――4次元の住人――
あらすじにも書きましたが、「1」のところは飛ばしても問題ありません。お話は「2」のところから始まります。
1
「有り得ない」というのは厳密には正しくない。表現だけを純粋に読み解けば、実に論理的かもしれないが、往々にしてこう表現するとき「有り得るはずがない」という「はずが」の部分が省略されている。
多くの科学者・物理学者が、量子論が登場したときに「有り得ない」と表現した。事実、それは「有り得るはずがない」まさにそんな理論であった。けれど、その理論が多くの事実を含んでおり、多くの現象を予言でき、立証でき、やがて、それは市民権を得るにいたった。「有り得ない」ことが「有り得た」のだ。
私たちは私たちの存在が確率に拠っているなどと、信じることができるだろうか。存在の確率は、ともすれば、恐ろしい想像を許すことになる。すべてが瞬間的にであれ、崩壊の危険性を孕んでいるわけだ。むろん、そのような確率はあまりにも小さく実際に起きることはない。けれど、それは「有り得ない」ことではない。運悪く、可能性として、それが起きてしまうかもしれない。そしてそれは、次の瞬間に起きたとしてもおかしいことではない。
それはエントロピーが平均して増大するということと非常によく似ている。確率が低いことは起きる確率が低い、というごく当然なことを回りくどく表現したに過ぎない。よく冷えた水が、次の瞬間に沸騰することがないのと同じことだ。
だが、この理論を拡大すれば、「有り得ない」ことを「起こす」ことができることに気がつく。例え可能性が低い事象なのだとしても、発生する可能性はゼロではない。次の瞬間、私たちは火星に移住しているかもしれない。あるいは、銀河の外の、はるか彼方を旅しているかもしれない。またあるいは、この宇宙から外の、別の宇宙をさまよっているかもしれない。
そのために乗り越えなければならない技術的な問題は、私たちが知っている技術よりも世代がかなり先にならなければ実現しない。現実的な年を上げるのは難しいが、おそらくは千世代を経たとしても、まだ及ばないほどの技術だろう。にもかかわらず、理論だけでは現時点で考えることができる。
「有り得ない」技術かもしれないが、それは「有り得る」のである。
さて、もう一度話題を量理論に戻そう。20世紀の科学理論において、相対性理論と量子論という二つの理論は、見事なものであった。21世紀には、その二つの理論の統合がなされるであろう。現時点において、二つの理論の隔たりは、その規模といって差支えがないだろう。扱う世界の規模がまるで異なっているのだ。片方は宇宙という極大の、そしてもう片方が量子という極小の世界を扱っている。その狭間の世界では、果たしてどちらの理論に従うのであろうか。あるいは、過去、宇宙が量子ほどの大きさだったとき、どちらの理論とも矛盾しない理論がなければ、事実を思い知ることはできない。
私の研究は、その先にある。
マルチバースを可能とする膜宇宙と、5つの紐が、私を導いてくれる。
2
白いシーツの掛かった、硬いベッドに篠塚桃花は座っていた。少しでも小柄な背丈をごまかすためか、長めの髪をアップにまとめていた。薄い肌色のカーテンがベッドを覆い、四方からの視界を塞いでいる。周りの音も塞いでくれていたら、それに越したことはないが、彼女は本に集中してしまえば、あらゆる音を遮断する能力があった。章の変わり目で、彼女は読んでいた本を横に置いた。読書に疲れたのではない。時間的にそろそろ喧騒が訪れることを知っていたからだ。
純正芹沢学園中等部の保健室。義務教育ということもあり学園を休むことができないことは苦痛ではあったが、その空間を与えられたことに彼女は満足していた。図書棟から好きな本を持ってきて読むことができるし、あるいは、処理しきれない問題をつぶやいたとしても、ほぼ誰にもじゃまされることはない。彼女にとって今足りないのは、対等に話をできる相手だけだといっても過言ではない。高等部に推薦で入ったものであれば、あるいは彼女の話題についていけるかもしれないが、それはあまり得意ではない。周りに気を許していない、というよりはむしろ、人見知りが激しく慣れないものと話をすることが極端に苦手だった。
