第9話 雪降る夜に祝福を
雪が降っている。
例年ならば浅く積もる程度だが、今宵はそうもいかない。
帝都で稀に見る大雪になりそうだとエリーゼは人通りが少ない場所にずんずん積もった白い雪を見ながら思った。
王宮のすぐ目の前は普段なら人の往来が絶えない道なのに今日はその姿が極端に少なかった。
(吹雪にでもなって身動きがとれなくなったら大変だものね)
王宮から慌ただしく衛兵達がスコップを持って飛び出しているのを見ると、帝都のあちこちで大雪による交通のトラブルが起き始めているようだった。
雪はエリーゼにも影響を与え、いつもなら王宮前に停まっている乗合馬車に乗って屋敷へと帰るのだがその馬車がいない。
帝国に来てから初めての出来事だった。
(皇后様の御好意を断らなきゃ良かったかしら? )
診察と雑談を終えた後に天気が悪くなるようだったら泊まっていってもいいと皇后から言われたエリーゼだったが、やんわりと断っていた。
教会や議会や医者達の会合に必要な報告書をまとめる資料が屋敷にしか無かったからだ。
三年で成果が出始めたとはいえ、まだまだ制度の利用を知らずに治療を諦めている者もいるため、少しでも多くの患者を救いたいと思っている。
ただ、今回はその勤勉さが裏目に出てしまった。
「まぁ、行けるでしょう」
念のために傘は持って来ており、地面が凍っていたのもあって厚手のブーツを履いている。
徒歩だと屋敷までそれなりの距離があるが、以前に体重が増えてしまった時にダイエットのために何度も歩いた道だった。
時間はかかってしまうがこのまま立ち往生しているよりはマシだとエリーゼは足を踏み出した。
「えっほ、えっほ」
肌を刺すような寒さの中、かけ声を口にしながら帝都の路地を歩く。
家の前の雪かきに夢中な人々はまさか聖女が護衛も付けずに一人で帰宅しているとは思ってもいなかった。
この場に教会関係者がいれば頭を悩ませたかもしれないが、エリーゼという女性はこんな魅力の無い自分が攫われたり襲われたりするなんてないと自己評価が低かった。
幸いにも今日ばかりはならず者達も家の中で暖をとっていたのでトラブルは起きない。
「うわー、やっぱり事故が起きてるわね」
車輪が滑って荷馬車が横転していた。
既に馬と御者の方は助けられた後で、散らばった荷物の回収と馬車の移動に追われていた。
(明日は打撲や骨折の治療に来る人が増えるかもしれないわね)
自分の出る幕は無いと判断し、事故現場を後にしたエリーゼだったがここで問題が起きた。
なんと帰り道の一部が滑った荷馬車同士の事故や雪の重さで崩れた建設現場の足場のせいで通行止めになっていたのだ。
こちらも既に怪我人は運び出されていたが、今夜は雪が積もって二次災害が起きかねないので撤去作業は明日以降になるという。
近くにいた人々からは不満の声が出るが、皆それぞれ迂回を選択した。
エリーゼも同じように回り道を選んで家路を辿る。
(いつもと同じ帝都にいるのに雪景色のせいか違う世界に紛れ込んだみたい……)
彼女が自分の知らない世界を歩くのはこれが三度目になる。
一度目は観光名所も名物も無く、畑と森に囲まれていた田舎から王国の中心である王都に移り住んだ時。
二度目は自分の人生に絶望しながら全てを失ったと勘違いし、これからの未来に希望を持てずに帝都に来た日。
(寒いなぁ……)
季節のせいか天気のせいか、それとも一人でいるせいなのか体が冷えていくことをエリーゼは怖いと感じた。
寒いのも寂しいのも慣れてしまえば平気だが、それでは死んでいるのと変わらない。
本当のあたたかさを知る今だからこそ過去の自分がどれだけ人間として危うかったかを思い知ることが出来た。
同時にもうあんな経験はしたくないと強く願うように。
「サヴァリス……」
雪空の下、感傷に浸っていたせいか不意にいつも隣にいてくれた男の名を呟く。
彼が働いている教会本部は屋敷を挟んで反対側なので名前を呼んでも無駄なのに口にしてしまった。
「呼んだか? エリーゼ」
「サ、サヴァリス!?」
急に背後から聞き覚えしかない声がしてエリーゼは慌てて振り返る。
