神様、ごめんなさい・4
筆者初の長編です。
ありそうもない話ですが、あり得る話です。
物語の内容は暗いですが、ちょっと変わった登場人物らが、漫才の掛け合いのごとくギャグを連発します。殺伐としたストーリーを、軽快なギャグで笑い飛ばしながら書く、というコンセプトです。
こわいもの見たさで、読んでいただければ幸いです。
11.
翌朝、私は布団の上で、掛け布団の塊を背にしながら、横すわりの姿勢でスマホをいじっていた。
軽いいびきをかいていたおっさん、むくっと起き上がり、やにわに「そういや、お前」と、話し掛けてくる。
「は?」寝言の続きか?
「お前、今日、そのネット偏執狂の変人に会うって、いうことだよな?」と、まともな言葉で話す。どうやら目は覚めている様子。
「そうだけど。それが、何か?」
「オレも頼みたいことがある。」
「なに、頼むの?」
「訊くな。」
「は? なにを依頼するのか、分からなきゃ、頼みようがない。」
「頼むのは、オレだ。会わせてくれたら、オレから頼む。お前は知らんでもいい。」
「あ、そ。でも、お金が要りますよ。なにを頼むにしても、奴はタダじゃ動きませんぜ。」
「わかってる。金は有るんだ。」
「お金、持ってるの?」
「いや、オレじゃない。」
「誰の頼み?」
「いいだろ、そんな。」
「良くないですよ。誰のために、なにを依頼しようってんです?」
「構うな。」
「せめて、金の出どころを教えてよ。」
「うん、あの子が金を持ってる。」
「あの子?」私は、スマホを敷布団の上に置いて、おっさんの顔に見入る。「例の妹?」
「うん。」
私は考える。おっさん、何をたくらんどる?
「おっさん。」
「ん?」
「何を、しでかそうってんです?」
「いいだろ、別に。」
私は無言でおっさんを見つめる。これ以上、質問しても、無駄かな。それに、基本的に私には関係のないことだし。
「いいけど、アキさんの用事のついでに、紹介すりゃ、いいわけ?」
「そうしてくれ。その人の名は?」
「ドクター・ビリッヒ。」
「は? 外国人か?」
「いえ、たぶん、日本人。本名は知らない。」
「あ、そ。頼んだぞ」と言うや、おっさん、再び横たわる。
午後5時。
「軍資金をくださいな。」私は、身支度を整えると、アキにねだる。
「なんの軍資金だ?」
「ご依頼の件ですよ。これから、コンタクトを取りに行くんです。」
「んで、なんで軍資金なんぞ、いるんだ?」
「要るから、要るんです。あいつをつかまえるには、お金が要るんです。」
「いくらだ?」
「3、4万欲しいです。」
「そんなに? なんに使うんでい?」
「それは内緒。私を信じて、お金をください。」
アキ、不審の目で私を見てから、「しょうがねえな」と、椅子ごと移動してラックの中をゴソゴソ手探りする。「ほいよ」と、くしゃくしゃに丸められた札の塊が飛んできた。
日暮どきの大気は冷たい。
久しぶりに、なにやら活気に満ちた気分になって、すたすた歩く。
オフィス街、商店街を通り抜け、大通りから一本入った歓楽街へ。
黄昏の淡い光の中に浮かぶ電光看板。
ビルの谷間に悲鳴のような自転車のブレーキの音が響く。おおかた出勤時間ギリギリに来た飲食店の店員さん。大慌てで地下への階段を駆け降りて行く。
シャッターを引き上げるけたたましい音。
メニューを書いた立て黒板を歩道に置く店主。
まだ人通りは少ない。
どこぞのクラブの部長風の男が、所在なげに四つ辻でタバコを吹かしている。
さて、一軒目。
この店に来るのは、2年ぶりか。
入り口の分かりにくい店だったな。知らないと、うっかり通り過ぎてしまう、目立たない黒いドアを開けて、狭い通路を抜けて階段を昇ると、空間が開けて、長いカウンターがある。店内の照明は最小限で、おそらく法に引っかかる暗さの中、まだ若い店主がグラスを磨いている。他に客はいない。
私がカウンター席に座ると、「いらっしゃい。珍しいね。」店主が明るく言う。
「うん。ひさしぶし。」