「お昼持ってきたよー」
聞きなれた鼻に掛かる声が聞こえ、ゆっくりとカーテンが開けられる。白衣が義務なのか分からないが、律儀に彼女はいつもそれを着ている。宮古菜月、中等部に通う保険医である。
「今日はね、桃ちゃんの大好きなシチューだよ」
「好きだ何て、いつか私が言ったかね」
「はいはい、ご本どかしてね」
篠塚の反応をまるで無視するようにてきぱきと準備を進めると、彼女は小さなテーブルをベッドの上に載せ、さらにはふぅふぅとシチューに息を吹きかけている。篠塚も慣れたもので、抵抗しても無駄だと理解したこともあるが、テーブルに載せられたスプーンを持つ。
「はいはい、熱いからやけどしないようにしてね」
ウインクをしながら彼女は続ける。
「それとも食べさせてあげようか、あーんって」
「そういうのは愛する旦那にしてやればいい」
「ひどい。そんな人いないもの」
篠塚も宮古の反応を無視するように、ランチに手を伸ばした。無視されているにも関わらず、宮古はニコニコとしながらテーブルに両肘をついて篠塚を見ている。それも慣れたという様子で、篠塚は食事を続ける。
あらかた食べ終わったところで、宮古が思い出したように話し出した。
「そうそう、この間の話、全然間違ってたよ。桃ちゃんでも間違うことってあるのね」
「この間の話って、どれのことだ?」
「自殺なのか他殺なのかって話」
「他殺だっただろ?」
「それはまだ分からないわ。でも、他殺の可能性として桃ちゃんが言った仮説をね、私が説明したの。そしたら、誰も信じてくれないわけ」
「お前が説明したからだろう。さぞかし支離滅裂な説明だったのだろうな」
「そんなことない。私はきっちり桃ちゃんが説明した通りに説明したんだもの」
「それは理解していないものが陥りやすいことだ。自分の言葉で説明ができないのであれば、相手に伝えることなんてできない」
「ううう、ひどいわ。それで、私ってばもう、この捜査から降ろされるかもってところまで来てるの」
「お前が捜査の一端に加わっていることのほうが驚きだ」
「ふふんだ。こう見えても私は世間的には優秀なのだ」
「どう見られているか分かっているのか」
「お馬鹿な子」
「証明終了」
「何の証明が終わったのよ」
「つまり、お前の説明に何の説得力もないということだ」
「ううう。それよりも、もう一度説明して。どうやったらあの状況で他殺の可能性があるの? あの密室には誰も入ることができない」
「密室ではない」
「確かに、窓は開いていたわ。だけど、窓は窓。あそこから出入りしようとしたら、被害者と同じ運命を辿るだけ」
「それに、もしあそこから出入りしたのだとしたら、何らかの物的証拠が残らざるを得ない。例えどのように細工をしたとしても、微小な傷を隠すことは出来ない」
篠塚は宮古の目を見ながら続ける。
「でもそんなものはなかった」
「ええ、なかった」
「では、そこも閉まっていると考えたとしても、密室ではない」
「ドアも、空調とか、排水溝とか、そういうものも全部調べた。全部鍵が掛かっていた」
「それは三次元で見たときに限る」
篠塚は、ストローで牛乳を飲みながら、静かに言い放つ。
3
事件のあらましはこうだ。
被害者の名前は石持憲二。彼が発見されたのは、彼が暮らすマンションの駐車場でのことだ。第一発見者である佐橋将治は、初め、ただ寝ているだけかと思った、と証言している。近所の一軒家に住む佐橋は、犬の散歩の日課で、早朝も6時に、その場所をいつも通っている。駐車場で酔っ払い、そのまま寝てしまったんだろうと、近寄ってみると、どうもおかしい。
黒い染みがあたりに飛び散り、身体が有り得ない形に曲がっていることに気がついた。すぐに携帯から警察に電話をし、彼はその場を一歩も動かなかった。動けなかったといのが正直なところで、腰を抜かし、警察が駆けつけたときには半ば自失していた。
