浮遊市街(『眠り梟亭』、『朝陽の音色亭』)
「よいしょっと」
クゥは抱えた樽を床に下ろした。
周囲は薄暗く、また少しだけ空気が埃っぽい。
クゥがいるのは『眠りの梟亭』の倉庫だった。
シグがエイレンシアに会いに行っている間暇になったクゥは、宿屋の従業員であるセリアに頼んで宿の仕事を手伝うことになっている。報酬はいちごのタルト。
それなりに重たい樽だったが、マナの塊であるクゥからすれば大したことはない。
「クゥちゃん、調子はどう?」
「うん! 終わったよー」
「さすが冒険者さんだなあ。ちっちゃいのにすごいね」
倉庫の入り口から顔を覗かせたのはセリアだ。
「お客さんに手伝ってもらうのはどうかと思ったんだけど……お願いしてよかったかな」
罪悪感を感じているっぽいセリアに、クゥはぶんぶんと手を横に振った。
「このくらい何でもないよ。それにきちんと報酬がもらえるって話だからね!」
「私の作ったお菓子なんかでよければ。もうできてるよ」
「おおっ、それじゃあ早速いただこうかな!」
目を輝かせて倉庫から出てくるクゥ。
時間はすでに遅く、食堂に他の客はいなかった。適当なテーブルにクゥが座ると、すぐにセリアが厨房から報酬のいちごタルトを運んできた。
「おおーっ!」
歓声を上げ、そのまま木製フォークを手にがつがつ食べ始めた。クゥの食べっぷりは昨日と今日ですでに見ているので、セリアが用意したタルトはかなり大きめだった。
「すごくおいしいよセリア! やっぱりセリアってお菓子を作るのが上手なんだね!」
ご満悦の顔で振り向くクゥだったが――
「……」
なぜか後ろに立つセリアは視点をぼかしたまま応答しない。
目を瞬かせて、クゥはもう一度声をかけてみる。
「セリア?」
「……、? どうしたの?」
「いや、何だかぼうっとしていたみたいだったから。大丈夫かい?」
気遣うようにクゥの問いに、セリアはにこりと笑った。
「ううん、大丈夫だよ。それより喉乾くでしょ、お茶淹れてくるね」
「む、それはありがたいな。お願いするよ」
セリアはぱたぱたと厨房に戻っていく。
クゥはその様子を見送ってから、さらにタルトをごっそりフォークで削って口に運びつつ、首を傾げた。
(……仕事で疲れてるのかな?)
すぐにセリアはティーポットとカップを持って戻ってきた。
どちらも木製で、素朴な雰囲気のこの宿によく合っている。ポットからはハーブの鼻がすっとする匂いが漂ってきた。庭で育てていたものだろうか。
「どうぞ、クゥちゃん」
「ありがとう」
そう言ってカップを受け取り、クゥは疑いなくそれに口をつけた。
「……」
すぐ近くで、暗い瞳と無表情のセリアが自分を見つめていることにも気付かずに。
ごくごくとクゥの喉が鳴る。
「む……」
クゥは目を瞬かせた。それからじっとカップの中を見る。
「なんだか不思議な味だ。……甘ったるくて、あれ、目が――」
クゥの言葉はそこで途切れ、一気に力が抜けて椅子の背もたれにぶつかった。カップが落下し、わずかに残っていた中身を撒き散らして床に転がった。
脱力したクゥの肩は、わずかに上下している。
小さな呼吸音も聞こえた。
どうやら眠っているらしい。
セリアがそれを確認したところで、『眠り梟亭』の裏口が開いて誰かが入ってきた。
「成功しました」
「そのようだな」
緑髪の青年、ギルシュだ。
セリアの手には空になった瓶が握られている。それをちらりと見てから、ギルシュは意識を失っているクゥに視線を戻す。
「『マナ抑制薬』がここまで効くとはな。普通の人間であれば、単に精霊の力を封じられる程度で済んだはずだが――やはりただの人間ではないということか」
セリアから空になったマナ抑制薬の瓶を回収しつつギルシュは呟いた。
クゥが飲んだハーブティーには、セリアの手によってマナの流れを抑制する薬物が混ぜられていた。これを飲むとしばらく精霊術や身体強化が使えなくなる。
ギルシュがセリアに【心】精霊術を使い、それをクゥに飲ませたのだ。
「……」
セリアは夢遊病者のような雰囲気のまま突っ立っている。
彼女は自分のやっていることを記憶できない。ギルシュが術を解けば、自分がクゥを薬物によって昏倒させたことなどすっかり忘れているだろう。
そんなセリアを無視して、ギルシュは懐からマナ鉱石のついた腕輪を取り出した。
「本来は抑制薬で弱らせてから力づくで嵌めるつもりだったが――手間が省けた」
