回帰した身代わり王女は護衛騎士の執着から逃げられない
――私は、王女の身代わりに死んだ。
それが、私の一度目の人生の結末だった。
胸を貫いた刃の冷たさも、焼けるような痛みも、冷えていく指先も、はっきり覚えている。
床に広がる自分の血の匂い。
視界が暗く沈んでいく中で、私が最後に見たのは暗殺者ではなく――エリーゼ王女の姿だった。
床に倒れて血を流す私を見ても、彼女は怯えてもいなければ、驚いてすらいなかった。
ただ、にやける口元を扇で隠し、淡々とこう言ったのだ。
「よかった、最期まで役に立って」
役に、立った。
その瞬間、ようやくすべてを理解した。
この暗殺は、王女自身が仕組んだことだったのか、と。
「私の代わりに、彼の心まで惹きつけてくれてありがとう。これからは、私が彼と二人きりで幸せに生きるから。さようなら」
王女が笑いながら呟いた言葉を、私は確かに聞いた。
――彼?
心を惹きつけた?
それは、誰のことを言っているの――?
そんなことより。寒い。とても、寒い。
私は、このまま死んでしまうんだ。
闇に沈む直前、私は心の底から願った。
もし……もう一度、人生をやり直せるなら。
次こそは、自分のために、自由に、生きたい――。
*
「――はっ」
目を覚ましたとき、私は王宮の寝台に横たわっていた。
豪華な天蓋。絹のカーテン。上質なシーツに、寝衣。
「……生きている?」
今のは、夢?
いいえ。違う。あれは確かに現実だった。
胸を押さえるけれど、傷はない。血の感触も。
けれど私は、確かに一度、死んだはずだった。
「……時間が、戻った?」
しばらくして、理解した。
だって、それしか考えられない。
ベッドの上から、窓の外を見る。
大広間から、明かりが漏れていた。耳を澄ますと、夜会の賑やかな音楽も聞こえてきた。
夜会の喧騒に紛れて――今夜、私は殺される。
「ということは、このまま何もしなければ、私はまた殺されてしまうの……?」
手が震える。あのときの冷たい刃の感触が、まだ胸に残っているような気がする。
「……嫌だ。もう、絶対に嫌」
死にたくない――。
私は毛布を跳ねのけて、立ち上がった。
「逃げなくちゃ」
今すぐ、ここを出る。
王女の影武者なんて、もうやめる!
そう。私は、王女の影武者を務めていた。
六年ほど前――十二歳のときに、王宮の人が私を迎えにやってきた。
どこから聞きつけたのか、私が王女エリーゼ様と顔や背格好が似ているからと。わざわざ王都から遠く離れた小さな村まで来たのだ。
でも、それも今日で最後。
面倒なことはいつも私にやらせるのに、社交の場に出るのはエリーゼ様、本人だった。
「……今しかない」
外は薄暗い。みんな夜会に夢中で、警備は薄い。今のうちに、ここを出なくちゃ。
私は急いで支度を整え、音を立てないように部屋を出た。
廊下は静まり返っている。巡回の間の、わずかな空白の時間。
「よし、行くわよ……!」
私はスカートの裾を持ち上げ、小走りで進んだ。
角を曲がって、裏の回廊に出れば――!
そのときだった。
「どこへ行かれるのですか?」
「……!」
低い声が、背後から落ちた。
まるで首筋に冷たい刃を押し当てられたかのように、全身が強張る。
心臓が大きく跳ね、喉の奥までせり上がってきた。
逃げ場を塞がれた、と本能が告げていた。
「……」
恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのは――私(王女)の護衛騎士、カイル・シュタークだった。
長身の体躯は廊下の燭台の灯りを受け、壁に長い影を落としている。
鍛え抜かれた無駄のない身体、背筋をまっすぐ伸ばした姿勢、わずかな隙もない立ち方。
静かなのに、近寄りがたい威圧感を纏い、いつもと同じ無表情。
艶のある黒髪に、夜の闇のように深い紫色の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
「エリーゼ様。お一人で、どこに行かれるのです?」
「……えーっと」
彼に見つかったら、もう逃げられない。
カイルは、王宮でも指折りの実力を持つ護衛騎士だ。剣技はもちろん、足の速さも、隙のなさも、どれを取ってもずば抜けている。
……終わった。
彼は今、本物の王女の護衛のために、大広間にいるはずなのに。
ああ、王女はどうなったの? 私が逃げ出したことが、もうばれてしまったの?