「普通に生きてました?」
「一応、生きてる。まだ、しばらくは、生きてるつもり。」
「なんにします?」
「まだ早いし、しらふだから、ビールにする。ギネスある?」
「ありますよ。常温がよかったでしたっけ。」
「ありがとう。よく覚えてますね。」
「なにを?」
「常温ってこと。」
「職業病ですよ。」
店主は、腰をかがめて低い所にある棚からギネスの瓶を取り出し、栓を抜く。
目の前のタンブラーに黒い液体が注がれ、泡が盛り上がる。
「ども」と言って、口を付けてから、「実は、のんびり飲みに来たわけじゃなくって、」
「急いで飲みに来たわけ?」
「いや、そうじゃなくって」と、私は声を低めて、「実は、ドクター・ビリッヒを探してる。」
「ああ、そう。なんだ、それなら、最近、ここへは来てませんよ。」
「どこ行きゃ、会えるかな?」
「さあ? ちょい前に聞いた話では、コルスに出入りしてるらしいけど。」
「ありがとう。いくら?」
「もう行くの?」
「うん。急な用事なんだ。」そう言うと、私はギネスを一気に飲み干し、勘定を払って、席を立つ。
二軒目。
コルスは、地下にある。
暗い階段を降りて、通路の奥へ。
重たそうな木の扉を開けると、カウンター6席の狭い店内が見通せる。
「いらっしゃあい」と、太い声。
「クラフトビール、ある?」
「うちは、クラフトビールしかない。」
「あ、そうだったね。いただきます。」
「どれにします?」
壁に掛けられた黒板を指差し、「一番上の。」
ここでも、黙って一杯飲んでから、「実は、ドクター・ビリッヒ探してる。」
「ピアナへ行けば?」
「あ、そ。ありがと。」
三軒目。
ピアナは、2階。
ビール2杯分のほろ酔いと伴に、階段を昇る。
店内に入るや、「あ、お久しぶり」と、陽気な声に迎えられる。
そう言われても、私には、その声の主が誰なのか、分からない。見覚えのない顔。でも、「あんた、誰?」と訊くわけにもいかないので、「ども、ご無沙汰してます」と、カウンターのスツールに座る。
「お元気でしたか?」
「え? え、ええ。一応、なんとか、無事に、大過なく、なんとなく。」
「それは結構。食事ですか?」
「あ、ああ、そうすね。そろそろ、なんか食べた方がいいかな。」
「おなかの減り具合は? 軽く行きます? それとも、ガッツリと。」
「え、と。そ、そうね。軽く行きますか。」
「お任せで?」
「お任せします。」
誰やねん? ほんまに? 向こうは私のことを知ってるみたい。話、合わせとこか。でも、私には、目的がある。
「ところで、ちょっと、すみません。」
「なんでしょう?」
「マスターは?」
「遅めに出て来ます。用事ですか?」
「いえ、まあ、そうなんすけど。」
「1時間ほどしたら、来ますよ。」
「あ、そ。」
店員は、奥の厨房に引っ込んだ。料理に取り掛かっているのか、なかなかこっちへ出て来ない。
店内を見回すが、まだ早い時間帯なので、他に客はいない。背後のテーブル席には、予約が入っているのか、既にカトラリーが整然と並べられている。
店員、再び出て来て、「お飲み物は、なんにします?」
「あ、ビール、ください。」
店員は、カウンターの端のビールサーバーにタンブラーを当てて、レバーを引く。
そこで、「あの、すみませんが、もしかして、ドクター・ビリッヒって人を知りません?」
「ドクター、なんですって?」
「ビリッヒです。ドクター・ビリッヒ。」
「名前からすると、外国の方ですか?」
「いや、どっからどう見ても日本人です。通称ドクター・ビリッヒという、変な男です。よく女と間違えられますけど。」
「いや、知りませんね。芸能人か何か?」
「いやいやいや、ここの常連客なんだけど。」
「あ、そうでしたか。いえ、お見かけしたことないです。」
「あ、そ。」
ビールが目の前に出される。所在なく、一客としてビールを飲む。
退屈。でも、待つしかない。
前菜が出て来た。うまい。料理の腕は、あるようだ。
続いて、スープ。これも良い。
