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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

華炎(かえん)

作者: 月野魚

血や内臓など、ややグロテスクな部分が含まれます。苦手な方は読まないようにして下さい。

 風光明媚、今は戦とは縁遠い明月あかつきの国では穏やかに季節が流れ、無事に稲を収穫する時を迎えていた。

 たっぷりと実った稲が重たげに頭を垂れる黄金色の田を眺めながら、火雁ひがんは畔道を歩いていた。背負った風呂敷には名のある絵師から買い取った絵巻物が入っている。彼は、この絵巻物を死んでも主に渡さねばならないのである。なにしろ、彼に仕事を命じたのは、この明月の国の姫君なのだから。

 火雁が初めて仕事を命じられたのは、去年の春頃だった。それ以来、火雁は腕の立つ絵師のもとへ日本全国津津浦浦、ほぼ休む間もなく絵巻物を姫君に献上するという日々を送っていた。

 城へ戻った火雁を見つけると、城内の人々は密やかな声で彼に労いの言葉をかけたり、心配そうな目を向けたりして、そろって彼を哀れむ。齢十七にして未だ輿入れをすることもなく、自室に籠る姫君に翻弄されている様を目にし耳にしている故であった。

 人々が彼を哀れむのにはまだ理由がある。それは、姫君が献上させる絵巻物にあった。

「姫様。火雁で御座います」

 障子戸の前で火雁がそう言うと部屋の中から、入りなさい、とやわらかな声がした。火雁は部屋の中に足を踏み入れ、姫君の御前で正座し、手をついて用件を申し上げようとしたが、姫君がそれを制した。

「お前がここに来る用は、一つしかないであろう」

 姫君が仄かに笑ってそう言うと、長く伸びた豊かな黒髪がさらりと揺れた。

 血のように赤い、豪華絢爛たる錦の着物を纏い、不敵な光を宿した瞳で世を見据えるこの少女こそ、明火あけび姫と呼ばれるその人であった。

 明火が火雁に向かって手を伸ばすと、彼は風呂敷から絵巻物を取り出し、それを直接手渡した。

 姫君が絵巻物に全て目を通し、満足げに微笑み、そこで初めて仕事を全うしたことになる。そう骨に刻んでいた火雁は姫君の御前で正座したまま、絵巻物に触れる彼女の綺麗な手に目線を落としていた。

「さて、お前の目利きは確かなものかね」

 愉しげに笑いながら、姫君は絵巻物を広げた。

 血の色に染まる池に、阿鼻叫喚する亡者達。そして、傍らで彼らを非常な目で見張るおどろおどろしい鬼達。黒々とした暗欝さが漂うそれは、地獄絵図であった。

 ある日突然、部屋に籠り、地獄絵図に執心し始めた姫君は、“姫様は物の怪に憑かれておられる”と城内で噂され始めた。そして、何故か件のような命令は火雁にしか下さない。姫君の欲する絵巻物が地獄絵図でなければ、姫君を畏怖する者も、火雁の身を案ずる者も、さほど居なかったであろう。

 もはや常軌を逸している姫君に魅入られた彼は、人々の目にはさながら生贄のようにしか映らないのである。

 しかし、当の本人は自らの境遇を全くもって嘆いていない。むしろあまりある僥倖だと感じている、と言っても過言ではない。普通に過ごしていたらば、おそらく言葉を交わすことはほぼあり得ぬ人と、こうして僅かながら一時を共有できる喜びが、おおよその理由である。