いや――暗殺の時間までは、まだあるはずだ。
諦めない。
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。
こうなったら、本当のことを話すしかない。
どうせ、このままここにいたら――私は殺されてしまうのだから。
「……実は、私……王女じゃないの」
言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。
こんな話、信じてもらえるだろうか。
いえ、仮に信じてくれたとしても、「そうですか、ではどうぞお逃げください」とはならないだろう。
ああ……どうして、こんな馬鹿正直なことを。
もっと、もっとましな言い訳があったでしょうに。
でも、考える余裕なんてなかった。
逃げられないと思った瞬間、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
「何――?」
カイルの眉が、ほんのわずかに動いた。
「本当なの! お願い、信じて!」
「……」
こうなったら、もう祈るしかない。
私は、縋るように言葉を重ねた。
「私は、田舎の村で母と二人で暮らしていたの。でもある日、王宮から使いが来て……王女の影武者になれって、連れてこられたの! 顔も背格好も似ているからって、それだけの理由で!」
「……」
彼は何も言わない。ただ黙って、私を見ている。
その沈黙が、恐ろしい。疑われているのがわかる。
「完璧になりすますために、魔法を使って、特訓もして、声も仕草も全部、覚えたの。歩き方も、癖も、笑い方も……だから、見分けがつかないだけなの!」
言いながら、胸が苦しくなった。
あの日々を思い出してしまう。
間違えれば罰。失敗すればやり直し。本物と同じになるまで、終わらない訓練。
それでも、王宮からの命令に、逆らえるはずがなかった。
「……」
カイルは、まだ黙っている。
彼とは、入浴と睡眠と、社交場に出る時間以外、ほとんど一緒に過ごしてきた。
王女として振る舞う私を、誰よりも近くで見てきた人だ。
楽しい会話をしたことはほとんどないけれど、それでも、私という人間の何かを、感じ取ってくれているはずだ。
だから、お願い……!
信じて――!!
「……なるほど」
彼はしばらく何も言わずに私の顔をじっと見た後、小さく呟いた。
「信じます」
「え?」
あまりにあっさりと告げられ、思考が止まった。
信じてもらえない前提で必死に言葉を並べていた私のほうが、ぽかんと固まってしまう。
「以前から違和感はありました」
静かな声だった。けれど、その一言には迷いがなかった。
「違和感?」
「仕草は完璧なのに、時々……別人のような表情をする」
「……っ」
その言葉に、胸が跳ねた。
ばれていたの……?
必死に王女になりきっていたつもりなのに。
「安心してください。そんなことに気づいたのは、俺くらいでしょう」
「そ、そうなのね……」
淡々とした声。誇るでも、責めるでもなく、ただ事実を述べるだけの口調。
思わず肩の力が抜ける。
さすが、カイル。誰よりも近くにいて、誰よりも冷静に見ていて、そして誰よりも鋭い。
「し、信じてくれてありがとう……」
これ以上ここにいてはいけない。そう思い、私は踵を返した。
「そういうことだから、私はもう行くね」
早く行かなければ、見回りの衛兵が来てしまう。
そう思ったけれど。
「待て――」
「え?」
次の瞬間、カイルに腕を掴まれた。
力強く、逃がさないと告げるように。
振り払おうとしても、びくともしない。鍛えられた騎士の手は、まるで鉄の枷のようだった。
「逃がしませんよ」
「……」
真剣な顔。まっすぐで鋭い視線。そこに、迷いは一切ない。
逃がしてくれない……?