魚料理。きわめて良い。
肉料理。わあ、いいな。こんな美味しい食事、何年ぶりかしら。
え、と。何しに来たんだっけ。ま、いいか。今夜は、うまい料理にありついたことで、良しとするか。
という気分に浸ったころ、マスターが入って来た。「おや、珍しい」と、私を見て言う。
「あ、ご無沙汰です。」
「しっかり、食べた?」
「ええ、おいしかったですよ。」
すると、マスター、さっきの店員に、「お客さんに、ワインは勧めた?」
「あ、いえ」と、店員。「ビールをお召し上がりなので。」
「お客さんの方から言われなくても、ワインを勧めるの。気が利かん男だね。」
「すみません」と、店員、私に「あの、ワインは」と言いかけると、マスター、
「もういい、私が勧める。」私に向かって、「ワイン、どう? 良いのが入ったんで。」
「何?」
「アジャクシオ・ブラン。なかなか手に入らない。」
「高くない?」と言いつつ、財布をポケットから出して、中身を点検。クシャクシャの万円札が3枚残っている。そのうち1枚を取り出し、「これで、どう?」
マスター、伝票をチェックして、「料理込みで?」
「はい。」
「ううん、ギリギリ。ちょっと足りない。」
「そこを、なんとか。」
「いいけど、2年前のツケがたまってるって、知ってる?」
「う、うわあああああ、そうでしたか。あ、あは。あはは。どうしましょ。」
「頑張れ。」
「んじゃ、これで」と、札をもう一枚出す。
マスター、受け取り、「長いこと、姿見せなかったけど、元気でした?」
「まあ、なんとか、かろうじて生存してました。」
マスター、慣れた手つきでソムリエナイフを使ってワインの栓抜きを始める。それ見て、用事を思い出した。
「あの、すんまへん。実は、ドクター・ビリッヒを探してんですけど。」
「彼、最近、うちへ来ないね。近ごろ、『かさい』に出入りしてるらしいけど。」
「『かさい』か。こっちへは、来てないの。」
「うん。ここ半年ほど、見ないね。」
「あ、そう。」
ワインは、一人でボトル全部は飲めない。マスターと、さっきの店員にも飲んでもらう。
「ところで、マスター」と、私は、厨房へ行く店員の背中を指して、「あの人、いつから、ここに?」
「今日で4か月目かな。」
ん? 私はここ2年近く、この店に来ていない。「私とあの人、以前、どこかで会ってるかな?」
「ないでしょ。最近、こっちへ越して来たんだから。」
「でも、さっき、旧知の間柄みたいに、話し掛けられたんだけど?」
「あいつの悪い癖でね。」
「は?」訳がわからんのは、酔ったせい、ということにしよう。
四軒目。
「かさい」は、歓楽街はずれのレジャービルの5階にある。
エレベーターに乗って5階へ。
どこだったかな? と、少しウロウロすると、通路の奥に入り口発見。
ガラガラ、と、引き戸を開けると、二十歳そこそこの女の子が、私の顔を見て、
「げ。いらっしゃい。」
「なんすか、その『げ』ってのは。」
「聞こえました?」
「しっかり、聞こえた」と言いつつ、カウンター席に座る。
「生きてたんですか」と、女の子は残念そうに言う。
「生きてちゃ、ダメっすか?」
「だって、もうじき死ぬ予定だって、言ってましたよ。」
「あたしが? そんなこと、言ってたっけ?」
「ええ、おっしゃってました。」
「ふうん。あたしゃ、酔うと、なんでも話す癖があるな。気を付けんと。」
さっきから、側で二人の会話を聞いていた店主が、「ゆりちゃん、お客さんに向かって、どういう失礼なことを。」ウェーブのかかった白髪まじりの店主の叱り方は、いつも微温的。
「ちゃんと選んでますよ」と、ゆり。「言っていい相手と、そうでない相手と。」
「にしても、失礼な。」
「どこが失礼です?」
「げ、て言うのもそうだし、死んでるはずだっていう発言もそうだし。」
そこで、私、「いいんですよ。ゆりが何を言おうと、あたしゃ、構いませんよ。あたしゃ、ゆりを愛してるんですから。」
「きもっ」と、ゆり。
