連理十五歳
『連理』……①一本の木の枝が他の木の枝につき、一本の木のように木理が同じになること。
②夫婦・男女の仲がきわめて親密なことのたとえ。
分厚い国語辞典を閉じ、小林連理はため息をついた。
机の上に広げた市販の原稿用紙がくしゃりと音をたてる。
ここ一、二年は通い詰めた二階建ての市立図書館。日曜日のせいか様々な年齢層の人達が利用していて、静かにしましょうと貼られた注意書きを無視するかのようにざわざわと話し声が聞こえる。
ーーー今日は集中ができないな。
本や新聞のページをめくる音。こほこほとセキをする音。時期的に花粉症と思われる鼻水をすする音。
連理の集中力は他人の奏でるささやかな騒音にかき消されてしまう。
またため息をつく。
黒一色のシンプルなトートバックにそれまで広げていた原稿用紙と筆記用具をしまう。国語辞典は帰りがてらに書棚に返却した。階段を下りながら自分の頭の中で立てていた予定を修正する。
ーーー家に帰ってやるか。
後は自宅の冷蔵庫の中身を思い出し、足りない食材を買い足すことも考える。
所持金内で買える物を思い浮かべながら、連理は自宅近くのスーパーへと足を向けた。
小林家は父一人、子一人の父子家庭である。
連理が小学三年生の冬、母恵理が病気で他界。それ以来、父翔平は再婚することなく男手一つで連理を育てている、と言いたいところだが実際は連理に育てられていると言ってもいいだろう。
翔平はこと家事に関しては何もできない典型的なダメ人間だった。家事を担当するのは息子である連理だ。四月で高校一年生になるというのに、一般主婦に匹敵する実力を身につけた。嫁のもらい手があればすぐにでも嫁げるだろう。
スーパーに着き、カゴを手に取り、野菜コーナーから右回りにいつものコースを歩く。エコバックは小さく折り畳む物を愛用しているため、いつでも気軽に買い出しができる。
ついでに本日の夕飯メニューを組み立てる。総菜コーナー近辺でおすすめ献立を展示しているのでそれも参考にさせてもらう。
基本的に和食が好きな連理は食材は国産を選ぶ。外国産に比べれば割高だが、国産は誰々が生産していますという産地の表示がされているから安心感が違うのだ。
献立も決まり、足りない食材も買い足し、少々重くなった荷物を下げ、スーパーを出て自宅へ帰宅する。
五階建てマンションの最上階の角部屋が小林家である。
ちょうど自宅の玄関扉が見え、ほっと一息をついたら小林家の隣の部屋の扉が開いた。
「連理くん。こんにちは」
「都さん、こんにちは」
彼女の名前は鈴木都。女子大生。いわゆるお隣さんで一人暮らしをしている。
「これからお出かけですか?」
「うん。ちょっと調べたいことがあるから図書館にね」
ーーーもう少し我慢していれば良かったか。
連理は内心で舌打ちをする。図書館を早々に引き上げて後悔した。
「気をつけて」
「ありがとう」
笑顔で返事をしてくれた都にこちらも笑顔になってしまう。
ーーー今、会えたからいいか。
連理にとって都は初恋の人である。
一年前、隣に引っ越して来てから。引っ越しの挨拶のときの笑顔に心臓が激しく高鳴った。一目惚れというものを初めて体験してしまった。だが、連理にはご近所付き合い以上のことはできていなかった。
中学生になる連理と大学生の都。年の差の問題ももちろんあるのだが、それ以上に彼女は。
父、翔平が好きなのだ。
その理由は翔平の職業にあった。
妻の名前をペンネームとして『小説家 小林恵理』というご大層な肩書きを持つ父親。都は彼の作品のファンだったのだ。
これから宜しくお願いしますと挨拶を受けていたとき、翔平の担当編集者である村上博志の突撃訪問があって、宣伝とばかりに新刊と共に翔平の職業をバラされたのだ。
小林恵理としては顔出ししておらず、サイン会も過去一、二回程度しか行ってこなかったので恵理イコール翔平という認知度は低い。そのため、翔平があこがれの作家だと分かると都は本人のルックスも好みであったのか、あっという間に恋に落ちた。
表情が変わった都を見て、連理の脳裏には失恋の二文字が浮かぶ。
ーーー翔平なんてただのヘタレなのに。どこがいいんだか。
翔平は今でも妻の恵理を忘れられず、再婚はしないと公言している。だから、都の恋も叶うかどうかは分からない。
連理はまだ望みを持ってせっせと好感度を上げる日々を送っている。
同時に早く大人になりたいと願う日々でもあった。
気を取り直し、玄関を開けると編集者村上の革靴を見つける。締め切りはまだ先なのに、何の用事だろうか。
「先生~、話の続きできました~?」
村上の間延びした声はなんだかイラっとくる。
「すみません、村上さん。まだ考えつかなくて。今、連君に練ってもらっているんですよ」