抑制薬と同じく、対象のマナの流れを阻害して、身体強化や精霊術を使えなくさせるアイテムだ。
本来は犯罪者用であるため頑丈に作られている。身体強化抜きに破壊することはまずできない。
これでクゥはほぼ完全に無力化された。
「さて、餌はこれでいいとして……」
ギルシュは意識を失ったままのクゥを片手で抱え上げて、隣のセリアに向き直った。
「――?」
「お前に最後の仕事を頼むとするか。」
そう言ってセリアに紙切れを差し出す。
そこにはごく短い文章が書かれていた。
「確かこいつらは屋根裏に泊っていると言っていたな。その紙に書かれた内容を、『一番わかりやすい方法で』で記しておけ」
「……はい」
「必要なものは裏口の前に置いてある」
そう告げると、ギルシュはクゥを抱えて立ち去った。
× × ×
シグはエイレンシアの部屋を出て、『眠り梟亭』に向かっていた。
人目につかないようにバルコニーの手すりから『朝陽の音色亭』の屋根に飛び、ちょうど来たときと真逆のルートである。
浮遊階段のステップに照準を合わせて跳躍し、そのまま何食わぬ顔で『朝陽の音色亭』から離れていく。
(情報はけっこう聞けたが……結局なんであいつはわざわざ俺を呼びだしたんだ?)
ギルシュについての話もカナエについての話も有意義ではあったが、別に隠すほどのものではないような気がする。
ギルシュにとって都合の悪い話はあったが、あれを聞かれたところでエイレンシア相手にギルシュが何かできるはずもない。
となるとシグが泥棒の真似事をする必要もなかったことになるのだが、
(……まあエレンの考えることがわかんねえのはいつものことか)
という結論でシグは思考を打ち切った。
去り際にも何か言いたげな雰囲気を発していたが、結局何か言い出す様子もなかったので出てきてしまった。無理に聞かずとも必要になればエイレンシアのほうから伝えに来るだろう。
そんなことを考えながら浮遊階段を進んで『眠り梟亭』の庭まで戻ってくる。
宿に入るとすぐのところにカウンターがあるのだが、普段ならそこに女将(最初にシグたちが助けた老婆がそうだった)やセリアがいるのに、今はいない。
そのことに首を傾げながらもシグは階段を上っていく。
(……クゥは宿の手伝いするっつってたが、終わったのか?)
進んでいくと、声が聞こえてきた。
『――、しっかり――――!』
何やら慌てているような、焦っているような、そんな声だ。しかも屋根裏のほうから聞こえてくる。
胸騒ぎがして、シグは残りの階段を駆け上った。
屋根裏部屋に到達する。
そこには。
「セリア、あんた何てことをしたんだい! お客様の部屋を汚しただけでなく、こんな落書きまで――」
声を上げる『眠り梟亭』の女将である老婆と。
「……え、あ。私、何を」
白昼夢からようやく醒めたようにぼんやりとした顔のセリアと。
――『お前の女は預かった。返してほしくば危険域H7地点に一人で来い』
血のような真っ赤な塗料で壁に殴り書きされた文字列。
「――――――っ」
同じだ。
あの時と、同じだ。
シグは食って掛かるように老婆に尋ねた。
「婆さん! クゥを見てねえか!?」
「い、いえ、儂は見ておりません。それよりシグ殿、セリアのことはどうか責めないでやっていただけませんか。何か事情が――」
老婆がこんなことを言うのは、セリアのいで立ちに理由がある。
セリアの手には掃除用のモップがあり、足元には塗料がたっぷり入ったバケツがあった。これを使って壁に脅迫文を書いたのだろう。
当のセリアは、まだ意識がはっきりしないようで、塗料を頬につけたまま立ち尽くしている。
では、セリアがこの状況の元凶なのか?
それは違う。
「セリアは悪くねえ。操られてたんだろ」
「操られて……? 何かお心あたりがあるのですか」
「……、ああ」
心当たりなどギルシュ・ガーデナー以外にあり得ない。
あの男がセリアを操り、何らかの手段でクゥを拉致したのだ。シグをおびき出すために。
当てつけのようにわざわざ『あの事件』を再現して。
「俺は指示された場所に行く。しばらくしたらセリアの洗脳も解けるだろうから、傍にいてやれ」
「は、はい」
老婆の返事を聞くと、シグは屋根裏部屋の窓を勢いよく開けて飛び降りた。
一気にメリオールの地面に着地する。
危険域H7。つまりは街に近い北東の森林エリア周辺。
(あの野郎、今更何のつもりだ……?)