「また、失礼な」と、店主。
「いいんですって。でも、できれば、ゆりさんには、私にどれほど深く愛されているかを、もう少し自覚していただけると、有り難いんですけどね。」
すると、店主、「どの程度、深く愛しておられるんです?」と、面白がって訊く。
ゆりは無関心風に、真面目な顔でグラスを拭いては、天井の照明を透かしてグラスに汚れが残ってないかを確かめている。そんなゆりを見ながら、私は、「そうですね。私は、ゆりの、全身を」と言って、言葉を切る。
「ゆりちゃんの全身を?」と、店主。
私は続けて、「ゆりさんの全身を、くまなく、ペロペロ舐めたいほど、愛してます。」
ゆりの手が止まる。「は? なんか言った?」
「それじゃ、変態でしょうが」と、店主も否定的意見を述べる。
「いえね、違いますよ。これが、もし、単に、ペロペロ舐めたい、というだけであれば、それは確かに変態です。しかし、私の場合、ただ、ペロペロ舐めたい、ではないのです。そこに、全身を、くまなく、という言葉が加わるわけです。この二語が加わることによって、この言葉は詩的な美しさを帯びるわけです。」
「どこが、詩的ですか。」ゆりが発言する。「きもいばっかしです。」
「あのね」と、私はめげない。「舐める、というのは、最高の愛情表現なんですよ。その最高の愛情表現であるところの、舐める、という行為に、さらに、全身をくまなく、が加わることによって、崇高な愛情表現へと高まるわけです。」
「きもさが倍増するだけです」と、ゆりは言う。
「わからんかなあ。」私は諦めない。「想像して欲しいんですけどね。いいですか? 情景を思い浮かべてください。あなたが一糸纏わぬ姿でうつ伏せに横たわる。その足元に私が座って、ニコッとしながら、ぺろんちょ、ぺろんちょ、と、無心にあなたの体を舐めているわけです。なんとも、ほのぼのとした、牧歌的で平和な光景ではありませんか。」
ゆり、グラスを持つ手を降ろして、「それの、どーこーが、ほのぼのですか。鬼気迫る光景ですよ。気色悪いの極みです。おぞましい。想像したくもない。きもい、きもい、きもい、きもい。」と、4回の「きもい」にクレッシェンドを掛けて言う。
「あの、お話の途中ですが」と、店主。「ご注文は?」
「あ、お酒ください。」
「日本酒?」
「はい。」
「冷やで?」
「はい。」
「食事は?」
「もう、食べて来た。」
「なんか、おつまみ風のものとか?」
「そうっすね。何があります?」
「揚げ出し豆腐とか。」
「あ、それ、いただきます。」
店主、支度に取り掛かる。
「ところで、ゆりさん。」私は、再度グラス拭きの作業に集中している彼女に話し掛ける。
「なんです?」と、怒気を含んだ声。
「ペロペロ、がお嫌でしたら、別のバージョンがありますが。」
「は? 別のバージョン?」
「ええ。一気舐め、というやつです。ペロペロではなく、一気舐めです。」再びグラスを拭く手を止めて、私を見つめるゆりに向かって、「これは、どういうものかと言いますと、かかとから、うなじまで、一気に舐め上げる、というものでして。いいですか、最初に、私が舌の先を、あなたのかかとにペタッとひっ付けるわけです。そして、その舌の先を一度も肌から離さないようして、かかとから、アキレス腱、ふくろはぎ、膝の裏、太もも、お尻、腰、背中、肩甲骨の間と舐めて行き、うなじまで、一気に舐め上げる、という技です。どうです?」
ゆり、グラスをゆっくりとカウンターの上に置いて、「やっぱ、あんた、死んだ方が世のためだわ。」
「わからんかなあ。」私はめげない。「もし、実行させてくれたら、これは、大変に貴重な体験になりますよ。私の舌が、かかとから始まって、ずっと昇って行って、うなじにまで達した瞬間、何か新しい世界観が、ぱっと開けますよ。」
すると、ゆり、「開けません。むしろ、人生、閉じます。終わります。」
目の前に、ロックグラスに並々と注がれた酒と、揚げ出し豆腐が出る。
あ、そうだ、目的があったんだ。