翔平の男性にしてはやや高めな声も聞こえてきた。
書斎の方で村上と話し合っているようだ。
連理はとりあえず買ってきた物を冷蔵庫にしまって、お茶の用意を手早く済ませる。
翔平が村上にお茶を出すなど、天地がひっくり返ってもありえないことだから。
「ーーーただいま。村上さんいらっしゃい」
書斎の扉は開いていたので(ちゃんと閉めろ、翔平!)顔をのぞかせながら連理は二人に声をかけた。
「おかえりー、連君」
「おかえりなさい。連理君。お邪魔しています」
無駄に男前な二人の満面の笑顔で迎えられた。女性だったら惚れてしまうレベルである。
「いつも言っているけど、村上さんの訪問は突然すぎます。お茶請け、翔平が隠してたロールケーキしかないですよ」
「おおっ、ありがとうございます」
「連君、ひどいよ!今日の夜食にってとっておいたのに」
男前二人は大の甘党で甘味が欠かせない。ちなみに連理はやや苦手だ。結構な頻度でお菓子を手作りするけれど、全て翔平か村上か都のお腹の中に消えてしまう。
「連理君のお菓子は絶品ですからね。これを食べたくて訪問しちゃうんですよ」
村上はロールケーキをもらってさらに笑顔になる。翔平の方はというと涙目だ。
「翔平、また作るから我慢して」
「絶対だよ!」
食べ物の恨みは恐ろしい。翔平はジト目で村上が食べているロールケーキを見つめていた。
「ーーーところで、続きの構想、連理君が練っているって聞きましたけど。進捗はどうですか?」
村上が笑顔のまま連理に仕事の話を振る。
「ある程度はできましたけど、一番盛り上がりたいところはまだ思いつかなくて」
「ほうほう。ちょっと見せてもらっていいですか」
「じゃあ、原稿持ってきます」
連理は自分の部屋へ行き、黒のトートバックから原稿用紙を取り出した。
図書館で広げていたものだ。何も書かれていない枚数の方が多い。それを持って書斎へ戻る。
「ふーん」
ペラペラと村上が用紙をめくる。翔平も村上の肩越しに原稿用紙を見ていた。
「おお、いい感じじゃないですか。先生にはできたところまで執筆してもらいましょう」
連理はほっとした。せっかく図書館に行ったのに集中できずに話を練れなかったのだ。できたところまでという区切りに安心する。その後は三人でぐだぐだと過ごした。
『小説家 小林恵理』。文章自体はちゃんと翔平が執筆するのだが、その大元であるアイディアーーー原案を作成するのは連理の役目であった。二人で小説を書いているのである。原案といっても詳細に書くこともなく大体の流れを作るだけだが。
もともと、翔平は普通のサラリーマンであった。しかし、妻の恵理が亡くなってからはショックで体調を崩し、仕事も辞めてしまい書斎に引きこもったのである。
翔平と恵理は大恋愛の末の結婚であった。それこそドラマができそうなほど様々な障害があったらしい。だが、恵理との幸せな結婚生活は長くは続かなかった。悲しくて悲しくて空っぽになって毎日泣いてばかりいた翔平。一人息子の存在など忘れてしまうくらいに、恵理を失った喪失感に打ちのめされていたのだ。
翔平が泣いて暮らしている傍ら、生命の危機を敏感に感じ取った連理は家事を覚え、自分から何も動こうとしない父親の世話をした。
だが、いつまでたってもめそめそしている父の姿に、ある時連理はブチ切れ、翔平を殴り倒した。
「いい年こいて、いつまでも泣いてんじゃねぇよ!!この馬鹿やろうっ!!」
殴られた頬を押さえて、翔平は恵理を亡くしてから初めて連理をまともに見た。記憶よりも少々大きくなった連理の姿をようやくまともに見たのである。
連理は泣いていた。全力で殴ったため、肩で息をしながら泣いていた。
「母さんは亡くなったけど、僕がそばにいるじゃないかっ!!」
いい加減にしろと泣きながら怒鳴る連理。
翔平は愕然とした。置いていかれたのはーーー、遺されたのは連理も同じだったということにーーー気づいたのだ。
「……ごめん」
ポツリと言葉が滑り出す。
「ごめん……ごめん…ごめんねぇ」
謝罪の言葉を何度も何度も吐きながら、震える連理の体を強く抱きしめた。
「……連君……君もつらかったのにごめんねぇ……!」
遺された父と息子はお互いの体を強く抱きしめ合いながら一晩中泣き続けた。
「馬鹿翔平……」
「ごめん……」
泣いたためにかすれた声。まぶたも連理に殴られた頬も赤く腫れている。間抜けな顔になっていた。
「連君、俺、これからちゃんと父親するから許して……」
「イヤだ。お前のことなんかもう父さんなんて呼んでやらねーよ。呼び捨てで十分だ」
「連君、いつの間に言葉使い悪くなってるの!?」
息子はもっと可愛かったはずだ。
「翔平が僕を放っておくからだ。親として敬う必要がどこにある?」
ーーーうっ!心臓に刃物が突き刺さったみたいに痛いよ!!
