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神様、ごめんなさい・6

 筆者初の長編です。

 ありそうもない話ですが、あり得る話です。

 物語の内容は暗いですが、ちょっと変わった登場人物らが、漫才の掛け合いのごとくギャグを連発します。殺伐としたストーリーを、軽快なギャグで笑い飛ばしながら書く、というコンセプトです。

 こわいもの見たさで、読んでいただければ幸いです。

16.

 惨劇のあった日の夜、梨奈の姉、梨紗がやって来て、2階で何やらアキと話し込んでいた。

 私は姉と顔を合わせるのが嫌で、階下で息を潜めていた。

 後でアキが言うには、警察官らが現場に着いた時、その場には、9人の男たちの遺体と、舞台の上で震えながら座っている梨奈が一人でいたという。

 梨奈は、当初、保護という名目で警察署に連れて行かれたが、現場に落ちていたナイフの柄の指紋と梨奈のものとが一致したこと、梨奈が返り血を浴びている状況から、直ちに梨奈を殺人の被疑者と断定し、緊急逮捕となった。現場及び周辺の捜索、聴き込みなどの捜査が続けられ、並行して梨奈への取り調べもなされているが、梨奈は放心状態で一言も喋らないらしい。

 姉は、依頼できる弁護士のあてがない、ということで、アキが知り合いの弁護士に連絡。すると、その弁護士がさらに別の弁護士を紹介したとかで、その弁護士が翌朝、接見に行くことになった。


 翌日、再び梨紗が来て、接見を終えた弁護士と、アキの知り合いの弁護士とが2階に集まった。

 打ち合わせが終わると、アキが降りて来て、「隠れてねえで、挨拶くらいしな。」

 「あの姉さんは、苦手ですよ。」

 「姉さんは、帰った。」

 2階に上がると、弁護士らしき人物、中年の男が一人だけ居た。

 「弁護士のセクハラ先生だ」と、アキ。

 「せきはら、です」と、男。「私の名前は関原です。」

 「ども」と挨拶して着席する。「弁護士さん、もう一人いらっしゃったよね?」

 「梨奈の弁護人は帰った」と、アキ。

 「梨奈さんは、どうなんです?」

 「どう、とは?」と、アキ。

 「元気?」

 すると、関原弁護士が、「一応、元気らしいです。しかし、接見した宮下弁護士の話では、全く話をしないそうで、弁護士に対しても、黙ったまま、一向に口を開かない。取り調べを担当する警察官の話では、完全な黙秘を続けているそうですが。」

 この弁護士は、私とおっさんが現場に居たこと、おっさんが仕掛け人だということを知っているのかな?

 「あの、すみません」と、私。「警察の捜査は、どれくらい進んでるんでしょうね? 現場の捜索やら、周辺の聴き込みやらで、何か分かったことがあるんですかね?」

 「それは、わかりませんね。捜査の進展状況は秘密ですから。私らにも教えてくれません。」

 「あ、そうですか」と言って、私は、高級椅子に座るアキを、思い切り意味ありげな目つきで見上げる。

 アキは何も言わないので、関原弁護士が帰ってから、アキに、「おっさんと、私のことは、弁護士は知ってるの?」

 「知らねえ」と、アキ。「ところで、お前、前科あるか?」

 「ありませんよ。これまでの人生で、警察につかまったことなんか、ないです。」

 「そうか。んじゃ、現場でお前の指紋が見つかっても、誰のものか分からんわけだな」と、のたまう。

 しかし、現場から離れる時、誰かに見られてないかな?

 当時、それを気にしている余裕などなかったが、たまたま通りがかった人に、しっかりと顔を見られてないかな?

 不安げにしている私に向かって、アキ、「心配すんな。お前は、大丈夫さ。」

 「そういう根拠は?」と、問うと、

 「ねーよ。」


 梨奈が勾留されて20日目、9人の犠牲者のうち、一人について公訴が提起された。

 関原弁護士によれば、これまで梨奈は黙秘を貫いていて、宮下弁護士にも、全く口を開かないという。そのため、どのような取り調べがなされているのか、捜査の進展状況など、梨奈から得られる情報が全くないので、弁護人も方針の立てようがなく、何もできなまま虚しく時間が過ぎていった。

 姉も2、3日おきに接見に行ったが、梨奈は黙したまま一言も喋らないという。「あの子は、そういう子です。一度だんまりを決め込んだら、決して話そうとはしないでしょうね」とは、梨紗の弁。

 むしろ、この事件について饒舌に語っているのは、報道機関。

 私は、おっさんや私のことが何か報道されていないか、一日中、ネットでチェックしたが、ふたりの存在は全く知られていない模様。警察は、目撃情報を求めているそうだが、何も得られていないらしい。

 「おっさん、どこ行った?」

 おっさんからの連絡がない。電話にも出ない。どこに隠れているんだろ?

