前編
塩田舞蹴の人生は終わっていた。
恋人はなく、幸運に恵まれた試しもなく、何もないまま30歳になってしまった。
七年勤めた会社をクビになり、しかし故郷の母親にはそれを言えずにいた。
何もない人生を埋めるためにいらない物を買いまくったものの、部屋が狭くなるばかりで寂しい心は埋まらなかった。
それでも部屋をいらない物で埋め続け、膨れ上がった借金を債務整理したところ、金融会社間のブラックリストに名前が乗り、向こう七年間は借金が出来なくなってしまった。
彼は残り僅かのカネで買った黒い覆面をかぶり、その上にさらに黒いフルフェイスのヘルメットもかぶり、不法に所持していたライフル銃を手に持つと、銀行に入っていった。
一発、天井に向かって撃つと、銀行内がまたたく間に騒然となり、すぐに静まり返った。
「ぎ……、銀行強盗ですよっ!」
なるべく声が震えないよう、気をつけながら舞蹴は大声を張り上げた。
「逃げようとしたら殺しますよっ! う……、みんな動かないで!」
幸い、銀行内に客はまばらだった。出来れば誰も傷つけることなくカネだけを奪って逃げたかった舞蹴は少しだけほっとした。
故郷の母のことが頭に浮かぶ。親不孝なことを今、自分がしているということは、もちろんわかっていた。
自暴自棄になっていることも承知だ。しかし、こうするしかないのだと自分に言い聞かせた。大金を奪い、運よく逃げられればそれでよし、そのカネで故郷に戻り、母親には節約して貯めたカネだと嘘をつき、一人暮らしの母の元を離れずに何か事業でも始めようと思っていた。
しかし、もしも逃げられず、警察に追い詰められたら、その場で人生を終えようと決めていた。そしてなんとなく、そういう結末になるだろうと、人生を諦めていた。
「このバッグに詰められるだけカネを詰めろ」
そう言いながら、カウンターにいた女性に向かってアジダスの黒と白のスポーツバッグを押しつける。
いかにも気弱そうな女性銀行員に、舞蹴は気を強くすることが出来た。同時に、諦めているはずの人生に光のようなものを見た。女性が彼のタイプだったのだ。
背が低めで、おかっぱ頭の地味な女性ながら、目が大きくてキラキラしていた。いや、今はウルウルとかオロオロとかいったほうが正しいのだろうが、出会い方がこんなでなければ恋人同士にもなれたかもしれない、その時にはきっと、自分を見つめてその大きな目がキラキラと輝くのだろうと、そう思えた。
泣きそうな表情でバッグにカネを詰める女性と周囲とに忙しく視線を動かしながらも、舞蹴は彼女の名札をしっかり確認した。『此継珠里亜』と書いてあるが、何と読むのかわからなかった。大体、そんなものを覚えて何になるということもなかった。自分はこれから指名手配犯になり、恋をするような明るい世界からは完全にさよならをするのだから。
警察を呼ばれていないか、不安で仕方なくなり、舞蹴は此継珠里亜に言った。
「早くしろ! もうじゅうぶん詰まったか? 見せろ!」
泣きそうな顔で彼女が差し出したバッグは既にファスナーが閉じられており、じゅうぶんに膨らんでいた。
「よし! 寄こせ!」
舞蹴はバッグを引っ掴むと、銃口を客や銀行員に忙しく向けながら、自動ドアが開ききるのも待たずに激しい音を立て、外へ出ていった。
背後でけたたましく防犯ベルが鳴り出した。
外へ出ると路地裏に停めてあった黒い250ccのスクーターのメットインスペースにバッグを押し込み、大急ぎで走り出した。
大急ぎで走りながらも、なるべく悪目立ちしないように、制限速度を15km/h程度超過する程度のスピードで、信号はなるべく守った。
全身をアンテナのように敏感にしながら周囲を窺っていたが、警察が追って来る様子はない。
やがて廃工場の裏にスクーターを停めると、海からの風が彼を包んだ。そのあまりの心地よさと、今まで感じたことがないような高揚感に、収まらない荒い息をしながら、笑った。
「やった……!」
気が抜けそうになるほど簡単だった。
スクーターのシートを跳ね上げ、中のバッグを取り出す。
「これで……人生やり直せる! お袋にも親孝行が出来る!」
震える手でバッグを開けた彼の表情が、愕然となった。