息子の正論に言葉が出ない。いくら自分が悲しいからって翔平がしたことは立派な育児放棄だろう。もう何度言ったか分からない謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい」
「それよりも、これからのことだ」
泣き顔を連理に向ける。
「これからのこと?」
「誰かさんは体調を崩して仕事を辞めた。再就職はどうするつもりだ?」
「ううっ」
「ひとつ提案がある」
「えっ?」
「翔平と母さんをモデルにして小説を書かないか?」
「小説を?」
ニヤリと笑った連理はどこからともなく雑誌を取り出し、翔平に見せた。そこには『恋愛小説新人大賞募集!最優秀者には賞金三百万円』と書かれてあった。本当に賞を取れるか分からないし、募集と審査期間があって結果が分かるまでは長い。すぐにお金を稼げる訳ではないが、その辺の生活費は貯蓄で何とかなるだろう。
「翔平と母さんの恋愛体験談をそのまま書けばいいんだよ」
「……そのまま?」
「ドラマが一本できるくらいなんだろ?小説の題材としては十分じゃないか」
連理に手を引かれ、パソコンがある机の前に座らされた。
「母さんとの思い出は悲しいだけじゃない、楽しいことだってたくさんあっただろう?思いの丈を書いてみれば悲しみもまぎれるかもしれない。ーーー僕は朝ご飯を作っておくから、書け」
ぽんぽんと翔平の肩を叩いて、連理は書斎を出て行った。
ーーー俺よりも大人だなあ……。
どれだけ連理のことを放っておいたのだろうか。勝手に成長している姿を見て己の不甲斐なさに落ち込む。
翔平はしばらく触っていないために積もっていた埃を払いつつ、パソコンを起動させる。
愛しい、自分の半身である恵理の姿を思い浮かべる。
指がキーボードの上を滑り出す。
あなたは、ひだまりのようなひとでした。
たった一文を書き。ポタリと涙が一粒零れ落ちキーボードを濡らす。あれだけ泣いたのにまた涙は出てくる。連理が声をかけてくるまで、翔平は泣きながら文章を書き綴った。
一心不乱に書き上げた小説、『雪に溶ける』を読んで連理は顔をしかめながら言った。
「母さんから散々惚気られたけど、この話が本当だと思うと正直うんざりする」
「う、うん……」
「あと、本名で書いてどうする!馬鹿か?登場人物の名前は全部変更だ」
「ええっ!」
ーーー実の息子が容赦ない。
「僕の好きな作家は江戸川乱歩だから。翔もそれくらい書けるようになれ」
ーーー有名な推理作家と比べないでっ。俺が書くのは恋愛小説じゃないか。
「ほら、おやつ作ったから食べて頑張れ」
ーーー息子がアメとムチを使い分けているっ。
連理に文章を指摘され、試行錯誤をしながら、小説を書き終えて恋愛小説新人大賞に応募した。結果は見事最優秀賞に輝いたのだった。
当然最優秀賞の特典として書籍化されたのだが、売れに売れ当初の発行部数を大幅に上回った。さらにとんとん拍子で映像化が決定し、映画化された。人気俳優を起用したためかこちらも大ヒットを記録した。
ビギナーズラックが恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは。
「これで当分生活に困らないな」
満足そうに笑っている連理だった。
処女作が大当たりをしたので、次回作を期待されるのは当たり前。次回作をどうしようかとなったときに連理が提案したのが、原案と構成を連理が考えるということであった。
アイディアをなかなか思いつくことができない翔平はこれを喜び、『小林恵理』は二人体制で執筆する作家となったのだった。
村上は締め切りをもう一度確認し、帰って行った。これから夕飯の準備だから一緒にどうかと誘ったのだが。
「すみません~。別の作家さんのところにも行かなくちゃならないんでお暇します。すっごく残念なんですけど!!」
連理の料理ファンの村上はそれはそれは悔しそうだった。
気を取り直して夕飯を作っていると、来客を告げるチャイムがなった。
「はーい」
