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転生トラック運転手の異世界への恐怖

作者: 銀杏灯夕陽

異世界転生ものをオマージュしたものです。要素としてのファンタジーはありますが、基本的には普通の現代日本が舞台で、バトルも冒険もありません。

全体的に暗くて救いのない内容となっていますので、上記と併せて無理だと感じられた方にはブラウザバックをお勧めします。

以上の要素が平気で、興味をもってくださった方はご覧になってくだされば幸いです。

 その日の天気は、雲一つない晴天だった。白く煙りがちな都会の空にしては珍しい、抜けるような青い色が印象に残っている。その爽やかさとは正反対に位置する、肌に張り付くような粘る汗も。

 目の前の信号は空と同じ青色であった。横断歩道には猫の子一匹居やしない。直進することになんら問題はなかった筈だというのに、黒髪の青年が唐突にトラックの目の前へ飛び出してきてしまった。


 それから、全てが狂ったのだ。


 ブレーキを踏むも間に合わず、車体に走る衝撃。

 黒いコンクリートの上に流れ出す赤い血潮。

 耳をつんざくような悲鳴もどこか遠く、ハンドルを握る手は力がこもりすぎて小刻みに震える。

 全身を包む悪寒に嫌な汗が吹き出した。

 まとまらない思考を絶望が焼いた。

 人殺しの罪悪感と深い穴に落ちるような喪失感、あとは後悔をごった煮にした感情を覚えるばかりで、現状の全てを理解することもままならない。

 どんどんと加熱していく外の騒ぎがとうとう許容の範疇を超え、大原連治郎の意識は暗がりへと落ちていった。


 暗転する視界が最後に捉えたのは、可愛らしくラッピングされた箱――――娘への誕生日プレゼントが助手席から落下していく様であった。








 ジリリリリリリリリリリリリ!!


 微睡みの底を揺蕩う意識が騒音にかき乱されて輪郭を取り戻す。

 けたたましく泣き叫ぶ目覚まし時計の頭を叩いて黙らせ、大原は上半身を起こした。起こしてくれるのはいいのだが、この目覚まし時計はキンキンと高い声で怒鳴るのがよくない。微かに残る耳鳴りが鬱陶しくて、買い換えようと毎朝考えるのだが、どうにも出不精なため、もうしばらくはこの時計と付き合うことになりそうだ。


「はぁ……」


 先ずは目覚めの一服と、枕元へ箱を探りに伸ばした手はただ空を掻く。しばらく探ってから、煙草は控えようと決意したことを思い出し、やりきれない喫煙願望を舌打ちで誤魔化す。長年続いた習慣はヤニ臭さと同じく、中々消えてくれそうにはない。禁煙程度で医者にかかるなど、という考えは甘かったようだ。意志の力で抑えてはいるものの、ニコチンが切れるとついつい煙草を買い求めそうになってしまう。今日の内に禁煙治療をやってくれる病院を見つけて予約を入れよう。そう予定を立てて上体を起こした。


 置き時計の針は六時少し前を指していた。黄ばんだカーテンからは目映い光が差し込み、ろくに整頓されていない室内を照らす。何日も換気のされていない部屋は流石の大原にも埃っぽく感じられた。情けのない掛け声と共に起き上がって窓を開け放つ。生ぬるい風がゆっくりと入り込んでくる気味の悪さに顔をしかめて、そそくさと窓辺から離れた。


 狭いワンルームを大股で抜け、玄関近くにある2点ユニットバスに踏み込んだ。元は曇り一つなかった鏡も、白かった洗面台も、今ではところどころに落としきれない水垢が永住している。

 錆びついた嫌な手応えのある蛇口をひねり、両の手に生温かい水を溜めて、油っこい顔に叩き付けた。そこで、顔を拭くためのタオルを用意し忘れたことに気付く。瞼を下ろしたまま手探りでタオルを探ってみると案外手近に存在した。邪魔な水分を肌に張り付く皮脂ごと拭い去ってさっぱりとする。その後になって、同じ行動を昨日、一昨日と繰り返していることに、はたと気が付いた。汚れが付着しているだろうタオルは注視せず、数日前から口を開けたままの洗濯機に投げ込み、その足で畳まれずに積まれているタオルの一つを掴み取る。そして、ぬるま湯で顔を洗い直してから元の部屋へと戻った。


