オマケその① 皇帝陛下の苦悩
王宮のとある一室。
帝国を支配する絶対的な権力者である皇帝が住む建物には様々な用途別に部屋が用意されており、この部屋は現皇帝のお気に入りの場所でもあった。
「それで、最近調子はどうなのだ?」
「まぁ、ぼちぼちだよ」
部屋の中では二人の男が木製の台を挟むような形で畳の上で胡座をかいている。
王宮の中で唯一土足厳禁なこの部屋は皇帝の趣味で遥か東にある国を再現されていて、木製の台の上には木の駒に文字が刻まれている。
「王手」
「ほい。これでどうだ」
勝利を確信した皇帝の一手はあっさりと返され、勝負は振り出しに戻る。
将棋と呼ばれる遊戯を皇帝が気に入って密かに帝都内に普及し始めて数年。
目の前にいる弟にも手ほどきをするようになってそれなりの回数対戦しているが勝敗は五分五分。
兄弟水入らずの時間は止まっていた過去の時間を緩やかに動かし、お互い忙しい彼らにとって丁度いいリラックスタイムになっていた。
ただし、ここ最近は弟が何かと理由をつけて断ろうとしていたが。
「むむっ。……しかし、いつまでもこのままではいかんだろ。お前もいい歳だぞ?」
「んなことは俺だって理解してんだよ」
「兄ちゃんがお前の歳の頃はなぁ〜」
「惚気話は何回も聞いたっつーの」
聞き耳をた立てるものもおらず、気が抜けた皇帝はつい昔の言葉遣いに戻るが弟はそれを指摘しない。
それよりも毎度話題に出される自分の恋愛事情についての話が嫌だからだ。
「サヴァリス。何度でも言うが結婚はいいぞ?」
「へいへい。そうでごさいますか」
兄である皇帝はことある毎にサヴァリスへ結婚の良さや家族を持つことの利点を教えようとしてくる。
お節介ではあるが、そこには異国で一人寂しい思いをしてきた弟を心配する兄の気持ちがあるので無視は出来ない。
ただ、それが何度も続くといい加減飽き飽きしてくる。
「ヘタレ」
「くっ! 人が気にしてること言いやがったな兄貴」
「事実だろう。あの日お前が聖女を追いかけて連れ戻った時は安心したが、後から話を聞いたら……」
聖女エリーゼとは仲直りをしました。
彼女にとって自分はただの側近ではなく、親しい友達だそうです。
報告を聞いた時、皇帝は玉座から転がり落ちそうになった。
聖女の方は憑き物が取れたように晴れやかな顔をしていたのでまぁ、良かった。
問題は弟の方で、こちらは自虐気味に笑う姿は不気味以外の何物でもなかった。
「勘違いされたとはいえ、そこから数年って……」
パチパチと盤上の駒が目まぐるしく移動する。
軽快に歩兵を動かす皇帝に対してサヴァリスは自陣に引きこもって防御を固める。
「エリーゼ自身から親友って言われて喜んだ俺もいたんだよ。きちんと言葉にしてくれて、アイツから俺を求めるなんてすげぇ進歩だった」
他人に遠慮がちなエリーゼと砕けた口調で話し合えるまで数年。
服に掴まったり手を取り合ったりするようになるまで数年。
聖女として表面上は違和感なく活動できるようサポートするようになって数年。
サヴァリスがコツコツと小さな積み重ねをしてきたから聖女エリーゼという存在の今がある。
(問題は大事に思うあまり致命的な決裂を避けてしまうところだな。あの日は聖女側が限界で一心不乱にぶつかったが、安定してしまうと足踏みするか)
皇帝の過激な攻めを涼しい顔でいなしていく。
受け身に回ればサヴァリスという人間は器用に立ち回って一番大切なものに手を出させない。
(あの頃から自分の事を一歩引いた視点で動いていたが、それが癖になってかえって邪魔になるか)
皇族という身分を捨て、一生家族と再会出来ずに聖職者として生きる決断を迫られたのはずっと幼い頃だ。
生き残るために周囲の顔色を窺えと教えたし、いざという時のために爪を隠しておけとも教えた。
事実、王国側の人間はサヴァリスをただの神官と思い込み、取るに足らない神官の一人だと見下していたらしい。
それが故にエリーゼのスムーズな帝国への移動とその後の活動で早く実績を出すことが出来た。
「エリーゼから嫌われて距離を置かれるくらいなら現状維持でも良いかなって最近思う。ずっと側にいれたらそれでいいんだって」
