第5話 俺とエリーゼの歩み①
俺の記憶の中で一番古いのは母親の泣いている顔だった。
あの頃はなんで母親が泣いてるのかわからなくて、とりあえず居心地も悪くて釣られるように俺も泣いた。
そんな俺を宥めてくれたのは父親じゃなくて兄貴だった。
年の離れた兄貴は俺にとって父親代わりの役目を担っていた。
俺の本当の父親はとんでもない好色親父で毎晩別の女の部屋に泊まっていた。
物心がつく頃にはそれが我が家の当たり前で、世間一般とは別世界の環境なんだと悟った。
理解してからは対応も簡単で俺はとにかく母親と兄貴に迷惑をかけずに面倒くさいことから逃げながらのんびり暮らそうと考えた。
言葉を覚えてからの俺は自分でも手のかからない子だったと思う。
父親さえ関わらなければそこそこ理想的な生活だったが、それも長くは続かなかった。
あのクソ親父は散々迷惑をかけるだけかけてあっさり死んじまったからだ。
元から王宮内の空気はギスギスしていたけど、最後の砦が壊れたのは間違いなく皇帝の逝去だった。
『サヴァリス。ここはもう安全ではないわ』
母親が思い詰めたような顔で俺にそう言ってきたのは兄貴と顔を合わせる機会がめっきり減った頃だった。
王宮内を散歩すればあちこちで言い争いが聞こえるようになり、昨日まで遊んでいた相手が翌日には物言わぬ死体になっているのが珍しくなかった。
『オッケー。俺は家を出ればいいんよな』
『本当にごめんなさい。貴方にこんな辛い思いをさせるなんて母親失格よね。帝国はきっとお兄ちゃんが守ってくれるわ。だから貴方は生き延びて。それが母の願いです』
母親は俺を抱きしめながら泣いていたが、俺としてはさっさとこの面倒くさい場所から離れたいなと思っていたので都合がよかった。
兄貴に形式的な別れの手紙と頑張れよ〜という無責任な意味を込めた頭に冠がある似顔絵を送った。
後から聞いた話で、兄貴はその似顔絵を励みに勝ち抜き、今では額縁に飾っているらしい。恥ずかしいからさっさと捨ててくれ。
『今日から君は皇子ではなく神官の見習いだ。これまでのような派手な生活は慎んでもらうことになる』
連れて来られた知らない土地で偉そうな爺さんがそんなことを言ってきた。
別にうちの母親も兄貴も浪費するタイプじゃ無かったし、父親のせいで財政難だったから質素な暮らしをしていた。
元皇子だからとはいえ、特別扱いしないと宣言された時はむしろ気が楽だと思った。
だって、いつ誰に命を狙われるか心配しながら他人に世話してもらうのにもいちいち警戒しなくちゃいけない人生よりは遥かにマシ。
そう自分に言い聞かせながら神官見習いとしての生活が始まった。
薄情で適当な俺だったから教会での暮らしにはすぐに馴染んだ。
『おい、サヴァリスを見なかったか!』
『見てないがどうかしたのか?』
『あの野郎、また掃除をサボりやがった』
馴染んだとはいえ、真面目で頑張り屋な神官になるつもりは無かった。
だって信仰心なんて持ち合わせていないし、大した欲もない。
最低限の仕事をしながら適当にお偉いさんのご機嫌取りをするだけで普通に暮らせる。
有能で手際がいいとバレたら幼い子供なんて仕事を押し付けられるだけだからな。
『先輩。明日の洗濯当番を変わってくれねーか?』
『お前って奴はまたサボるのか』
『夕食の肉団子を分けてやるかよ』
『仕方ないな〜。今回だけだぞ?』
上手いこと立ち回りながら適度に手を抜きつつ過ごし、故郷への未練なんて薄れていった頃だった。
すっかり教会内のお調子者で怠け者な憎めない奴っていう理想的な立場を得たある日、俺は支部のお偉いさんに連れられて王国の田舎に向かうことになった。
『何でお供が俺なんですかね?』
『お前が子供でサボり屋だからだ。喜べ、これからは怠ける暇もなくなって忙しくなるぞ』
うへぇ、そんなの冗談じゃないと思いながら着いた先はド田舎のボロくて古臭い屋敷。
事前に調べた内容だとこの辺りの土地を任されている貴族の家だ。
道中立ち寄った村で話を聞く限りだと中々にいい性格をした貴族で評判は悪かった。
教会側からわざわざこんな貴族に会うために出向くなんて珍しいこともあるもんだと思いながら屋敷の中に入る。
リビングでは男爵家の面々が揃って待っていた。
どこの国でも底辺レベルの貴族の顔ぶれは似ていて、この家もそんな他の連中と同じだと思った。