 残りの、挙げるまでもない理由を挙げるとすると、彼には姫君が常軌を逸しているとは思わないからである。彼にとって当然すぎるほど自然な考えだった。

 このような、理解ある家臣によって目にすることが出来た絵巻物に、姫君の目は釘付けだった。

「火雁」

「……はい」

 彼女が絵巻物の品定めをしている間、声をかけてくることはまずなかったため、ややあって、火雁は返事をした。姫君は火雁に向かって笑みを浮かべて言った。

「しばし、お前に暇を与えよう」

 彼女の赤い唇から発せられた言葉に、火雁は動きを止めた。

 そして、彼女の目を見据えながら、震える声で言った。

「無礼を承知で申し上げます。私は、貴女様のお気に召さぬ品を選び、献上してしまったので御座いましょうか。それならば、私はもう一度――」

「火雁」

 火雁の言葉は姫君によって遮られた。姫君は酷く怯えた目をした家臣を目に映し、溜息混じりに言った。

「誰が気に入らぬと言った。お前の選んだものは、どれも素晴らしいことこの上ない。私は、お前に休息を与えようと思うたのだ。お前がよく働いてくれるものだから、私は、お前の体を気遣うてやれすに今まで働かせ過ぎた。今更かと思われても仕方がないが、せめてもの償いと受け取っておくれ」

「そんな、償いなど……」

「私が再び命ずるまでをお前の休暇とする。良いか、火雁」

 こうなっては、承知致しましたと手をつく以外に彼に選択の余地はない。

 半ば押し切られる形で至った結果に、憧憬の姫君との繋がりが途絶えてしまったようにしか思えなかった。




 そうして、火雁は姫君の部屋を訪れることはなくなった。城で過ごす日々は、今では他の家臣と同じ務めを果たすためのみにある。言い表しがたい思いに刀を持つ手が鈍ることもしばしば。知らず知らずのうちに姫君の部屋の前まで足を運んでいる始末。姫君は地獄絵図の収集を()めたばかりか、時折外に出て花を愛でているようである。

 城内では今までの姫君の行動など幻であったかのような空気が流れていた。敵対関係にある山向こうの国の脅威から一時逃れ、束の間の休息を得られていることもそれに拍車をかけていた。人々が火雁を哀れむこともなくなった。その上、火雁が姫様の憑き物を落としたという噂まで蔓延り、彼はその弁明に忙しいほどであった。

 そんなある時、再び姫君から命令が下る日を待っていた火雁の耳に、女中たちの噂話が入ってきた。

 城内の庭の隅で、雀が死んでいたのだという。しかもただの死に方ではなく、明らかに人の手で腹を裂かれていたと。

 火雁の頭に、姫君がよぎった。

 それは女中達も同じなようで、声を抑えながらも、興奮気味に姫君のことをあれやこれやと話している。やはり、だとか、物の怪だとかいう言葉が聞こえた。彼女らの言葉に、火雁はそのまま女中達の前へ飛び出しそうになったが、自分の言い分が何の意味も持たないことを知っていた。かえって彼女らの疑念を助長することも容易に想像できた。火雁は、その日の夜更けに一人きりで庭の隅へと行ってみようと、その場はなんとか堪えた。


 肌寒い風吹く、秋の夜だった。冷たい空気にさらされて月も夜空も澄んでいた。火雁は灯を持たずに、寝静まった城内を歩いた。木の床に足を踏み出す度に、足先が冷えていく。冷たく青い月明かりを頼りにして火雁は庭まで来ると、物陰に身を潜めた。すると、庭の隅に何か黒い影があるのが見えた。砂利を踏む音と、衣擦れの音も微かに聞こえた。

 夜目に慣れてきた火雁の目に、黒い影の正体が映った。

 火雁はその姿を見ても、さほど驚かなかった。ある程度予想していた、というのもあるが、厳しく追及し、断罪すべきことではないと思えた。全てが彼女の意志である。それだけが、火雁から思考する意欲を奪った。

「火雁か」

 影は、背を向けたまま彼の名を呼んだ。やわらかな声だった。

 火雁は影の後ろに飛び出し、片膝を立て、はい、と答えた。

「今宵は月が綺麗だな」

 姫君は踵を返し、跪いている火雁を見下ろした。薄い寝間着が冷風に翻り、そこから覗く白い素足を火雁は見つめるばかりで口を開かなかった。姫君の右手から赤い雫が滴り落ちるのが目端に見えたが、それでも火雁の目は微動だにしない。しばらく間があって彼は、はい、と答えた。