「あの、実は、あたしゃ、ドクター・ビリッヒを探してんですけど。」
「ビリッヒさん? いつも、遅い時間帯に来るよ」と、店主。
「今日は、来ないかな?」
「さあ、気まぐれだから。おそらく、今ごろ、そこら辺を徘徊してると思う。」
「徘徊? 他に、行きつけの店は?」
「ブラック・バードかな。」
「それ、どんな店?」
「バーですよ。すぐ近くの。」
「場所を、詳しく教えて。」
「はいよ」と、店主は、スマホを取り出し、指先でトトトっと操作して地図の画面を見せる。「ここ。」
私は、いい加減、アルコールの影響で焦点の怪しい目でもって地図を見る。うん、確かに近い。
「ビルの中?」
「そう。1階にある。分かりやすいよ。行けば、すぐわかる。」
「ありがと。」揚げ出し豆腐は、極上の味。冷や酒をぐいっと飲んで、「ところで、ゆりさん。」
「は? なに?」
「どっちにしましょう。」
「え? どっちって、なにさ。」
「ですから、ペロペロか、一気舐めか、どっちにします?」
ゆり、布巾を放り投げ、その手をグッと握り締めて、「グーで殴っていいですか?」
早々に勘定を済まして、外に出る。
五軒目。
教えられた場所は、遠くない。
しっかり覚えたつもりだが、お店がすぐに見つからない。
あっちへウロウロ、こっちへウロウロした挙げ句、ようやく、ビルの暗い通路の少し奥まった所に、「ブラック・バード」の看板を見つけた。
ドアの取っ手をつかんで、押してみる。
開かない。
そこで、今度は引いてみる。
開かない。
今日は、休みかな?
もう一度、押して見たが、やはり、開かない。
なんだ、今日は休みか、仕方ないな、と、振り返った。
「うぎゃっ」と叫ぶ。
暗い通路の真ん中、ひとり立つ、黒い人影。
「ぬああに、驚いてんのよう。」黒い人影が音声を放つ。一音節、一音節をねちっこく長めに伸ばしながら、豊かな抑揚を付けるクセの強い話し方。いつも、聞くたびゾワっとする。
「ドクター・ビリッヒ?」
「そおうよ。あんた、私のこと、探してんでしょ? 探している人物に出会って、驚くってこたあ、ぬあいじゃないの?」
「い、いや、こ、これは、失礼しました。」
黒い人影は、コツ、コツと、ゆっくり前進、迫って来る。すると、通路脇の店の電工看板の光を受けて、その姿が明らかになる。
そこはかとなく、珍奇。
腕を通さず、肩に引っ掛ける形で羽織るコートは、真っ黒のトレンチコート様式だが、全体に細かい皺が寄っていて、まるでちりめんの様なシボがある。どんな繊維だ? コートの下は、浴衣? いや、下がズボンだから、作務衣? いや、和服に見せかけた洋服か? いずれにせよ、前を紐で縛って止めるタイプのジャケットとパンツは、暗い灰色の無地の艶のある生地で、なかなかシックだ。その下に覗いて見えるシャツは、黒と赤のストライプが縦に入る大胆なデザイン。と、ここまでは、比較的まともだが、足元には踵が高い真っ赤な厚底パンプス、その上に見えている靴下は黄色。頭には、1950年代を彷彿とさせるグレーのソフトハットをかぶり、夜なのに、レンズが大きく湾曲した漆黒のサングラスを掛けている。
ビリッヒ先生、優雅な手付きでサングラスを外すと、「あんた、生きてたの」と、挨拶。グラスを外したその尊顔を改めて見ると、若いというイメージだったが、既に中年の域に達しているように見える。
私は仕方なく、「え、ええ。生きてました。すみません。」
すると、ビリッヒ先生、さらにゆっくりと近づいて来て、私を中心に周回しながら、首を斜めに傾げて私の顔を見つめて、「生きてることを、謝る必要なんか、ないじゃぬあい。ぶあかね。」
「あの、なに、見てんですか?」私は、少しく怯える。
「幽霊じゃないこと、確かめてんのよ。」そう言うと、ビリッヒ先生、サングラスを掛け直して、「さ、話聞きましょ。なんか用事あんでしょ。いいわよ。聞いてあげる。」さっさと歩き出す。
「ありがたき、幸せに存じます」と、付いて行く。
12.
