――窮鼠よ、猫を噛め――
1
「むっふっふっふっふっふ」
どう考えても意識しなければ発音できない声で、夢宮さやかは笑う。甲斐雪人はかばんを机に置くと、極力関わらない方がいいだろうと判断し、そのまま机を離れようとした。
「ちょ、ちょっとぅ。それはひどいんじゃない?」
すぐさま夢宮の腕が伸び、甲斐の腕を掴んだ。
純正芹沢学園高等部一階1年2組。すでに多くの生徒が登校しており、みんな和気あいあいと夏休みの思い出を話している。甲斐にとって夏休みは……思い出してみると、なかなか詰まった内容だったのではないか。少なくとも、こんな刺激的な夏休みは、中学時代に経験したことはなかった。
夏休みの始めは合宿だった。勉強の合宿で、楽しい思い出ではない。合宿が終わり、一度実家に帰って、それから学園に戻ってくると、神田隆志から、遊びにこないかという手紙があった。思い出しながら、甲斐は神田の席を見る。まだ彼は登校して来ていない。もしかしたら、しばらく休むかもしれない。
夏休みにの終わりには、多分、最後にして最大のイベントがあった。恐れ多いことにこの学園のアイドルにして生徒会長、芹沢雅の誕生日会に招待されてしまったのだから。と言っても、誕生日らしさは最初の三時間くらいだけだった気がするけど。
だけど、最後は、よかったと思える誕生日だったと思う。
「無視してる?」
掴んだ手をぐいとひっぱり、夢宮は甲斐を睨み上げる。
「ごめんごめん、そんなつまりはなかったんだけど。隆志、来てないな。何か聞いてる?」
「あいつはねぇ、きっとまだ夏休みと勘違いしてるんじゃかな。ああ見えて、けっこうずぼらな奴だから」
どの口が言う、と思いながらも甲斐は口には出さない。
「機嫌良さそうだね」
「むっふっふっふっふ」
再び不気味な声を出しながら、夢宮は続ける。その度に、彼女の髪が跳ねる。
「もう上機嫌ったらこの上ないわけよ。たぶん、雪くんもあと数分すればその理由を分かってもらえると思うわ。今日の朝礼でね……むっふっふっふ。お楽しみに」
「気持ち悪い」
かばんで、神田が夢宮の頭を叩く。
「いたー」
「おはよう」
「おはよう、雪。元気そうだな」
「そっちこそ。もしかして休むのかと思ったよ」
神田は一度だけ肩をすくめる。
「痛いじゃないの!」
「痛いように叩いたんだから、当然だろう」
「当然だろう。じゃないわよ。ふん、隆志だって、あと数分で私のことを崇め奉ることになるんだからね」
「はいはい」
そのまま隆志は自分の席に着く。それとほぼ同時にチャイムがなり、タイミングを計っていたかのように、先生が入ってきた。
眼鏡を掛けた女性の教師は、甲斐がこの学園に転入してきた時には、一年の学年主任として学年全体を見ていた。今日が始業式ということもあり、きちんとした身なりをしていて、フレームの厚い眼鏡の奥からは、鋭い眼光が覗いている。
「はい、みなさん、おはようございます」
挨拶の後、彼女は教卓に両手をついて続ける。
「うーん、ざっと見たところ、このクラスにドロップアウトはなさそうね。他のクラスには、夏休みの間に実家に戻って、そのまま居残ったものもいたようだけど。たく、ここは会社じゃないっての。まぁ、ここにいる奴らに言ってもしょうがないことか。うん、みんな揃っているようなので、今日の出欠はさくっと省略。今日は、みんなに一つサプライズがある」
夢宮が振り返り、にひひと口元を緩める。
「今年に入って、二人目の転入生だ」
2
紺色のセーラー服に、リボンは細い。色は学年によって違うらしく、彼女が付けているのは、薄い水色。スカートは長いが、彼女はペチコートのように、スカートを膨らませている。
アップにまとめている髪が、慣れていない分だけ重い。けれど、嫌な重さではない。
篠塚桃花は、教室の前の廊下に立っていた。通常ならありえない早さだが、彼女と、姉の芹沢雅の力をもってすれば、不可能ではない。今朝から動き出し、すでに転入の手続きまで終わらせているのだから。