黒い染みはすぐに血であることが判明し、石持が倒れていた場所はちょうど、彼のマンションの部屋の真下だった。下から見ても分かることだが、彼の部屋は8階で、その窓は開きカーテンが揺れていた。
すぐさま警察は彼の部屋を調べた。
マンションの管理人から鍵を借り、彼の部屋に入った。男性の一人暮らしにしては、ひどく片付いた部屋であり、遺書と思われる文章がすぐに見つかった。
窓に程近い場所に置かれたデスクに、A4の紙が乱雑に置かれていた。白紙のものもあれば、パソコンで打たれた文章もあったのだが、その中に彼の筆跡で以下のように書かれたものがあった。
世の中に、何の価値があるだろう。
時間は失われ、世界は私をあざ笑うだろう。
現世はくだらない。それならば、捨ててしまえばいい。
脳のないものには理解できまい。
充分に頭のよいものであれば、あるいは……
忍ぶことにもはや、疲れ、果てた。
石持憲二
くだらない詩であるが、それが明らかに彼直筆のものであることから、この世を儚んで彼が自殺したのだろうと警察は判断した。
石持憲二は自殺した。それで、事件は終わるはずであった。だが、その結論に納得できないものがいた。それは、彼に多額の保険金がかけられていたせいもある。その保険金は憲二の妻石持紗江に支払われることになっていたのだが、彼女には返さなければならない借金があった。
あるいは、会社の同僚、上司から見て、彼の仕事ぶりは至極まじめであり、世を儚んでいるようには思えなかった、という証言もある。つまり、自殺が偽装の可能性も出てきた。
そのために乗り越えなければならない山がある。
まずは石持憲二の部屋の鍵が閉まっていたことだ。もしも他殺であり、「誰か」がその部屋に忍び込んで無理やり窓から突き落としたのだとしたら、その「誰か」は鍵を閉めたまま部屋を出なければならない。
開いていた窓から脱出する手段はある。だが、安全ではない。機械的な装置を準備しておいたのだとしても、そのような痕跡は残されていない。あるいは、「鍵が閉まっていた」というのが誤りだったかもしれない。が、それは当日そこに入った警察によって否定されている。「確かに部屋は閉まっていた」と彼らが証言している。「合鍵」の可能性も取り立たされた。石持紗江であれば「合鍵」を持っていたとしてもおかしくはない。けれど、彼女は「合鍵」なんてないと言っている。事実マンションの管理人、あるいは近くの住民は過去紗江を見たことなどないと言っており、また、「合鍵」も見つかっていない。同僚の証言からも、石持憲二がどうやら「合鍵」を作っていなかったことは真実らしい。
そして、本物の鍵は部屋から見つかっていた。
窓の近くにあるデスクの上、遺書の近くにそれは置かれていた。警察以外誰も事件の後にその部屋に入っていないことから、鍵がずっとそこにあったのは確かなようだ。
そして、結論はやはり自殺、ということなのだ。
4
篠塚桃花はアップにした髪を揺らしながら、空になった牛乳のカップをテーブルに置いた。
「このストローがなかったとしたら、お前ならどうやってこの牛乳を飲む?」
「えええ、なになに、どうしたの突然?」
「もちろん、この膜も閉じた状態。はさみのようなものも何もないとして、だ」
「そんなの無理だよう」
「そう、3次元で考えると不可能だ」
「桃ちゃん意地悪しないで、分かりやすく教えて?」
「次元を落として考えれば分かる。例えば、紙に円を描いたとしよう。そして、円の中にヒヨコの絵を描く」
まるで指揮をしているかのように、篠塚の手が動く。それを宮古菜月は目で追いながら、首を捻る。
「さて、このヒヨコを円の外に逃がしてやることがお前にはできるか?」
「えーっと」
腕を組みながら、時折こめかみに指を当て、眉を寄せる。しばらくその状態が続いたので、助け舟を出すように篠塚は言った。
「お前に与えられたのは、鉛筆と消しゴムだ。ただし、円はボールペンで描かれている」
