おとぎ話の翼
祖母は竜と友達だったらしい。
竜とはあの竜だ。
頭は蜥蜴に、体つきは鳥に、翼は蝙蝠に似ている。
人よりも大きな身体を持ち、乗せて空を飛ぶことすら可能なのだという、あれ。
友達だったのよ、と祖母は繰り返し語った。
出会いは彼女が十代の頃。そいつは庭の畑に埋まっていた。頭からずっぽりと、それはそれは芸術的な埋まり方だったそうだ。
しかし生えている脚とか尾っぽがジタバタしているので、どうもこれは趣味で嵌まっているのではなく間違えてこうなったらしい、と祖母は慌てて家族を呼んだ。
一家総出ででの収穫になった。これほどの大物、お目にかかったことがない。皆わいわいガヤガヤ大騒ぎで、うんせこらせと胴体のあたりにくくりつけた縄を引っぱってみた。
幸いにも試みは成功した。ようやく出てきた全体を観察してみれば、酷い目に遭ったとばかりにぶるぶる横に振った顔はまだ幼く、顔や胸の周りに雛羽が残る若竜だった。
巣立ったばかりではしゃいで飛んだら、風にでも煽られたのだろう。祖母の推測ではそういうことらしかった。
しげしげ見ている内に、くりくりの黒目と目が合ってしまった。すると向こうもびっくりしたのだろうか、慌てて空に逃げ帰っていく。
後ろ姿を、もう落ちるなよ、と両親と兄弟と手を振って笑いながら見送った。
それで終わりと思っていたのに、翼竜はまた畑に埋まったらしい。
しかも同じ奴だ。なぜわかったかと言えば、ふわふわの胸毛に一筋赤色が入っている特徴的な身体の模様をしていたから。
二度目は埋まっていたというか、さながら卵を温める親鳥よろしく、翼と足を折りたたんで、それはもう行儀良く待っていたのだそうだ。
祖母が畑を見に来てあんぐり口を開くと、真似をするように奴もかっぱり大きな口を開いた。
彼女はやっぱり親を呼んできて、害意はないようだが邪魔だな、さてどうしたものか、と首を傾げた父がふと自慢の林檎を投げてやった。
するとそれを大きな口をかっぱり開けて、一のみ。満足そうにげっぷを吐いて、それで帰って行ったらしい。
恩義を感じたのか、それとも構って貰えたのが嬉しかったのか、あるいは寄生先と決め込んだのか。
竜は以後も、何度も農場に姿を見せた。
忘れた頃になると決まって畑で口を開き、お気に入りの赤く熟れた果実を図々しくねだった。
祖母が成人し、結婚し、婿を取り、子に恵まれ、その子が育ち、孫まで生まれる頃――最後の方は数年越しのスパンではあったが、その竜は農場の畑に生え続けたのだそうだ。
身内のことも生まれた土地の事も悪く言うつもりはないが、正直この話については結構眉唾ものだ。
祖母はいささか空想癖があったし、故郷はのどかと言えば聞こえがいい、そんな田舎に過ぎない。
竜が来て手伝いに出てくる人間が家族しかいないのも、当時は車がなく隣の家まで行くのにも時間がかかったせいなのだろう。
だから、あれは幼子向けのおとぎ話だったのだと思っている。
「あんたのことも言っておいたからねえ。あれはボンクラだから助けにはならないけど、呑気だけどちゃんと竜だって格好を見てるとね。色々と、許せる気持ちになるさ」
この台詞も聞き飽きた。
物事の道理を知らなかった頃は、純粋に信じ込んでいた事もあったかもしれない。
しかしもう時効だ。
二十五年も生きていれば、そろそろ現実を見るしかない。
数十年前まで隣人だった神秘の数々は今や科学によって暴かれ、数々の猛獣も神のごとき脅威から駆逐できる相手に変わった。
竜もそうだ。あの巨体なんて真っ先に狩られる対象だった。彼らは果実の類いを最も好み、おおむね温厚な個体が多かったが、雑食でもあった。
人の味を覚えられてしまえば、こちらはひとたまりもない。
加えて狩れば金になった。
急速に数を減らした彼らに、今ではもう、狩りの規制がかけられ、絶滅危惧種として保護対象に指定しようという議論が上がっているぐらいだ。
「悪さなんかしやしないよ、果物がほしいだけなんだから」
と笑っていた祖母の話が通用する時代ではないのだ。
もう、牧歌的な時は去ってしまっていた。
そして私の興味もまた、神話の世界から現実に、近代に寄っていった。
畑と山と川がどこまでも広がる風景や牧場。けしてそこが嫌いだったわけではないが、学校で話題に上がる町は、都会は、より鮮明に、いつでも煌めいていた。
はじめて友達と切符を握りしめて見に行った映画館。大きな画面の中で垢抜けた男女が走り回っていた。衝撃だ。こういうものが娯楽なのか、という知識。
ここに暮らせば何度でも見られる、と先に就職していた先輩が胸を張って言った。田舎では同じ暮らしをするしかない。都会なら何者にもなれる。きらきらした指輪を得意げに見せつけて、赤い唇を弧に描いた。
そうして私は憧れ、引き寄せられた。勉学に励み、周囲からも期待通りの評価をされ、両親に後押しされてトランク一つで故郷を後にした。スクリーンの中に飛び込むようなつもりで。
そして今度は、トランク一つの出戻りだ。
何のことはない、よくある若者の挫折。