 どさり。

 鈍い音がして、地面に何かが落ちた。

 反射的に、火雁はその落ちた物を見た。それは、よく肥えた鼠の死骸だった。

「私が恐ろしいか、火雁」

 腹の裂けた鼠の、どぶのような色をした体毛の上に、ぽたりとまた赤い雫が落ちた。胡麻ほどの大きさの黒い目は空虚。仰向けの体から飛び出した内臓は赤黒く、月明かりに鈍く光った。

「私が理解し難いか、火雁」

 大の字になった鼠の四肢は力無く、血溜まりに浮かぶその生き物に、もはや生など無いのだということを知らしめた。

「この鼠が哀れか。答えよ、火雁」

 火雁は唾液を飲み下した。

 そこでようやく火雁は姫君と目線を交えた。久しく目にすることが出来なかった彼女の目は、地獄絵図を品定めする時のあの目と同じ色をしていた。火雁は頭を垂れた。

「私は、その鼠が哀れとは思いません」

 火雁は言い終えると、姫君の目を見た。姫君は暫く彼を見つめた後、口角を上げた。笑みを浮かべたまま、鼠の死骸を拾い上げると火雁に命じた。

「医者を呼んでおくれ。鼠に噛まれた指を診て貰いたい」

 姫君はその場から立ち去った。

 去り際に、彼女の長い黒髪が火雁の体を撫でた。




 火雁が思った通り、城内では暫く姫君の噂が絶えなかった。もちろん、露骨な言い方をする者はいないが、鼠の死骸と姫君の傷のことを誰もが知っていた。それは至極当然なことだった。姫君の傷は動物に噛まれたものであることは明白であったし、姫君が治療を受けたその明くる日には、城内の井戸の近くに無惨な鼠の死骸が発見されたのである。

 眉をひそめて熱心に噂話をしている女中達を横目に、火雁はひとり溜息をついた。彼には、姫君がわざわざ井戸の近くに死骸を運んだことが分かっていた。女中達がよく集まる場所を選んだのだろう、ということも。

 姫君は城内のあらゆる生き物を捕まえては同様のことを繰り返した。城内の人々はすっかり縮みあがり、遂には姫君の姉妹達が祈祷師を呼ぶまでに至った。しかし、明火は部屋の扉を固く閉ざし、誰の言葉にも耳を貸さない。火雁は柱の影に立ち、姫君の部屋の前で跪く数人の女中の姿を見ていた。彼女らは皆、肩を落として為す術も無く座り込んでいた。

 すると、突然女中達の顔がぱっと華やいだ。が、それはすぐに困惑した表情へと変わり、柱に隠れた火雁の方へ全ての顔が向けられた。火雁はその場を離れようとしたが、女中の一人が歩み寄って来た。姫君が、火雁をお呼びになっていると言うのだ。火雁は、女中達がさっと身を引いて空いたそこに、片膝を立てて座った。