やっぱり、勝手に王女の影武者をやめるなんて、許されるはずがない。
このまま私は、処罰されてしまうの? 牢に入れられる? それとも、もっと重い罰――?
冷たいものが背筋を這い上がる。
「一人では」
……ん?
けれど、続けられたカイルの言葉に、私の頭は一瞬混乱する。
「俺は、あなたの護衛です」
……うん?
「だから、私は王女ではなくて……」
「それはわかりました」
「じゃあなんで!?」
思わず声が裏返る。
「あなたが誰であろうと、俺が守ると決めたのは、あなたです」
「……!?」
一瞬、息が止まった。
意味がわからない。
この人は、〝王女である私〟の護衛だった。
王女だから守る義務があった。王命に従っていたはずだ。
なのに、私が王女ではないと知っても、守る?
どういう理屈?
「私はただの平民なの。村娘なの……! お願いだから、私を逃がして……!」
私がいなくなっても、この存在を知る者はごくわずか。
カイルですら知らされていなかったのだから、逃げても彼は処罰されないはず。
だから、必死に訴える。
自由になりたい。
母に会いたい。
普通に生きたい。
死にたくない――。
その一心で。
「一緒に行きます」
「えっ」
「あなたがここを出ていくのなら、俺も一緒に出ていきます」
「…………ええええええっ!?」
驚きのあまり、思い切り声を上げてしまった。
しまった、と口を押えたときには、もう遅い。
廊下の奥から、甲冑の擦れる音と足音が響いた。
「誰だ?」
衛兵だ――。
「こちらへ」
「……っ」
カイルが私の手を強く引く。
半ば抱き寄せるようにして物陰へと滑り込み、壁のくぼみに身を押し込まれる。
「……」
近い。
距離が、近すぎる。
彼の厚い胸板が目の前にあって、吐息が頬にかかる。
「……行ったようですね」
衛兵の足音が遠ざかったのを確認して、彼が小さく呟いた。
私はそっと顔を上げる。
すぐ目の前に、紫色の瞳と、長いまつ毛。
よく見たら……いや、よく見なくても。カイルはとても整った、美しい顔をしている。
「……ねぇ」
「はい」
「なんで、一緒に逃げるの?」
本当にわからない。
そんなことをしたら、彼だって処罰される。騎士の地位も、名誉も、すべて失うかもしれない。
それなのに――。
「あなたを一人で逃がすわけにはいきませんよ」
「だから、どうして?」
問い詰めるように見上げると、一瞬の沈黙の後、カイルは呟くように口を開いた。
「……これでようやく、触れてもいい存在になったのですから」
「え……?」
なに、それ。
まるで独り言のような、小さな声だった。けれど、どこか熱を帯びている。
触れてもいい、存在……?
それって、どういう意味?
次の質問は、声にならなかった。
視線が絡む。逃げられない距離。
空気が、妙に甘く感じる。
――近い。
前よりも、明らかに、距離が近い。
「とにかく、逃げましょう」
何事もなかったかのように、カイルは私の手を取った。
「え……う、うん」
戸惑いながら頷くと、そのまま導くように走り出すカイル。
王宮の裏門を抜け、夜の闇を切り裂くように。私たちは、無事王宮を抜け出した。
カイルのおかげで、すんなりと王宮を出ることができた。私一人だったら、たぶんもっと苦戦していたはずだ。
でも、なんだか……思っていた逃亡と、違う。
一人で、もっと必死で、もっと怖くて、もっと孤独だったはずなのに。