 

 関原弁護士からの報告。

 本件は重大事案だが、裁判員裁判にならない、という。

 理由は、公判前整理手続を経た結果、審判に要すると見込まれる期間が著しく長期にわたること、さらに公判期日が著しく多数になることが避けられないから、とのこと。検察官によれば、9人の犠牲者のうち、1、2人についてのみ起訴し、あとは余罪として扱う、というのではなく、9人全員についてきっちり公訴を提起することにする、というわけだ。殺された一人一人について、しっかり起訴するべきだ、単なる余罪扱いでは死者が浮かばれない、ということらしい。しかし、それには、ものすごい時間が掛かる。なにしろ、犠牲者の全員について、いちいち、どのように殺されたのか、犯行態様を明らかにしないといけない。9体を司法解剖し、具体的な殺され方を明らかにするには時間が掛かろうというものだ。しかも、9人の得体が知れない。身元を確認するだけでも大変な手間だ。

 結果、追起訴が出そろうまで、数ヶ月を要するらしい。


 「それもさることながら」と、関原弁護士。「御蔵梨奈、というのは、偽名らしい。検察官から宮下弁護士に、『本名を知らないか、本籍はわからないか』、という問い合わせがあったらしい。そこで、あの姉と称する梨紗さんに訊いたところ、実の妹ではないそうだ。十数年前、無戸籍の少女を引き取って、妹として面倒をみてきた、というんだ。あの梨紗という女、その辺の経緯について詳しく聞こうとすると、言葉を濁して、あまり話してくれないそうだ。そして、自分も梨奈の本当の名前は知らないって言うんだな。いったい、どうなってるんだか。」

 「無戸籍って、ほんとかな?」と、アキ。

 「どうだか。しかし、実の姉だろうと、なかろうと、梨奈のこれまでの人生や、人となりについて語れる唯一の人物が、あの梨紗っていう女だから、取り調べも受けたし、宮下弁護士は、情状証人を依頼する予定でいる。」

 「梨紗が、情状証人?」アキが、あからさまに不快な表情を浮かべる。「無罪主張するんじゃねえのか?」

 「当然、弁護方針としては、とりあえず無罪主張する。しかし、無罪は無理だろうね。無罪を貫いて、最後まで情状弁護せずに済ますってわけにもいかんだろう。どこかの時点で方針を転換して、情状弁護に切り替えなきゃならんだろうが、どこで切り替えるか、難しい判断になるな。」

 私は、宮下弁護士とは、直接会って話を聞くことはしなかった。時々訪ねてくる関原弁護士からの報告を聞きながら、成り行きを心配する。おっさんと、私の存在は、浮かび上がっていないのかな?

 私の不安を察したのか、アキが、「警察は、単独犯ってえ見立てなのかい? 共犯はいねえのか?」

 すると、関原弁護士、「当然、共犯者がいるはずだ、と誰もが思っている。だけど、本人が何も言わないから、事件の全容がさっぱりわからない。殺された9人と被告人の関係は? 全く無関係の9人が一堂に集まって殺されているが、あの人たちは現場で何してたんだ? そもそも被告人が9人を殺した動機は? 事件に至る経緯もわからん。誰かこの事件をお膳立てした仕掛け人がいるはずなんだが、それは誰なんだ? 全部がなぞだ。わけわからん。」

 それを聞いても、私の不安は一向に消えない。


 第1回公判期日。

 傍聴人が大勢来そうなので、朝早くから裁判所の前に並ぶ。

 幸い、傍聴席の隅っこに席を確保することができた。傍聴席はすぐに満席になり、大勢が門前払いとなった。報道機関も来ている。

 しかし、梨紗の姿はない。

 開廷時間。

 3人の裁判官、年配の裁判長を挟んで、壮年の男の右陪席と、若い女性の左陪席が入廷。

 廷内の全員、一斉に起立。

 着席後、奥の扉が開いて、梨奈が現れた。腰に紐を巻かれて、手錠をはめられている姿を見るのは、何となく嫌だった。弁護人席の前で、腰紐を解かれ、手錠を外される間、梨奈は大人しく職員の指示に従っている。その表情から感情を読み取ることはできなかった。

 梨奈、裁判長の面前に立つ。顔は真っ直ぐ水平を保っている。

 人定質問の際、裁判長は、起訴状の写真と本人とを見比べて本人であることを確認する。

 裁判長から、これから審理が始まる旨が告げられ、型どおり、黙秘権の告知があって、起訴状が読み上げられる。検察官の声は小さく、早口で事務的に読み上げるので、傍聴席の後ろの方では、よく聞き取れない。

 裁判長、梨奈に、「今読み上げた事実は、間違いないですか?」


 すると、静寂の廷内に、梨奈が、息をすうーっと吸い込む音がした。

 弁護人、検察官、裁判官たち、私、「まさか」という思いで梨奈を見る。

 廷内に、「それは、私がしたことです」という、梨奈の、よく通る、明瞭な声が響いた。

 驚きの波紋が広がった。

 弁護人は、目を見張って梨奈を見つめていたが、かろうじて動揺を隠すことはできていた。

 検察官は、呆気に取られた風ではあるが、ただ黙っている。

 驚きの表情をあからさまに見せたのは、裁判長。「それは」と、梨奈の顔を不審の目で見ながら、「間違いない、ということですか?」

 梨奈、答えない。

 すると、左陪席が、優しい声で、ゆっくりと、「起訴状に書かれたことは、あなたのしたことに間違いない、ということで、いいのですか?」

 梨奈、少し顔を右の方に向けて、「はい」と、明確な発音で答える。

 弁護人、深く息を吐いて、腕組みをする。

 裁判長、「弁護人のご意見は?」

 宮下弁護士、立ち上がり、「認否は留保します。」

 裁判長、「留保? この場で、ご意見はいただけないのですか?」

 「実は、今の被告人の供述は、全く想定外でして。これまで、被告人は、黙秘を続けておりまして、接見の際にも私に何も語ってくれませんでした。ですので、被告人の意思確認もできていません。」

