浮遊島(『眠り梟亭』②)
「……何だこれ」
浮遊島に来て二日目。
目を覚ましたシグが隣を見ると、クゥが思いっきりシグの腕に抱き着いていた。
シグたちの泊まる『眠り梟亭』の屋根裏部屋は決して広くないが、ここまで密着して寝なければならないほど狭くない。
寝ぼけてクゥがここまで転がってきたらしい。
クゥは寝るときブーツもショートパンツも必ず脱ぐ。
着せたまま寝ても朝には必ず脱いでいるので、この点についてシグはもう諦めている。
つまり今のクゥは肩に細い紐で引っかけてある薄いインナーと、丈のほとんどない下履きのみという恰好でシグに抱き着いているのだった。
よくよく見れば、素足までシグの足に絡めている。
(起きれねえ……)
正確には『クゥを起こさずに自分だけ起きる』ことが不可能である。
普段ならクゥを無理やり剥がしてさっさと起床するし、今日もそうしようとしたのだが、不意にクゥが寝言を呟いた。
「……行かないで」
「あん?」
「どこにも行かないで」
そんなことを言いながらいっそう強くシグの腕を抱きしめてくる。
起きているのかとも思ったが、それならもっとはっきりした口調で言うだろう。目も開いていない。これはおそらく寝ている。
(……悪夢でも見てるのか?)
思い当たることがあるとすれば、昨日の甲板での一件だ。
ギルシュ・ガーデナーという男はシグのトラウマに深く関わっている。そしてそれは、その時点で意識を共有していたクゥも同じだ。
「行かないで……ぼくの大事な……」
そうなると、シグも容赦のない真似はしにくい。
ここでクゥを引きはがすのはあまりにも酷な仕打ちではないだろうか。
昨日は甲板での一件のあと、クゥに慰めてもらった身としてはなおさらだ。
シグは溜め息を吐いて二度寝の態勢に入ろうとして――
「…………とりにく」
がぶっ、とクゥの歯がシグの左腕に突き立てられた。
「……………………」
シグはクゥに腕を噛まれたまま沈黙した。
なるほど。鶏肉。……なるほど。
シグはクゥのこめかみを鷲掴みにして腕から引きはがすと、部屋の隅に転がして起き上がった。頑丈な大精霊は放り投げられたあともすやすやと眠り続けている。
シグは夢の中で好物の鶏肉と格闘する相棒を放置し、剣を持って屋根裏を出た。
『眠りの梟亭』の庭にシグ以外の人間はいなかった。
セリアなどの従業員は宿の中で働いており、冒険者たちはこんな早朝に起きてくるほどまともな生活習慣をしていない。
静寂に包まれた庭でシグは素振りを行う。
シグが行う素振りは、単なる基礎練習にしてはやり方がユニークだった。
何しろとにかく剣の振りが遅い。
代わりに極端に丁寧だ。
ゆっくりと、しかしシグの剣は毎回まったく軌道を描く。
上下左右前後、剣の切っ先が通過する位置がほとんどブレないのだ。身体強化を使っていないため疲労は溜まっているはずだが、シグの繰り返す『型』はびくともしない。
「…………、」
目を閉じたまま、同じ型をなぞる。
土を踏むブーツの跡すらぴったり一致するような精度で、何度も何度も。
『――い、気付――』
そうしていると気が紛れた。
ギルシュ・ガーデナーとの再会。
セリアという黒髪の少女と出会って動揺したこと。
色々あってもやもやしていた頭の中が、徐々にクリアになっていく。
『――まで、やっ――早――』
その感覚がシグは昔から好きだった。
シグが『型』の反復を百回行ったあたりで――
「いい加減あたしに気付けこの剣術バカああああああああああああああああああああ!」
き――――ん、と怒鳴り声がシグの耳をつんざいた。
シグは目を開け、ようやく庭に自分以外の人間がいたことに気付いた。
「……エイレンシア?」
「そうよ! さっきからこのあたしが話しかけてやってんのにいつまでぶんぶんぶんぶん、礼儀がなってないんじゃないの!? あたしが来たらとりあえず『今日も世界一美しいですねエイレンシア様』でしょうが!」
「あーはいはい。今日も世界一うるせえですよお嬢様」
「誰がうるさいのよ! 小鳥のさえずりのように可憐な声って言いなさいよ!」
金髪縦ロールを震わせて首を締めあげてくるエイレンシアに、シグは遠い目をした。朝からどうしてこんなに元気なんだこの女は。