都会のペースはいささか速すぎたし、まともに息を吸える所に行きたかった。
慣れぬ仕事と毎日変わる人々の顔は苦痛で、いつの間にか汽車の車輪に飛び込んだら和らぐような錯覚ができあがっていた。
お前がいなくとも社会の歯車は回る。
私は映画の主役にはなれない。
煙が身体の中に充満する。
早く、速く、はやく……。
だが、いざ一歩踏み出す前に、故郷の丘が、子供の頃よく登った一本の木が、突如私の脳裏に呼び起こされた。
死ぬぐらいならあそこに行こう。
そうだ、ここで飛び降りるより、あそこに行って首をつった方が、幾分かマシに違いない。
飛び込みは後片付けが大変と聞いたから。
私は翌日以降の予定をさっぱりと放棄することにした。優等生の珍しい不良行為だ。初めての映画のように、胸が高鳴った。
駅から何時間も乗合馬車に揺られ、自分で汗水垂らしながら禄に舗装のされていない坂道を登る。都会との時間の流れの違いに面食らいつつも、ああそうだ、ここはそういう場所なのだったと徐々に思い出していく。
呆然とした。本当に、何も変わっていない。一年もすれば流行がすっかり様変わりし、常に話題が変わる、あの喧噪の方がよっぽど幻のように思えてくる。
牧場――実家にはさすがに直接顔を出せない。
それなりの捨て台詞を吐いて出てきてしまったのだ。今更どの顔を。
どこに行こうかと迷って、よく遊んだ丘を思い浮かべた。そこにある、一本の木。嫌な事があったら昔は決まってそこに行った。
しわくちゃの祖母がいなくなって、彼女の話を披露して馬鹿にされた時は、特に。
いつしか、そんなことをする自分が恥ずかしくなり、きらびやかに語られるビジネスだのファッションだのの話を追いかけて、幻想と空想の記憶には蓋をしていたけれど。
鞄の中から買ってきた赤い果実を取り出して、囓る。
昼飯だ。本当はサンドイッチなどが良かったのだが、この田舎町にそんなこじゃれたものはない。駅前の出店の芳醇な香りに負けて、つい二つ。
さて一つ目は平らげたが、二つ目に取りかかるにしては腹が膨れている……と悩もうとして、ふと私は違和感に顔を上げた。
それは音だ。羽音だった。やけに大きい。大きすぎる。
私は天を悠々と進む一つの影を見た。それは次第に大きくなり、伸びた首、広げられた翼、そしてしなやかにしなる尻尾を描く。
丘の上にそれが降り立つと、風に危うく鞄を持って行かれそうになった。
私は木にしがみつき、全財産を必死に守ろうとする。
どしん、と重量を感じさせる衝撃。脚のシルエットは鳥に近いが、やはり蜥蜴も連想させる。顔立ちは蜥蜴よりもっと犬に近い、と思った。
鳩のような胸と、翼の半分には羽毛のようなふわふわが生えていた。
一本筋、赤い線が見えている。傷ではない。模様だ。鱗は黒、羽毛は白で、赤色だけがやけに鮮やかに見える。
あんぐり口を開ける私に向かって、奴もまた口をかっぱり開いた。しかもそのまま硬直する。私はしばし自失したが、あるいは辛抱強く待っているそれを見ているうち、ふと自分が口にしていたものを思い出した。
――友達だったのよ。林檎が好きだったの。
半ば無意識に、残った一つを放り投げる。
放物線を描いて、それは竜の口の中に吸い込まれていった。
あまり上手な投げ方ではなかったのだが、器用なものだ。
ごくんと丸呑みして、幸せそうにけぷりと一息。
それが終わると、特に前触れもなくまた翼を広げた。私はまたひっと息を呑んで縮こまる。
どの鳥よりも大きな翼をぐんとたわめ、人をも運べそうな強靱な足で力強く踏切り、空に舞い戻っていく。ばさり、ばさりと重たい音がした。飛んでいく姿はどこまでも雄大で優雅。脚のかぎ爪、牙の鋭さ、そして何より身体の大きさ。人間なんて本当にひとたまりもない。空の覇者と謳われたのも容易に理解できる。
それなのに、ああ、林檎一つ。
林檎一つだけが目的で、それで帰って行ったのか。
祖母の話通りでもあり、違ってもいた。
私の理想通りでもあり、違ってもいた。
私はしばらくあっけにとられていたが、苦笑した。せざるを得なかった。そうして笑うと、今まで身体の中にため込んだ悪いものすべてが流れ出ていくような心持ちだった。
発作が一段落すると、大きく深呼吸。埃を払い、私は立ち上がる。
鞄を見た。大丈夫、全財産は死守された。彼にとっては何の価値もないだろう。あるいは私にとってみても。
――あんな風には、飛べそうもないけれど。
あれを見たら確かに、なんだか細々したことに悩んで、首をくくろうとしていた自分が大層な馬鹿に違いない。
丘の上の一本の木を見上げて思う。
振り返れば、青い空と、なだらかな傾斜の続く青い大地。
ここから私はどこへ向かう。
牧場か。
駅か。
それとももっと遠く。
飛んで行ってやるさ。まだ落ちるには早い。
――ああ、それと。
「おばあちゃんの言ったことは、嘘じゃなかったよ」
かつて悔しくて夕日に泣いた、小さな私の墓標に、一言。
それで気が済んだ私は、もう一度しっかり鞄を握り直すと、鼻歌混じり、飛ぶ羽のように軽やかに丘を下っていった。