隣にいるカイルの存在が、妙に近くて……甘い。
握られている手の熱に、色んな意味で心臓がドキドキと大きく脈を打つ。
これから私たちは、どうなってしまうのだろう。
*
「――あの女はどこに行ったの!? どうしていないのよ!?」
喉がちぎれそうなほど叫んでも、返事はない。
そこに響くのは自分の声と、靴音と、そして――剣がゆっくりと床を擦る、ぞっとするような金属音だけだった。
それは、とある夜会の日の出来事だった。煌びやかな灯り、笑い声、音楽。
楽しい場には、いつも私が参加していた。だから、今夜もそうだった。
そうしている間に、私の影武者であるあの女が、殺されるはずだった。
――それなのに。
「違う、あなたが殺すのは、私じゃない!」
「……」
目の前には、フードを深く被った暗殺者。手元には、抜かれた剣。鋭く光る刃先が、まっすぐこちらを向いている。
本来なら、ここに立っているのはあの影武者だったのに。暗殺が成功したか確認するため、会場を抜け出し、あの女の部屋に来たら――そこには誰もいなかった。
その直後、暗殺者はやってきた。
殺されるのは、あの女のはずだった。
なのに、いない。
消えた。
計画は完璧だったのに。
――私はこの国の王位継承者。
男児は生まれず、父王の血を最も色濃く引いている私が、次に王冠を戴く可能性が高い。
その理由で、私の命は狙われる。
王弟派の者はもちろん、王位争いに乗じて国を揺さぶりたい他国の密偵まで。
だから用意されたのが、影武者だった。
嫌な公務、面倒な式典、危険な場所への視察――そういうときは、全部あの女に任せてきた。
私は楽しい社交の場にだけ顔を出し、称賛を浴び、好きな相手と踊り、笑い、気ままに過ごしてきた。
他人のくせに、私とよく似ていたあの女が、少し不気味だった。
魔法でより似せているようだったけど、それにしても似すぎていたから。
だから、面倒なことは全部あの女に任せてきたけれど――。
まさか、護衛騎士のカイルまで惚れさせてくれるとは、思っていなかった。
彼は本来、私の護衛のはずなのに。私を守るためにいるはずだったのに。
なのに、彼はあの女を見ていた。あの女を見るカイルの目が、他とは違った。
私は幼い頃からずっと、五つ年上のカイルのことが好きだった。
だから、気づいてしまったのよ。カイルがあの女に惹かれていることに。
腹立たしかったし、屈辱だった。
本物の王女は私なのに!
あの女はもう、十分な仕事をしてくれた。私の代わりに信用を得て、私の代わりにカイルの心まで引き寄せてくれた。
だから、もう用済み。
命を狙われる王女には、もう疲れた。
どんなに地位があっても、顔がよくても、カイルには敵わない。
他の男じゃ、物足りない。つまらない。
やっぱり私は、カイルが欲しい。
だから、次期王の座はもういらないから、邪魔な女には〝王女〟として消えてもらって、これからはカイルと二人、ひっそりと幸せに暮らそうと思った。
私が、〝あの女〟として――。
お父様から何不自由なく暮らせる額のお金をもらいながら、カイルに愛されて。
あの女には、最後まで影武者として、立派に役割を果たしてもらおう。
そう思い、暗殺者を自ら手配し、〝王女〟を仕留めさせるはずだった。
私はカイルと、ひっそりと幸せに暮らすために――。
「それなのに……どうして!?」
喉が震える。視界が歪む。
どうして、私なのよ……!