 「しかし、被告人本人が今、自白したわけですから。」と、裁判長。

 「それは、そうですが、被告人の自白は想定外です。被告人から、全く事情も聴き取れていない状況で、ここで直ちに弁護方針を決めることは困難です。弁護人という立場上、軽々に意見を述べることはできません。」

 3人の裁判官、お互いの顔を見合わせ、何やら相談すると、「では、弁護人の意見は、留保。」そして、裁判長、書記官に、「今のやりとり、調書に記載を。」

 なんちゅう展開、とは思ったものの、梨奈の自白で、なんか、少し、気が抜けた感じ。

 傍聴人の多くは、事態が飲み込めなかったろう。構わず、審理は進む。

 次は、検察官の冒頭陳述。しかし、なんとも珍妙な冒頭陳述で終わった。なにしろ、事件に至る経緯は不明。犯行動機も不明。わかっているのは、被告人が被害者をナイフで刺し殺した、ということのみ。起訴状の公訴事実の記載とさして変わらない事実が淡々と述べられ、検察官の証拠申請へ。

 被告人の供述調書は存在しない。供述調書といえば、梨紗のものがあるだけだが、弁護人はその取り調べに同意しなかった。結果、出された証拠書類は、捜査報告書の類のみで、この日の審理は終わった。

 閉廷後、検察官が、宮下弁護士に、「先生が、被告人を説得したのかと思いましたが、違うんですか?」

 宮下弁護士、無言で首を横に振った。



17.

 「おい、つぶやん」と、第1回公判期日から数日経たころ、アキが私を呼ぶ。「これ見てみな。」

 再びパソコンで闇サイトを見せられる。

 例の、誘引の動画が始まる。その画面が暗転すると、赤い文字で、「これを見て、集まった者たちの運命」と出る。そして、事件の現場で撮影された映像が始まった。

 動画は巧みに編集されていた。

 舞台上で両手を縛られているかに見える梨奈、そして、その舞台に男たちが近付いて行くところから始まる。一度、画面が真っ暗になり、再び明かりが点いたと思うや、画面は梨奈の視点に切り替わっていた。

 最初の犠牲者の背後に、駆け足で接近する映像。画面の下からナイフを持った手が突き出され、男の背中に深々と刃が刺し入れられる。間髪を入れず、ナイフが抜かれ、男が崩折れる。

 続けて、別の角度から撮られた映像に変わる。対象は同じだが、今度は梨奈の視点ではなく、天井の方から俯瞰で撮られたカット。背後から男に梨奈が駆け寄り、背中をひと突きするところが映し出される。

 ひとつひとつのカットは短い。リズミカルな編集で、梨奈の視点、客観的な視点が、交互に入れ替わり、次から次へと犠牲者が突き刺され、倒れて行く様が軽快なテンポで流れて行く。

 事情を知らない人が見たら、よくできた娯楽映画の一部だと思うだろう。

 男子トイレに隠れたニット帽の男を探すシーンなど、梨奈が、個室トイレのドアを、ひとつひとつ、順番に開けて行くところなんぞは、見ていてハラハラする、なかなかのサスペンスだ。

 編集がうますぎて、見ていて実に爽快。梨奈に刺されて男が倒れる度に、思わず、歓声を上げたくなる。

 しかし、事件は大々的に報道された。梨奈の顔も世間に広く知られている。

 これを見た人が、報道と、この動画を関連づけたら、これが本物の犯行現場を写したものだと、わかってしまうんじゃないのか?

 「おっさん。なんてこと、やらかしてくれたのさ」と、私。「こんなこと、企んでたのか。」

 「と、いうことだ」と、アキ。「ま、ろくなもんじゃねえな。」

 

 それから数日後、関原弁護士が、「検察官から、動画の証拠調べの申請があった。」

 「どんな動画だ?」と、白々しく、アキ。

 「まだ見てないが、なんでも犯行の状況をつぶさに撮影したものなんだそうだ。」

 すると、アキ、「見たい?」

 「え?」

 「見えるよ。俺のパソコンで」と、アキ、パソコンを開く。

 関原弁護士、パソコンの画面を食い入るように見る。そして、深いため息を、ひとつ。

 「警察官か、検察官が、この動画の存在に気付いたってことだな」と、アキ。「ダークウェブだから、撮影者や編集者を追うのは無理だろう。でも、梨奈の犯行を証明する有力な証拠には、なるよな。」


 追起訴前に、1回公判廷が開かれた。検察官の証拠申請に対し、宮下弁護士は、そんな誰が撮影して誰が編集したかも判らない闇サイトのいい加減な動画なんか、事件との関連性が不明だ、という理由で取り調べに異議を述べたが、裁判所は証拠として採用した。

 その後の追起訴は、とんとん拍子に進んだ。二人目の起訴から、検察官の冒頭陳述に、「被告人は、氏名不詳のなにがしと共謀し、自ら拉致監禁された無抵抗の者を装い動画を作成し、それをインターネット上に公開することで、不特定多数の者を誘引し、参集した者を殺害することを企て、」というくだりが加わった。

 しかし、9件の起訴のうち、1件だけ、冒頭陳述中に、「被害者は被告人を救済する目的で現場に来た可能性もあり、その旨被害者が述べているにもかかわらず、被告人は、その弁明を一顧だにせず、直ちに」犯行に及んだ、という部分が加えられていた。

 「は、はあ。最後に殺された、トレンチコートのことを言っているな」と思ったが、よくもまあ、トレンチコートのそんな幼稚な言い訳を真面目に取り上げたもんだ、と妙に感心した。被告人を悪く言うためなら、どんな材料でもいいわけだ。


 3回目の公判の時、証拠採用された動画が法廷で上映された。

 私は既に見たから、動揺せずに見られるが、初めて見る人は、どうかな?

