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回帰した身代わり王女は護衛騎士の執着から逃げられない

作者: 結生まひろ
掲載日:2026/02/25

 ――私は、王女の身代わりに死んだ。


 それが、私の一度目の人生の結末だった。


 胸を貫いた刃の冷たさも、焼けるような痛みも、冷えていく指先も、はっきり覚えている。

 床に広がる自分の血の匂い。

 視界が暗く沈んでいく中で、私が最後に見たのは暗殺者ではなく――エリーゼ王女の姿だった。


 床に倒れて血を流す私を見ても、彼女は怯えてもいなければ、驚いてすらいなかった。

 ただ、にやける口元を扇で隠し、淡々とこう言ったのだ。


「よかった、最期まで役に立って」


 役に、立った。

 その瞬間、ようやくすべてを理解した。

 この暗殺は、王女自身が仕組んだことだったのか、と。


「私の代わりに、彼の心まで惹きつけてくれてありがとう。これからは、私が彼と二人きりで幸せに生きるから。さようなら」


 王女が笑いながら呟いた言葉を、私は確かに聞いた。


 ――彼?

 心を惹きつけた?

 それは、誰のことを言っているの――?


 そんなことより。寒い。とても、寒い。

 私は、このまま死んでしまうんだ。


 闇に沈む直前、私は心の底から願った。


 もし……もう一度、人生をやり直せるなら。


 次こそは、自分のために、自由に、生きたい――。




     *




「――はっ」


 目を覚ましたとき、私は王宮の寝台に横たわっていた。

 豪華な天蓋。絹のカーテン。上質なシーツに、寝衣。


「……生きている?」


 今のは、夢?

 いいえ。違う。あれは確かに現実だった。

 胸を押さえるけれど、傷はない。血の感触も。


 けれど私は、確かに一度、死んだはずだった。


「……時間が、戻った?」


 しばらくして、理解した。

 だって、それしか考えられない。


 ベッドの上から、窓の外を見る。

 大広間から、明かりが漏れていた。耳を澄ますと、夜会の賑やかな音楽も聞こえてきた。


 夜会の喧騒に紛れて――今夜、私は殺される。


「ということは、このまま何もしなければ、私はまた殺されてしまうの……?」


 手が震える。あのときの冷たい刃の感触が、まだ胸に残っているような気がする。


「……嫌だ。もう、絶対に嫌」


 死にたくない――。


 私は毛布を跳ねのけて、立ち上がった。


「逃げなくちゃ」


 今すぐ、ここを出る。

 王女の影武者なんて、もうやめる!


 そう。私は、王女の影武者を務めていた。

 六年ほど前――十二歳のときに、王宮の人が私を迎えにやってきた。

 どこから聞きつけたのか、私が王女エリーゼ様と顔や背格好が似ているからと。わざわざ王都から遠く離れた小さな村まで来たのだ。


 でも、それも今日で最後。

 面倒なことはいつも私にやらせるのに、社交の場に出るのはエリーゼ様、本人だった。



「……今しかない」


 外は薄暗い。みんな夜会に夢中で、警備は薄い。今のうちに、ここを出なくちゃ。


 私は急いで支度を整え、音を立てないように部屋を出た。

 廊下は静まり返っている。巡回の間の、わずかな空白の時間。


「よし、行くわよ……!」


 私はスカートの裾を持ち上げ、小走りで進んだ。

 角を曲がって、裏の回廊に出れば――!


 そのときだった。


「どこへ行かれるのですか?」

「……!」


 低い声が、背後から落ちた。

 まるで首筋に冷たい刃を押し当てられたかのように、全身が強張る。

 心臓が大きく跳ね、喉の奥までせり上がってきた。

 逃げ場を塞がれた、と本能が告げていた。


「……」


 恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのは――私(王女)の護衛騎士、カイル・シュタークだった。


 長身の体躯は廊下の燭台(しょくだい)の灯りを受け、壁に長い影を落としている。

 鍛え抜かれた無駄のない身体、背筋をまっすぐ伸ばした姿勢、わずかな隙もない立ち方。

 静かなのに、近寄りがたい威圧感を纏い、いつもと同じ無表情。

 艶のある黒髪に、夜の闇のように深い紫色の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。


「エリーゼ様。お一人で、どこに行かれるのです?」

「……えーっと」


 彼に見つかったら、もう逃げられない。

 カイルは、王宮でも指折りの実力を持つ護衛騎士だ。剣技はもちろん、足の速さも、隙のなさも、どれを取ってもずば抜けている。


 ……終わった。


 彼は今、本物の王女の護衛のために、大広間にいるはずなのに。

 ああ、王女はどうなったの? 私が逃げ出したことが、もうばれてしまったの?