そんな疑問を抱えながら、シグは目的地に向かって走り出す。
× × ×
「………………」
金髪縦ロールの少女――エイレンシアは、瀟洒なベッドに突っ伏していた。
スカートのまま寝転がっており後ろから見たらきわどいところまで太ももが露出していたが、エイレンシアはそんなことも気にならないくらい凹んでいた。
こんこん、とノックがある。
エイレンシアは返事をしなかったが、ドアが開いて世話役の執事が入ってくる。
「失礼します。……と、盛大に沈んでおられますな」
執事のコメントにエイレンシアはぼそりと、
「………………謝り損ねた」
「そのためにシグ殿をお呼びしたのでは?」
「そうだけど! なんかあいつ目の前にしたら何か言えなかったのよ! だってなんかどんな顔して言ったらいいかわかんないじゃない『あんたが大変なときにそばにいられなくてごめん』とか!」
つまりエイレンシアがシグを呼んだのはそういう理由だった。
エイレンシアはシグに謝りたかったのだ。
貴族学院にシグの味方がほとんどいないことはよくわかっていた。正確にはたった一人だけいたのだが、それは間違ってもシグを守れるような人種ではなかった。
エイレンシア以外に、シグを悪意から守れる存在はいなかったのだ。
その証拠にシグを退学させた事件もエイレンシアが留学でいない間に起こっている。
自分がいれば、シグを傷つけることも、シグが学院や王家を追い出されることもなかった。
ならば今のシグの境遇は自分のせいではないのか。
そんなふうに、エイレンシアは思ってしまう。
ちなみにシグを一人で来るよう指示したのも、『眠り梟亭』の庭先でそう言わなかったのも、単に恥ずかしかったからである。
ウィスティリア王国屈指の名家に生まれたエイレンシアは、人に頭を下げた経験がほとんどなかった。
「焦ることはございません、お嬢様。シグ殿はまだしばらくこの浮遊島に滞在なさることでしょう。機会はいくらでもあります」
「……まあそれもそうね」
執事の助言によって冷静さを取り戻したエイレンシアは、ふと尋ねた。
「そういやあんた、何で入ってきたの? なんかあった?」
執事はこんなことを言った。
「下の階で少々騒ぎが起こっておりまして。お嬢様にお報せしたほうがよろしいかと思いましたので」
「どんな?」
「六名ほど、行方のわからない生徒がいるようです」
「夜遊びでもしてんじゃないの? 酒場も賭場もあるんでしょ、ここ」
「いえ。どうやら武器を持って危険域へと向かった、という目撃証言があるようでして」
「ふーん。元気なやつもいるわね」
ここまで特に興味なさそうなエイレンシア。
しかし、
「行方のわからない六名の中には、ギルシュ・ガーデナーも含まれます」
「…………へえ」
「さらに、残りの五名はアレン・リグリス、ブルーノ・バーリグル、セーレ・シュバイン、ディック・シーカー、ファラ・ダウズエル――いずれもギルシュ・ガーデナーと懇意にしている生徒たちです」
執事は言葉を濁したが、名前の挙がった五人は実習に参加したメンバーの中でも下から数えたほうが早い連中ばかりだ。
最近評価を上げているギルシュに取り入ろうとしているのを、エイレンシアは何度か見ていた。
エイレンシアはベッドから立ち上がり、壁に立てかけていたレイピアを腰に差す。
「外套」
「かしこまりました」
と、執事に衝撃吸収効果のあるマントを着せさせる間、執事は言った。
「危険域に行かれるのですか?」
「ええ。いい加減こそこそされるのもうざったいし、ちょっと灸を据えてくるわ」
「あまり危険なことをなさってほしくはないのですが……」
「あんた誰に向かって言ってんの?」
執事の言葉を一蹴し、エイレンシアはがらっとバルコニーの扉を開けた。
「お嬢様。恐れながら、そちらは出口ではございません」
「玄関から出たら他の生徒だの教師だのに捕まるでしょ。あ、バレたら言い訳よろしく」
そう言い、エイレンシアはさっきのシグと同じくバルコニーから『朝陽の音色亭』の屋根までジャンプし、さらに浮遊階段へと跳躍。
ギルシュたちが危険域に向かった理由はわからないが、危険度Cの魔物にも苦戦するであろう彼らが奥地まで行くとは考えづらい。
加えて正規ルートの存在を踏まえると、追跡するうえでまず向かうべき場所は。
「とりあえず、H区画あたりかしら?」