「やめて、待って! 私は本物の王女よ! 私があなたを雇ったのよ!!」
叫んでも、剣を持つ男の表情は変わらない。冷たい目。迷いのない歩み。
恐怖が喉を締める。息が浅くなる。足が動かない。
護衛もいない。逃げ場も、ない。
私が手配した暗殺者は優秀だった。大金で雇われ、命令だけを遂行する。
どんな弁解も、聞き入れないよう命令したのは、私だ。
「こんなはずじゃ……」
よくやく理解した。
自分がしようとしていたことの危うさを。
「あの女が逃げ出さなければ、完璧なはずだったのに……」
身代わりがいなければ、自分が死ぬ。
そんな当たり前のことを、どうして今まで考えなかったのだろう。
あの女が常にそこにいたから。危険はすべて引き受けてくれたから。
まさかあの女が逃げるなんて、想像もしなかった。
私はただ、守られる側でいられたから――。
後悔が胸を抉る。
でも、もう遅い。
「いや……っ、やめて……!」
刃が、静かに持ち上げられた。
*
王宮を遠く離れた、とある宿。
逃げることに必死で、気づけば夜も更けていた。
宿の主に、部屋はひとつしか空いていないと告げられたとき、私は思わず固まった。
いや、仕方ない。わかっている。逃亡中だし、私はあまりお金がないし、何より彼は護衛なのだから。
……わかっているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
「……本当に、同じ部屋なの?」
恐る恐る問いかけると、カイルは平然とした顔で頷いた。
「危険がある以上、離れるわけにはいきませんし。ちょうどいいです」
「で、でも……寝るのに?」
「もちろん」
即答だった。
あまりに迷いがなさすぎて、こちらのほうが恥ずかしくなる。
私は視線のやり場に困り、部屋の隅に置かれた小さなベッドを見つめた。
……ひとつしかない。しかも、一人用の大きさ……。
「俺は床で寝ます」
そう言って、彼はさっとマントを外し、慣れた手つきで床に敷こうとする。
それを、私は慌てて止めた。
「だ、だめよ……! あなたが床で寝るなんて!」
「では一緒に?」
「そ、それもだめ……!」
声が裏返った。
彼はわずかに目を見開き、それから小さく笑った。
「……!」
カイルがこうしてやわらかく笑ったのは、初めて見た。
以前の、職務に徹する冷静な騎士とはまるで別人みたいだ。
「……あなた、変わったわね」
思わずこぼすと、彼は静かに首を傾げた。
「そうですか?」
「前はもっと、こう……距離があったというか」
「距離を置く必要がなくなりましたからね」
さらりと言われて、胸がどくんと高鳴った。
どういう意味なのか聞き返す勇気はなくて、私はただ視線を落とす。
すると彼は少しだけ近づいてきて、そっと私の頬に触れた。
「……寒くないですか?」
それだけのことなのに、カイルの指先の温度を、やけに意識してしまう。
彼が私の頬に触れてくることなんて、これまで一度もなかった。
「だ、大丈夫……!」
「寒かったら言ってください。あなたを守るのが、俺の役目ですから」
低く、落ち着いた声。けれどその響きは、どこか甘くて、優しくて――胸の奥がくすぐったくなる。
「寒いって言ったら、どうするの?」
「それはもちろん、俺があたためてさしあげます」
「……っ」
俺があたためるって……どんなふうに? とは、聞けない。
結局、彼はベッドの端に腰かけ、私は壁際に小さく丸まる形で横になった。
それでも、近い。彼の身体が大きすぎて、ベッドが小さく感じる。
少し動けば触れてしまいそうな距離に、心臓が落ち着かない。
「……眠れませんか?」
暗がりの中で、彼が静かに問いかける。
「うん……」
正直に答えると、しばらく沈黙が続いた。
そして次の瞬間、あたたかなものがそっと肩にかけられた。
彼のマントだった。
「安心してください。ここには誰も来ません。それに、俺がいます」
その言葉は、不思議なくらい心に沁みた。
今まで、私は〝王女〟として守られる存在だった。
王女の影武者として、危険の前に立たされることもあった。
けれど、今は違う。私が王女ではないとわかっても、彼は一緒にいてくれる。〝私〟を守ると言って。
「……どうして、王女ではないのに、私と一緒にいてくれるの?」
思わず、聞いてしまった。
暗闇の中、彼はすぐに答えなかった。