ビリッヒ先生に連れられて入った店は、少し、変わっている。
小さなクラブかラウンジという広さだが、ボックス席が両側の壁際にだけ並んでいて、フロアの真ん中は広い空間が空けてある。照明の光は暗く、BGMの音量はやや大きめ。あまり落ち着いて話ができる雰囲気ではなさそうだ。
女の子たちが数人、一箇所に集まっていたが、私らが店内に入ると、そのうちのひとりが立ち上がり、私たちの方に足早にやって来た。ところが、ビリッヒ先生、その女の子の到着を待たずに、ちりめんのコートを肩から外して、「おっそいのよ」と言いながら、コートを床に落とした。
女の子、焦ってビリッヒ先生の足元からコートを拾い上げ、「お帽子を、お預かりします。」
ビリッヒ先生、優雅な手付きでソフトハットを片手で包み込むようにして持つと、女の子に手渡し、さっさと奥へ歩いて行く。
女の子は、私にも、「コート、お預かりします」と、手を差し伸べる。私がダッフルコートを脱いで女の子に渡していると、既にビリッヒ先生は、店の最も奥の席に勝手に席を取っておられた。
女の子、焦って厨房に引っ込む。私がビリッヒ先生の隣に、席一つ分空けて座ると、別の女の子がやって来て、「先生、久しぶり」と言いながら、私らの対面に座る。
「先生、ここの常連ですか?」
「そんな、来やしないわよ」と、先生、小指をぴーんと立てた手つきでサングラスをはずし、畳んでシャツのポケットに差し込む。
コートを預かった女の子が、水差しとボトルとグラスが乗った盆を片手に持ち、もう一方の手で氷入れを持ってやって来た。対面の女の子が、すぐさまコースターを私たちの前に各々2枚ずつセットする。
テーブルに置かれたボトルは、ラフロイグの10年物。見ると、ラベルに太字の黒マジックの手書きで、「安井先生」と大書してある。
「先生のボトルですか?」
「そうよ。なんか、変?」
「名前が、違っているようですが?」
「女の子に、ビリッヒって、どういう意味って訊かれたの。それで、ドイツ語で、安いって意味よって、教えたら、こう書かれたの。」
「いいんすか?」
「いけないの? あたしが構わないんだから、いいじゃぬあい?」
「あの」と、恐る恐る訊く。「先生、もしかして、本名は、安井さん、というわけではないでしょうね?」
「くだらないこと、言うんじゃないわよ。」お怒りになった。
「は、申し訳ありませんでした。」
「飲み方は?」ボトルを持って来た女の子が、朗らかに尋ねる。
「いつも言ってるでしょ? このウイスキーは、水で割っちゃだめなのよ。ショットグラス、持って来てちょうだい。」
「お連れさんは、なにを飲まれます?」と、その女の子は、私に明るい目を向ける。
「あ、あの、え、と。どうしましょう。」
すると、ビリッヒ先生、「好きなもの、呑みなさいよ。ウイスキー? ブランデー? ウォッカ? テキーラ? ラム? ジン? カルバドス? アクアヴィット? ペルノ? ドランブイ? 焼酎? 泡盛? 炭酸水? ウーロン茶? 日本茶? お湯? ガソリン? シンナー?」
私、慌てて止めて、「あ、あの、ちょ、ちょっと待ってください。」
「ぬあによ。ぬあんなの?」
「私、所持金、そんなに、ないんで。」
「心配しないの。私の奢りなんだから。」
「いいんすか?」それならここは、ひとつ、図々しさを発揮するとするか。「んなら、ブランデーをいただいて、よろしいですか?」
「コニャック? アルマニャック? どっち?」
「へ? なんすか?」
「だから、コニャックがいいの? それとも、アルマニャック?」
私、戸惑う。「アルマニャックって、ブランデーの種類ですか?」
「そうよ。知らないの? この質問に答えられない人は、ブランデー飲む資格ないの。」
「そうすか。失礼しました。」
「それから、あんた、変わってないわね。」
「は? なんでしょう。」
「奢りって聞くと、高いものを飲もうとする。どあめよ。そういう性格、嫌われるわよ。」
「こ、これは、誠に申し訳ありませんでした。以後、気を付けます。」