藤枝百合子がこの学園を去ってしまい、図書棟を管理する先生が不在となっている。だからこそ、朝、篠塚が内側から鍵を開けたとしても、怪しまれることはない。朝の早い時間に彼女は図書棟を抜け出し、芹沢の邸宅へと急いだ。もしかしてまだ寝ているかも、と思ったが、それは杞憂だった。
昨日は、あの屋敷で盛大なイベントが行われていたのだから。
「どうしたのー?」
と、雅にしてはめずらしい、語尾が間延びした声を発して、彼女は出てきた。すでにセーラー服を着ていて、篠塚とはちがい、日本人形のように整った姿をしている。
「まだ片付いていないのか?」
「いいえ。打ち上げですって。あの後で茜お姉さまが中心になって、ずっと騒いでいるんですもの。大学はまだ休みなんですって。いいわね」
「まさか、寝てないのか?」
「ふふふ、そんなことありませんわ。わたくしは先に休ませて頂きましたから。後片付けをお願いしたところなの」
「悪かったな、先に帰ってしまって」
ふふふと雅はもう一度笑ってから続ける。
「それよりも、どうしたの? こんなに早くここに来るなんて、もしかして雪でも降るんじゃないかしら」
「わ、わたしも、学園に通うことはできないか?」
一度顔を伏せてから、篠塚は顔をあげて、雅の瞳をまっすぐ見る。雅は少し驚いた表情を見せてから、口元に手を当てて、ふふふ、と笑う。
「わたくしと同じ組になります? それとも」
「わたしは中学を卒業して、そこで止まっている。だから、い、一年生がいい」
「それじゃあ甲斐くんと同じクラスね。うーん、でも、同じクラスに転入生が入るなんて、不自然じゃないかしら」
「それでも、それがいい」
「分かりましたわ。それじゃあ、一緒に学園に行きましょう。制服も準備しなくちゃ、ですわね」
それがほんの二時間ほど前のことだ。
しばらく待っていると、教室の扉が横に開かれる。一歩入って、教室の中を見渡す。ほとんどの視線が、篠塚に集まり、一気に顔が熱くなる。
「はい、みんな静かにね。ここまで来て」
教卓の近くで、黒いフレームの眼鏡をかけた年配の教師が手招きをするので、そこまでゆっくりと歩く。緊張してしまって、まっすぐ歩けているかどうか不安になる。それでも、なんとかそこまで行くと、前を向き、改めて教室を見渡す。
教室の奥のほうに、甲斐雪人の驚いた表情がある。それを見つけて、ようやく少しだけ落ち着いた。
「彼女は学園長の親戚で、今は彼女の家に住んでいる。休み前までは外国に行っていたそうで、まあ、平たく言えば帰国子女、ということだ。自己紹介、できるか?」
「し、篠塚桃花です」
自分の、やや掠れた声が教室に響く。それと同時に、再び教室が騒がしくなる。いくつもの質問が同時にされて、さすがの篠塚でも対処の仕方が分からない。
「はい、お前らうるさいから、そういうのは放課に行うこと。席は……神田の隣が開けてあるから、そこへ。神田、手を挙げて。はい、あそこだ」
甲斐と少し離れているが、仕方がないことだ。それに神田隆志とは顔見知りである。全く知らない人の隣よりは、ましというものだ。
まだ静かになっていない教室を横切り、篠塚は神田の隣に来る。
「よろしく、ちょっと驚いた」
「うむ」
席に座りながら、篠塚は頷く。
「妹……てか、年下だと思ってた。他にも、会長の親戚?」
篠塚は肩をすくめる。
「神田、うるさい、浮かれるな。それじゃあ、始業式までホームルームを始める」
教師のその言葉と同時に、教室はシーンと静まる。それまでは神田以外も浮かれた雰囲気があったが、まるで失われてしまう。よくできた環境だ。
などと思っていると、隣の神田から二つに折られた紙を受け取る。何だ、と思いそれを開くと、簡単なメモがある。
「シュレーディンガーの猫は鼠を噛むか?」
3
「シュレーディンガーの猫は鼠を噛むか?」