連理は手が放せないので、翔平に視線を送る。息子に顎でこき使われる父親はトホホな表情を浮かべ、ドアを開けた。
「こんばんは。お義兄さん」
「ーーー理香さん、いらっしゃい」
目の前で笑顔を見せるのは恵理の妹、藤川理香だった。翔平の義理の妹であり、連理の叔母である。翔平が腑抜けになっている間は連理の面倒をみてくれ、家事のやり方を伝授してくれた女性だ。翔平にとっては連理の次に逆らえない人で、連理にとっては家事の師匠にあたる。
理香は久しぶりに会いたかったからと言い、キッチンにいる連理のところまでやって来た。
「久しぶり、理香さん」
「本当にもう、半年ぶりくらいかなあ?イケメンに育ってくれてお姉さんは嬉しいっ」
理香は会う度に必ずと言っていいほど連理を抱きしめてくる。連理は気恥ずかしさもあって逃げたくなるのだが、今回は半年ぶりの再会なので大人しく抱きしめられることにした。ただ、巨乳の理香に抱きしめられると圧迫感がありすぎるのがより恥ずかしい。当たっているから止めてくれと言いそうになる。ちなみに本気で嫌がると涙目で「私をショタにした連ちゃんが悪いんだから」と言って余計きつく抱きしめるのだ。
「理香さん苦しい」
「ごめんごめん。嬉しくって」
はにかみながら謝る理香は可愛い。とても明るい女性で連理は昔からこの叔母が好きだった。今はもううろ覚えになってしまっている母の面影を思い出せてくれる女性でもあったからだろう。会うのは半年ぶりだが、しょっちゅう連絡しては色々相談にのってもらっていた。それには恋愛相談も含まれる。
今も謝った後の顔はすぐニヤニヤに変わった。
「ーーーで?例の彼女とはどうなったの?」
「何も。近所付き合いだけ」
抱きしめられながら耳元で近況を聞かれ、苦笑いしかできない。本当に、都との関係は何も進展していなかったのだ。
「もっと頑張りなさいよ。ライバルが父親だなんて、ちょー笑えるわー」
理香はすごく楽しかった。連理は元々恋愛に興味がないような感じだったのに、去年初めて恋をした。相手は女子大生という事実にも笑えるのに、肝心の相手が好きなのはーーー連理の父、翔平だ。理香は可笑しくて堪らない。
翔平はイケメンで、引く手数多なのだが再婚をする気がない。都が翔平を好きということも気づいていないようだし、翔平と都が恋人関係になる確率は低いと思われる。連理が割り込む隙はあるだろうが本人の努力が実らなさすぎる。甥っ子は不憫だ。
「いつまで抱きしめているの?」
連理はまだまだ伸び盛りなのだろう。背がほとんど変わらなくなってきて顔の距離が前よりも近くなった。むくれる顔がよく見えてすごく可愛い。
「ごめーん。高校合格おめでとうも込めてるからもうちょっと」
「早く料理並べたいんだけど」
「高校どこだっけ?」
「無視ですか……朽揺木高等学校」
「朽ちて揺れる木なんてあんまり良いイメージない学校名ね。もっといいところいけたんじゃないの?」
「自宅から一番近い高校だし」
実は連理の成績は良かったから、先生にはもっと偏差値の高い高校を薦められてはいた。だが、遠くて通うのが面倒だという理由で近場を受験したのだった。何といっても家には手のかかる親がいるのだから。
まだ笑っている理香からようやく抜け出して、料理の盛りつけを完成させる。この間、翔平は連理と理香のやり取りには関わらずテレビに夢中になっていた。一旦理香が連理を抱きしめると長いと学んでいるためだ。
テーブルに料理を並べる。時刻が七時を回っていた。ちょうど良い時間なのかもしれない。
「ねえ、高校の入学式は四月六日よね?」
「うん」
「義兄さんも仕事休みでしょう。終わった後三人で食事でもどう?」
「え、何で?」
「んふふ。連ちゃんの制服姿を眺めたいに決まっているじゃない!!」
理香はまたもやいい笑顔だった。
連理は叔母に恋愛相談をして失敗したかなと思い始めていた。理香は全力で楽しんでいたのだから。
読んで下さってありがとうございます。例のごとく更新は遅いので気長にお待ち下さい。宜しくお願いします。