 いや――暗殺の時間までは、まだあるはずだ。

 諦めない。


 私は、ぎゅっと拳を握りしめた。

 こうなったら、本当のことを話すしかない。

 どうせ、このままここにいたら――私は殺されてしまうのだから。


「……実は、私……王女じゃないの」


 言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。

 こんな話、信じてもらえるだろうか。

 いえ、仮に信じてくれたとしても、「そうですか、ではどうぞお逃げください」とはならないだろう。


 ああ……どうして、こんな馬鹿正直なことを。

 もっと、もっとましな言い訳があったでしょうに。

 でも、考える余裕なんてなかった。

 逃げられないと思った瞬間、頭の中が真っ白になってしまったのだ。


「何――?」


 カイルの眉が、ほんのわずかに動いた。


「本当なの! お願い、信じて!」

「……」


 こうなったら、もう祈るしかない。

 私は、(すが)るように言葉を重ねた。


「私は、田舎の村で母と二人で暮らしていたの。でもある日、王宮から使いが来て……王女の影武者になれって、連れてこられたの! 顔も背格好も似ているからって、それだけの理由で!」

「……」


 彼は何も言わない。ただ黙って、私を見ている。

 その沈黙が、恐ろしい。疑われているのがわかる。


「完璧になりすますために、魔法を使って、特訓もして、声も仕草も全部、覚えたの。歩き方も、癖も、笑い方も……だから、見分けがつかないだけなの!」


 言いながら、胸が苦しくなった。

 あの日々を思い出してしまう。

 間違えれば罰。失敗すればやり直し。本物と同じになるまで、終わらない訓練。

 それでも、王宮からの命令に、逆らえるはずがなかった。


「……」


 カイルは、まだ黙っている。

 彼とは、入浴と睡眠と、社交場に出る時間以外、ほとんど一緒に過ごしてきた。

 王女として振る舞う私を、誰よりも近くで見てきた人だ。

 楽しい会話をしたことはほとんどないけれど、それでも、私という人間の何かを、感じ取ってくれているはずだ。


 だから、お願い……!

 信じて――!!


「……なるほど」


 彼はしばらく何も言わずに私の顔をじっと見た後、小さく呟いた。


「信じます」

「え?」


 あまりにあっさりと告げられ、思考が止まった。

 信じてもらえない前提で必死に言葉を並べていた私のほうが、ぽかんと固まってしまう。


「以前から違和感はありました」


 静かな声だった。けれど、その一言には迷いがなかった。


「違和感?」

「仕草は完璧なのに、時々……別人のような表情をする」

「……っ」


 その言葉に、胸が跳ねた。

 ばれていたの……?

 必死に王女になりきっていたつもりなのに。


「安心してください。そんなことに気づいたのは、俺くらいでしょう」

「そ、そうなのね……」


 淡々とした声。誇るでも、責めるでもなく、ただ事実を述べるだけの口調。

 思わず肩の力が抜ける。


 さすが、カイル。誰よりも近くにいて、誰よりも冷静に見ていて、そして誰よりも鋭い。


「し、信じてくれてありがとう……」


 これ以上ここにいてはいけない。そう思い、私は踵を返した。


「そういうことだから、私はもう行くね」


 早く行かなければ、見回りの衛兵が来てしまう。

 そう思ったけれど。


「待て――」

「え?」


 次の瞬間、カイルに腕を掴まれた。

 力強く、逃がさないと告げるように。

 振り払おうとしても、びくともしない。鍛えられた騎士の手は、まるで鉄の枷のようだった。


「逃がしませんよ」

「……」


 真剣な顔。まっすぐで鋭い視線。そこに、迷いは一切ない。


 逃がしてくれない……?