一日目の午後にしてすでに普通に授業があり、その間の放課ごとに質問攻めにあっていたのだが、放課後にはうまく逃げ切ると、篠塚桃花は神田隆志を連れて図書棟の陰に来た。二人だけだと誤解されそうなので、甲斐雪人も一緒だ。すでに二人と面識があることは、昼食時にはばれているから、三人で行動しても怪しまれることはないだろう。
篠塚は、神田に渡されたメモに書かれていた言葉を、そのままオウム返しに質問する。
「そう。じーちゃんが、俺に言ったんだ」
「そんなところだろうとは思ったが。それで、そんなことをお前に言って何になる?」
「だから、伝えてくれって」
「わたしに、か?」
神田は頷く。眉をへの字に曲げたまま、篠塚は甲斐を睨む。
「甲斐よ。シュレーディンガーは覚えておるか?」
「はっきりとね。意地悪な課題のせいで、その本を読まされたんだから」
「シュレーディンガーの猫は?」
「来栖さんのが詳しいと思うな」
甲斐は神田に、来栖都について簡単に説明する。夏休みの合宿で、教える側として一緒になったこの学園の三年生だ。
「猫が鼠を噛むかって、そりゃ噛むだろう?」
「窮鼠猫を噛む、なんてことわざもあるし、噛むのは鼠なんじゃない?」
「他には、何か言っていなかったか? それだけでは条件が足りぬ」
「伝えれば、わかる。それだけしか言われてないんだよね。まぁ、俺にはさっぱりだけど。そもそも、シュレーディンガーって何なのさ?」
「人の名前だよ」
そこで今度は、シュレーディンガーについて甲斐が簡単に神田に説明をする。だが、分かったのか分かっていないのか、神田は首を振るだけだ。
「これは、あの事件に関係があるのか?」
声に出して篠塚がつぶやく。
「まさか。あの事件はもう終わったんだ」
「他に、これを結び付ける前提条件がない。これだけで分かるというのなら、あの事件のことしか考えられぬ。それに、凶器が見つかっていないと聞いたが」
「それも時間の問題だよ」
「本当にそうか? 凶器がまだ見つからないのはひどく不自然じゃないか? 木林にそんな能力があるとは思えない。あれが隠しそうなところであれば、権藤であれば見当がつくだろう」
神田はうーんと喉を鳴らす。
「とにかく、それだけではさっぱり分からないな。甲斐よ、お前はわたしのために来栖に会って、今の話を伝えてくれ」
「どうして彼女に?」
「今自分で言ったじゃないか、彼女のほうが詳しいって。それから神田は、勇治郎と話して、他に伝えることがないか、聞いてみてくれ。わたしは図書棟で調べものをするから、明日の朝、それぞれの話を集約して、神田勇治郎の謎を解こうじゃないか」
悔しいのか、篠塚は唇を噛みながらそう言った。
4
授業も終わっているのだから、もう残っている生徒は少ないだろうかと思ったが、杞憂だった。三年生はこの先に受験を控えていることもあり、補習が行われていたようで、第二学習棟にはまだ多くの生徒が残っている。一年生の甲斐雪人はそこにいるだけで気おくれしてしまうが、とにかく来栖都を探さなければならない。どうしたものか、と思案に暮れていると後ろから声を掛けられる。
「あら、もしかして甲斐くんじゃない?」
驚いて振り返ると、セーラー服に身を包んだ坂崎陽菜が、ショルダーバッグを肩から提げて立っている。すらりとモデルのような等身は変わらず、けれど髪が以前より短くなっている。
「やっぱりそうだ。お嬢様に用事?」
「坂崎さん、こんにちは。今日は来栖さんに用事です。用事ってほどでもないんですけど、ちょっと、やぼよう?」
「それは珍しい。都ちゃんなら一つ上の階ね。たぶんだけど、音楽室にいるんじゃないかしら」
坂崎が二歩近づいてきて、声を小さくする。
「都ちゃん、結構ファンが多いから、びっくりするかも」
耳元でそう言ってから姿勢を戻して彼女は笑う。それから一緒に行こうかと提案してくれたが、甲斐は丁重に断った。おそらく、坂崎にもファンが多い気がする。
甲斐は二階に来ると、音楽室を探す。位置的には体育館側の突き当たり、一番奥にある大きな教室のようだ。近づいていくと、小さくはあるがピアノの音が聞こえてくる。来栖が弾いているのだろうかと思いながら、ノックをして教室に入ると、案の定ピアノの前に彼女が座っていた。ピアノの音でノックは聞こえなかったのだろう、彼女は甲斐の場所からは背中を向けて、ピアノを奏で続けている。
