表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夏のある夜、その時の思いは。

作者: 滝 明花

 あ、と思った。懐かしく思った。

 自然の、木々の、草の、雨露の、夜にしかしない、においがした。

 なんだか、 泣きたく なった。



「ね、待っ、て…!」

「あぁ?おせーよ。だからついて来んなって言ったのに。」

 左右に僕の何倍もある高い木が立っている、細い砂利道。僕の10、もしくは20メートルくらい前には、自転車に乗ったまま後ろを振り返って、僕を呆れたように見る兄貴の姿がいる。

 はぁはぁ、と息をつきながら僕が横に並ぶと、兄貴は僕のチャリカゴに入っていたペットボトルのジュースを、しゅわっと音をたてながら開けた。あ、と思って顔をあげると、ずいっと差し出される。ありがたく受け取って、ゴクゴクと飲んだ。首に汗が流れて、くすぐったい。8月のはじめだからまだ熱かった。

「早く帰んねぇと、かーちゃんにバレんだろーが。」

「わ、かってるよ!」

「だったら早く漕げよな。体力なさすぎんじゃねーの。」

 兄貴はペットボトルのふたをして僕のチャリカゴに放り込む。炭酸なのに。そして帽子の上から僕の頭をポンッと叩くと、また自転車を漕ぎだした。帽子の上からでもわかる、兄貴の少し大きな手。僕とは2歳しか違わないはずなのに。

 叩かれたせいでズレた、兄貴のおさがりである帽子をちゃんとかぶりなおす。僕のお気に入りだ。そして、これもまたおさがりであるマウンテンバイクを、僕は今度こそ置いて行かれないように漕いだ。

 今の時間は、夜中の2時くらいだ。一番お化けが出るという時間。実は、かなり怖い。だからこそ、兄貴には置いて行かれたくなかった。

 こんな真夜中に僕たち小学生2人がやっていることは、虫取りだ。カブトムシとクワガタを捕る虫取り。今僕たちが通っている学校ではカブトやクワガタを戦わせるのが流行っているからだ。やるならやはり勝ちたい。

 ちなみにこの間兄貴に、「なんで夜中なの」って聞いたら、「誰にも会わねーし、スズメバチもいねーんだよ。」と言っていた。

 今日の、いや、昨日の昼間に雨が降ったから、雨のにおいがしていた。僕は好きだけど、兄貴は嫌いらしいから今は少し不機嫌かもしれない。

 その時、急に何かが上から降ってきて、僕の首に当たった。思わず、ヒッ、と小さく声をあげてしまう。

「あ?どうした?」

 少し前にいた兄貴が自転車を止めて振り返る。「今、なんか、首に、冷たいの…。」恐る恐る触ってみると、濡れた感触がした。ドキドキして手を見た。だが、透明な液体がついていただけだ。兄貴にそういうと、

「ただの水じゃねーの。葉っぱについてんのが落ちてきたんだろ。今日雨降ったから。」

 たったそれだけだと分かって、恥ずかしくなった。「ほら、行くぞ。」とさっさと前を向いてしまった兄貴。また追いかける。恥ずかしすぎて、さっき珍しく間違えた兄貴に、雨降ったのは昨日だよ、なんて突っ込めなかった。

 そこからは2人無言で自転車を漕いだ。砂利道のせいで揺れる自転車のガタガタという音と、風に揺られる葉のカサカサという音以外聞こえてこない。

 そして、僕たちが知っている『カブトがいるポイント』の1つに着いた。予想通り、カブトとかクワガタとか他の小さい虫たちがうじゃうじゃと蜜を吸っている。懐中電灯を当てて、強そうなカブトやクワガタを選別して持ってきた虫かごに入れた。これだけたくさんいると、選別も大変だ。