「お前がそう思うのは勝手だが、法も組織も明確な関係を証明するものがなければお前達を守れんぞ」
皇帝がサヴァリスの恋路を急がせるのは本人達のためである。
後ろ盾を無くして追放されながらも有能な聖女。
独身で教会幹部からも覚えめでたい元皇子。
いつまでも周りが放っておくわけがない。皇帝として貴族達に仕事がひと段落するまでなるべく接触しないようにと伝えてはいるが、誰かがそれを破っても皇帝の機嫌を損ねるだけで、厳しい罰を与えれば皇帝としての信頼が揺らぐ。
それに万が一にもエリーゼ側からサヴァリス以外の男に嫁ぎたいと言われたら赤の他人にはどうすることも出来ない。
結婚して夫婦になるということは法に認められ、邪魔者が立ち入る隙がなくなることの証明だ。
「いっそ形だけでも結婚したらどうだ? お前から他の女に言い寄られるのが面倒だから籍を入れてくれと頼む。もしも互いに他の者を気に入れば離縁すればいい」
結婚歴に黒星が付いてもサヴァリスとエリーゼならば結婚を求める相手はいるだろうと皇帝は考える。
形から入る関係にはなるが、大抵の貴族は自由恋愛ではなく家の事情で自分達の母親もそうだった。
兄としての感情と皇帝としての苦労から閃いたが、中々の名案かもしれんと皇帝は満足気だった。
バチン、と乱暴に駒を指したサヴァリスの顔を見るまでは。
「兄貴。それは笑えねぇよ」
一切の感情を削ぎ落としたような顔だった。
声も平坦で瞳の光は完全に消えている。
全身から発せられる圧力は帝位継承争いを勝ち残った皇帝に冷や汗をかかせるほどだ。
「エリーゼに捨てられることはあっても俺がエリーゼを見捨てるわけねぇ。気が変わることもねぇし、アイツに二度と辛い思いをさせる気はない」
怒りの感情が振り切れると人は感情が死んだように見える。
つい先程までのいじらしい顔も人懐っこい笑みも全て消え去っていた。
仮にサヴァリスが衝動に任せて暴れれば兄は命を落としているようなそんな凄みがある。
「他の女に惚れるなんて俺はそんな最低な真似はしない」
(し、しまった!)
つい場の雰囲気に流されて適当な事を口にしたのを恥じる。
自分がなんて無責任で弟の傷口を抉るような酷いことを言ったのか気づいたからだ。
サヴァリスが皇子の身分を捨てたのは母親が悲しみ、兄が帝位を巡って戦いに挑んだからだ。
自分の家族をバラバラにし、帝国を窮地に追いやった無責任な父親。
それから帝国に迎え入れるにあたってサヴァリスから提出されたエリーゼの過去。
こちらは父親が浮気をし、継母となった女が我が物顔で居座り、エリーゼを虐げてきた。
更には王国の公爵家次期当主が婚約を破棄してエリーゼを追放するよう促した。
「我が迂闊だった。今のはくだらない発言であったな。すまない」
潔く頭を下げて謝罪の言葉を口にする。
軽々と皇帝が謝るものではないが、流石にコレは失態過ぎる。
恐る恐る目線を上げるとサヴァリスは深く溜め息を吐き出して兄の陣にあった駒を奪った。
「……いいや、俺こそ言い過ぎた。ただ、俺の前でそういうのは二度と言わないでくれ」
「うむ。肝に銘じておく」
さっきのプレッシャーが嘘のように霧散した弟の姿にホッと胸を撫で下ろす。
これは自分にとって大きな恩がある兄弟だから許された。赤の他人だったら消されても仕方なかったなと皇帝は意外な弟の一面に汗を拭った。
「兄貴の言う通りさっさと結婚した方がいいのかもしれないけど、やっぱ今のままの俺には手が伸ばせない」
迷いがあるせいか、盤上の守りに綻びが生まれた。
また怒られないよう言葉を選びながら皇帝はサヴァリスの陣形を崩しにかかる。
「何故そう思う。勘違いとはいえ、聖女からは頼りにされているのだろう? 思いを口にすれば結婚出来る確率は高い筈だ」
「そうなんだけどさ。俺がエリーゼに釣り合ってないように思えるんだよな。ほら、あっちは聖女で俺はただの神官だろ? 今は兄貴の力を借りてるのもあって自由に動けるけど、それだけじゃエリーゼを守れないかもしれないって考えるとさ」
サヴァリスは元皇子であるが、皇族に復帰したわけではない。
皇族には戻らないのは皇帝夫婦やその子供達に自分達が経験した帝位継承争いと同じ思いをさせたくなかったからである。