教室は手前側に黒板があり、通常の教室とは違い奥に行くほど高くなっている。まるで講堂のような作りになっており、備え付けの机が整然と並んでいる。ピアノの近くに数名の生徒が座っており、来栖が奏でる音に聞き入っている。また、そのピアノの側に白いブラウスを着た先生らしき人が譜面をときおり触りながら立っている。その女性が甲斐に気が付き、口元に人差し指を当てながら、他の生徒がいる場所に移るようにジェスチャーをする。
音を立てないように歩いているうちに、旋律は佳境を越えたようで、次第にゆっくりと落ち着いてくる。残念ながら甲斐は、それが何の曲か分からなかったが、一人の人間によって奏でられているのが信じられないほどの、音の数に思えた。
やがて、低音が長く響き、最後に高音へ高速で駆け上がりながら、来栖は息をつく。
同時に拍手。
甲斐も一緒に拍手をする。
来栖は立ち上がると、一礼。彼女は合宿の時と同じように、肩を少し越えるほどの髪をソバージュにしていて、太陽のように赤い色をしている。今日はジャージではなく、先ほどの坂崎と同じセーラー服を着ている。
「おう、来栖、お前にファンがまた来たぞ。一年生」
男子生徒の一人が腕を組みながら甲斐を見る。
「うそぅ。わたし一年生にファンになってもらうようなことなんてしてないけど……て、あらやだん、甲斐くんじゃない。ほら、あんたたちも覚えてるでしょ。全校集会で雅お嬢さまに呼ばれたんだから」
「ああ、あー、彼ね」
「ちょっと驚きました」
甲斐が頭をかく。
「夏休みの恒例の合宿で一緒になったから。あ、一緒になったって、邪推しなくていいよ。彼はお手付きだから」
「付いてませんよ」
「で? わたしに? それとも先生?」
「来栖さんです」
「本当にわたしになんだ。うん、いいよ。何? それともここでは話せないような、セクシーな話?」
「セクシーとは程遠い話です。でも、ここでは話せない」
来栖がまっすぐ甲斐の目を見つめる。
「先生、ちょっと準備室借りるね。大丈夫、問題は起こさないから」
「どうぞ。じゃあ次は内藤くん、同じ曲、弾ける?」
別の男子生徒がもちろん、と答える。甲斐は来栖に付いて、隣の音楽準備室に移動した。ピアノの旋律が流れ始める。
「大声ださなきゃ、隣の部屋に聞こえないと思うから。どうしたの?」
「すいません、突然来てしまって」
「あらら、そんなこと気にしなくていいのよ。まぁ、あの合宿は忘れたい記憶ではあるけど。結局、他の生徒にはきちんとした説明がまだされていないようだし。でも、わたしは歓迎するよ。陽菜も喜ぶと思うよ」
「さっき会いました。来栖さんなら音楽室にいるって教えてもらって」
「本当にわたしに会いに来てくれたの? セクシーじゃないけど、結構重大な案件ってこと?」
「もしかしたら、重要かもしれません。が、僕には分かりません」
「またまた謙遜しちゃって。あのときの甲斐くんは、結構格好よかったよ」
「結局、僕は何もしてませんよ」
「それで、それで? 私に何の用なの?」
赤い髪を揺らしながら来栖が甲斐を下から覗きこむ。
「シュレーディンガーの猫」
「?」
「シュレーディンガーの猫は鼠を噛むか?」
「何?」
「だから、これが聞きたいことなんですけど」
「全然意味が分からないんだけど」
「ですよね。僕も意味がわからない。なんだか、僕は不幸体質なようで、実は夏休みの間に、もう一つ別の事件に巻き込まれたんです」
そこで甲斐は神田隆志の実家で起きた事件について順を追って説明する。第一の事件から第二の事件。そして、最後の謎解きまで。
「事件解決してるじゃない。それよりも、気になるところがいくつかあるけど。神田勇治郎て、あの数学者の? だったら意味ありげね」
「その意味が来栖さんなら分からないかなって」