ぱっ、とエイレンシアはシグを掴んでいた手を離す。
「ま、言ったとおりに近くに宿を取ったのに免じてこのくらいにしといてあげるわ。寛大なあたしに感謝することね」
シグは答える代わりに指で上を示した。
「おう寛大なお嬢様。宿の二階から冒険者が好奇心丸出しでこっち見てんぞ」
「あっほんとじゃない! ――そこのあんた誰の許可得てあたしを見下ろしてんのよ焦げ臭い肉塊に変えるわよ!」
ばたん、と慌てて上のほうで窓が閉まる音がした。エイレンシアと関わるのは危険だと思ったらしい。賢明な判断といえるだろう。
「まったく。あたしみたいな世界規模の美少女が近くにいたら眺めたくなる気持ちはわかるけど、最低限の礼儀くらいは弁えてほしいわよね」
「そうだな。よかったな」
「何かムカつくんだけどその反応……」
むっとしてから、エイレンシアはシグの持つ剣に視線を移す。
「ねえ、さっきやってたのって『技』の練習よね」
「まあな」
エイレンシアとシグは同じ師匠に剣を習った。シグが何の訓練をしていたのか、エイレンシアはあっさり気付いていた。
「型、今いくつできるようになったの?」
「四つ」
シグの答えに、むぐ、とエイレンシアは息を詰める。
「お前は?」
「………………、二つ」
「おお、一つ増えてるじゃねえか。ちなみに何と何だ?」
「『鱗』と『旋回』!」
「そうか。凄いな。俺はもうどっちもできるが」
「知ってるわよ、順番に習得してくんだから四つできるならそうでしょうよ! ああもうっ、あんた何でそんな剣だけできるのよ!?」
地団駄を踏むエイレンシアに、シグは肩をすくめる。
「そのぶんお前は精霊が強いんだからいいじゃねえか」
「精霊におんぶにだっことか思われるのがあたしは嫌なの!」
エイレンシアは特級精霊使いでありながら、精霊の強さがすべてだと思っていない。
シグはひそかにこれをエイレンシアの美点だと思っていた。口には出さないが。
「そんでお前、何しに来たんだ? こんな時間に」
というか、そもそもなぜこの宿に自分がいると知っているのか。
「ああそうだ。あれよ。あんた今日の夜あたしの部屋に来なさい。『朝陽の音色亭』の三階奥の角部屋。バルコニーの鍵は開けとくから」
シグは眉根を寄せた。
「何か話があるならここで言えばいいだろ」
「人に聞かれるとまずいのよ。――来たら、カナエが今どうしてるのか教えてあげる」
その一言は効果てきめんだった。
「……、わかった」
シグが頷くと、エイレンシアは満足そうに、ふふん、と笑った。
「それから必ず一人で来なさい。あのクゥとかいうのも連れてきちゃ駄目」
「あん? 何でだよ」
「何でも。約束破ったらカナエの話はなし」
そう言われてしまうとシグは頷くしかないのだが。
「ちなみに夜って理由は?」
「あたしら今日は夕方までギルド支部で講習なのよ。勝手に魔境に入ると危険だからって」
「お前が講習って……必要あんのかよ」
この国に七人しかいない特級精霊使いの一人を通常の学生と同じように扱うなどナンセンスだろう。
「必要なわけないでしょ。でも、あたしみたいな『上』がきちんとルールに厳格じゃないと下々に示しがつかないわ」
「お前って時々まともなこと言うよな」
「? いつもまともじゃない」
まともな人間は仮面をつけて斬りかかってきたりしない。
「とにかくそういうことだから、いい、夜に三階の一番奥の部屋よ。忘れたら目玉ぶち抜くわよ」
物騒な言葉を残してエイレンシアは去っていった。
あれが本当にこの国有数のお嬢様なのだろうか、とシグはよく疑問に思う。
ほとんど同時に『眠り梟亭』の扉が開いた。
そこから出てきたのは寝ぼけまなこのクゥである。
「……おはよ、シグ。誰かと話してた?」
どうやら庭でのやり取りを聞きつけて降りてきたらしい。
入れ替わりだったせいか、エイレンシアの姿は見なかったようだ。
「頭のおかしい金髪縦ロールから呼び出された。夜に部屋に来いってよ」
「ああ、エイレンシアかい? 旧交を温めるつもりなのかな」
何やら楽しみにしているクゥに対してシグは言った。
「ちなみにお前は留守番だ」
「えっ」
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