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黒いフルフェイスヘルメットの下に黒い覆面をかぶった銀行強盗が外へ出て行くと、此継珠里亜はそれを追いかけるように駆け出した。
「此継くん!? どこへ行く!?」
支店長がそう叫んだが、止まらない。
全速力で銀行裏の駐車場へ向かうと、停めてあったピンク色のワゴンRに乗り込む。すぐに発進させると、通行人を轢く勢いで車道へ出ていった。
赤信号で停まらされるたびに、イライラする手つきでハンドルを小さく叩く。
車を飛ばして、飛ばしまくって小さなアパートに着いた。
鉄の階段を駆け上がると、落ち着かない手つきで鍵をポケットから取り出し、何度か差し込み損ねた末に、ようやくカチャリと鍵の開く音がして、急いで扉を開けると中へ飛び込んだ。
ハァハァと荒い息をつきながら、その顔が歪んだ笑いで満たされている。
部屋の奥からパピヨン犬が出てきた。丸い大きな目で、飼い主の様子を不思議そうに見つめ、首を傾げた。
彼女は愛犬に言った。
「ただいま、エマ。い……、いーひひひ……いいお土産が、あるのよう」
そう言いながら、大事そうに手に持っていたバッグを掲げてみせる。
黒と白の、アジダスのスポーツバッグだった。
「今日ね、うちの銀行にね、強盗が入ったの。その強盗が持ってたバッグが……なんと! あたしのバッグとまったくおんなじものだったのよっ!」
バッグを開ける珠里亜の手が震える。パピヨン犬のエマは何かいいものでも出てくるのかと興味をもって覗き込んだが、入っていたものが紙きればっかりだったので、すぐにそっぽを向いた。しかし珠里亜の興奮は止まらない。
「ご……五千万はあるわよーっ!」
札束を両手に持てるだけ抱えながら、珠里亜の口からよだれが垂れた。
「キャハハハ! あのバカな銀行強盗、今頃バッグの中身があたしの着替えや仕事の書類ばっかりと知って愕然としてるわ!」
酔っ払いのように玄関先に寝転び、ハイヒールを履いたままの足を愉快そうにバタバタとさせた。
「銀行、やめるわよ、エマ! どーせあたしダメ銀行員のレッテル貼られてたしさ、人生停滞してたもの。このお金で何しよう! 何しよう、何しよう! いっぱい遊んでやろっか? あー、人生始まっちゃったかも? キャーハハ……はっ!?」
制服のポケットを慌ててまさぐる。車の免許証入れを、探した。
「しまった……。免許証、あのバッグの中に入れてた……!」
住所も名前も本籍も免許証には記載されている。ここにいたらアイツが復讐しにやって来る。そう考えると、居ても立っても居られなくなった。
「本籍も……。あたしが逃げても、お母さんとお父さんが危ない……?」
一瞬そう考えたが、すぐにエマとバッグだけ抱えて立ち上がった。
「どーでもいいや、両親なんて。アイツに殺されろ」
部屋の奥へ行き、銀行の通帳と印鑑、パスポートだけをバッグに入れると、駆け足で部屋を出て、鍵を閉めた。
「あとでこの部屋、引き払おう。今は何より逃げること優先」
そう呟くと階段を駆け下り、車に乗り込む。
焦る手つきで勢いよく運転席のドアを閉め、バッグと犬を助手席に置くと、走り出した。
「どうしよう。どこへ逃げようか、エマ? 沖縄にでも行こっか? あたし、かわいいお店、持ちたかったんだよね。これだけじゃ足りないかもしんないけど、資金としては……」
「ふざけないでくださいよ」
突然、後ろの席から聞こえた暗い男の声に、珠里亜が固まった。
そういえばさっきからエマがしきりに後ろを気にしていた。
ルームミラーを見ると、陰鬱な顔をした30歳ぐらいの男が映っている。その手には、あの銀行強盗が持っていたライフル銃が握られていた。
「どっ……、どうやって入ったの!? 鍵かけてた車の中に……!?」
「あなたが運転席のドアを開けると同時に反対側から後ろのドアを開け、あなたが閉めると同時に閉めました」
そういえばドアを閉める音がやたらと大きかったような気はした。自分が焦るあまり強く閉めたとはいえ。
「これは僕のです。返してもらいますよ」
男が後ろからバッグに手を伸ばしてきた。
珠里亜の頭の中で思考が高速回転する。お金を取れば自分の命はないかもしれない。しかしお金を返しても命の保証があるとは限らない。男の顔を見てしまったからには。
何より、このお金は、自分のものだと思っていたのに……。
渡したくはなかった。
「うおっ!?」