 裁判官たちは、それぞれの前に置かれたディスプレイに見入る。

 被告人や、傍聴席の人々にも見えるように、大型の液晶パネルが準備された。

 動画が始まる。

 初め、法廷内は静まっていたが、動画が進むにつれて、どよめきが広がる。

 梨奈が犠牲者を刺すたび、傍聴席から、何とも形容し難い呻き声、小さな悲鳴、息を飲む音など、種々様々な悲痛な音声が発せられた。

 ところが、動画の後半ころになると、傍聴人らの発する声は、悲哀の色を薄めて行き、次第に歓声に近いものになっていく。

 廷内の人々、書記官、廷吏までもが、興奮した表情で、画面に展開する惨劇を熱心に観賞している。

 そして、最後の犠牲者が刺され、倒れた後、画面が暗転すると、傍聴席から拍手がわき上がった。

 「拍手は、やめてください」と、裁判長が制止する。

 私は、動画を見る梨奈の様子が気になって、終始、そっと様子をうかがっていた。すると、梨奈が、動画の終了時、わずかに片手を上げて、ぎゅっと拳を握り、密かにガッツポーズを取るのを見逃さなかった。

 

 さて、審理の方はというと、4回の公判を経て、9人分の追起訴が全部出揃った。

 それに伴い、検察側から、身元の判明した被害者の遺族の供述調書の証拠調べ申請があった。宮下弁護士の話では、当然予想できることではあるが、いずれの遺族のものも、理由、動機はどうあれ、大切な家族を殺されたことは許し難く、被告人の極刑を望む、という内容らしい。弁護人としては、そんな話を法廷でやられてはたまらんので、全部取り調べに同意した。

 そこで、弁護人の立証は、という段になり、宮下弁護士は、梨紗を証人申請した。

 検察官は、異議を述べず、採用された。

 今から思えば、これが大失敗だったわけだ。


 それはともかく、私は、ひたすら、おっさんの行方が気になっていた。

 とはいえ、全く手掛かりがないでは、探しようもない。

 ビリッヒ先生も、雲隠れを決め込んでおられる。

 打つ手なし。

 悶々としながら最後の公判期日を迎える。

 宮下弁護士と、梨紗との間で、どのように打ち合わせがなされたのか、私は知らない。ただ、後から聞いた話では、梨紗はひたすら梨奈を庇う態度に終始しており、「あの子は、本質的に優しい子なんです。ただ、もう、優しすぎて、不正義が許せないんです。この度のことも、あんな動画を見て集まる連中が許せなかったのでしょう。でも、それは、あの子の優しさの現れというべきなんです。」というようなことを、涙ながらに切々と語ったという。そういう話をするだけなら、情状証人として、ふさわしかったと言えるだろう。


 さて、公判も、5回目となると、既に世間の関心は薄れ、傍聴席に空きが目立つようになる。

 梨奈は、自白後も、他の言葉は一切語らない。これまで、公判の度に、裁判長から、いいかげん、名前と本籍を明らかにしても良いのではないかと促されたが、黙したまま返答しない。一度、左陪席が、目一杯優しい態度で、犯行の動機について尋ねたが、梨奈は完全に無視して、左陪席を落胆させた。

 結局、梨奈がこれまでに発した音声は、「それは、私がしたことです」と、「はい」の二言だけで、取り調べにおいても、公判廷においても、他に一切言語を発していないことになる。

 開廷時間。手錠姿の梨奈が現れ、腰紐、手錠をはずされ、弁護人席の前に着席。

 型通りに審理の開始が告げられ、いよいよ梨紗さんのご登場となる。

 裁判長が、証人は在廷しているか、と問う。

 梨紗が傍聴席で立ち上がり、バーの中に招き入れられる。

 梨紗は、優雅な身動きで証人席の前に立つと、裁判長から、氏名、住所は宣誓書のとおりかと訊かれ、そのとおりと答える。

 梨紗、明瞭かつ、少し気取った声色で、宣誓書を読み上げた。

 裁判長、宣誓に反して故意に嘘の証言をすると偽証罪に問われることがある旨を注意する。

 着席。

 「では、弁護人、どうぞ」と、裁判長。

 宮下弁護士、立ち上がり、証人席に向かって、「では、弁護人からおうかがいします」と、一呼吸置いてから、「証人と、被告人の関係を述べてください。」

 「一応、姉妹、ということになっております。」梨紗は、淡々と答える。

 「でも、実の姉妹ではないですよね。」

 「ええ。でも、梨奈は、実の妹同然です。いえ、実の妹以上です。」

 「いつから、そういう関係です?」

 「梨奈が、まだ幼いころです。この子は、戸籍のない子でしてね。私が引き取って面倒を見ました。」

 「その辺の経緯を、少し語っていただけませんか?」

 「もう、古い過去のことですので。」

 「そう詳しくなくても良いので。どういった成り行きで、被告人の面倒を見るようになったのです?」

 「当時、私も若くて、夢中でしたので。とにかく必死でした。私も早くに両親をなくしましたので、もう十代の半ばから自活しておりまして、そんな状況の中で、この子と一緒に暮らすようになって。」