「それなら、ヒヨコを消して外にまたヒヨコの絵を描けばいいのね」
嬉しそうに両手を組むと、宮古はニコニコと笑った。
「同じことだ。牛乳の中身をお前の口の中に移動させてやればいい」
「えええー、どうやって?」
「お馬鹿な子」
「ううう」
「4次元の住人からすれば、3次元で四方が埋まっていたのだとしても逃げ道があることを知っている。つまり、私たちから見て密室に見えたのだとしても、それは4次元的な視点さえ持っていれば、苦もなくそこを抜け出すことができるのだよ」
もう一度、篠塚の指が空を動く。
「それじゃあ、犯人が、その4次元にえいやって飛び出して、あの部屋から抜け出したってこと?」
「お前がそう説明していれば、もしかしたら相手にされたかもしれないが、お前は何と説明したのだ」
「私たちが気づかないだけで、抜け出せる道があるって」
「そんな道あるわけないだろう。古典的なミステリーでもご法度だ」
ぶぅと宮古は口を鳴らした。
「四次元の住人に意味があるとすれば、それはすでに気がついているものだけに、だ。さもなければ、そんな絵空事に耳を貸す馬鹿はいない」
「もうもう、全然意味が分からないわ」
「私たちに余剰次元を感じ取る能力はない。それがあまりにも小さく、そしてあまりにも小さく包め上げられているからなのだよ。けれど、実験によって、その存在が確かめられる日も遠くないだろう」
「もう、そんなことになったら、世の中の密室すべてがぱぁだわ」
「だから、あまりにも小さすぎると言っているだろう。現実に影響を及ぼすことなどできやしないよ。それは量子の世界での確率が、あまりにも均一すぎて、何が起きてもおかしくなくなるほどに、有り得ないこと」
「もう、じゃあ、やっぱり自殺なの?」
「やっぱりというのは、誰の意思だ?」
「だって、他殺じゃないんでしょ?」
「少なくとも私は他殺の可能性をまだ否定しない」
「だけど密室もあるし、遺書も見つかっている」
「あれは遺書ではない」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「むしろ、あれが遺書だと思った理由のほうが分からない」
篠塚に言われて、宮古は改めてその遺書と思わしき文章を思い出す。「世の中に、何の価値があるだろう。時間は失われ、世界は私をあざ笑うだろう。現世はくだらない。それならば、捨ててしまえばいい。脳のないものには理解できまい。充分に頭のよいものであれば、あるいは……忍ぶことにもはや、疲れ、果てた。石持憲二」確かに改めて読んでみると、遺書ではないようにも思える。では、何なのだろうか、と言われても分からない。石持憲二に詩を詠むしゃれた趣味があったという話は聞かない。もちろん、そんな調査をしていないせいもあるかもしれない。元々詩が好きで詠んでいただけかもしれない、そんななかのただの一節……
「さて、これで問題の一つは解決した。残りは密室だけなのだが、その前に一つ確認しておきたいことがある」
振っていた指を自らの唇にあてがうと、篠塚はまっすぐ宮古を見て続ける。
「容疑者はもう絞られているのか?」
5
石持紗江、ただ一人に容疑者はすでに絞られている。彼女に当日のアリバイはない。本人は実家にいたと言っているが、それを裏付けることはできなかった。いつものことだが、両親は早くに眠っていたし、他に誰も彼女の存在を証明することはできない。実家から石持のマンションまでは車で2時間ほど。
往復で、間で殺人があったとしても、充分に両親が起きるまでに帰ってくることができる。
さらに石持紗江には充分すぎる動機がある。抱えた借金を、保険金を受け取ることで、すっかり返すことが出来る。あとは、自殺だと認められれば、保険金を手に入れることが出来る。
「彼女を捕まえて拷問にかければ、すぐに白状するだろう」
「そんなこと出来ないわ」
「歴史を見れば、拷問は長い間正当に行われてきた事実」
「でもでも、国際法で禁止されているわ」