するとそこには傘も差さずに頭と肩に雪を乗せた銀髪の男が立っていた。
よく見ると息が切れているようで口から荒い吐息が出ていた。
「ちょっと何やってるのよ!」
「それはこっちの台詞だ。わざわざ王宮まで迎えに行ったらもう帰ってるし、道中に通行止めがあってエリーゼがどの道通ったかわからなくて悩んだし」
この悪天候の中わざわざ迎えに来てくれた。
サヴァリスが自分と同じかそれ以上に忙しいのは知っている。
それでも、こうして彼が迎えに来てくれて、自分と同じ道を選んでくれたことを嬉しいと思った。
「もう。ちょっと屈んでちょうだい。雪が積もってるから」
「おぅ。悪いな」
腰を下げて顔の位置が近くなったサヴァリスの頭と肩の雪を払う。
長い銀髪はまるで大型犬の体毛のようになっていて触れると気持ちいい。
服を着ると細身に見えるシルエットだが、きちんと肩幅はあって逞しくて男らしい。
まつ毛の長い目は真っ赤で吸い込まれてしまいそうなほど綺麗だった。
「顔、真っ赤だよ。鼻水まで出てるし」
「マジかよ!? そういえば悪寒が……」
「こんな雪の中走り回るからでしょ? さっさと傘の中に入って」
気温が低いのに汗をかいたままだと風邪をひくからと理由をつけて同じ傘の中へと引き込む。
背の高さのせいかサヴァリスが自然な流れで持つのを引き受け、エリーゼは空いた自分の両手を顔に近づけた。
(危ない! 皇后様が変なこと言ったからサヴァリスの顔を直視出来ないし、さっきの見惚れてたって私!)
暖をとるためではなく、自分の熱くなった顔を隠すための行動だった。
これまでは仲の良い親友としての距離感で触れ合えた。
男女の適切な距離感とはいえなかったかもしれないが、エリーゼにとってサヴァリスという人間は幼馴染であり、兄のようでもあり、血の繋がった父よりも家族らしい存在だった。
だというのに気づいてしまった。
過程をすっ飛ばして家族扱いしていたせいで意識しなかったものを意識するようになった。
もしも今のエリーゼを医者が診察すれば心臓の病を疑うような状態だ。
(具合が悪く無いのに鼓動が早くなるってこういうことなんだ。嬉しくて胸が痛いなんて初めてだ)
「っくし!」
「大丈夫!? サヴァリス死なないで!」
「くしゃみくらいで死ぬかよ。コート着てるのに寒くてな」
鼻をすするサヴァリスの姿を上目遣いに観察すると、確かに厚着をしてはいるがコート以外の防寒着は身につけていなかった。
「これ、私のマフラー貸すから首に巻いて」
「いいって。お前が寒くなるだろ?」
「じゃあ、ちょっと屈んでよ。このマフラーちょっと長くて余りがちだったからギリギリ二人いけるはず。あと、こっちの手も貸して」
「それだとお前が傘からはみ出すぞ」
「くっつけば大丈夫だから。私、小さいし……」
恥ずかしいよりもサヴァリスが体調を崩す方が心配でエリーゼは自分の身を寄せた。
第三者からどんな風に見られてしまうのか一瞬だけ葛藤したが、逆にそれでもいいと思った。
ピッタリ密着して手を繋ぐ。お互いに袖が長いので片手はこれで温かくなるはず。
「な、なぁ……」
「動いたら冷えちゃうでしょ?」
握る手は解けないように指を絡ませておく。
密着している面積が広いからか、それとも緊張で体温が上がっているせいなのか手先が熱い。
(手汗とか大丈夫!? あっ、でもサヴァリスの手って大っきい〜)
にぎにぎと感触を確かめ、そういえば前にも同じように手を繋いでいた日のことを思い出した。
あの日もこうして手を繋いで王宮の中を歩いたのだ。
(あの時は照れ臭かったけど、今はなんていうか……)
一人だった自分を見つけてくれて側にいると宣言してくれた。
肩を並べて隣を歩く状況は同じだが、明確な違いがエリーゼにはあった。
「なぁ、エリーゼ」
「どうしたの?」
「俺宛に皇帝陛下から手紙が届いたんだ」
「陛下から?」
家族から手紙が届いたことをサヴァリスは緊張気味に話した。
皇帝とはいえ、血の繋がった実の兄なので何を今更と疑問に思う。
しかし、サヴァリスはここ最近陛下の事を『兄貴』と呼んでいたはずではなかっただろうか?