「兄貴兄貴、これどう?」

「あ?それじゃ負けんぞ。」

「え、なんで?おっきいよ。」

「でかけりゃいいてモンでもないだろ。角が短いし、だいたい今も端っこにいたんだから強くはねーんじゃねーの。」

「あ、そっか。」

 兄貴は物知りだ。僕が知らないことをたくさん知っている。兄貴は虫バトルが強いから、有名人だ。兄貴と捕りに行ったカブトやクワガタはほとんど負けない。(もちろん兄貴のカブトやクワガタには負けるけど。)ちなみに僕一人で捕りに行った虫たちは、すぐに負けてしまう。大きさで選んでいたからかな。

 それからも3つくらいのポイントに回って、家に帰った。かーちゃんはなぜか起きていて、ものすごく怒られた。思わず泣きそうになった。叩かれたし。けど、兄貴は叩かれても怒鳴られてもずっと平然としていた。

 この時捕りに行ったカブトのうちの1匹は、残りの夏休み、負け知らずだった。



 それから2年後、僕はあの時の兄貴と同じ5年生になった。もう虫バトルは流行っていなかったけれど、僕は去年の夏休みも捕りに行ったし、今年も行くと思っていた。

 けれど中学生になった兄貴は、部活動に入った。夏休みだったから1日練習なんてよくあって、帰ってくるのも7時とか8時とかで遅かった。バスケットボール部だったから、室内の蒸された熱さも相まって、疲れが大きかったのかもしれない。お風呂に入ったらすぐに寝てしまう生活になった。2人で夜中に家を抜け出すこともなくなった。

 兄貴が午後練習だった時、僕は友達のケンちゃんもサトシも家族と一緒に帰省してしまっていて暇だったから、朝9時ころに起きてきた兄貴をゲームに誘った。

「ねぇ、久々にゲームやろうよ。バトルものがいいかな。RPG一緒に進める?」

「あ?ゲーム?んな時間ねーよ。」

「え、なんで?だって今日、午後練でしょ?まだ時間あるよ。」

「その前に友達と自主練する約束してんの。だから昼飯もいらねーから。どっかで買うし。」

「あ、そうなんだ…。」

 最近兄貴は、自分の友達を『友達』というようになって、名前を言わなくなった。だから誰とどんな付き合いをしているのかが分からなくなった。

「暇してるなら宿題でも終わらせちゃいなさい!まだ残ってるんでしょ!」

 台所からのお母さんの声に、僕は頷いた。だが、正直めんどくさい。算数以外の宿題はほぼ終わっているが、苦手な算数を残してしまった。

「宿題やっとけ。帰ってきて元気あったらゲームやってやるから。」

 朝ご飯を食べ終わり、着替えながら天気予報を見ていた兄貴が、やる気が起こらずうだうだしていた僕にそう声をかけた。僕は速攻で算数の宿題をやりに部屋に戻った。



 さらに4年後。僕は中学3年生、兄貴は高校2年生だった。

 夏休みに担任の先生と親と僕の3者面談があった。志望校は、と聞かれ、東高、と答えた。兄貴が通っているところだ。

「今の成績だと少し難しいな。まぁ、まだ半年以上あるから、今から頑張れば間に合うだろう。」

 3者面談はなんの滞りもなく終わった。家へ帰る道中、親に「もっと勉強頑張りなさいだって。」と言われ、うん、と頷いた。

 家に帰ると、兄貴はリビングでくつろいでいた。面談に行く前は大学受験に向けて勉強していたのだが、少し休憩しているのだろう。兄貴は中だるみなんて言葉とは無縁そうだった。

「あのね、僕、東高行けそうだって。」

 制服から部屋着に着替えながらそう言ってみると、兄貴がいやそうに顔をしかめた。

「あ?来んのかよ。来んなよ。お前の成績だったら南だろ。」

「でも、勉強すれば大丈夫って先生も言ってたよ。」

「あー、そうなん。来ても絶対話しかけんなよ。」

「かけないよ。だから数学教えてー。」

 宿題でどうしても解けなかった数学。小学生のころから算数は苦手だった。図形が出てきたあたりでだろうか。兄貴は根っからの理系な頭なので、聞けばいやいやながらも教えてくれる。「アイス持ってきて。冷凍庫に入ってるから。」言われた通りにすぐにアイスを持っていくと、広告の裏を使って、教えてくれた。