 やっぱり、勝手に王女の影武者をやめるなんて、許されるはずがない。

 このまま私は、処罰されてしまうの? 牢に入れられる? それとも、もっと重い罰――?


 冷たいものが背筋を這い上がる。


「一人では」


 ……ん?

 けれど、続けられたカイルの言葉に、私の頭は一瞬混乱する。


「俺は、あなたの護衛です」


 ……うん?


「だから、私は王女ではなくて……」

「それはわかりました」

「じゃあなんで!?」


 思わず声が裏返る。


「あなたが誰であろうと、俺が守ると決めたのは、あなたです」

「……!?」


 一瞬、息が止まった。

 意味がわからない。

 この人は、〝王女である私〟の護衛だった。

 王女だから守る義務があった。王命に従っていたはずだ。

 なのに、私が王女ではないと知っても、守る?

 どういう理屈?


「私はただの平民なの。村娘なの……! お願いだから、私を逃がして……!」


 私がいなくなっても、この存在を知る者はごくわずか。

 カイルですら知らされていなかったのだから、逃げても彼は処罰されないはず。

 だから、必死に訴える。


 自由になりたい。

 母に会いたい。

 普通に生きたい。

 死にたくない――。


 その一心で。


「一緒に行きます」

「えっ」

「あなたがここを出ていくのなら、俺も一緒に出ていきます」

「…………ええええええっ!?」


 驚きのあまり、思い切り声を上げてしまった。

 しまった、と口を押えたときには、もう遅い。

 廊下の奥から、甲冑の擦れる音と足音が響いた。


「誰だ?」


 衛兵だ――。


「こちらへ」

「……っ」


 カイルが私の手を強く引く。

 半ば抱き寄せるようにして物陰へと滑り込み、壁のくぼみに身を押し込まれる。


「……」


 近い。

 距離が、近すぎる。

 彼の厚い胸板が目の前にあって、吐息が頬にかかる。


「……行ったようですね」


 衛兵の足音が遠ざかったのを確認して、彼が小さく呟いた。


 私はそっと顔を上げる。

 すぐ目の前に、紫色の瞳と、長いまつ毛。

 よく見たら……いや、よく見なくても。カイルはとても整った、美しい顔をしている。


「……ねぇ」

「はい」

「なんで、一緒に逃げるの?」


 本当にわからない。

 そんなことをしたら、彼だって処罰される。騎士の地位も、名誉も、すべて失うかもしれない。

 それなのに――。


「あなたを一人で逃がすわけにはいきませんよ」

「だから、どうして?」


 問い詰めるように見上げると、一瞬の沈黙の後、カイルは呟くように口を開いた。


「……これでようやく、触れてもいい存在になったのですから」

「え……?」


 なに、それ。

 まるで独り言のような、小さな声だった。けれど、どこか熱を帯びている。


 触れてもいい、存在……?

 それって、どういう意味?