 戸の蝶番が壊れたクローゼットに近寄り、よれよれの部屋着から生地の薄くなったポロシャツとジーンズに着替える。禁煙指導のある病院を探すため、近所の図書館でパソコンを借りなければならない。最近、ノートパソコンが使えなくなってしまったのだ。かなり前に購入したものであったし、寿命だったのだろうと諦めはついている。流石に買い換えようと思い立ったのだが、知り合いが古いものであれば譲ってくれるというので止めた。引き渡しの約束をしたのが来週のことであるから、出不精の大原とはいえ、出かけるよりほかに選択肢はなかった。


「しゃあねぇ。行くか」


 財布を後ろのポケットに入れて、身軽に外出しようと玄関に体を向けた時、やけに乾いた冷たい風が窓から吹き込んできた。


 びゅおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ


 その風は妙なものであった。風は様々なもの――湿気、土の臭い、雨の香りなど――を含んで流れている。しかし、この風からは何の気配もしない。不気味で無機質な突風を受け、体中の筋肉が強ばる。意識せぬ内に呼吸は止まっていた。風は探るように部屋の中を渦巻き、数秒の間吹き荒れると、あっという間にいなくなった。息を吐き、言い聞かせるような声音で呟く。


「…………気のせいか」


 不気味な気配が消えると体の強ばりは嘘のように解けた。握りしめた拳も、渇いて張りつく口の中もそのままに、開けっ放した窓へと振り返る。

 先ずは風が吹き荒れたにも関わらず変わった様子のない内装が、次に窓の下に落ちている見覚えのない紙が目に入った。

 肋骨をはねのける勢いで心臓が跳ねた。


「………………」


 再び強ばった体で、ゆっくり、ゆっくりと歩み、紙へと手を伸ばす。重心が前に移り、ぎしりとフローリングが軋んだ。ごつい指で慎重に紙を掴み取り、予想が外れるよう祈りながら目を落とす。

 A4サイズの紙には大きく読みやすい文字が書かれ、文の隣には写真が貼られている。生意気そうな顔つきをした、髪色の明るい男子高校生の写真だ。文の中にはこの青年の情報がある。

 名前は東谷晴太。私立烏ヶ池高校の一年生。出身地は此処からは遠いため、寮生活を送っている。身長は182cm。部活動に精を出すでもなく、勉学に励むでもない、自堕落な生活を送っている……といった風にだ。

 しかし、大原は東谷晴太のプロフィールなぞには目をやっていない。プロフィールが書き込まれた段落の一つ下、一行文の間をあけた先にある文字列へと視線を送っている。一行読む毎に顔が青くなり、紙を持つ手が震える。

 そこに書かれてあるのは、今日の日付と午後何時といった時間、詳細な地名。そして、今日のその時刻のその場所で東谷晴太をひき殺して欲しいという一文。


「…………ッ!!」


 大原は息を呑み、紙を見つめたまま立ち尽す。

 湿気た風が緩やかに部屋を横切り、遠い蝉の声と秒針の音とをかき混ぜていった。







 かさり、助手席の上で音を立てて手紙が存在を主張する。薄っぺらな紙から発せられるプレッシャーに少し吐き気を覚えた。クーラーをつけてもなお暑い、夏の車内。染み付いたヤニ臭さが喫煙欲を刺激する。ちらりと目をやると、腕時計は午後五時二十三分を指ししていた。

 黄ばんだフロントガラスを越えて、赤信号が止まれと命を出している。一つ信号を挟んだ先にある白線を制服姿の生徒が渡っていってた。その中にはあの東谷晴太もいるのだが、大原は目もくれない。注視しているのは赤く光る信号機だけだ。

 自分の呼吸が荒くなっていく。ハンドルを握る手にびっしりと汗が浮かんだ。それを服で拭いつつ、鋭く信号機を睨み付ける。夕方だというのに太陽の光は地上を苛烈に照りつける。汗で濡れた大原も光に照らし出され、濃く落とされる陰影が顔の厳めしさを増していた。


「早くしやがれってんだ」


 友人と喋り、ふざけながら行く歩みは遅いが、それでも東谷晴太は無事に渡りきることが出来るだろう。問題は今まさに横断歩道を渡ろうとしている小学校低学年ほどの女の子だ。今、アクセルを踏み込めば、その女児を跳ね飛ばすことになる。