「おい、早く窓閉めろよ。虫入って来んだろーが。」

 そしてさらに4年後の今、僕も兄貴も大学生になっていた。僕はベランダで洗濯物を干していたのだが、そこでどうやら昔にトリップしてしまっていたらしい。あわてて中に入って網戸を閉めた。

 地方から関東圏内の大学に進学した僕らは、親が2人暮らしを許可してくれたので、近くのボロいアパートの1室を借りて生活している。ちなみに兄貴は去年までの2年間、2時間半かけて通っていた。

 高校でもやはり数学が苦手だった僕は兄貴に数学を教わってなんとかセンター試験をやり過ごし、兄貴と同じ大学に合格できた。こういうとまるで兄貴を追ってるみたいだが、やりたい勉強と自分の偏差値を考えるとここが妥当だっただけだ。

 だが、今少し昔にトリップして気づいた。僕はいわゆるブラコンなのだろうか。昔から兄貴を追っていた気がする。中学では兄貴と同じバスケ部に入ったし、高校も兄貴がいるところを選んだ。もちろん兄貴がいるから行ったわけではないが、まぁそれも1つの理由であったことは否めない。大学はさっき言った通り自分で決めたわけだが、結果的には同じ大学だ。思わず、うーん、とうなってしまった。

「なんだよ、なんかあったのか?」

 レポートを書くためにパソコンと向き合ってた兄貴が、あきらめたように後ろに倒れた。そしてそのまま、窓の近くに立っていた僕に声をかけてくる。なんでもない、と首を横に振る。

「それより、明日車出してよ。そろそろいろいろ無くなりそう。」

「あ?あー、しかも明後日から俺がご飯当番か。じゃあなんか買っとかねーとな。」

 しょーがねーなー、と言いながら寝返りを打つ。邪魔だからそこで寝ちゃわないでよ、と声をかけると、んー、と早くも危ない答えが返ってきた。

 さっきの、なんだか泣きたくなった気分を抑えて、「お風呂入ってきちゃうね。」と声をかけた。



「まじでうちのお兄ちゃんフザけてんだけど。ねぇ、どう思う!?」

「え、何が?」

 あれから数週間後の土曜日、すでに長い夏休みに入っていたが、まだ帰省していない亜実が箸をびしっと僕たちに突き付けながらそう質問をしてきた。亜実の隣では、彼女の1つ年上の兄貴である彰さんが亜実のお行儀の悪さに注意している。

「2人暮らし初めて早4ヵ月が経ったのよ!」

「そうやね、4月からやからなあ。」

 僕の隣の圭介が相槌をつきつつ続きを促すと、なのによ!と亜実が声を上げた。ここは食堂で今はお昼時だが、夏休みだしお盆も近づいているせいか、人の姿は少ない。そのせいで余計に亜実の声は響いた。

「うちのお兄ちゃん全ッ然家事手伝ってくんないの!」

「バイトしてるからな。」

「アタシだってしてるっつーの!」

 バンッと机をたたく。おー怖、と彰さんは呟いてあさっての方向を見ている。僕の正面、亜実を挟んで彰さんとは反対側に座っている美紀子は、僕と顔を見合わせて苦笑した。ちなみに美紀子は実家から通っている。

「お前んちはどうなん?確か兄ちゃんと2人暮らしやって言うてたやろ?」

 1人暮らしの圭介が僕に話を振ってくる。

「僕んちは完全当番制だよ。ご飯と皿洗い、洗濯と掃除がセットで1周交代にしてるんだよね。」

「買い物は?」

「僕が免許持ってないから、週末に2人で行ってまとめ買い。」

 僕がそういうと、亜実があーぁ、と言いながら状態を後ろへそらした。

「いいなぁ、ほんとできたお兄さんだよね。」

 とげを含んだ言い方で、彰さんを見ながら亜実がつぶやく。彰さんは別段気にしていない様子でヒュッと口笛を吹いた。

「しかも受験の時勉強教えてくれたんでしょ?」

 美紀子もうらやましそうなつぶやきに、僕はなんとなく照れくさくてあいまいにうなずいた。選択必修でとらなければいけない授業の中に理系の科目があるのが僕が行ってる学部だ。僕は兄貴に教えてもらえるからという理由で数学を大学に入ってまでやっている。