 次の質問は、声にならなかった。


 視線が絡む。逃げられない距離。

 空気が、妙に甘く感じる。


 ――近い。

 前よりも、明らかに、距離が近い。


「とにかく、逃げましょう」


 何事もなかったかのように、カイルは私の手を取った。


「え……う、うん」


 戸惑いながら頷くと、そのまま導くように走り出すカイル。

 王宮の裏門を抜け、夜の闇を切り裂くように。私たちは、無事王宮を抜け出した。


 カイルのおかげで、すんなりと王宮を出ることができた。私一人だったら、たぶんもっと苦戦していたはずだ。


 でも、なんだか……思っていた逃亡と、違う。

 一人で、もっと必死で、もっと怖くて、もっと孤独だったはずなのに。

 隣にいるカイルの存在が、妙に近くて……甘い。

 握られている手の熱に、色んな意味で心臓がドキドキと大きく脈を打つ。



 これから私たちは、どうなってしまうのだろう。




     *




「――あの女はどこに行ったの!? どうしていないのよ!?」


 喉がちぎれそうなほど叫んでも、返事はない。

 そこに響くのは自分の声と、靴音と、そして――剣がゆっくりと床を擦る、ぞっとするような金属音だけだった。


 それは、とある夜会の日の出来事だった。煌びやかな灯り、笑い声、音楽。

 楽しい場には、いつも私が参加していた。だから、今夜もそうだった。

 そうしている間に、私の影武者であるあの女が、殺されるはずだった。


 ――それなのに。


「違う、あなたが殺すのは、私じゃない!」

「……」


 目の前には、フードを深く被った暗殺者。手元には、抜かれた剣。鋭く光る刃先が、まっすぐこちらを向いている。


 本来なら、ここに立っているのはあの影武者だったのに。暗殺が成功したか確認するため、会場を抜け出し、あの女の部屋に来たら――そこには誰もいなかった。


 その直後、暗殺者はやってきた。


 殺されるのは、あの女のはずだった。

 なのに、いない。

 消えた。


 計画は完璧だったのに。



 ――私はこの国の王位継承者。


 男児は生まれず、父王の血を最も色濃く引いている私が、次に王冠を戴く可能性が高い。

 その理由で、私の命は狙われる。

 王弟派の者はもちろん、王位争いに乗じて国を揺さぶりたい他国の密偵まで。


 だから用意されたのが、影武者だった。


 嫌な公務、面倒な式典、危険な場所への視察――そういうときは、全部あの女に任せてきた。


 私は楽しい社交の場にだけ顔を出し、称賛を浴び、好きな相手と踊り、笑い、気ままに過ごしてきた。


 他人のくせに、私とよく似ていたあの女が、少し不気味だった。

 魔法でより似せているようだったけど、それにしても似すぎていたから。


 だから、面倒なことは全部あの女に任せてきたけれど――。


 まさか、護衛騎士のカイルまで惚れさせてくれるとは、思っていなかった。

 彼は本来、私の護衛のはずなのに。私を守るためにいるはずだったのに。

 なのに、彼はあの女を見ていた。あの女を見るカイルの目が、他とは違った。


 私は幼い頃からずっと、五つ年上のカイルのことが好きだった。


 だから、気づいてしまったのよ。カイルがあの女に惹かれていることに。


 腹立たしかったし、屈辱だった。


 本物の王女は私なのに!


 あの女はもう、十分な仕事をしてくれた。私の代わりに信用を得て、私の代わりにカイルの心まで引き寄せてくれた。


 だから、もう用済み。

 命を狙われる王女には、もう疲れた。


 どんなに地位があっても、顔がよくても、カイルには敵わない。

 他の男じゃ、物足りない。つまらない。


 やっぱり私は、カイルが欲しい。


 だから、次期王の座はもういらないから、邪魔な女には〝王女〟として消えてもらって、これからはカイルと二人、ひっそりと幸せに暮らそうと思った。


 私が、〝あの女〟として――。


 お父様から何不自由なく暮らせる額のお金をもらいながら、カイルに愛されて。

 あの女には、最後まで影武者として、立派に役割を果たしてもらおう。


 そう思い、暗殺者を自ら手配し、〝王女〟を仕留めさせるはずだった。


 私はカイルと、ひっそりと幸せに暮らすために――。


「それなのに……どうして!?」


 喉が震える。視界が歪む。

 どうして、私なのよ……!