 だというのに、合図である信号機は今まさに緑色の光を灯した。

 実に単純な、今後の展開が脳裏に鮮明なビジョンとなって浮かび上がり、周りの音が一気に遠くなった。怯えながらも大原は速やかにアクセルを踏み込む。10tもの巨体ともなると、静止時からの加速は緩やかなものになるのだが、大原の乗り込む怪物は急激な加速をして、猛スピードで横断歩道へ迫る。想像通り、その通り道にいるのは大きなランドセルを背負った女児、ただ一人であった。

 勢いを緩めるなと脅すようにまた紙がかさりと音を立てる。言われずとももう足はアクセルから離れなかった。真っ直ぐ女児へと進むトラック。彼女はその存在に気付き、驚きと恐怖に立ち尽くしてしまったが、猛烈な速さの怪物に飲み込まれることはなかった。

 車体に衝撃が走る直前、東谷晴太が女児を突き飛ばしたのだ。フロントガラスの向こう、すぐ近くに東谷晴太の顔が大きく見えた。大きく見開かれた目と薄く開いた口がいやにゆっくりとこちらを向き……ガクンと体が揺れ、殺人の手応えが全身を震わせる。


「あ、あぁ、ぁ」


 大原の口からぶつ切れの悲鳴が漏れ出す。

 トラックの外側はにわかに騒がしくなり、かと思えば急速に静まり返る。全身の毛穴からは脂汗が滲み出て、視界は白黒点滅を繰り返す。吸う空気に酸素が含まれていないかのように肺がきりきりと軋みを上げる。両手足の筋肉は緊張して鈍痛を発する。一際高い女性の絶叫が聞こえたあたりで大原の緊張はピークを迎え、全身を包む鈍痛の中、ハンドルを握りしめたまま意識を失った。

 助手席に置かれていた紙はいつのまにか姿を消していた。







 大原連治郎は約十年前までは運送業者であった。その頃には、まだ家庭を持っていた。学がない自分についてきてくれた愛しい妻と可愛い娘。長距離を走らされる疲労なんて幸せの絶頂にいた大原にはなんてことはなかった。忙しくも幸せな日々は矢の如く過ぎ去り、ある日唐突な崩壊を迎える。

 それは娘の十歳になる誕生日に起きた出来事だった。青信号を直進するトラックに青年が飛び込んできたのだ。そのときの感触は今でも忘れはしない。一人の人間の命を奪った手応えに意識を失い、目が覚めると見知らぬガレージにトラックが止まっていたのだ。大原は大いに混乱した。轢殺したこと自体が夢だったのか、無意識のうちに逃走を図ってしまったのか、全く判別がつかない。事故の衝撃で落ちた娘へのプレゼントは座席の下に入り込んでいるが、トラックの外観には事故の爪痕は残っていなかった。

 ただ、もうひとつ、プレセントの位置以外にも変化があった。プレゼントがあった場所に、妙な布の袋が置かれていたのだ。恐る恐る、中身をひっくり返してみると……華やかな色彩に煌めく装飾品と眩い金塊、一枚の紙が姿を現す。装飾品は凡そ見たことのない意匠が施されてあった。そちらに明るくない大原であっても、これらが普通の品でないことには見当がついた。金塊は拳大のものであり、大原は混乱しながらも素手で触れぬように袋の中へそれらをしまう。そして、最後に残った紙だが、これには日本語でもアルファベットでもない、いくつもの丸が連なったような、どうにか文字であると判明できるものが綴られていた。

 あまりの訳の分からなさに、娘へのプレゼントのみを掴み取って外へ飛び出した。ガレージの外は自宅の近くであり、簡単に帰ることはできた。戦々恐々として日々を過ごしたが、事故がニュースに取り上げられることも、警察が大原を捕まえに来ることもなかった。

 この日以来、無邪気な娘の顔を見るたび、妻の笑顔を見るたび、胸を締め上げられるような罪悪感に駆られるようになった。あの生々しい衝撃は些細な切っ掛けで蘇り、大原を苛む。物証は一つもなかったが、あの出来事が夢だなど、到底思えなかったのだ。それでも二人に心配をかけたくはなかったので、出来るだけ事故のことを想起しないようにしていた。