偉そうな顔したオッサンと厚化粧のババァ。性格が捻くれて生意気そうなガキが二人。
それからやけに小綺麗な格好をしたチビな女。
なんというか服が絶望的に似合ってなくて、服に着られているような感じがする。
(多分、普段はこんな格好をしてないんだろうな)
驚くべきことにお偉いさんの目的はこのチビ女だったらしく、色々と確認をしていた。
年齢を聞いた時は流石の俺も少し驚く。
(このチビ、俺と少ししか変わらないくせに小さ過ぎだろ。しかも小枝みたいに細いし)
チビの名前はエリーゼ。
お偉いさんは彼女を特別な存在だと認めた。
いわゆる聖女様ってやつだ。
教会の役目の中でも重要なのがこの聖女の発見と確保だ。
口を酸っぱくして教えられたから嫌でも覚えている。
聖女は不思議な力を持っていて、その魔法を使えば普通ならあり得ないことを起こせるらしい。
情報があやふやなのは俺が神官見習いになってからその聖女に一度も会ったことが無いからだ。
故郷にいた頃は年に何回か教会からそれらしい女達が挨拶に来ていた。
俺も兄貴も健康だったから世話になることは無かったが、他の異母兄弟や姉妹は聖女達に怪我や病を治してもらっていた。
聖女っていうのが珍しい存在なのは知っていたが、改めて帝国がかなり規模のデカい国なんだなと気づいた。
(うちの兄貴、過労で死んでなきゃいいけど)
新しい皇帝が即位した話は教会の支部にも届いていた。
経緯がアレなので評判は悪いが、兄貴ならきっと上手くやるだろう。
『任せるぞサヴァリス』
『へーい』
お偉いさんと男爵家の交渉を全部聞いていたが、最終的にまとめると俺はこれからこのチビの世話係になるらしい。
『よろしくな、聖女様』
『こちらこそよろしくお願いします。ご迷惑をかけないようにがんばります』
口元を引き攣らせるような気味の悪い笑みを浮かべてチビは挨拶をし、ご丁寧に頭を下げた。
(なんか変な笑い方するチビ女だな……)
ここまで連れて来られてなんだが、やっぱり世話係なんて面倒くさくてやりたくないから断ろうと思った。
だって、きっと苦労するだろうから。
♦︎
聖女との顔合わせから数日が経った。
男爵とお偉いさんとの手続きもやっと終わり、家族との別れの日になった。
馬車で屋敷まで迎えに行くと、頭のおかしいチビ女は手ぶらで待っていた。
『荷造りしてないのかよ?』
ちゃんと説明はしたはずだった。
聖女として活動したり、教会内で着る服は支給される。
とはいえ、貴族の令嬢ともなればそれなりな量の荷物があると教会も俺も予想していた。
だが、それらしい物がない。
『はい。荷造りの必要は無いと父が言っていました』
おいおい。ちゃんと説明聞いてなかったのかよあのハゲ頭のおっさん。
私物が少ない可能性も考えたが、鞄一つ無いのは流石におかしくて同行していた御者の神官と一緒に苦笑いする。
まぁ、どうせ家族が後から送るつもりなのだろうと予想した。
『手荷物は無しでその服だけか?』
初対面の時と同じ似合ってない服を着ていたチビ女に聞くと、ポケットの中から何やら大切そうに白いスカーフを取り出した。
『お母さまのスカーフです』
花が刺繍された少しボロボロな一枚の布切れ。
それをチビ女は宝物を自慢するように広げて俺に見せた。
『へぇ、あのババァが珍しいものくれたんだ』
『いいえ。これは奥さまではなくお母さまがくれたものです』
『ん? あぁ、そうなのか』
少し引っかかる説明だったが、深掘りするような話でもないと割り切って出発の準備をする。
しばらく娘に会えないってのに男爵家の連中は見送りする様子もなく、馬車は静かに走り出した。
最初はお偉いさんが教会のなんたるかを説明してたが、そんなのは腐るほど聞かされてきたので適当に流しておく。
しばらく時が過ぎた頃、会話が途切れたのでチビ女の様子を確認したら泥のように眠っていた。
子ども相手に小難しい長話をするから疲れたんだろうな。そうじゃなくとも初めての長距離移動だから仕方ない。
『お母……さま……』
白いスカーフを両手で握りしめて寝言を言うチビ女が風邪をひかないように上着をかけてやる。
『家族ねぇ……』
ふと、帝国で別れた母親と兄貴のことを思い出しながら俺は呟いた。
身分も理由も違うけど家族と離れることになったのは同じなのだ。
案外、似た者同士だったりするのかもとこの時の何も知らない俺は甘く考えていた。