「やめて、待って! 私は本物の王女よ! 私があなたを雇ったのよ!!」


 叫んでも、剣を持つ男の表情は変わらない。冷たい目。迷いのない歩み。

 恐怖が喉を締める。息が浅くなる。足が動かない。

 護衛もいない。逃げ場も、ない。

 私が手配した暗殺者は優秀だった。大金で雇われ、命令だけを遂行する。

 どんな弁解も、聞き入れないよう命令したのは、私だ。


「こんなはずじゃ……」


 よくやく理解した。

 自分がしようとしていたことの危うさを。


「あの女が逃げ出さなければ、完璧なはずだったのに……」


 身代わりがいなければ、自分が死ぬ。


 そんな当たり前のことを、どうして今まで考えなかったのだろう。

 あの女が常にそこにいたから。危険はすべて引き受けてくれたから。

 まさかあの女が逃げるなんて、想像もしなかった。


 私はただ、守られる側でいられたから――。


 後悔が胸を(えぐ)る。

 でも、もう遅い。


「いや……っ、やめて……!」


 刃が、静かに持ち上げられた。




     *




 王宮を遠く離れた、とある宿。

 逃げることに必死で、気づけば夜も更けていた。


 宿の主に、部屋はひとつしか空いていないと告げられたとき、私は思わず固まった。


 いや、仕方ない。わかっている。逃亡中だし、私はあまりお金がないし、何より彼は護衛なのだから。


 ……わかっているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。


「……本当に、同じ部屋なの?」


 恐る恐る問いかけると、カイルは平然とした顔で頷いた。


「危険がある以上、離れるわけにはいきませんし。ちょうどいいです」

「で、でも……寝るのに?」

「もちろん」


 即答だった。

 あまりに迷いがなさすぎて、こちらのほうが恥ずかしくなる。


 私は視線のやり場に困り、部屋の隅に置かれた小さなベッドを見つめた。


 ……ひとつしかない。しかも、一人用の大きさ……。


「俺は床で寝ます」


 そう言って、彼はさっとマントを外し、慣れた手つきで床に敷こうとする。

 それを、私は慌てて止めた。


「だ、だめよ……! あなたが床で寝るなんて!」

「では一緒に?」

「そ、それもだめ……!」


 声が裏返った。

 彼はわずかに目を見開き、それから小さく笑った。


「……!」


 カイルがこうしてやわらかく笑ったのは、初めて見た。

 以前の、職務に徹する冷静な騎士とはまるで別人みたいだ。


「……あなた、変わったわね」


 思わずこぼすと、彼は静かに首を傾げた。


「そうですか?」

「前はもっと、こう……距離があったというか」

「距離を置く必要がなくなりましたからね」


 さらりと言われて、胸がどくんと高鳴った。

 どういう意味なのか聞き返す勇気はなくて、私はただ視線を落とす。

 すると彼は少しだけ近づいてきて、そっと私の頬に触れた。


「……寒くないですか?」


 それだけのことなのに、カイルの指先の温度を、やけに意識してしまう。

 彼が私の頬に触れてくることなんて、これまで一度もなかった。


「だ、大丈夫……!」

「寒かったら言ってください。あなたを守るのが、俺の役目ですから」


 低く、落ち着いた声。けれどその響きは、どこか甘くて、優しくて――胸の奥がくすぐったくなる。


「寒いって言ったら、どうするの?」

「それはもちろん、俺があたためてさしあげます」

「……っ」


 俺があたためるって……どんなふうに? とは、聞けない。


 結局、彼はベッドの端に腰かけ、私は壁際に小さく丸まる形で横になった。


 それでも、近い。彼の身体が大きすぎて、ベッドが小さく感じる。

 少し動けば触れてしまいそうな距離に、心臓が落ち着かない。


「……眠れませんか?」


 暗がりの中で、彼が静かに問いかける。


「うん……」


 正直に答えると、しばらく沈黙が続いた。

 そして次の瞬間、あたたかなものがそっと肩にかけられた。

 彼のマントだった。


「安心してください。ここには誰も来ません。それに、俺がいます」


 その言葉は、不思議なくらい心に沁みた。


 今まで、私は〝王女〟として守られる存在だった。

 王女の影武者として、危険の前に立たされることもあった。


 けれど、今は違う。私が王女ではないとわかっても、彼は一緒にいてくれる。〝私〟を守ると言って。


「……どうして、王女ではないのに、私と一緒にいてくれるの?」


 思わず、聞いてしまった。

 暗闇の中、彼はすぐに答えなかった。

 やがて、ためらうように。それでもこちらを向いて、はっきりとした声で言った。


「あなたが、あなただからです」

「なに……それ」


 胸がぎゅっと締めつけられる。

