はかなり浮いていただろう。彼女はそれを気にしている様子もなく、彩花に向けて右手を突き出した。


「これを」


 彩花が困惑していると、彼女は右手を開いて握っていたものを見せる。


 女性は続けた。


「あなたのものではないですか?」


 女性が見せたのは指輪だ。


 色は金色で光沢があるので金属製に見える。装飾品にしては分厚くて、びっしりと模様が刻まれている。一箇所、小さな石のようなものが嵌め込まれていた。


「え、あ」


「『ここ』に落ちていました」


 それを私に見せる必要がどこにある、という言葉はやはり彩花の脳内だけで留まっていた。


「え、ちが」


「いいえ、あなたのものです」


 今度は、疑問形ではなく、断定口調だった。 


 そうまで言われて、彩花には彼女が差し出した手を押し返す言葉が思いつかない。


「はあ、ああ」


「それでは」


 反論する隙も与えず、指輪を彩花に押しつけて彼女は踵を返して去っていった。その先には彼女のものとおぼしき車があり、それに乗り込んであっという間に行ってしまった。


「違うんだけど……」


 ぼそりと言ってみたが、当然誰にも聞こえていない。


 断るためのコミュニケーション能力がない彩花は、その手に指輪を持ったまま帰途についていた。


 夕暮れの帰り道、コンビニで買った季節外れの肉まんを食べながら、廃校になった小学校のグラウンドを真っ直ぐに横切るショートカットをして、家へと向かっていた。


 やっぱり気持ち悪いから家に着いたら捨てよう。


 彩花はそう決めていた。


 このグラウンドで投げ捨てても、あの女性が気が付くことはないだろうし、それを咎める理由などどこにもないはずだ。


 ただなんとなく今は捨てられない、という意識だけがあった。


 私の性格が悪かったらあのままダイレクトに海に投げていたぞ、と自分の性格の良さを彩花は脳内で評価をした。


 でも。


「なんだろうなあ」


 スカートのポケットから指輪を取り出し、改めて見る。


 ただの装飾品ではなく、何かのデバイスであることはわかる。


 おもちゃだろうか、それにしては高級感があった。


 目の前で一周させて、レンズに命令をする。


「画像検索をして」


『100%一致するデータはありませんでした。近似該当データを表示します』


 数十枚の画像が表示される。指で空中をフリックして上から順に眺めてみるが、レンズの情報通り、まったく同じだと思われるものは一つもなかった。


 市販品ではない?


 家についたらもっと詳しい調査をしてみよう、ネットで誰かに相談してみようか、と彩花は捨ててもいいはずの指輪に興味が湧いてきていた。それにしてもなんだろう、と思いながら、彩花は何の気なしに指輪を左手の薬指を嵌めてみた。


 いつかこうして自分も指輪をする日が来るんだろうか、とどうせ考えても仕方ないことを考えていた。ネットのアバターならいくらでも着飾ることができるが、リアルではなんだか気が引けてそういったことができない。


 嵌めた指輪を外そうとした瞬間に、音声とともに目の前に文字が表示される。


『認証を開始します。情報を取得しています』


 え、と思う間もなく、表示が切り替わる。


『認証に失敗しました。登録情報がありません。自動的にフォーマットされます』


「ちょ、ストップストップ」


 声に出して命令するが、止まらない。


 一瞬だけ視界にプログレスバーが出現するが、それもすぐに消えた。


 どうやら、指輪はネットに接続しているらしい。


『はじめまして! ゲーティアにようこそ! 新規ユーザーですね。個人情報をネットワークを通して取得します!』


 やはり、子ども向けのゲームらしい。


 その割には市販品としてネットで検索できないのは奇妙だな、と思ったが、すぐに情報の取得が終わる。


 彩花はされるがまま様子をうかがってみることにした。


『久慈彩花さんですね』


 彩花はネットネームに書き換えようとしたが、どうせすぐに捨ててしまうのだから、とそのまま視線を動かして瞬きをしてOKの項目を押す。


『ありがとうございます。ゲーティアの初期設定が成功しました。あなたに配布されたグリモアはサミジーナです。ご健闘をお祈りします』


 ゲームの設定が終わったらしい。


『チュートリアルを起動しますか?』


 せっかくだからもう少しだけやってみようか、と指示通り彩花がチュートリアルを起動しようとしたところで、ネットに接続しているイヤフォンからビービーとアラーム音が鳴り響いた。


『プレイヤーが近くにいます。サーチします』


 イヤフォンに音声が流れる。


『ヒットしました。相手の認証は成功しています。グリモア名はレラージュ、Bクラスです』


「まさかこんなところで当たるとは、ラッキーかな?」


 物陰から一人の人間が出てくる。


 暗くてあまり見えないがジーンズを穿き、白いパーカーを着ていた。パーカーの色のおかげか、灯りに照らされてその人物がボブカットであることがわかる。


 一見すると少女のようにも少年のようにも見える。


 首にヘッドフォンをしていて、カチャカチャと音を立てている。イヤフォンの代わりに音声入出力を行うデバイスだろう。


 スニーカーはパステルカラーで、彩花と同じくらいの年齢に見えたが、服装が自由になった世界ですら、ちょっとダサいな、と彩花は思った。


 その人物は彩花と距離を取りつつ、かろうじて声が届く位置に立つ。


 街灯に照らされた相手の顔を見て、彩花は相手がおそらく女性に違いないと見当をつけた。


 けれど、少年のような声で、向かいにいる彼女が楽しそうに言った。


「じゃ、ゲームを始めようよ」

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