 宮下弁護士、言葉の続きを待った。しかし、沈黙が続くので、「そうですか。まあ、とにかく、十数年来、あなたが被告人と同居して、面倒を見てきた、ということですね。」

 梨紗、いささか不快そうに、「そうです。」

 「事件のことについて訊きますが、本件の内容は、ご存知ですか。」

 「ええ、よくわかってます。」

 「被告人、梨奈さん、いや、妹さん、9人もの人を殺したわけですが、いつ事件の内容を知りましたか。」

 「事件後、警察の方に呼ばれて、それで知りました。」

 「知った時、どう思いましたか。」

 「そうですね」と、梨紗は、少し面を上げて、考える風。「驚きは、しませんでした。」

 宮下弁護士、一瞬、考えてから、「驚かなかった、というのですか?」

 「ええ」と、梨紗。「ああ、ついに、という感じですかね。」

 宮下弁護士、困惑して、「こうなることを、予測していたので?」

 「予測なんか、できません。」梨紗は、きっぱりと答える。「この子は、何をしでかすか、わからない子です。この子の行動を予測するなんて、不可能です。」

 「ああ、そうですか。でも、驚かなかった、というのは、つまり」と言うや、

 「何をしでかすか、わからないからこそ、ああ、ついにこんなことをしでかしたか、ということです」と、梨紗が続ける。

 「なるほど、わかりました」と、弁護士。「しかし、被告人のしたこと自体は、驚くべきことと思いますが。被告人は、こんな大事件を起こすような、攻撃的と言うか、つまり、危ない人なんでしょうか。」

 すると、梨紗、弁護人の意図をさとったように、「いいえ。この子は、本当は、優しい子なんです。むしろ、普通の人よりも、はるかに優しい子なんです。この子は、他人の苦しみに無関心でいられないのです。自分とは何の関係もない他人のことでも、人が苦しんでいると、まるで自分の身に起こったことのように、ともに苦しみ、悲しむ子なんです。例えば、どこかの国で、軍隊が市民を虐殺したとします。そういう報道を見たり聞いたりすると、この子は、自分の身内が殺されたように悲しむのです。そして、何とかそれを止められないか、と言って、本当に苦しそうにするのです。私がこの子に、あなたがどうにかできることではないと、いくらそう言い聞かせても、この子は納得しないで、最後は絶叫するのです。」

 「絶叫?」

 「時には、狂ったようになって、手が付けられません。最近は、だいぶ落ち着いて来たように見えましたが、語り出すと止まりませんし、何か深く考えるようになって、近ごろ、叫んだりはしなくなりましたが、この子が黙っていると、何を考えているのか分からなくて、かえって怖い感じがして。」

 「そうですか。あの、あなたは、そういう被告人の心の面についても、ケアなど、するのですか?」

 「私は、いつも、見守るだけです。」

 「精神科を受診させたことは?」

 「ありました。でも、精神疾患ではない、と言われて。精神医療の対象にはならないという診断でした。」

 「過去に、被告人に具体的な問題行動はありましたか?」

 「そうですね。自殺未遂をしでかしたことがありました。」

 「自殺未遂?」

 「ええ。」

 「それは、どんなことです?」

 「勝手に、レンタルビデオ屋さんから、この子が、ある古いイタリア映画を借りて来て、ちょうどその時、ある国の政府が占領地に軍事攻撃を仕掛けた、ということがあって、子供も含めて大勢の犠牲者が出たのです。すると、この子は熱に浮かされたように、国家による殺人を止めるには、どうすれば、と繰り返すようになったので、私は、そんなこと、あなたが心配しても、どうにもならないでしょう、とたしなめたんですが、映画から刺激を受けたのか、ある日、私が仕事から帰ると、置き手紙があって、そこには、神様、私の命と引き換えに、虐殺を止めてください、とありました。実は、この子は、ビルの屋上から飛び降りようとしているのを、人に取り押さえられて、無事だったのですが、あの時は、血の気が引く思いがしました。」

 「それも、どこか外国で起こった出来事に、心を痛めて、それを止めるために、自殺しようとした、ということですか。」

 「本人は、そのつもりだったのでしょう。この子が死んで、どうにもなるものでもないのに、自分が犠牲になることで、虐殺を止めようとしたんです。」

 宮下弁護士、少し間を置いてから、「被告人が、そんな優しい心根を持った人だということはわかりましたが、そんな優しい人が、なんでこんな凄惨な事件を起こしたのか、と不思議に思いますよね。いったい、何が被告人を、こんな行動に走らせたのか、思い当たることは、ありますか。」

 すると、梨紗、ちらっと弁護人の方を見て、「不思議ですか?」

 「被告人の優しい性格と、この度の犯行と、結びつきにくい、とは思いませんか?」

 「思いませんね」と、きっぱり。

 宮下弁護士、困った風に、「あの、あなたは、今回の被告人の犯行について、全く前兆というか、犯行の直前に、いつもと違う態度とか、様子とかは感じませんでしたか。」

 「いいえ、全く。この子の様子は、いつもと変わりありませんでした。」

 「本件の犯行は、かなり計画的に行われているようなんだけれども、被告人が誰かと会っていたり、誰かと相談していたりとか、何か不審な行動などは、なかったんですか。」

 「いいえ、全く気付きませんでした。この子は、外出すると、どこへ行ったのかも分からないのです。」

 「すると、どこかで人と会って本件の計画を話し合っていたとしても、あなたには、全く分からない、というのですか。」

 「そうですね」という梨紗の返答に、宮下弁護士、渋い顔。

 「ところで、あなたは、被告人の性格から考えて、本件犯行に違和感はないのですか。こんな風に多数の人たちを、ナイフで刺し殺す、などという行動は、被告人のすることとは思えないのじゃないですか?」