だから今のサヴァリスは教会内での出世のため実績作りに励んではいるが、実際に幹部への出世となるとまだ若過ぎる。
現状だとサヴァリスは聖女の側にいる皇帝に気に入られている有能な神官程度でしかない。
帝国の有力貴族や教会幹部が本気で動けば容易に今の位置から遠ざけることも可能だ。
まぁ、実際のところはそうならないよう教会のトップと皇帝が手を回しているが、本人はどうしても不安があるようだった。
「だから、俺自身が胸を張ってエリーゼを守れる男になるまでもう暫く待っててくれよ。俺も兄貴みたいに家族を幸せに出来る男になりたいからさ」
帝国の未来の為。
辛い思いをしてきた母の為。
そして何より、好きだった幼馴染の婚約者のために皇帝はその手を血で汚してまで玉座を欲した。
あの時の自分と同じ覚悟を持って愛する人と添い遂げたいという弟の気持ち。
「で、あるか」
自分を理想として見てくれる弟に嬉しさを感じながら皇帝は最後の一手を打つ。
「王手。詰みだぞ」
「げっ!? また俺の負けかよ」
きっと俺の弟ならやり遂げると今は信じて待ってやろう。
勝利の余韻に浸りながら皇帝は弟との懐かしい日々を取り戻すように遊びを全力で楽しむのだった。
♦︎
「はい。王手じゃ」
「ぬぅ!?」
「またまた余の勝ちだ。修行して出直してくるのじゃな」
「ぐぬぬぬぬ……」
子供達が寝静まった夜中。
皇帝は皇后と夜更かしをしていた。
昼間は互いの公務で顔を合わせる時間も少なく、子供達が起きていればその面倒や相手をして夫婦水入らずの時間が取れない。
結婚してそれなりに経ったが夫婦仲が良好なのは体調に配慮しながらこうして短い間でも二人きりになる時間を取っているからなのかもしれない。
それはそうとして皇帝は妻に将棋でボコボコにされていた。
最初は手取り足取り教えてやったが、ルールを完全に把握してからは一度も勝てなかった。
サヴァリスを付き合わせたのは日頃負けている憂さ晴らしをするためでもあったが、自信をつけて挑んでもまた返り討ちにあって負ける。
「それでサヴァリスは呑気な事を言うわけだな」
「いいや。あれは男の覚悟だ。その道のりは決して簡単なものではない」
「馬鹿者め。皇帝になるのに比べたら他は全部楽な道であろう。据え膳を食わぬ男なんて恥じゃ」
「えぇ……」
男よりも男らしい気丈でしっかりした妻の言葉に皇帝は圧倒される。
(まぁ、こういう所が気にいったんだがな)
公の場では皇帝の常に一歩後ろに立っているが、それ以外だと割と皇帝の尻を叩く女。それが皇后だ。
惚れてしまった弱味のせいで皇帝は妻に対してあまり強く出れないのだった。
「しかしなぁ、我の時のように成果を出さねばあの頑固な性格的に無理だと思うぞ?」
テキパキと盤上の駒を最初の状態に並べていく皇帝。
どうやら今日こそは勝つと息巻いてるようだ。
対する皇后はサヴァリスと一緒に暮らして満更でもないエリーゼがここ最近愚痴を言い出したのを知っている。
あまりにその姿が可愛いので指摘せずに黙っているが、そろそろ潮時だと思うようになった。
「あの時と今は状況が違うであろう。お主は何のために皇帝をやっておるのだ? さっさと勲章でもやって貴族に召し上げればいい」
「あっ。その手があったか」
冷酷な皇帝などと呼ばれているくせにやっぱり何処か抜けているところがあるなと皇后は思った。
そもそもこの兄弟は一度覚悟を決めればきちんと約束を果たすのにそれまでが長くて待つ方が先に痺れを切らす。
(余の時も皇帝になる前に求められればどんな修羅場でも供をしたというのに)
昔のことを今更口にしても仕方ないので皇后は口にしなかった。
「流石は我が妻だな。よし、次は勝つからな」
「あと一戦だけじゃぞ。腹の子もそろそろ眠たいだろうしな」
いい助言をもらえたと上機嫌になる愛らしい夫をこれから負かすことにゾクゾクしながら皇后は夜の逢瀬に興じるのだった。
(しかしまぁ、お主のことを知り尽くした余にだけは絶対に勝てないとそろそろ学んで欲しいんじゃがのう)
時系列的には8話のちょっと前になります。
夕方にもオマケをもう一話更新しますのでお待ちください。