やがて、ためらうように。それでもこちらを向いて、はっきりとした声で言った。
「あなたが、あなただからです」
「なに……それ」
胸がぎゅっと締めつけられる。
言葉の意味を確かめる前に、彼の手がそっと私の手を包んだ。
あたたかくて、大きくて、逃げ場をなくすみたいに優しくて……でも、不思議と落ち着く。
「もう二度と、不安な思いはさせませんよ」
「……うん」
その声に、ドキドキするけれど。不思議と、安らぎを感じた。
カイルは、私が一度死んだことなんて、知らないはずなのに。
逃げる理由を深く聞かずに、理解してくれた。
私は、すべてを捨てて、逃げてきたのに。
カイルが隣にいてくれたら、不思議なくらい安心して眠れそうだった。
「ひとつだけ、お聞きしたいことがあります」
「なぁに?」
「あなたの……本当の名前を、教えてください」
「……」
そうか。私はずっと、エリーゼ王女を名乗っていたから。本当の名前も、彼は知らないのだ。
「……リーゼ。私の名前は、リーゼよ」
「リーゼ……そうですか、リーゼ」
彼は噛みしめるように、私の名前を何度も呟いた。
少し照れくさいようなくすぐったさを覚える。
名前まで似ているなんて、本当に不思議よね。
……それにしても、これからどうなってしまうのだろう。
不安よりも、ずっと大きな期待を抱いたまま、私はそっと彼の手を握り返して、目を閉じた。
*
彼女がエリーゼ王女ではないと知ったとき、胸の奥で何かがほどける音がした。
……いや、違う。
ほどけたんじゃない。ずっと張りつめていたものが、ようやく切れたのだ。
俺は、彼女が好きだ。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、絶対に手を出してはいけない人。
守ることだけを許された存在。
命を差し出してもいいと思えるほど大切なのに、その想いを抱くことすら罪だと思っていた相手。
それが、彼女だった。
違和感は、ずっとあった。
昔のエリーゼ様は、我儘で傲慢な王女だったから。
だが、あるときから、彼女がどこかやわらかくなったのだ。
威厳よりも先に、優しさが滲むようになった。人の痛みに、あまりにも無防備に心を寄せる彼女に、俺は惹かれていった。
ずっと近くで見てきた俺だから、気づけた。彼女の、王女へのなりすましは見事なものだった。
大人になって変わったのだろうとも思った。
しかし、社交の場に出るときだけは、昔のような王女であることにも気づき、やはり何かおかしいとは感じていた。
それでも、彼女と俺は、王女と護衛。
そういう立場で、必要以上に彼女に近づくことは、できなかった。
王女に心を奪われるなど、許されるはずがない。
しかし、この気持ちは止められなかった。
夜は、彼女の無事を確認してからでないと眠れなかったし、わずかなかすり傷でも、見つければ自分の胸が裂けるように痛んだ。
誰かが彼女を軽んじる視線を向けるだけで、殺してやりたいほど腹が立った。
守りたい。
触れたい。
抱きしめたい――。
そんな衝動を、何度押し殺したかわからない。
彼女は王女だ、手を出してはだめだ、想ってはだめだ。
いずれ他の男と、結婚する日がくるのだから――。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥で何かが静かに死んでいった。
だが、それでもいいと思った。
この想いが報われなくてもいい。
ただ、彼女が生きていてくれれば、それでいい。
……本気で、そう思っていた。
それなのに。
『私は王女じゃない』
彼女がそう言った瞬間、世界がひっくり返ったような気持ちになった。
その言葉を信じるまでに、時間はかからなかった。
ただ、その事実を受け入れるのに、少し時間がかかっただけ。
なぜならこれで――俺は、彼女に触れることが許されるのだから。
これで、他の男に取られることはなくなる。
これからは守るだけじゃなく、寄り添っていい。
想いを抱いてもいい。ずっと、隣にいていい。
俺はそれを、どれほど願っていたことか。
ようやく――ようやく、許される。
好きな人を愛していい、触れていい。
一人の男として、彼女と生きていきたい。
そう思った瞬間、どうしようもなく嬉しくなった。
「ましてや彼女は、これまでずっと王女の身代わりとして、危険な場に出てきたのか……」