 「なぜ、思えないのです?」と、梨紗は、どこか挑発的な表情で弁護人を見た。

 ふと、嫌な予感がする。私は、内心、宮下弁護士に、「あ、そこは、それ以上、質問しない方がいいんじゃないですか。そこで、やめといた方がいいんじゃないですか。何か、証言が、良からぬ方向へ行きはしないですか」と叫んでいた。

 弁護人、「だって、人の苦しみに無関心ではいられない優しい被告人が、どうして、こんな、9人もの人を殺したのか、不思議では、ありませんか。」

 「いえ、不思議ではありませんね。むしろ、この子の性格からすれば、一貫した行動でしょう。」

 「それは、なぜですか?」

 「考えてみてください。殺された人たちは、どんな人たちでしたでしょう。ネットで奇妙なものを見て、好奇心で集まったわけでしょう。好奇心なら、まだしも。大方、女を犯そうという意図を持って集まった人たちじゃないですか。もし、これが罠ではなく、本当に抵抗できない女がそこにいたのなら、彼らは、取り返しのつかない大犯罪を犯していたのです。ひとりの女の人格を破壊していたのです。平気でね。そんな連中ですから、殺されていい訳です。生きるに値しない人たちですからね。そんな連中の人生には、誰かが終止符を打たねばならない。これは使命感です。この子は、そんな崇高な使命感で行動したわけです。」

 「あ、いや。」宮下弁護士、慌てて制止する。しかし、梨紗を止めることはできない。

 「この子のしたことは、そもそも非難されるべきことではありません。むしろ、称賛に値することです。生きる値打ちのない者たちから、生存の機会を奪うこと。それは誰かがやるべき必要なことです。人を殺した、といえば聞こえは悪いでしょうが、この世に不要な苦しみと悲しみをもたらす分子を抹消する、ということ、それは必要なことです。むしろ、この世界の浄化に貢献した、と言われるべきでしょう。そのような行為を非難することなど、誰にもできないはずです。ですから、なぜ、この子が罪に問われなければならないのか、理解に苦しみますね。もっとも、この世界は、矛盾に満ちていますから、このようなパラドクスは、ありがちなのかもしれませんね。かく言うこの私も、矛盾したことを言っているのかもしれません。この地球上は、矛盾に満ちています。逆説は、この世界の必然的な属性なのです。」

 宮下弁護士、介入の機会をうかがっているが、梨紗の言葉は滑らかに続く。

 「私は、この子の行為は、世界を浄化するものだと言いました。しかし、考えてみれば、この世界に、そもそも浄化するだけの価値があるでしょうか。それ自体、疑問ですよね。そうすると、この子のしたことは、なんでしょう。無益なことでしたでしょうか。いや、しかし、浄化は必要です。この、腐敗して悪臭を放つ世界を清めることは、やはり必要なことでしょう。この子の行動に、何かしら問題があるとしたら、それは、この子のしたことは、あまりに小さなことだった、ということでしょう。9人ですか。死んだのは。たった9人では、世界になんの影響もありません。この事件の前と後とで、この世の状況に、さしたる変化はないのです。」

 宮下弁護士、わざとらしく咳払いをして、梨紗の発言を妨害する。そして、「いや、あの、私が、あなたに訊いているのは」と、言いかけると、梨紗はすかさず、

 「この子のしたことについて、お尋ねですので、私はそれに答えているのです」と、きっぱり。そして、続ける。「この子のしたことは、小さすぎます。たった9人を殺したのでは、この世に変化をもたらすことはできません。もっとも、わずか9人でも、不良分子をこの世から排除したこと自体は、褒められるべきことではありましょう。この9人の人生に終止符を打ったことは、それなりに価値ある行為であったとは思います。しかし、本当に終止符を打たれるべきは、この人、あの人の人生、というものではなく、実は、人類の歴史なのです。人類の歴史にこそ、終止符が打たれるべきなのです。」

 「す、すみません」と、宮下弁護士は横から口出しをしようとしたが、梨紗は無視する。

 「この子を苦しませ、狂気に駆り立てるものが何であったのか、それを思い起こしてください。それは、この地上で行われている人類の営みです。地球上で起こっていること、それは、まるで悪い夢でも見ているようではありませんか。この地上で、最も華々しく行われている人の営みは、破壊と殺戮です。この地上で、人間どうしの闘争がなかった日など、一日たりともないのです。私がここで、こうして話している今この時にも、地上のどこかで、誰かが傷つけられ、苦しめられ、殺されているのです。しかも、それを誰も止めないのです。誰も止められないのです。これまでも、今も、そして、これからも、人の苦しみは永遠に絶えることなく続くのです。それが人類の営みなのです。恥ずべきことです。人は、苦しみたくはない、と言いながら、他者に苦しみを与えることは平気なのです。人類という生き物は、他人が苦しんでいるのを見て、それを自らの苦しみとは感じることなく、平然と、無関心でいられる珍しい種族なのです。救いようのない愚かしさです。かくも愚かな種族が、この美しい宇宙で、その生存を許されるなどと思うのは、実に傲慢で滑稽な誤謬というべきなのです。」