「なんでわたし?」
甲斐は曖昧にごまかす。
「まあいいわ。そうね。じゃぁ、わたしからも甲斐くんに問題を出そう。それが分かったら、わたしもわたしなりの意見を述べるわ」
「問題、ですか」
「クイズね」
来栖の口元が、嬉しそうに緩む。
5
殿様蛙が鳴き声上げて
手毬唄で愛の告白
靴の裏に張り付くガム
息子の息子のシンデレラ
ライ麦畑はユートピア
アイ アイ アイ ラブ イングリッシュ
「 」
会社勤めに残業三昧
「……なんですか、これ?」
「だから、クイズ。即興の割に、なかなかミステリアスじゃない?」
「暗号で、カギカッコに入る文章を当てればいいってこと?」
「そういうこと」
甲斐はもう一度来栖都が出した問題を反芻うする。彼女が即興で出したというように、彼女は文章の変わりで、思案するように腕を組んだり、ポンと手を打ったりしていた。その仕草に関係があるのか聞いたが、それは全く意味が無いという。今、立て続けに文章を読んだとしても、問題に影響はない。
甲斐は持っていたノートに、文章を書き写す。それから改めて文章を睨む。
「それぞれの文章に意味はあるんですか?」
「さあ、どうでしょう。ふふん、最近わたしちょっと国語に凝ってるわけ。まぁ、これは国語には全然関係ないんだけど。受験に必要だからね。さすがに理系科目だけじゃぁ、大学の門が狭まるし、センターもあるしね」
「ピアノも上手なんですね」
「意外?」
甲斐は素直に、はいと答える。目を細めて来栖はにっこりと笑うと、甲斐の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「本当に、うい奴だね、甲斐くんは」
「靴の裏に付くガムがミステリアスですか?」
「あれ最低だよね」
「同意しますけど。息子の息子のシンデデラって、まったく意味が分からない」
「息子のシンデレラでも大丈夫なんだけど、ちょっとしたひっかけかしら」
「それヒントですか?」
「アイラブイングリッシュでも大丈夫」
「会社勤めに残業三昧……」
「一千年の星空綺麗。こんなのを続けてもいいわね」
「どこまで続けられるんですか」
「やろうと思えばどこまででも」
頭を掻きながらノートに書かれた文章を見直す。変換式の暗号だとしたら、後から後から文章を追加していくのは難しいだろう。沓や冠が文章になっている様子もない。あるいは、数文字ごとに文字を拾っていっても意味のある文にならない。来栖は、一行ずつ文を考えていた。だとしたら、前の文章が、次の文章を生み出す役割をしているのだろう……そう考えて文と文のつながりを見る。
「あれ、これってもしかして、めちゃくちゃ単純じゃない?」
「分かっちゃった?」
「シュレーディンガーの猫は鼠を噛むか?」
「正解」
「ただのしりとりじゃん!」
「単語じゃないから、分かりにくいかなって」
「まぁいいや」
「ふふん、今のは小手調べよ、本題はこっち」
殿様蛙が鳴き声上げる
カエルの鳴き声ゲコゲコと
「 」
犯人は昨夜未明ついに自主
いろは歌の流れる言の葉
宇宙の果てなど存在しない
「どうよ?」
「シュレーディンガーの猫は鼠を噛むか。どういう意味だと思いますか?」
「ううう、ひどいなぁ。瞬殺か。わたしなりの感想でいいんだよね」
「お願いします」
「金庫の中に入っていたのは何なのか」
来栖の瞳が真剣になる。
「金庫を開けた時、中からは手紙が一枚出てきただけだった。そして凶器は見つかっていない。だとしたら、銃が最初から入っていなかった可能性を疑わなければならない。それを知っているのは、神田勇治郎だけ。シュレーディンガーは量子力学的な多重世界を揶揄して、この思考実験を提案し、さらに神田勇治郎が、鼠がいたらどうか、と言った。論理的ではないけれど、その可能性を消去してはいけない」
「そうなると、そもそも凶器の出所も問題になる」