それを考えると、どうしようもなく胸が痛む。
しかし、社交の場に出ていたのは、本物の王女ということか――。
今宵の夜会も、そうだった。
宝石のような灯りに満ちた広間。甘い酒の香り。音楽。笑い声。肌の出た華やかな衣装。
そのすべての中心で、王女は笑っていた。
そんな王女に言い寄る男たちを見るたび、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返してきた。
近づくな。
触れるな。
見るな。
笑うな。
触れるな、触れるな触れるな触れるな――彼女に触れるな。
喉の奥までせり上がる衝動を、いつも押し殺してきた。
護衛騎士としての役目は、彼女を守ることだ。彼女に言い寄る高位貴族の男を排除することではない。
だから俺にできるのは、ただ距離を測り、危険があれば割って入って、形式的に場を終わらせることだけ。
それ以上は、許されない。
俺もまた、彼女に触れることは許されない側の人間だった。
だから王女が男と笑って話しているのも、耳元で甘い誘いを受けているのも、ただ黙って見つめることしかできなかった。
今宵の男は、良家の子息だった。
見た目がよく、女性から人気があるようだが――どう見ても、軽い。
口が上手く、馴れ馴れしい。
声の調子も、視線も、空気も、すべてが気に入らなかった。
それでも顔がよく、地位のあるその男に、王女がやわらかく目を細めて笑っているのを見て、胃の奥が焼けるような感覚に襲われた。
喉の奥に鉄の味が広がり、拳を握りしめすぎて、爪が皮膚に食い込んだ。
それでも俺は、二人がこっそりと部屋に消えていくのを、ただ黙って見つめることしかできなかった。
彼女が入った部屋の前。
閉ざされた扉――。
手を伸ばしかけて、止まる。俺に、開ける資格はない。
……なのに。
聞いて、しまった。
やわらかな笑い声と、唇を合わせているような、甘い吐息。
『もう……焦らないで?』
彼女のあんな声、知らない。
衣擦れの音と、男が何かを囁く言葉。
――抱かれている。
触れられている。撫でられている。俺ではない男の腕の中にいる――。
俺が一生届かないと思っていた場所に、他の男がいる。
はらわたが煮えくり返る、という表現では足りなかった。
胸をかきむしられるような痛み。
血管が一本ずつ弾けるような圧迫感。
立っていることすら苦しくて、おかしくなってしまいそうだった。
だから頭を冷やすために、王宮裏の回廊へ向かった。
そのままそこにいたら、俺は扉を壊して中に入り――あの男を殺していたかもしれない。
冷たい夜風が頬を撫で、涙を攫っていった。
――しかし。
そこに、彼女はいた。
先ほどまでの、男を誘うような煌びやかなドレスではなく、身軽なワンピース姿で。
一瞬、理解が追いつかなかった。
あの男は?
もう、終わったのか?
それとも――。
胸が締めつけられる思いで、俺は口を開いた。
〝どこへ行かれるのですか?〟
そして、真実を聞いた。
つまり――。
男と部屋へ消えたのは、俺が好きな〝彼女〟ではなかったということだ。
安堵が、全身を満たした。
俺のリーゼは、誰にも触れられていない。
誰にも奪われていない。
誰のものにもなっていない。
そういうことだ。
胸の奥に沈殿していた黒い感情が、一気にほどけた。
俺はこの先も、絶対に彼女から離れることはない。
何があっても、絶対に彼女を守ってみせる。
「絶対に、離さない――」
隣で無防備に眠るリーゼのやわらかい髪をそっと手に取り、口づけ――そう、強く誓った。
お読みいただきありがとうございます!
私は、騎士×聖女や、騎士×姫のような、絶対に手を出してはいけない守るべき相手というシチュエーションが大好きでして。特に、愛が重い護衛騎士が!たまらなく好きでして!愛は重ければ重いほどいいと思います。
私も好きだよ!という方がいたら嬉しいです(握手)
ブックマークや評価の☆☆☆☆☆を★★★★★に塗りつぶしてくださると、執筆の励みになります!( ;ᵕ;)
皆様の応援にいつも支えられております。
『王女との浮気現場に突入したら、なぜか婚約者からの溺愛が始まりました』
https://ncode.syosetu.com/n5967lr/
勘違いから始まるラブコメです!本日完結したので、よかったらこちらも覗いていただけると嬉しいです!\(^^)/