「火雁、入りなさい」

 火雁だけが、そのやわらかな声に許されて、部屋へ足を踏み入れた。

「こちらへ来なさい。そこに居ては、邪魔者に話を聞かれてしまうからね」

 火雁は障子戸をぴったり閉めると、姫君に言われた通り彼女の傍らに正座した。姫君の横顔は凛と張り詰めていて、障子戸の方を見据えていた。

「火雁。お前の目には、私がどう見える」

 押し込めた声で、姫君は問うた。

 火雁は腿の上で拳を握った。視線は眼前の主にのみ定め、その人が発した言葉を慎重に咀嚼していた。

「私には、何かおぞましいものが憑いているのか。皆が恐れるのであれば、私は、私の知らぬ内に物の怪になっているのだろう。と、正気の私は思うたのだが……」

 明火は目線だけを火雁の方に寄こした。脇息に肘を置き、さらに手の甲に頭を乗せた。気だるげな物腰。試すような視線。火雁は、姫君と目線を交えた。

「いいえ。貴女様は常に正しくあらせられます」

 火雁は疑うことを知らぬ子のような目で、そう言った。姫君は静かに火雁の言葉に耳を傾けていた。

 そして、音も立てず笑った。

「火雁」

「はい」

「そこにいる女中達を連れて、下がりなさい」

 火雁は手を付いて頭を下げると、部屋を去った。




 姫君は動物への惨い仕打ちを止めた。地獄絵図の収集も止め、今まで火雁が献上した物を眺めては物思いに耽る日々を過ごしていた。

 火雁が姫君の言葉を代弁して祈祷師を追い返すと、城内から慌しい空気が徐々に小さくなっていったが、人々は変わらず腫れ物に触るような態度で姫君に接した。

 そのうち、迫る冬を感じさせる風が明月の国にも吹き始めた。今年の秋は豊作に恵まれ、長く厳しい冬を越えるだけの食糧を得られたため、人々は安心して冬を迎える準備をしていた。

 しかし、明月の国とは真逆に、凶作に喘ぐこととなった山向こうの国が、食糧を求めてやって来たのだった。敵は略奪の限りを尽くし、ついに城内に侵入してきた。明月の兵らはそれに応戦し、相手の兵の多さに圧倒された。

 傷つき倒れた明月の兵は、夜空に駆ける幾千もの矢を見た。矢の先に炎が灯るのをその目に認めた時には、城が赤々と燃えていたのだった。


 火雁は傷ついた体で、城内を走っていた。目的の部屋の前まで来ると、躊躇いも無く障子戸を開けた。

 肩で息をし、火雁は部屋の中央に直立している姫君の後ろ姿を見つめた。火雁が口を開こうとすると、姫君が寝間着を翻し彼の方に体を向けた。

「やはりこの国は小さいな。すぐに攻め落とされてしまった」

「……」

「愚かだ」

 誰に対してか、姫君はひどく落ち着いた、平生通りの声音で言った。火雁は唾を飲み、荒く息をしながら姫君に歩み寄った。

「姫様、一刻も早くここを、出るべきで御座います。今ならまだ火も迫って来ておりませ……」

「火雁、昨年の春のことを憶えているか」

 姫君は火雁の目を見据えて言った。




 その年の春は、なかなか暖かさがやって来ない日が続いた。桜の蕾も春を待っていたが、いつまでも冷え込んでいた。明火が世話役の者に黙って部屋を出た日も、同じように寒かった。

 雪が降った日も梅が咲いた日も、御身体が冷えますと言っては部屋の中に囲った女中達に、明火は嫌気がさしていた。それが幾日も続き、明火の口から思わず溜息が漏れた。この重苦しい着物を捨てて何処かに飛び出したい。そういった衝動に駆られ、そして、ふと思ったのである。望めば、自らの足で何処へでも飛び出せるではないかと。

 明火は、明け方にこっそりと自室から出た。誰にも告げずに外へ飛び出すなど今までしたことがなかったが、不思議と罪悪も後悔も感じられなかった。青い影が薄く伸び、木々は密やかに揺れていた。

裏口の小さな扉から、外へ出ようとした時だった。

 ぐん、と大きな力に手を引かれたのである。

 明火は驚いて後ろを振り返った。すると、そこにはひどく当惑した若い男の顔があった。見張り役の者なのだろうか、その男は明火の手を掴んでいた手を地面に付き、彼女の前に跪いた。

 ――無礼を、お許し下さい。

 彼は、名を火雁と言った。

 明火は動揺している男を見て意地の悪い笑みを見せた。ここで叫べば全てがこの人のせいになるだろうか。いや、それよりも、もっと上手く使うべきだ。

 明火は男の手を引いて裏口の扉を開けた。


 明火は道のある所をひたすら歩いた。何処へ続いているやも知れぬ所を自らの足が赴くままに。明火はこの辺りの道を一切知らなかったが、それでも何の不安もなく歩けたのは男の存在によるものが大きい。それに、例えこのまま迷い、飢えて、死んでしまうと想像しても何の恐怖も無かった。自分は、心のどこかしらでそれを望んでいるのだろうか、とぼんやり考えながら歩いていると、急に道が開けた。