 言葉の意味を確かめる前に、彼の手がそっと私の手を包んだ。

 あたたかくて、大きくて、逃げ場をなくすみたいに優しくて……でも、不思議と落ち着く。


「もう二度と、不安な思いはさせませんよ」

「……うん」


 その声に、ドキドキするけれど。不思議と、安らぎを感じた。

 カイルは、私が一度死んだことなんて、知らないはずなのに。

 逃げる理由を深く聞かずに、理解してくれた。



 私は、すべてを捨てて、逃げてきたのに。

 カイルが隣にいてくれたら、不思議なくらい安心して眠れそうだった。


「ひとつだけ、お聞きしたいことがあります」

「なぁに?」

「あなたの……本当の名前を、教えてください」

「……」


 そうか。私はずっと、エリーゼ王女を名乗っていたから。本当の名前も、彼は知らないのだ。


「……リーゼ。私の名前は、リーゼよ」

「リーゼ……そうですか、リーゼ」


 彼は噛みしめるように、私の名前を何度も呟いた。

 少し照れくさいようなくすぐったさを覚える。

 名前まで似ているなんて、本当に不思議よね。


 ……それにしても、これからどうなってしまうのだろう。

 不安よりも、ずっと大きな期待を抱いたまま、私はそっと彼の手を握り返して、目を閉じた。




     *




 彼女がエリーゼ王女ではないと知ったとき、胸の奥で何かがほどける音がした。


 ……いや、違う。

 ほどけたんじゃない。ずっと張りつめていたものが、ようやく切れたのだ。


 俺は、彼女が好きだ。


 手を伸ばせば届く距離にいるのに、絶対に手を出してはいけない人。

 守ることだけを許された存在。


 命を差し出してもいいと思えるほど大切なのに、その想いを抱くことすら罪だと思っていた相手。


 それが、彼女だった。


 違和感は、ずっとあった。


 昔のエリーゼ様は、我儘で傲慢な王女だったから。


 だが、あるときから、彼女がどこかやわらかくなったのだ。

 威厳よりも先に、優しさが滲むようになった。人の痛みに、あまりにも無防備に心を寄せる彼女に、俺は惹かれていった。


 ずっと近くで見てきた俺だから、気づけた。彼女の、王女へのなりすましは見事なものだった。


 大人になって変わったのだろうとも思った。

 しかし、社交の場に出るときだけは、昔のような王女であることにも気づき、やはり何かおかしいとは感じていた。


 それでも、彼女と俺は、王女と護衛。

 そういう立場で、必要以上に彼女に近づくことは、できなかった。


 王女に心を奪われるなど、許されるはずがない。


 しかし、この気持ちは止められなかった。


 夜は、彼女の無事を確認してからでないと眠れなかったし、わずかなかすり傷でも、見つければ自分の胸が裂けるように痛んだ。

 誰かが彼女を軽んじる視線を向けるだけで、殺してやりたいほど腹が立った。


 守りたい。

 触れたい。

 抱きしめたい――。


 そんな衝動を、何度押し殺したかわからない。


 彼女は王女だ、手を出してはだめだ、想ってはだめだ。

 いずれ他の男と、結婚する日がくるのだから――。


 そう言い聞かせるたびに、胸の奥で何かが静かに死んでいった。


 だが、それでもいいと思った。

 この想いが報われなくてもいい。

 ただ、彼女が生きていてくれれば、それでいい。


 ……本気で、そう思っていた。


 それなのに。


『私は王女じゃない』


 彼女がそう言った瞬間、世界がひっくり返ったような気持ちになった。


 その言葉を信じるまでに、時間はかからなかった。

 ただ、その事実を受け入れるのに、少し時間がかかっただけ。


 なぜならこれで――俺は、彼女に触れることが許されるのだから。


 これで、他の男に取られることはなくなる。

 これからは守るだけじゃなく、寄り添っていい。

 想いを抱いてもいい。ずっと、隣にいていい。


 俺はそれを、どれほど願っていたことか。


 ようやく――ようやく、許される。


 好きな人を愛していい、触れていい。

 一人の男として、彼女と生きていきたい。


 そう思った瞬間、どうしようもなく嬉しくなった。


「ましてや彼女は、これまでずっと王女の身代わりとして、危険な場に出てきたのか……」


 それを考えると、どうしようもなく胸が痛む。


 しかし、社交の場に出ていたのは、本物の王女ということか――。


 今宵の夜会も、そうだった。

 宝石のような灯りに満ちた広間。甘い酒の香り。音楽。笑い声。肌の出た華やかな衣装。

 そのすべての中心で、王女は笑っていた。


 そんな王女に言い寄る男たちを見るたび、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返してきた。


 近づくな。

