40. 引き算ではなく足し算を
日曜朝10時、ほぼ時間通りに、水原夫妻は、小さな女の子を連れてやってきた。
夫妻と話をする間、その子、香奈と想太の二人を、英子が、
預かってくれることになった。
当初、香奈のことは知らなかったので、佳也子たちは、想太一人を
預かってもらう予定だった。
想太と香奈を連れて英子の家に行くと、
英子は、「大丈夫。想ちゃんが、手伝ってくれるよね?」
「うん。おとうさんたち、だいじなおはなしやって。かなちゃん、
いっしょにあそぼ。おいで」
想太が、にこにこして、香奈とそっと手をつなぐ。
水原の妻は、少し不安そうに奥の居間までついていったが、
しばらくすると、一人で、佳也子たちの部屋に戻ってきた。
「想太くんが、絵本を読んでくれています」
戻ってきた彼女は、少し、ホッとした顔をしている。
きっと想太は、はりきっているにちがいない。
香奈が、血のつながった妹だとは、まだ彼は知らないけれど。
全員がそろって、4人がお互いの名前を名乗りあうと、
「先日お話しした通り、うちで、想太を引き取りたいのです」
水原氏は、頭を下げてそう言った。
彼の妻、京子の顔に笑顔はない。
この件は、彼が無理やり進めている。
そんな気配が濃厚だ。
「先日は、突然でびっくりさせてしまいましたが・・・」
「はい。正直、とてもびっくりしました。何年も、全く連絡が
なかったのに、本当に突然だったので」
佳也子の声はどうしても硬くなる。
そんな佳也子のあとに続いて、圭が言う。
「水原さん、京子さん。今日は、僕たちからお願いがあります」
「はい?」
「僕たちは、もうすぐ3人で、家族になりたいと思っています
想ちゃんは、僕たちにとって、絶対手放せない大切な子です。
僕たちに、想ちゃんを任せてほしいんです」
「・・・いえ、でも、僕は、あの子の実の父親です。これまで、
何もしてやれなかったので、手元で育てて、親として、
できるだけのことをしてやりたい、と思ってるんです。
今なら、彼女も、引き取ってもいいと、言ってくれましたし」
京子は、顔に薄い笑みを貼り付けているけれど、目は、
どことなく暗い。
「水原さん、あなたは、これまで、佳也ちゃんが、たった一人で、
想ちゃんを育ててきたことを、どうお考えですか」圭が言う。
「それは、もちろん、並大抵のことではなかったでしょう。
大変だったと思います。だから、できるだけのことは、
させてもらおうと思いますし」彼は、この前と同じことを言う。
「いえ。僕が言いたいのは、そういうことではないんです。
これまで、どれほどの想いで、彼女が想ちゃんを育ててきたのか、
それを、あなたはどう考えるのですか、ということです。
佳也ちゃんと想ちゃん、2人の間にある深い心のつながりを、
あなたは、どう考えるのか、ということです」
「そ、それは・・・」
水原氏が、言葉に詰まる。
「佳也ちゃんも僕も、想ちゃんに、安心してしあわせに、毎日を
過ごしてほしい。
それが一番の願いです。
僕たちが、完璧な親になれるのか、そう言われたら、
たしかに、完璧、と言える自信はありません。
でも、僕らは、心から想ちゃんを大好きで、大切に思ってる。
それには、自信があります。
だから、お願いします。僕らに、想ちゃんを任せてください」
佳也子と圭は、まっすぐに、水原氏の目を見つめる。
その眼差しに圧倒されたのか、
「ぼ、僕だって、父親として、あの子を大切に思って・・・」
水原氏が、そう言いかけたとき、それまで黙っていた京子が、
静かに口を開いた。
「私なら、香奈と引き離されたら、とてもつらいです。
あなただって、そうでしょう?