 そんなある日、枕元に一枚の紙が現れた。それはあの布袋から出てきたものと同じ紙だった。しかし、丸の連なった文字は頭の一分だけで、他は日本語で記されていた。内容を要約すると、


『青年を撥ねたのは確かな現実であり彼は死んでいる。だが、彼は転生し、今は異世界で楽しく生きているから気に病むことはない。世の中には異世界に転生するべき人間が多く存在し、大原には彼らを導く手伝いをしてもらいたい。報酬は前と同じ宝飾品と金。大原は指示された場所へ赴き、信号の通りに進めばいいだけである。前回と同じく大原が罪に問われることはなく、その後の処理は我々が引き受ける』


 ということであった。

 あの出来事が実際にあったことであり、あの青年は己が殺したのだと改めて認識し、喉を突き上げる嘔吐感が大原を襲った。あわてて自宅を飛び出して、公園のトイレで胃の中身をひっくり返した。身を焼き尽くす罪悪感は時間が経つごとに熱を増していく。

 止まない嗚咽とえずきの中、体中を戦慄かせながら、大原は妻子との離縁を決意した。それから行動に移すまでは早かったが、妻の同意がなかなか得られず、離婚の手続きにはかなりの時間を有した。それでも大原の狂的な熱意に負け、最後には無事に離婚が成立し、妻は娘を連れて実家へ帰っていった。娘への面会権も放棄して、妻の口座に養育費と賠償金を振り込むことだけを取り決めた。未練を振り払うべく、住み慣れた一軒家を売り払った資金でワンルームのアパートへと引っ越した。たった一日の、悪夢のような出来事で大原は全てを失ったのだ。

 そして今も、その悪夢は続いている。







「……で、こいつはいくらで売れるんだ?」

「まぁ、ざっとこんなくらいじゃないですかね」


 軽快に弾かれた電卓が目の前に差し出される。三ヶ月分のの生活費と養育費には十分な額が表示されていた。


「ああ、これでいい。普段通り、3割はお前の取り分だ」


 そう告げて、金塊の詰まった袋を引き渡すと、目の前の男は相好を崩して礼を言った。この男は大原の旧友で、貴金属の買い取りを生業にしている者だ。大原の報酬を現金に換える代わりに3割を懐に収めている。金や宝飾の出所が不確かなために、こういうアングラなやり取りをするしかなかった。報酬の換金が仕事を辞めてしまった大原の主な収入源である。


「それにしても、大原さんはどこからこんな上等なモノを仕入れてくるんですか? 長い付き合いになるわけですしね。そろそろ教えてくれてもいいでしょう?」


 またこの問いかけかと大原は苦虫を噛んだような顔をする。この男が下種の本性を覗かせて、報酬の出処を尋ねて来るのは何度目になるだろうか。微かな苛立ちを落ち着かせるため、無意識下に右手が空のポケットを弄る。指先がライターに当たり、もう一つのポケットを改めようとしたところで、喫煙衝動に駆られていることにやっと気が付いた。反射的に舌打ちを漏らしてしまう。


「……三割の内には入手先についての口止め料も含まれているんだが、まさか忘れてねえよな」


 舌打ちついでに八つ当たり気味に文句を口にすると、慌てて首と手を左右へ振って否定をしてきた。必死な様が見て取れ、胸の内が晴れるような、申し訳がないような、爽快さと後悔とをない混ぜにした感情に襲われた。衝動的に零してしまった言葉が脅しになってしまい、ばつが悪くなって視線を逸らす。


「あはは、まさか。あ、これが今回の料金です」


 早口に言うと、目の前で札束の数を確かめてから、封筒の中に滑り込ませて大原のカバンへ丁寧にしまい込んだ。金だけの関係とはいえ、一応の旧友を脅してしまった罪悪感から、大原は口の端をもごもごと動かす。いつも噛んでいる煙草がない所為で口が寂しくて、つい喋りたくなってしまうのだ。


「教えてやってもいいんだが、お前の得にはなりゃしねえぞ。それどころか、俺が狂ってるようにしか思わねえだろうよ。俺自身、今起こってることが夢じゃないか、毎日疑ってるくらいだ。……それでも聞くのか?」


 男の目と口とが驚きにポカンと開け放たれた。大原自身、何故言いたくなったのか分からないが、この場で黙っていることが耐えられなくなったのだ。嫌ならこのまま帰宅するがと告げると、男は是非聞かせてくれと答えた。