男が声を上げて、後ろにひっくり返りそうになった。珠里亜が車を急加速させたのだ。
「おかしな真似はやめろ。車を停めるんだ!」
暗い声で、男が叫ぶ。
危険を感じてエマが甲高い声で吠えた。
珠里亜の頭の中で、一つの考えが閃いた。
彼は助手席側の後部座席にいる。この車は運転席にしかエアバッグはついていない。
目の前に電柱が迫ってきた。あそこへ突っ込めば、自分はエアバッグで助かって、男はフロントガラスを突き破って前へ飛び出し、電柱に頭を強打するのではないだろうか。
スピードをさらに上げた。メーターは110km/hあたりを指している。
男が後ろへまたひっくり返りそうになっている隙に、左に向かって体を倒し、男が確実に放り出されて死ぬように、助手席のシートを前に畳んだ。
エマを抱きかかえ、狂ったように声をあげた。
「死ねええええーーーっ!!!」
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気がつくと真っ白な世界だった。
何が起こったのかわからず、珠里亜は辺りを見回す。
「ここ……、どこ? エマは……?」
その呟きは響きを伴わず、死の世界に吸い取られているようだった。
ふいにすぐ隣から、男の声がした。
「なんだよ……。ここ、どこだ」
振り向くと銀行強盗の男がそこに立っていた。
黒いレザージャケットにジーンズ。車に乗り込んで来た時のままの姿だ。
「よく来たな、小悪党ども」
老人の声がしたので、二人ともハッとして前を向いた。
いかにも神様っぽい杖をついて、いかにも神様っぽい老人が、いつの間にかそこに立っていた。
「何……? あんた、もしかして、神様?」
珠里亜が聞くと、老人はフォッフォッフォッと笑った。そして答える。
「物わかりがよくて助かるの。そう、わしはこの世界の神じゃ」
「なっ……? 僕は死んだのか?」
舞蹴が驚いて聞く。
「そう。二人仲良く交通事故でお亡くなりじゃ。そして、ここへ来た。しかしここは天国というわけではなく……」
「あんたが車に乗り込んで来たりするから変なことになっちゃったじゃない! どうしてくれんのよ!?」
珠里亜と舞蹴が喧嘩を始めた。
「なんだよ! そっちが着服とかしようとしなければおまえも僕も死ななかったんだ!」
「せっかく人生これから始めるってとこだったのに!」
「知るかよ! おまえが自殺したようなもんだろうが!」
「これこれ。フォッフォッフォ……」
神は少したじろぎながらも、二人に言った。
「二人とも罪を犯したのじゃ。その罪、償いたいとは思わんか?」
「うるさい! じじい!」
「黙ってろよ! 神様なんかどうでもいい!」
「……フォ?」
「っていうか、戻してよ! お金を取りに戻りたい! なんとかしてよ! あんた神様なんでしょう?」
「僕はべつに戻りたくはないけど、この女は許せん! 僕を殺しやがって!」
「何よ! 返り討ちにしてやんよ! 来いや! ヒョロガリの分際で!」
「うっ……! ライフル……ライフルはどこへ行った?」
「あっ、そうだわ! エマはどこ?」
珠里亜の慌てた問に、神様が答えた。
「犬か? 犬ならおるぞい。おまえさんの足元じゃ」
「あっ」
よく見れば足元にお座りしてこちらを見上げていたエマを、珠里亜が抱き上げる。
「よかった……。エマ……」
「何がいいもんかよ。ここにいるってことは、その犬も、おまえが殺したんだぞ!」
「うるさいわね! あんたがすべての元凶でしょうが! このヒョロガリ銀行強盗!」
「口が悪いな! かわいいとか一瞬でも思って損したよ、この性悪銀行員!」
「まあまあ、落ち着け」
神が二人に言った。
「現世に戻りたいか?」
「戻りたいっ!」
「僕は……。天国がいいところなら、ずっと天国にいたいです」
「天国などというところはない。代わりにあるのは『異世界』じゃ」
神は告げた。
「その異世界が今、恐ろしい魔王によって苦しめられておる。二人で協力して魔王を倒し、異世界を救うことが出来れば、現世に返してやろう。二人が出会うところからやり直せる」
「なんだ、それ!?」
「マンガじゃあるまいし……」
「フォッフォッフォ……」
神はただ、笑った。
「産まれるところから始めてもらう。二人は双子として、同じ腹から産まれてくる。前世の記憶はもったままじゃ。よいかな?」