 宮下弁護士、「あの、話が関係ないことに」と、言い掛けたが、梨紗は構わず続ける。

 「人類は、宇宙の付託に応えていません。宇宙は、人類に、地球を付託したのです。しかし、人類が、その数万年におよぶ長い歴史の果てに成し遂げたこと、それは、全人類を死滅させ、地球を破壊するだけの威力を持った兵器を開発したことだけでした。この他に成し遂げたことは、何もありません。人類は、宇宙についても、命についても、何も知らないのです。調和の作り方も知りません。ただ、争うだけです。結局、人類が、その長い歴史の中で、今までしてきたこととは、世界を内と外に分けて、内を守るために外と戦う、ということだけでした。人類は、それ以外のことは、何ひとつして来なかったのです。人は、いつも、こう言います。我々を脅かすものから我々を守るのだ、と。しかし、そんな理由で戦っていたら、いつまでも戦いは終わりません。血で血を洗う闘争は、永遠に続くのです。なぜなら、あらゆる国家、民族、宗教は、常に他の国家、民族、宗教から脅かされている、と人は思うからです。もちろん、それは妄想にすぎません。しかし、それが妄想であることに気付くことのできる人は、ごく稀なのです。ですから、この地上には、常に悪意と敵愾心が渦巻いているのです。それを、誰も止めることはできないのです。悪が地上を支配しています。この地を支配している原理は、悪なのです。なぜなら、悪が国家権力を掌握するからです。国家の名をもってすれば、どんなことでも許されるのです。誰も止められません。このように、この地球上では、常に悪が勝利します。その結果、この地球という星は、人が苦しむために生まれて来るような場所に成り果てているのです。でも、誰が人の苦しみを生んでいるのでしょう。ほかならぬ、私たち人類です。人類は、自ら苦しみを生んでいるのです。この地上では、本来、許されないことが、平然と行われています。それなのに、それを誰も止めないのです。止められないのです。そして、ひとは皆、止められないでいることを正当化して、事実から目を背けるのです。いったい、いつになったら、人類は気付くのでしょう。何万年という歴史を持ちながら、人類は、一向に気付く気配がないのです。おそらく、これからも気付かないでしょう。人類は、永遠に気付き得ぬ種族なのです。この美しい宇宙に生存する資格のない、狂気に囚われた精神的奇形種なのです。既に宇宙は人類を見捨てています。苦しみを生み出す以外に、何もできないのですから、救いようがありません。勝手にやらせておこう、というわけです。ですから、もう、人類の歴史に終止符が打たれるべきなのです。宇宙に、これ以上、この人類という愚劣な種族が生き延びてはいけないのです。」

 ここまで、ほとんど一気に語った梨紗だが、ここで一息ついてから、呆気に取られている法廷内の人々を尻目に、さらに続けた。

 「この子には、もっと大きなことをして欲しかったです。たった9人を抹消しただけで、ここでつまずくなんて、あまりに小さすぎます。」

 梨奈の肩が、微かに震えていた。無表情を貫いていた梨奈の顔に、わずかに苦悩が現れているように見えた。

 「せめて」と、梨紗は続ける。「ひとつの国家、ひとつの民族、とは言わないまでも、せめて数千人規模でやって欲しかったです。」

 法廷内、静まり返る。

 「だから、言わんこっちゃない」とは、私の心の声。

 長い沈黙の後、裁判長が我に返って、「弁護人、質問の続きを。」

 しかし、宮下弁護士、「いえ、終わります」と、弱々しく腰を下ろす。なんか、疲れ切った様子。

 「検察官」と、裁判長。

 検察官、立ち上がり、「証人は、被告人が良いことをした、と思っているんですか。」

 すると、梨紗、「なんですか、聞いたところでは、あなたは、死んだ9人のうちのひとりが、梨奈を助けに来たかもしれないのに、そして、梨奈が、その言い訳を一顧だにしなかった、などと述べたそうですが。もし、この事件が、9人の男たちによって梨奈が暴行された、という事件だったら、たとえそのうちの一人が現場で結局なにもせずにいて、後から取り調べで、ボクは女を助けに来たんです、などと供述しても、警察も、検察官も、どうせお前も暴行しに来たんだろう、と言って、そんな言い訳は一顧だにしないでしょう。それなのに、立場が逆転して、男が被害者の側になると、とたんに、そんな幼稚な言い訳を真剣に取り上げる。実に滑稽ですね。馬鹿馬鹿しいの極みです。そんなことを言う馬鹿の質問には、答えません」と言ってのけた。

 検察官、唖然として、「私の質問には、答えない、と、そうおっしゃるのですか?」

 梨紗、無言。

 検察官、さらに、「答えていただけないのですか?」

 梨紗、無言。

 仕方なく、検察官、着席。

 再び、法廷内に沈黙が降りる。

 すると、左陪席が、恐る恐る、「あの、あなたは、さっき、せめて数千人の規模でやって欲しかった、と言いましたが、それは、被告人に数千人の人を殺して欲しかった、という意味ですか?」