「いいよね、彰なんて文系だしあたしより勉強できないし全然役に立たないわー。」

「おい、そんなことないだろ。こんないい男そうそういないぞ?」

 冗談めかしてウインクしながらの彰さんの反論を、亜実はうっざ、と呟くことで一蹴した。いつ見ても仲の良い兄妹だと思う。

 その後も授業もないからただグダグダと食堂で過ごしていたが、そんな時間はあっという間に過ぎて、美紀子のバイトの時間になってしまった。そこで自然とお開きになって、それぞれ帰路に着いた。



 それからまた少し経った夜、兄貴がバイトでいないときに電気代を考えてエアコンは付けずに、窓を全開にしてやり過ごそうとしていたら、また夏特有のにおいがした。なんとなく目にダメージが来た気がして、誰もいないのを良いことに構わずしかめっ面をする。思い出すのは、また小学生・中学生・高校生だった自分の夏の記憶。もちろん友達との記憶もあるはずなのに、どうして兄貴との思い出しかこの時は出てこないのかが不思議だ。

 ぼーっとしてるのもなんだかムシャクシャしてきて、僕は部屋を片付けて、当番でもなかったのにいつもより心を込めて皿を洗った。



 その週の日曜日、また兄貴の運転で近くの大手スーパーに買い物に行った。そろそろ予備を買っておいたほうがよさそうないろいろな生活必需品をどんどん買っていく。いつもまとめ買いだから、毎回荷物が大量になる。そして、最後の食料品のコーナー。夏で暑かったからか、いつもよりも飲み物をたくさん買ってしまって、失敗したかと財布を心配しながらそのスーパーの袋を持とうとすると、すでにいくつか荷物を持ってる兄貴がすっとそれを持ち上げた。

「え、いいよ。僕持つよ。」

「あ?別に持てるから構わねーよ。早くそっち持って、帰んぞ。」

 野菜とかお肉とかが入ってる、軽い方をあごでさした兄貴は、さっさと歩いて行ってしまった。

 

 あ、と思った。

 急に、数日前や数週間前に思い出していた記憶の中の兄貴と、影が重なった気がした。


 そうだ、なんだか泣きたくなったのは、きっと置いていかれた気がしていたからだ。

 いつも記憶の中の兄貴は僕に背中を向けていて、僕の前を歩いていて。

 さみしかったのかもしれない。


 だけど、それと同時にこうも思う。

 なんだかんだいつも立ち止まって僕を待ってくれる、アドバイスもしてくれる、ワガママを聞いてくれる、さりげなく気遣ってくれる。

 昔から兄貴は、前を歩きながらも、僕を気にしてくれていたんだと思った。

 前に泣きたくなった時とは別の感情で、なんだか泣きたくなった。


「ねぇ、数学、教えてよ。」

「あ?なんで文系なのに大学来てまで数学とってんだよ。」

「選択必修なの。物理とか化学とかよりはまだ分かるし。」

「はー、しょうがねーな。じゃあ俺アイス1つ多く食うわ。」

 奇数個だったアイスの箱を買ったのはついさっきだ。そのことを言っているのだろう。僕は口先ではえー、とは言いつつも、結局兄貴に1つ多く渡すのだろう。


 あぁ、兄貴はいつだって兄貴だった。「あ?」って眉をひそめるけれど、必ず妥協してくれるのが、僕の兄貴なのだ。

 きっと、これからは夏のにおいを嗅いだって、泣きたくなったりはしないだろうな。

 そんな予感を持ちながら、僕は兄貴の隣の助手席に乗って、2人暮らしをしているボロいアパートまで帰っていった。



兄姉に置いていかれる気がするのは悲しいこと。でも、きっと兄姉はそんな気はなくて。そんな気がする、夏の日でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