敗残兵、剣闘士になる 082 突然の出世
タワシ制作後から「何をしようかな?」なんて考えていたのが嘘のようなことが起きた
どこから聞いてきたのか、この町に居ないはずの医者が剣闘士のところにいるという噂を聞きつけてルドゥス前に医者を求めて人が集まってきたのだ
こちらにきてから半年程経ち興行毎にメディケとして仕事をしてきたのがどこかから漏れたというか、広まったのだろう
ハルゲニスに呼び出され、第一声が診れるなら金を取れと言う
「薬は出せるのか?」
「不可能です、自分の国と生えてる草木が違いますし食事が全く違うので」
「そうか、何が見れる?」
「怪我全般、内臓は穴が開いてれば見れますけど皮膚の上からは難しいですね」
「そうか、求めている医者とは合わないだろうな」
「何を診て欲しいんでしょうか?」
「この時期だからな、何かしらの疫病だろうさ」
「はあ、尚更診れませんね、触ることも話すこともしない方が無難ですね」
「そういうもんか?」
「そういうもんです」
「そうか」
ハルゲニスの決定でマクシミヌスが入り口へ行き「うちの医者は異国の医者なのでこの地では薬が作れない、怪我しか診れない」と宣言してくれたそうでぞろぞろと人は散っていったらしい
ただ、怪我も居たようで
「マツオ、すまんが転んだという婆さんが来ているんだが見てやれるかい?」
マクシミヌスも断れなかったらしい
ハルゲニスの了解も頂いて見に行くと70歳くらいのまだ若いオバサンというくらいの女性だった、戸板のような物に乗せられ孫?のような屈強な男2人に運んで貰ってきたのだそうだ
「痛めた所は?」
「右足だ」
孫の片方が答えた
オバサンの顔色は悪い、手の動きは良いが呼吸も早いし発汗も多い
嫌な予感しかしない
シーツのような布に隠れた足を確認する
先に見えた左足はなんともなかったが、右足は足首から先が黒く壊死していた
下腿も赤紫色に変色しており膝の少し上で曲がったままなっており膝の形もおかしい、腿の皮膚性状も乾いたような皮膚で色もやや赤黒くなっている
手遅れだ、治療としても股関節からの離断がいいところだが…
「転んだのはいつ?」
「10日前だ」
「本当に転んだのか?何かにぶつかったか、ぶつけられたかしていないか?」
「あ〜階段で押し落とされたとその時は言っていたな」
「話ができたのか?」
「一昨日まで話せていたが昨日からはもうダメです」
頭に傷はない、恐らく壊死したところから菌が回った敗血症性ショックだ、もしかして転落時にどこか頭をぶつけていて急性硬膜下血腫になっていたとしても穴を開ける機材がない
脈は橈骨が触れるか触れないかという程度、頚動脈も弱い、収縮期で70〜80というところか
「すまんがもう手遅れかもしれない、治療は足の付け根から切り離す以外には無い、それをして耐えられる状態には見えない
このまま放っておくことが辛いのは分かるが時間が経ちすぎている、家族からの要望は?」
「私達は奴隷で奥様をお連れしただけでご家族は御屋敷に」
孫じゃなかった〜
「御屋敷とは?」
「この町の長の屋敷です」
「そうですか、ちょっとお待ちを」
奴隷さんを待たせて手を洗ってからハルゲニスの元へ全力疾走し内容を説明すると一緒に屋敷へ行くとのことだった、ハルゲニスには絶対に患者に触るなと伝えておいた
ハルゲニスは着替えもせずに奴隷の元へ向かい一緒にいつぞや行った町長屋敷に急いだ
「マヨリスのご夫人のことでお話が御座います」
門番は急ぎ伝言に走り、戻ってきてすぐに奥の部屋へ通してくれた
そこには夜見えなかったが精悍な顔つきの金髪フワフワ頭のちょび金髭オジサンが鎮座していた
「ハルゲニス、何用だ?」
ちょっとお怒り声のオジサンを前に片膝をついて頭を下げる
「マヨリス、奥様のご様態についてうちのメディケから話がございまして連れてまいりました」
「話してみよ」
「マツオ」
「はい、奥様が骨折したのは膝から上の長い骨の遠位端です
転落されてから整復がされず内出血が止まらず擦り傷から毒が入り足が腐っています」
「毒?」
「一概に毒と言っても普段ならなんともない物です、せいぜいが喉を腫らす程度の物、自然に満ち溢れたモノです
しかし弱った体に入り全身を蝕んで仕舞えばもう助かる見込みは有りません
治療するとしても右足を付け根から切り離す程度のこと、現在の体力では到底持ちません
残念ですがそのままにするか、足の付け根を縛り上げて腐り落ちるのを待ってみるかというところです」