想太くんをうちに引き取るっていうことは、
佳也子さんと想太くんを引き離す、ということですよ」
「それは、確かにそうだけど。でも、想太は、僕にとっても、
たった一人の息子なんだ。いつか、あの子が、実の父親が
欲しいって思ったら、どうするんだ」
水原氏は必死に言いつのろうとする。
そのとき、圭がにっこりほほ笑んで言った。
「水原さん、引き算じゃなくて足し算をしませんか。
水原さんか僕らか、どちらか一方というのではなく、
僕らと水原さんの両方であの子を見守れたら、
いいと思いませんか」
佳也子が言う。
「私たちが、想太と一緒に暮らして、お父さんとお母さんに
なる。でも、水原さんも、想太の大事なお父さんになる。
一緒に暮らしていなくても、想太には、お父さんが、
もう1人いる。そうなったら、想太には、頼りにできる人が、
1人増えることになります」
圭が、ほほ笑んで言う。
「どうでしょうか。・・・僕らが争うことになったら、
一番傷つくのは、想ちゃんです。きっと、水原さんも、
そんなことは望んでないですよね。それより、僕らみんなで、
あの子を一緒に、見守っていきませんか」
水原氏は、黙っている。
長い沈黙のあと、彼は、やっと口を開いた。
「わかりました。でも、あの子に会いたいと思ったときは、
会わせてもらえますか?」
「もちろんです。・・・これまでもそうだったように」
佳也子が答える。思わず、言葉を付け加えてしまったが。
佳也子は、京子と目が合った。
京子の顔にも安堵の笑みが広がる。
ホッとして、佳也子はたずねる。
「かなちゃん、おいくつですか?」
「もうすぐ2歳です」
「手がかかって大変なときですよね。でも、とっても可愛い
ときですよね。・・・まあ、そう言いながら、いくつになっても、
ずっとかわいいんですけど、ね」
お互い目を見合わせて笑う。
「あまり丈夫な子じゃないので、いつもハラハラしています」
京子が言う。
「そうですか。・・・こうしてる今も、気になってますよね。じゃ、
早いところ、あの子たちのところに行きましょうか」
佳也子が言うと、
「はい!」京子が、明るい笑顔になる。
きっと、預けている間、ずっと不安だったに違いない。
「今日は、このあと、一緒にお昼ご飯食べませんか。できたら、
想太のことも、知ってほしいですし。もう一人増えるのが、
お父さんだけじゃなくて、お母さんも増えるんだったら、
とても心強いでしょう?・・・それにね、実は、さっきから、
かなちゃんを抱っこしたくて、たまらなかったんです」
佳也子は、笑いながら白状する。
「ふふ。ぜひ、抱っこしてやってください。
香奈のお兄ちゃんのお母さんは、香奈のお母さんでもある、
ということで」
「じゃあ、香奈ちゃんも、お母さんとお父さんが、それぞれ
1人ずつ増える、ということで・・・」
2人の会話を聞いていた、圭が、笑いながら言う。
水原氏も、苦笑いのような、少し寂しそうにも見える顔で笑う。
4人が立ち上がったとき、京子が、圭に遠慮がちに言った。
「あの、もしかして・・・なんですけど。妹尾さんて、もしかして、
HSTの妹尾 圭、さんですか?」
「はい。そうです」圭が、にっこりほほ笑む。
「はああ。やっぱり。でもまさか、と思って。・・・ほんもの、なんですね」
何度も、ため息を漏らした後、彼女は、
「天才ピアニスト花村礼、毎週必死で見てました・・・ファンです」
あくしゅ、と言いかけて、彼女は、急いで、その言葉を飲み込む。
彼女の夫の目が、ちょっと恨めしそうに見ているからだ。
「あなたも、私以上に熱心に見てたでしょう?」
「う。それは、そうだけど」
「わあ、嬉しいです。ご夫婦で見てくださってたんですね。
感激です。見てくださった方に、直接お会いできて、
めちゃくちゃ嬉しいです。握手、してもらってもいいですか?」
圭が、極上の笑顔で言って、水原氏に手を差し出す。
白くて指の長い、圭の手が、彼の手を握る。
そして、圭は真面目な顔で水原氏に言った。
「想ちゃんのこと、ありがとうございます。
これから、よろしくお願いします」
水原氏は、目をぱちぱちさせながら、「こちらこそ」と
頭を下げた。
続いて、圭は、京子にも、手を差し出して、ほほ笑みながら、
握手を交わした。
圭と水原氏は、一足先に、英子の家に向かった。
佳也子が部屋の鍵を閉めるのを待ってくれた京子が、言った。
「ほんとは、今日ここに来るの、正直気が重かったんです。
でも、・・・来てよかった。ほんとに」
「私も。今日、お会いできてよかったです」
答えながら、佳也子の心には、温かな予感が生まれる。
(もしかしたら、この人と、友達になれるかもしれない)
そんな予感だ。