 うん、気になるよね? そこは、気になる。訊きたくなる。

 すると、梨紗、「殺す、という表現は、好きではありませんね。抹消と言う方がいいでしょう。」

 「抹消?」と、左陪席。「でも、それは、結局、殺すってことですよね。俗に言えば。」

 「どうぞ、ご自由に解釈なさってください」と、梨紗。

 裁判長、ふかい、ふかい溜息をついてから、弁護人と検察官を交互にチラ見して、「他に質問は?」

 「ありません」と、両者。

 梨紗、悠然と傍聴席に戻る。

 梨奈は、その間、じっと俯き気味に固まっていた。

 「被告人質問」と、裁判長が言ったが、梨奈は動かない。「被告人っ」と再度、裁判長が促すが、梨奈は固まったまま微動だにしない。「被告人、聞こえないのですか?」

 しかし、梨奈は、頑なに不動を決め込む。

 すると、傍聴席から、梨紗が、「無駄ですよ。その子から、何かを聞き出そうとするのは、不可能ですよ」と、よく通る声で言う。

 裁判長、弁護人を見る。宮下弁護士、無言で、こくこく、とうなずく。

 裁判長、しばし沈思黙考の末、「では、論告を。」

 すると、検察官は起立して、「すみません。期日の続行をお願いします。」

 「え?」と、裁判長。

 「今の証人の証言により、用意した論告を大きく修正する必要が生じましたので、続行をお願いします。論告求刑は次回に」と、検察官。

 すると、裁判長、宮下弁護士に、「弁護人のご意見は?」

 宮下弁護士、「私も用意した弁論の変更をしたいと思います。続行をお願いします。」

 「そうですか」と、裁判長、あっさり期日の続行に応じた。

 結局、最後の期日が、2週間後に行われることになった。



18.

 「えらいことになった」と、関原弁護士。「検察官が、論告の延期を申し出た。」

 「それって、つまり、どういうことなんでい?」と、アキ。

 「検察官が、準備した論告求刑を変えたいって、こと。」

 「だから?」

 「おそらく、準備した求刑意見は、無期懲役だったに違いない。それを変えるってことは、死刑を求刑する方針に変えたってことだ。宮下弁護士も、それに応じて弁論を書き換える予定だ。」

 「梨紗の証言か?」

 「うん。あの姉と称する人物を証言台に立たせたのは間違いだった。あの証言によったら、被告人はまるで殺人マシーンになるべく育てられたようなもんだ。」


 関原弁護士の言ったとおりとなった。

 最後の期日、検察官は死刑を求刑した。論告で、検察官は、本件犯行はまれに見る大規模なもので、世間の耳目を集めた、9人もの尊い命を一方的に奪った犯行に同情の余地はない、犯行動機も、一見、暴行目的で参集した者たちを成敗するという正義にかなったものであるかのように見えるが、実は本件犯行は被告人が姉代わりの同居女性から植え付けられた極めて独善的で歪んだ世界観、価値観に基づくものであって、その動機には全く酌量の余地がない、さらに本件犯行は極めて巧妙にたくまれたものであり、計画性が顕著であって、その点でも情状は重いといわざるを得ない、さらにこのような巧みな罠を仕掛けて、短時間のうちに大量殺人を平然と実行した被告人の人格特性に鑑みるならば、被告人が将来にわたり更生することは期待し難い、被害者の遺族たちも極刑を望んでいる、などと述べた。

 他方、宮下弁護士は、本件犯行はなるほど確かに重大だが、被告人の年齢、とはいえ、戸籍が不明なので、正確な歳はわからないが、見たところ20代、30歳には届いていないだろうと思われる被告人の年齢からすれば、人格の可塑性は認められるのだから、極刑は回避されるべきと、強く訴えた。

 弁護人の弁論が終わったところで、裁判長、梨奈に証言台の後ろに立つように指示する。そして、

 「これで、あなたに対する審理を終えますが、最後に何か、言いたいことはありませんか。」

 すると、梨奈は、少しの沈黙の後、「神様」と、罪状認否の時とはうってかわって、蚊の鳴くようなか細い声で話し出した。法廷中が息を飲んで聞き入る中、「たった12人。神様、ごめんなさい。こんな、小さなことしかできなくて。」

 こう言うと、梨奈は沈黙に戻った。しばらく待っても、被告人が無言でいるので、裁判長は、「それだけですか」と問うたが、反応がないのを見て、「では、審理を集結します。」

 裁判所は、判決の言い渡し期日を、さらに2週間後に指定した。


 判決言い渡し期日。

 裁判長は、初めに判決主文を読み上げず、まず判決理由から述べ始めた。死刑の時は、そうする。

 そして、死刑が言い渡された。

 弁護人は、直ちに控訴。

 しかし、控訴は棄却された。

 そこで、弁護人、最高裁に、量刑が著しく不当であるとして、上告申立て。

 上告棄却。

 結局、半年足らずで、梨奈の死刑は確定した。


 「あの梨紗って女が、被告人を死刑台に送ったな」とは、関原弁護士の弁。

 「しかし、梨奈さんの、最後の言葉だけど」と、私。「どうして12人? 9人でしょ?」

 「前に3人殺ってるだろ」と、アキ。

 「あ。」そうだったんだ。


 「おっさん、どこ行った?」

 全部、おっさんのせいだ。おっさんが、あんなこと企画しなけりゃ、こうはならなかった。

 どう思ってんだ? おっさんは。


 梨奈の死刑の確定の報を聞いた翌日は、朝から暗く曇っていた。

 私は、なんとなく居たたまれなくなり、立ち入り禁止の封印の解かれた、かつての犯行現場を訪れる。

 裏にまわり、犠牲者となった9人が並んでいた中庭のような空間に行く。

 すると、空間の真ん中あたり、雑草の生い茂る中に、ひときわ幹の太い木が生えていて、地面から3メートルほどの高さに、横に伸びた枝がある。

 その枝の、幹からさほど離れていない所に、なにやら紐のようなもので、大きな物体がぶら下がっている。

 色彩のない灰色の大気の中で、それは、ゆっくりと揺れている。

 ゆらあり、ゆらりと。

 それは、細い縄で吊り下がって、揺れている。

 「おっさん、こんなとこに、いたんかい。」

了。


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