「もしも凶器を神田妙が自らの力で手に入れたのだとしたら。神田勇治郎が、彼女をかばうという動機になる。が、事件はそれだけでは終わらなかった。名誉のために、真実を話すことができない。だから、こんな回りくどい暗号をよこした。その甲斐くんの彼女に」
最後の言葉に甲斐は驚いて、来栖を睨む。
「これがわたしの感想。雅お嬢さまや、夢宮って子じゃなかったって確信が持てたわけ。だから、今度わたしにも紹介してね」
「彼女じゃないですよ」
「そういうことにしておいてあげよう」
笑いながら来栖は手をぐぅ、ぱぁと繰り返す。甲斐はとにかくお礼を言ってから、音楽準備室を後にした。
6
翌朝、教室には篠塚桃花、甲斐雪人、神田隆志の三人しか、まだいない。教卓の上に篠塚が腰掛け、その脇に二人が立っている。
「つまり、凶器が最初から存在しなかったかもしれない? その点について、神田はどう思う?」
腕を組んだまま、篠塚は神田を睨む。
「うーん、どうだろう。昨日じーちゃんから、他にヒントがないか聞きに行ったんだけど、その時の話をまとめると、まるで反対の結論になる気がするんだ。シュレーディンガーについて、じーちゃんは、専門じゃないが、と前置きしてから言った。事実は蓋を開けるまで判然しない、だと? そんなはずがない。中がどうなっているか、今この瞬間には確定的だ。だが、それを認識していないというだけで、それが何だというのだ? そんなものは人間のエゴだ。金庫の中は確定的だ、と」
「それは……妙、だな」
篠塚は小さく頷く。篠塚の反応に、神田が一瞬疑問の表情を示す。それに気がついた篠塚が、どうした、と神田に聞いた。
「いや、うん、全然何でもないんだけど。姉ちゃんさ、本名は……ていうか、戸籍上の名前はミョウ、何だんだよ。でも今の妙はたまたまだなって」
「へぇ、そうだったんだ」
「と言っても、ほら、ミョウって奇妙じゃん? 小学生の頃にその名前でバカにされたことがあったらしくて、それからはタエって言ってるんだって。全然関係ないんだけどね」
「それよりも、今は、この意味だな」
「もも、分かったの?」
「あの事件は、ひどく歯切れの悪い結末だった。隆志には悪いがな。わたしが結論を急ぎすぎたのが失敗だったのかもしれんな。だが、あの結論は正しいものだろう。木林が捕まり、彼女も認めた」
ぽんと教卓から飛び降り、篠塚は高い位置にある甲斐の顔を見上げる。
「わたしが勘違いしていたのは、凶器だ。神田妙が自ら命を絶ち、そして、その凶器を用いて、木林が上月松一を撃った。だが、それは神田勇治郎が作ったものではなかった。神田勇治郎は、そもそも銃など用意していなかった。だが、あの金庫に入っていた手紙のあの文言のせいで、わたしが誤った判断をしてしまった。だからこそ、この問題を私に寄越したのだろう」
神田が気色ばむのを甲斐が抑える。
「つまり、神田妙は別の方法で凶器を手に入れていた。そして、その凶器の行方はしれず、か」
そこで篠塚の言葉が止まる。首をゆっくりと振ってから、篠塚が教室の扉のところへ歩いていくと、まるで自動ドアのように、その扉が開いた。
「ちょあーーーーーーーーーーーーー」
仁王立ちの夢宮さやかが立っている。
「あれ、何か忘れてるような」
甲斐が神田を抑えていた手を放して首を捻る。昨日、夢宮が何かを言っていたようなきがするのだが、何だっただろうか。
「ううう、今日こそ、今日こそ、わたしの出番なのよ」
「そうだ。確か昨日、崇め奉ることになるとかならないとか」
「そうよっ。わたしの夏休みの活躍っぷりが、あなた、このちまっこい甲斐くんの妹によって帳消しになったんだから」
「妹じゃぁない」
「そんなことはどうでもいいの。もう先に言ってやるんだから」
篠塚の腕を無理やり引っ張り、神田と甲斐の間に押し込めると、器用に夢宮はワンステップで教卓に飛び乗った。そして、右手を高く突き上げる。
「わたしってば、全国で入賞したんだからっ!」
夢宮の頭に、チョークが綺麗に当たる。軌道をたどると、教室の入口に先生が同じように立っている。
「神聖な教壇を汚すんじゃない!」