「で、なんにすんの?」
「では、焼酎をいただきたく、存じます。」
すると、女の子、「ああ、良かった。」
「え? 何が?」
「だって、うち、ブランデー、置いてないんです。」
無いんかい。
ひととおり落ち着いて、改めて女の子たちを見る。
甲斐甲斐しくボトルなどを運んで来た女の子は、体にぴったり張り付くタイトミニの、ダークブルーのきらびやかなスパンコール付きのワンピースに身を包み、うなじで切り揃えた深いウェーブの掛かった髪、目鼻立ちがはっきりした彫りの深い顔付きをしている。
さっさと対面に座った方は、セパレート風ベルト付きワンピース、スカート丈はマイクロミニ、ショートカットの髪に軽いウェーブが掛かり、細目、小ぶりな鼻で、和風の顔付き。
スパンコールの女の子が、先生に、「チケットは、どうします?」
すると、先生、「もちろん、いただくわよ」と答えて、ジャケットの内ポケットから財布を取り出し、1万円札を一枚、女の子に手渡す。そして、「この人の分もね」と、私を指して言う。
スパンコールの女の子は、すぐさま厨房に戻る。
チケットって、なんぞ? と思うが、特に説明はないようだ。
マイクロミニの女の子は、それぞれコースターの上にグラスを置き、氷を入れて水差しから水を注いだ。
ビリッヒ先生、それを冷ややかに見ていたが、「あたしは、チェイサーはお湯なのよ。冷たい水は、いらないの」と、のたまう。
「あ、ごめんなさい」と、女の子はビリッヒ先生の前のグラスを引っ込める。
スパンコールの女の子が焼酎のボトルと小型の水筒、そして、子供銀行のお札のような紙の束を持って来た。席に着くと、紙の束をテーブルの上に置く。「はああ、チケットって、これか」と見るが、何に使うのかは分からない。女の子は、グラスをビリッヒ先生の前に置き、水筒からお湯を注いで氷を一個だけ入れてマドラーで軽くかき混ぜる。そして、先生のショットグラスをラフロイグで満たすと、私に、「焼酎は、水で割りますか? お湯で割りますか?」
「あ、お湯でお願いします。」
彼女は、グラスに水筒のお湯を少し入れると、その中に焼酎をゆっくりと注いだ。6対4の、ちょうど良い配合だ。
「このお店はね」と、ビリッヒ先生、「ショーをやるのよ。ご覧。ポールダンスの棒があるでしょ」と、広くスペースが空けられた中に垂直に立つ、床から天井まで届く太い金属のポールを指差す。
私は、「はあ、そうですか」と言って、先生の指差す方を見ながらも、どうしても、視線が、マイクロミニの女の子の太腿の方に向く。これは、仕方がない。
「乾杯」と、ビリッヒ先生がショットグラスを差し出す。
私は、慌てて暖かいグラスを持ち、先生のショットグラスの底の方に、私のグラスをカチッと当てた。
「ところで、あたしを探してた訳は? 訳あんでしょ? 聞いてあげるわよ。」
「は、あのう、実は、お願いしたいことがございまして。」
「やあねえ。みんな、あたしんとこ、お願いしに来る人ばっか。たまには、お願いされに来る人もいて良いと思うのよね。」
「は? あの」と、しばし考える。「お言葉ですが、人がお願いされに来る、というシチュエーションは、いったい、どういうものでしょうか?」
「知らないわよ。ちょっと言ってみただけ。で、何よ。お願いって。」
「はあ、実は、私の雇い主が」と、言い掛けると、
「ちょっと、待った。あんた、就職したの。」
「いえ、あの、就職したのか、と訊かれると、ちょっと違うんですが。」
「でも、誰かに雇われてんでしょ?」
「ええ、確かに。そうなんですが、就職、というのとは、ちょっと違いまして。」
「ぬあに、言ってんのよ。就職もしないで、雇われてるって、訳わかんないわよ。」
「ええ、あの、これは、話せば長くなるんですが」
「長い話はイヤよ。聞きたくないわよ。」
「ええ、そうですね。人の話と、女の子のスカートは、短い方が良いですよね」と、言いつつ、マイクロミニの裾を見る。
「なんなの、だから。」
「あの、つまり、就職したという自覚のないまま、なし崩し的に雇われたんで。」