「内容は帝国の繁栄に大きく貢献していることを評価して勲章を与えたいって」
帝国への貢献。
エリーゼとサヴァリスの二人で協力して立ち上げた命を救う改革のことだった。
エリーゼは既に聖女として教会本部に称号を与えられているし、相応しい待遇も受けている。
しかし、サヴァリスはあくまでエリーゼの側近であってその労力に見合ったものを与えられていなかった。
「あと、貴族としての身分も与えるってさ。騎士爵だけどこれで一応俺も貴族の仲間入りだな」
「凄いじゃない! それってサヴァリスの頑張りが公に認められるってことよね? これなら変な貴族達に文句を言われなくなるわね」
「そういうことだ。俺に文句を言うってことは皇帝陛下に楯突くのと同じだからな」
サヴァリスが元皇子だということは公然の秘密になっているが、それが面白くなくちょっかいを出してくる貴族は少なからずいた。
また、教会でも若くて有能な彼に嫉妬する者がいたが、皇帝から勲章と爵位を授かったとなれば下手に口出しは出来なくなる。
心配していたサヴァリスへの負担が軽くなってエリーゼは笑顔で喜んだ。
「今度お祝いしなくちゃね。折角だし、何かプレゼントをあげましょうか?」
この季節なら防寒対策に使えそうなものがいいだろう。
どうせなら手編みのマフラーや手袋が良いだろうか?
いっそお揃いの物を買ってしまうのも悪くないのでは?
浮かれ気分になったエリーゼは色々と贈り物の案を考えては一人で盛り上がっていた。
「そうだな。なら、俺は……」
橋を渡っている途中で急にサヴァリスが足を止めた。
手を繋いで歩いていたので、エリーゼもつられて停止する。
何かを決心したような表情でサヴァリスがエリーゼの顔を真っ直ぐ見つめる。
「エリーゼ、お前が欲しい」
川の流れる音も、雪が降る音も何もかもが聞こえなくなった。
無音の中でサヴァリスの言葉だけがエリーゼの耳の中を反響する。
意味がわからない年齢ではない。
自分が彼をどう思っているのか、そして彼からどう思われているかの予想も仄かにわかっていた。
「お前が好きだ。誤解するなよ? これは親友だからとかそういうのじゃなくて、」
「私もサヴァリスを愛してる」
サヴァリスの弁明を遮ってエリーゼは自分の気持ちを伝えた。
これまで愛してるという言葉はエリーゼにとって何よりも一番重い言葉だった。
記憶の一番古いところに微かに残る母の腕の温もり。
たった一人からしか与えられなかったこの世で最も自分を肯定してくれる言葉。
あなたのことがとても大切なんだよと人から大事にしてもらえる証拠。
それを自ら口にして伝えた。
「俺もお前を愛してる。だから結婚してくれエリーゼ」
サヴァリスもまた、しっかりと言葉を返してくれた。
こういう時の彼は茶化さずにいつだってエリーゼの目を見て話す。
結婚を申し込んだその顔がほんのり赤くなっているのを見逃さない。
エリーゼは自分が溶けそうなくらい熱くなった目から涙が溢れるのを感じた。
「はい。喜んで」
自分の人生でこの大雪の降る夜の道がかけがえのない美しい思い出になった。
どちらからともなく顔を寄せて口づけをする。
寒さなんてすっかり忘れて、今はただこの狂おしい程の幸せに身を委ねたかった。
一瞬とも永遠ともとれる時間唇を重ね終わった二人は互いに微笑み合って家路を目指した。
「ねぇ、サヴァリス」
「何だよ。エリーゼ」
「私ね。今なら世界中の誰よりも幸せって言えるよ」
「バーカ。まだまだ幸せにしてやるから満足するなよ」
「えへへへへ」
♦︎
心を閉ざした人形のような少女と世界が空っぽに見えた元皇子の少年がいた。
暗くて濃い影は二人の後ろに伸びていた。
しかし、進む道の先は明るく、繋いでいない手が二つも余っている。
この手をどこまで繋いで輪を作れるだろうか。
この先の道をどれだけ照らせるだろうか。
不安にならないわけがない。怯えないわけがない。
でもね、と二人は思うのだ。
きっと側にこの愛する人がいるのならどんなピンチだって必ず乗り切れると。