 触れるな。

 見るな。

 笑うな。


 触れるな、触れるな触れるな触れるな――彼女に触れるな。


 喉の奥までせり上がる衝動を、いつも押し殺してきた。

 護衛騎士としての役目は、彼女を守ることだ。彼女に言い寄る高位貴族の男を排除することではない。

 だから俺にできるのは、ただ距離を測り、危険があれば割って入って、形式的に場を終わらせることだけ。


 それ以上は、許されない。

 俺もまた、彼女に触れることは許されない側の人間だった。


 だから王女が男と笑って話しているのも、耳元で甘い誘いを受けているのも、ただ黙って見つめることしかできなかった。


 今宵の男は、良家の子息だった。

 見た目がよく、女性から人気があるようだが――どう見ても、軽い。

 口が上手く、馴れ馴れしい。

 声の調子も、視線も、空気も、すべてが気に入らなかった。


 それでも顔がよく、地位のあるその男に、王女がやわらかく目を細めて笑っているのを見て、胃の奥が焼けるような感覚に襲われた。

 喉の奥に鉄の味が広がり、拳を握りしめすぎて、爪が皮膚に食い込んだ。


 それでも俺は、二人がこっそりと部屋に消えていくのを、ただ黙って見つめることしかできなかった。


 彼女が入った部屋の前。

 閉ざされた扉――。


 手を伸ばしかけて、止まる。俺に、開ける資格はない。


 ……なのに。

 聞いて、しまった。


 やわらかな笑い声と、唇を合わせているような、甘い吐息。


『もう……焦らないで?』


 彼女のあんな声、知らない。


 衣擦れの音と、男が何かを囁く言葉。


 ――抱かれている。

 触れられている。撫でられている。俺ではない男の腕の中にいる――。


 俺が一生届かないと思っていた場所に、他の男がいる。


 はらわたが煮えくり返る、という表現では足りなかった。

 胸をかきむしられるような痛み。

 血管が一本ずつ弾けるような圧迫感。

 立っていることすら苦しくて、おかしくなってしまいそうだった。


 だから頭を冷やすために、王宮裏の回廊へ向かった。

 そのままそこにいたら、俺は扉を壊して中に入り――あの男を殺していたかもしれない。


 冷たい夜風が頬を撫で、涙を攫っていった。


 ――しかし。

 そこに、彼女はいた。


 先ほどまでの、男を誘うような煌びやかなドレスではなく、身軽なワンピース姿で。


 一瞬、理解が追いつかなかった。

 あの男は?

 もう、終わったのか?

 それとも――。


 胸が締めつけられる思いで、俺は口を開いた。


〝どこへ行かれるのですか?〟


 そして、真実を聞いた。


 つまり――。

 男と部屋へ消えたのは、俺が好きな〝彼女〟ではなかったということだ。


 安堵が、全身を満たした。


 俺のリーゼは、誰にも触れられていない。

 誰にも奪われていない。

 誰のものにもなっていない。


 そういうことだ。


 胸の奥に沈殿していた黒い感情が、一気にほどけた。



 俺はこの先も、絶対に彼女から離れることはない。

 何があっても、絶対に彼女を守ってみせる。


「絶対に、離さない――」


 隣で無防備に眠るリーゼのやわらかい髪をそっと手に取り、口づけ――そう、強く誓った。



お読みいただきありがとうございます!

私は、騎士×聖女や、騎士×姫のような、絶対に手を出してはいけない守るべき相手というシチュエーションが大好きでして。特に、愛が重い護衛騎士が!たまらなく好きでして!愛は重ければ重いほどいいと思います。


私も好きだよ!という方がいたら嬉しいです(握手)

ブックマークや評価の☆☆☆☆☆を★★★★★に塗りつぶしてくださると、執筆の励みになります!( ;ᵕ;)

皆様の応援にいつも支えられております。



『王女との浮気現場に突入したら、なぜか婚約者からの溺愛が始まりました』

https://ncode.syosetu.com/n5967lr/

勘違いから始まるラブコメです!本日完結したので、よかったらこちらも覗いていただけると嬉しいです!\(^^)/

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― 新着の感想 ―
こういう死に戻り系のお話は、戻る前の世界線で主人公の死後、周囲がどうなったのかが気になります。 この王女はそちらの世界線でもざまぁ状態になっていたんだろうなーと。 だって、カイルの心は王女に無かった訳…
このようなシンプルでストレートでスラスラ読める短編も良いですね!私も好きです!
おばか王女、さすがに駆け落ち後の資金までは王はくれないんじゃない?回帰前もこりゃ、破滅してそう。
感想一覧
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