 そこには、古い寺があった。夜明けの薄闇にあるのは静けさのみ。

 明火は開け放たれた本堂の中に足を踏み入れた。男も後ろからついて来ているようだった。

 暗く闇に沈んだ本堂。本尊が安置されている所以外は、壁に一面掛け軸が掛けられていた。入って左手の方へ行って見ると、掛け軸に描かれていたのは赤い炎が燃え上がる、地獄絵図だった。針山に身を貫かれ、血の池に溺れ、あらゆる苦痛をもって生前の罪を償う場所――明火は我が身を抱きかかえ、体の芯で何かが脈打つのを感じた。

 明火は右手の方へも行った。そこは左手とは打って変わって、美しい極楽絵図だった。明火は一通り見て回ると、もう一度地獄絵図の前に舞い戻った。 そうして、ここの存在を誰かから聞いたことがあったな、と明火は脳裏によぎらせた。女中達からだろうか、姉上からだろうか。誰からかは不明だが、本堂の絵図がこの時期にしか開放されないと聞いたことは記憶にあった。

 若い男は本堂の入り口に立って、きょろきょろと目線を泳がせている。明火は彼に目をやり、手招きをした。強張った表情のまま、男は躊躇いがちに姫君の側に行った。

「ひがん、で良かったかな」

 男は、はい、と言い頷いた。姫君は口角を上げ、彼女の黒い双眼は男の目を真っ直ぐに捉えた。

「お前、これよりも美しい絵図を知っているか」

 明火は、眼前に広がる地獄を指差して言った。地獄の炎がそこに燻っていた。




 辺りに立ち込め始めた煙に、火雁は弾かれたように過去の記憶から覚めた。火雁が叫ぼうとすると、姫君の声がそれを遮った。

「あの時見張り役だったのがお前で良かった。いや、誰が見張りをしていようと私はあの扉を開けていただろうがね……しかし、私一人ではあの寺に辿り着いていたかどうか」

 火雁は、姫君に掛けるべき言葉を探していた。しかし、彼がそれを見つけても、全て見透かしているかのように姫君が火雁を真正面から見据えた。その視線は口を開く隙を与えない。

「私は、どうして私がここに在るのか分からない。あの日――地獄と極楽に二分された世界を目にしたあの日、私は思うたのだ。誰が、私達を裁くのだろうとね」

 放たれた矢の先から城壁へ炎が移る。それらは意志を持った生き物のように城を呑み、空気を取り込んでは大きく育っていく。人々は惑い、火を消すより逃げるのに急ぐ。

「ある時、私は部屋に入ってきた小さな虫を潰した。その虫は呆気なく死んだ。他でもない、私の手によって。私達人間は、小さな生き物の生と死を、それらの運命を自由に操ることが出来る。……私達にとって、あまりにも矮小な存在に過ぎぬからだ」

 炎は赤く燃え上がり、城を呑み込むその度に火の粉を散らす。姫君と火雁、二人きりの城内にそれを止められる者はいない。

 業火は衰えることを知らず、二人のもとへその手を伸ばそうとしていた。

「雀も鼠も、いとも容易く死んだ。しかし、腹を裂いても、まだ中のものは動いていた。しばらくすると完全に冷たくなって、動かなくなってしまったが……。私はその時、絵ではない本物の生き物の体を見た。それは全て、私に絵以上の物事を教えてくれたのだ。動いていた。切ると血が溢れてきた。鳴いていた。生臭い匂いがした。……温かかった。私は極楽の絵図を見て、あまりに綺麗なそれに違和を感じた。地獄の絵図は悍ましく救いようがなく、これが本当なのだと私に示したのだ。故に私はこの世のものは全て、醜さと美しさを合わせ持って、正しく在るのだと知った」