「石持紗江が、マンションに来たという証拠はないの?」
残念ながら証拠は見つかっていない。目撃情報でもあればいいが、事件は深夜に起きた。周りにも同じようなマンションが立ち並ぶとはいえ、そんな事態を目撃してしまう人は不幸としかいいようがない。もちろん、マンションの石持憲二の部屋には彼女の指紋が残されていたが、そんなものに証拠能力はない。むしろ、彼女の指紋が一切なかったとしたら、疑惑が増したかもしれない。
「もう、だから手詰まりなのよ、桃ちゃん、どうしたらいいと思う?」
「そうね。必要なことはもうすべて提示されている。あとはそれを組み立てればいいだけ。でも、まだいくらか疑問が残るから、分かっているなら答えて。分からないなら調べてきて」
言いながら篠塚桃花は指を揺らす。
「まず、最初の目撃情報から。そのとき、石持の部屋の窓が開いていたって言ったけど、それって本当に彼の部屋だった? そして、その証言を、自信を持って言える?」
宮古菜月は首を捻る。
「遺書を見て、私と同じ解釈をした人はいる?」
これも宮古には分からない。
「屋上は調べた?」
「分かりません」
「そう。それなら、それを調べるのが先ね。そして、二つ目の質問に対して誰かが私と同じ解釈をしたなら、その人はきっともう答えを得ている。お前が何をしても、結果は変わらないわ」
そう言い放つと、篠塚は脇に置いた本を再び開いた。宮古は何かを言おうと試みるが、言葉にはならない。仕方なく、テーブルを片付けると、今度はほとんど音を立てることなくカーテンを動かし、部屋から出ていく。
喧騒は去った。
ペラと、彼女がページをめくる音だけが続いている。
読み始めてしまえば音は気にならない、静かな、篠塚桃花だけの世界。
彼女はこのときがたまらなく好きだった。
6
柔らかなクラシック音楽が、室内に備え付けのスピーカーから流れる。遮断していた音から開放され篠塚桃花は、再び本を横に置いた。あと1日もすれば、この本も読み終わるだろう。明日には図書棟へ足を運ばなければならない。
「おじゃましまーす」
ノックと同時にドアが開けられる音がし、そのままその足音は桃花がいるベッドのカーテンも開け放った。
「迎えに来たよー」
「菫お姉ちゃん、迎えなんていらないって、何度言えば分かるの?」
宮古菜月の時と同じように、芹沢菫も篠塚を無視するように、彼女に手を差し伸べた。芹沢菫は、今年この高等部を卒業し、今は県内の大学に通っている。その帰りに、必ず彼女は純正芹沢学園の中等部に寄り、篠塚を迎えに来ていた。
篠塚は菫の手を取ると、本もそのまま置いて立ち上がった。菫の胸ほどしかない身長の彼女は、見上げるように菫を見る。
「さあ、帰るわよ。今日は何か面白いことあった?」
「別に何も。菫お姉ちゃんは?」
「すごいことがあったわ。もう、こんなの高校生活じゃ味わえない……違うわね、この学園じゃ味わえない……これも違うわ」
「芹沢の姓じゃ味わえない?」
「そうそう、まさにそんな感じ。お父様に知られたら、私、殺されてしまうかもってほどのできごとがあったわ」
「まさか、お父様がそんなことをするとは思わないけど」
「分からないわよー、娘の貞操が危ないとなったら、どうかしら?」
その言葉に、篠塚の頬がぼっと赤くなる。
「あらら、桃ちゃんには早すぎたかしら。でもね、もちろん断ったわよ。顔がちょっと趣味とね、違ったわけ」
なぜか耳元に囁くように菫は言った。そのまま、二人は手を繋いだまま保険室を出る。やや時間が遅いためか、校舎に他の人影はない。職員室とは棟が違うし、残っている学生といえば、放送部か、生徒会くらいだろう。多くの運動部は、先ほどのクラシック音楽が流れるころには終了となり、帰っていく。もちろん、宿舎を利用している人もいるが、そのような人であれ、中等部の敷地に残っている人は少ない。
校舎を離れようとしているとき、後ろから二人は呼び止められた。
「桃ちゃーん、ひどいよぅ、まだ話の途中じゃないぃ」