「腐り落ちるのを待てるのか?」
「不可能かと思います」
「それならいっそ、神の元へ送ってやるのも良かろうか
残りはいかほど生きるのか?」
「今日から3日保てば十分かと、どこかで一度目が覚めることも稀にありますので最期のひと時を過ごせることを期待します」
「ならば感謝の一言くらい用意せねばな」
「一つ伺っても宜しいですか?」
「何だ?」
「奥様は土に埋めることが出来ません、この辺の風習はどうなっているのでしょうか?」
「布を巻いて土に埋めるが何故駄目なのだ!?」
「毒だからです、この毒に蝕まれたら触ることが許されません
爪の間や皮膚の小さな傷から入った場合、同じようになる可能性が有ります
傷から流れ出た水や汚水も全て灰にしなければなりません、なので土に埋めても水ととも川に流れれば汚染される可能性があります」
「そのような毒聞いたことがないわ!」
「“溶連菌”という何処にでもいる小さな虫みたいな毒です、絶対に見過ごすことは出来ません」
現代では人食いバクテリアと呼ばれています
劇症型溶血性レンサ球菌感染症という診断名になりますが、黄色ブドウ球菌感染の疑いもありどちらにしても素手では触れません
古代ローマではまだ菌としての特定が出来ていません「そういう物が居る可能性がある」というところで止まっている状態ですので説明が難しいです
「そのような世迷言を!」
「それならばそれでお任せします、ですが私はこれ以上触りませんので御容赦ください
そして出来るのであれば火葬をお願いします」
「まだ言うか!」
「マヨリス、国の違いもあります
それと確定した訳ではないでしょう」
「いえ、確定です」
「ぐっ、では私共は失礼致します」
「帰れ!」
ハルゲニスと屋敷を出る途中で慌てて走ってきた奴隷に話しかけられた
「シーツや体を拭いたものも燃やした方が宜しいので?」
「そうですね、燃やせれば一番良いです
もし燃やせないので有れば大量の石の粉か灰を撒いて奥様と一緒に埋めて下さい」
「それで良いんですか?」
「気休めにはなるでしょう」
「分かりました
あと触らなければならない私達はどうしたら良いでしょうか?」
「毎日灰を混ぜた泥で全身を洗ってください
サポー(石鹸)があればそれでも大丈夫ですよ、明日には終わりますよ」
「どういうことで?」
「今日命が保てばいいくらいです、この国の人はしぶといので最長3日と言っただけです」
「分かりました、ありがとうございます」
「ではこれにて」
帰り道、ハルゲニスと話した
「皇帝陛下からの書簡の中に皇帝の佐治のガレノスからの伝言も入っていたのだ」
「そうですか」
「気にならないのか?」
「異国の治療が気になると言っていましたから」
「なるほど、アレラーテで会っていたのか」
「はい」
「内容は1年間だけ皇帝の元で一緒に働かないか、というものだった
なぜそんな話が来たのか今日ので分かった、我々の知らないことをかなり知っているな?」
「そうですね」
「ふむ、では4月までにマシュアルをメディケに出来るか?」
「何故?」
「4月はメディオラヌム(現ミラノ)で毎年御前試合が行われる
いつも皇帝陛下は居られないが12月にコンモドゥス様は帰ってこられているからな、もしかしたら居られるかもしれないし居られなくても近衛隊長官なり元老院の長官なりが居るのだ
ダナウの戦線は大変だがお前が行く意味も有るだろう」
「行けと言うことですか?」
「皇帝陛下が自分の書簡に書くほどの大事だぞ?従わなくてもいいかもしれんが首が飛んでも知らんぞ」
「ええぇぇぇ」
しょげました、あんまり戦争関わりたくない
「マシュアルを頼むぞ」
「1月のマリディアーンは?」
「マシュアルは出させんぞ?メディケで十分に稼げるところまで教えていけ」
「はい」
「お前の武器の代金はディニトリアスから回収させてもらったからマシュアルについては気にするな、解放奴隷扱いだ
アルティマタスが稼いでくる分はマツオとマシュアルの取り分にしておくとしよう
ディニトリアスにも話はつけてある、金は要らないけど刀は打って持たせてやるんだと」
「ありがとうございます」
ここまでしてもらったら行かないという選択肢はない、皆の期待に答えられるように頑張らないといけないな
「最後に馬には乗れるようにしておけよ?」
「はい」
ラバでもいいかな〜なんて考えながらアルティマタスに教えてもらおうと思った
その夜、奥様は最後に「ありがとう」と一言告げて眠りそのまま目を覚ますことはなかったそうだ