 ぱきぱきと乾いた音がした。火雁が顔をそちらに向けると、炎が辺りを囲み始めていた。

 しかし、姫君は尚も続けた。姫君には、これが執拗に焦がれた地獄の炎に見えているのだろうかと火雁は呆然としていた。

「死んだ鼠に何を思うか、他の人間を試してみたくなった。あの鼠が哀れではないと言ったのは、お前だけだったよ、火雁。お前も見ただろう、あの女中達を。あの鼠を哀れだと言うことは、自分達を哀れだと言うことと同じだ。皆、それを知らない」

「私は、そんなつもりでは……」

 火雁は首を振って否定した。そんな彼を見て姫君は微笑し、彼を慰めるようなやわらかな声で言った。

「私達人間も同じだ。温かい。生きている。しかし、死ねば極楽と地獄に分けられる。私達もまた、操られている。私達の知らない、いや、すでに見知っているのかもしれない、強大な何かにね」

 柱を伝い、天井にまで炎がのぼり始めていた。火雁は堪らず姫君に駆け寄り、彼女の細く美しい腕を取った。このまま彼女と何処かへ逃れよう、そうして火雁が走り出そうとした時だった。

 姫君は、火雁の腕を振りほどいた。

「姫様、早く逃げねば、もう間に合いません」

 火雁は必死だった。もう一度姫君の腕を取って窓から飛び降りようと、障子戸を開けた刹那。

 火雁は背中に手の感触を感じた。そして、彼の身体だけが宙に浮かんだ。

「お前は、私について来てはいけないよ、火雁」

 やわらかな声がした。




 猛火はとどまる所を知らず、夜空を焼かんばかりに燃え上がった。それは一晩中続き、明け方頃、燃え落ちた城の近くに倒れていた火雁は、生き延びた明月の民に助けられた。

 巨木の下で目を覚ました時、枝葉を尻にしいていることに気づき、火雁は自分が生きていることを認めた。


 城は焼け落ち、隣国へ逃亡する者も少なくなかった。残った者で再興を願って行動している最中、火雁は城跡へ足を運んでいた。

 人から聞いた話では、城の者は皆逃げ出せていたようだ。ただ一人、明火姫を除いては。しかし、焼け跡からは死体は見つからなかった。

 火雁は城の焼け跡に立ち、跪いて灰を撫でた。燃え上がったあの業火は、果たして何を焼かんとしたのか。火雁は眉根を寄せた。辺りを見回すと、ふと目に入ったそれに怪訝そうな顔で近づいた。完全には焼けていないそれを瓦礫の下から引きずり出した。

――お前は、私について来てはいけないよ。

 姫君の声が、そこから聞こえた気がした。火雁は顔を目を閉じ、手にしたそれを強く握った。

 彼の手の中で地獄絵図の炎が、くらくらと燃え盛っているかのように歪んだ。

 初雪が灰色の空から舞い落ち、明月の国を白く染めた。








このような拙作を読んで頂きありがとうございます。


一年ほど休んでいた後の初めての作品なので、自分では完成できただけ良かったなとか思っております。



自分では気づかないこともあるので、感想等頂ければ嬉しいです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。



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― 新着の感想 ―
[一言]  初めまして。読ませていただきましたので感想を。  一通り読んでみて印象に残ったのは、やはり文章全体の重厚さと言ったところでしょうか。比較的硬派な文体は作品の雰囲気と合っていて、読み応えも十…
[一言] 読ませていただきました。 とても美しい物語だと思いました。一面、醜悪であるがゆえに、心が強く引きつけられます。火雁の情感が極めて抑制されているのも、良いアクセントになっていると思います。 …
2010/08/13 11:33 退会済み
管理
[良い点] 文章が物語りにマッチしている。 言葉の選び方や淡々としたリズムが物語にあっていたいと思います。雰囲気が出てました。 [気になる点] 良い点と相反しますが… 文章が重過ぎる。 これは「小…
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