息を切らせながら、宮古が走ってきた。菫はこんばんは、と挨拶をし頭を下げた。宮古も同じように、けれどもっと深く頭を下げる。
「話、途中だったか?」
「と、途中じゃないけど、途中な感じだったじゃない」
「だけど下校時間だ」
「そうだけどそうだけど、もう、意地悪言わないで。桃ちゃんがお願いしたんでしょ、調べて来てって」
「お願いというほどのものでもなかったともうが」
「とにかく! 私にはさっぱりなの。だって、石持紗江が逮捕されてたんだもん。私を無能って言ったはずなのに、ほら、結論はやっぱり他殺だったの。だけど私だけのけもの。ねえ、結局どうやったの?」
「桃ちゃん、まだあなた手伝ってるの?」
「別に手伝っているわけじゃない。このお馬鹿さんが、なぞなぞを出してくれるから、それを考えているだけだ」
「現実の謎じゃない」
「暇つぶしにはなる」
「だからだから、どうやったの?」
「私に聞くより、警察に聞いたほうが早いと思うけど。それならまず調べた結果を教えてもらえる?」
「4次元の住人について話していた人がいた。その人が、逮捕に踏み切ったって」
「それから?」
「窓が開いていたのが、確実に石持憲二の部屋なのか分からない。けど、部屋に入ったとき、確かに窓は開いていた。屋上は、立ち入り禁止になってた」
「何階建てのマンション?」
「9階」
「立ち入り禁止は、元から? それとも警察が?」
「警察が」
篠塚は握られていた手とは反対の手を動かし、さっと空中を振る。
「鍵が見つかったのは、窓際のデスクの上。それなら、外から鍵を投げ入れたのかもしれない。もっと言えば、屋上が立ち入り禁止になっていたのなら、部屋からじゃなく、屋上から突き落としたのね。それだけ。複雑な要素はなにも残されていない」
「えええっ?」
空中にさっと描かれた指は英語の文字だ。三文字、QEDと描かれる。
「証明終了」
「四次元の住人は?」
「遺書が偽者だという証拠」
「分かんなーい」
まるで子どものような無邪気な声を宮古はあげる。ため息をつきながら、篠塚は説明を続ける。
7
世の中に、何の価値があるだろう。
時間は失われ、世界は私をあざ笑うだろう。
現世はくだらない。それならば、捨ててしまえばいい。
脳のないものには理解できまい。
充分に頭のよいものであれば、あるいは……
忍ぶことにもはや、疲れ、果てた。
石持憲二
「これが遺書だなんて、お粗末すぎる。あまりにも意味がないと思わない?」
「詩なんだから、ちょっと高尚でいいんじゃない?」
「そういうレベルにも達していないのよ。ほら、紙とペンあるかしら」
その詩を篠塚桃花は、宮古菜月がさっと取り出した手帳に書いてみせる。それを隣から芹沢菫が盗み見る。
「えー、何これ、言葉遊びじゃない」
「そういうこと」
「えええ? どういうこと? どういうことなの、菫ちゃん」
「ほら、頭の文字を順番に読んでいけばいいのよ」
世、時、現、脳、充、忍……
「四次元の、住人?」
「ほら、お馬鹿な子、あなたもそう読んだ。私はすぐに気がついた。菫お姉ちゃんもすぐに気がついた。警察の中にも、すぐ気がついた人がいる。これは遺書じゃない。ただの言葉遊びなのよ。それに気がつかずに、遺書に選んだ人がいる。多分、それが証拠になる」
「私、全然気がつかなかった」
「宮古、あなたのそういう素直なところが、私は好きよ」
「桃ちゃん。それ慰めてくれてるの?」
「それじゃあ宮古、また明日ね」
菫と一緒に軽く頭を下げると、中等部の敷地から二人は並んで出て行った。宮古はそれを、手を振って見送る。
宮古は手を振りながら、舌を出す。きっと、彼女が舌を出したことに、篠塚は気がつかない。あるいは、気がついたとしても、どうして舌を出したのか、分からないだろう。
まだ、篠塚桃花が中学の2年の頃の話。
まだ、高等部に甲斐雪人が来る前の話。
最後まで読んでいただきありがとうございます。外で亡くなってるので、そもそも全く密室じゃないわけですが。ミステリというよりも、「4次元の住民」の言葉遊びでした。怒らないでね。