「半ば妄想が混じった親父の愚痴だとでも思って、適当に聞き流せよ」


 前置きすると大原は椅子に座り直し、今までの出来事を掻い摘んで伝えた。


 青年を轢いてしまったこと。

 逮捕されなかったこと。

 証拠が残っていなかったこと。

 家族を捨てたこと。

 報酬のこと。

 異世界のこと。


 全てを包み隠さずに伝えた。異世界という単語が出た時に男は一度顔をしかめたが、口を挟まずに耳を傾けている。『精神を病んでいるのではないか』と切って捨てられることも予測していた大原にとって嬉しい誤算であった。

 最後まで話し終え、ふうと息をついた。数十年の間、こんなに長く語ったことはなく、若干酸欠気味になってしまった。男は顔に浮かべていた厭らしい笑みをかき消し、真正面から大原を見据えて、結んでいた唇を開いた。


「大原さんが冗句を好むタイプじゃないってのは知ってますから。ええ、信じます……ですが」


 終わりで語気が萎んでしまう。逆接の後に続く言葉が気にかかり、大原は目線で続きを促した。すると男は少し躊躇った後、意を決したように顔を上げてこう言った。


「ですが、大原さん。アンタはこんな、胸の悪くなるようなこと進んでやる人でもなかったでしょう」


 大原はその言葉を聞き終わるよりも早くにカバンをひっつかんで店から飛び出した。その逃げ足は異様なほどに早く、男が呼び止める暇もないほどであった。次回からは別の仲介役を探さなくてはならないと考えを巡らせながら、人混みの中に紛れ込む。早足に店から離れ、そして、やはり言うべきではなかったと強い悔恨の念を覚えた。長年抱えていた秘密を共有できるかもしれないなどと喜び、乗り気になってしまったのがよくなかったのだ。


 男の言葉は正鵠を得ていた。大原は嘘は吐いてはいないが、隠し事ならばしている。今までの経緯の中、大原がそれに対して抱いた感情についてのみ口を閉ざしていた。

 異世界の存在を恐ろしく思っていることだけは絶対に知られたくはなかったのだ。

 初めて、枕元に置かれた手紙を読んだ時、全身の震えが止まらなくなった。若い大原は直感的に理解してしまったのだ。異世界の生命体が如何なるものかは知れないが、人間では彼らに太刀打ち出来ないということを。異世界の生命体達が悪意をもってこちらへ接触してきたとしたら、人間はなす術もなく蹂躙されるだけだと、分かってしまったのだ。

 異世界からの接触は一方的なもので、こちらからはその存在を認知することすら叶わない。そんなものの機嫌を損ねたら一体どうなってしまうのか。想像するだに恐ろしかった。だから、大原は依頼を断れない。依頼を放棄した腹いせに攻撃をしてこないという保証はないからだ。恐怖が背中を強く押して、今も大原は人を跳ねている。

 男が大原の恐怖に勘付いていたとは思えないが、少なくとも彼の口調には侮蔑の色が含まれていて、大原は異世界のご機嫌伺いを否定されることを恐れて逃げ出した。お前は単なる卑劣な人殺しであると、暗に言われているような気がしてならなかった。

 このご機嫌伺いが道理に反することだとは自覚しているし、自分の卑劣さも嫌という程に理解している。しかし、それでもどうしようもないほどに異世界は恐ろしいのだ。

 禁煙を試みているのも異世界への恐れが原因だった。死者の中の一部は異世界に転生させられる。どういう法則で決まっているのかは分からない。大原自身にもその一部に入ってしまう、異世界へ連れ込まれる可能性があると気付いて、早死にしたくないと思った。異世界には行きたくなかった。若い人間を轢き殺しておいて、自分は長生きしたいなどと考えているのだ。


「…………どうしようもねえな」


 状況か、自分自身か、罵り文句を口の中でもごつかせ、大原は不気味な笑みを浮かべると、幽鬼の如き足取りで青に変わったばかりの横断歩道の向こう側へと消えて行った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こちら側の目線はとても新しく、惹かれました。 運転手の方が救われないというのはとても悲しいのですが、実際現実で起こったらこんな感じなんでしょうね… [気になる点] 時間軸が変わる場面が改行…
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