「あ、そうなの。わかったわ。それで十分。続けてちょうだい。」
「え、それで、その雇い主が、つまり、ある事業を、その、面倒ごと一掃屋、という、いかがわしい商売を始めまして。ネットに広告を出したんですが、その広告効果がイマイチで、どうも集客力がない、と。そういうわけで、そこで、わっさわっさ、とお客さんが来るようにするには、どうすれば良いか、などと相談を受けまして、それで、先生のことが思い浮かんだ、というような訳でして。」
「ああら、そう」と、先生、上着の内ポケットから、平べったい金属の箱を取り出す。「わっさ、わっさ、が欲しいの。」
「ええ、そうです。わっさ、わっさ、です。」
「どっさ、どっさ、じゃ、ダメなの?」
「いえ、どっさ、どっさ、でも、良いです。」
「めっさ、めっさ、なら、どう?」
「もう、めっさ、めっさ、結構ですね。」
「ごっさ、ごっさ、なら?」
「ごっさ、ごっさ、構いません。」
「ぐっさ、ぐっさ、は? どう?」
「この際、ぐっさ、ぐっさ、良いですね。」
「あんた、どこまでも、付いて来るわね。」
「先生、どこまでも、行きますね。」
「あたし、限界という概念がないの。」そう言うと、先生、箱の蓋を開けて、細い茶色の棒を一本、取り出す。茶色のタバコかと思いきや、細い葉巻のようだ。これが世に言うシガリロ、というやつか。話には聞いていたが、実物は初めて見た。
早速、先生がシガリロを口にすると、マイクロミニの女の子が、ライターを差し出し、親指で着火を試みる。カシャッ、カシャッ、と何度も試みるが、火がつかない。女の子、焦って、ガシャ、ガシャ、虚しく続ける。先生、辛抱強く、シガリロを口にくわえたまま、じっと不動で待つ。10回ほど試行したところで、スパンコールの女の子が横からマッチを擦って両手で炎を庇いながら近づけると、先生、身を屈めてシガリロに火を付ける。
スパッ、スパッと、数回煙を吐いてから、先生、「マッチの方がいいわね。風情があって。」
「あの」と、恐る恐る、「引き受けてくださいますか?」
「その、面倒ごとなんとか、ての、どんな商売なの?」
「それが、ようわからんのですが、とにかく、困ったことがある人の相談に乗って、なんでも解決しようっていうようなもんで、例えば、これは実際にやったことですが、探偵みたいなこと、しました。」
「一種の探偵業なの?」
「みたいなこともする、という程度で、探偵専門でもないようです。むしろ、もっといかがわしい路線を狙っているみたいですね。まともに探偵業やる気もないみたいです。」
「妙な商売ね。非合法なの? 法に触れることも、するわけ?」
「一応、堅気ですからね。犯罪以外なら、なんでもやるって触れ込みで。合法的な商売にするつもりのようですよ。ちなみに、雇い主は、女性です。」
「生まれた時からの女?」
「たぶん。」
「どんな人?」
「ハードボイルドな人です。」
「ゆで卵は、固茹でが好きかしら?」
「さあ、それは、なんとも。」
「案外、ハードボイルドな人ほど、半熟が好きだったりして。それはそうと、どんな客筋を狙ってるのかしら?」
「客層ですか。たまたま最初の客が、なんか怪しげな妙齢の女性でしたね。妹の素行を調査して欲しい、という依頼内容でした。客筋は、どんなだって構わないんじゃないでしょうか。要するに、人に言えない悩みとか、警察や弁護士が取り合わない問題を抱えているとかなら、なんでも良いでしょう。」
「ほどにゃある。」
「ほどにゃ?」
「なるほどって意味よ。だんだん分かって来たわ。面白そうな人ね。会ってみたいわね。」
「会っていただけますか?」
「依頼の内容ってのは、広告なの?」
「そうです。集客力を高めるには、広告をどうすれば良いかってことです。」
「その人、難しい人?」
「は? 難しい、というと?」
「うるさいってこと。こっちが出すアイデアに対して、これは趣味に合わないとか、気に食わないとか、人に頼んどいて、ごちゃごちゃ文句言う人、いるでしょ? そういう人、嫌いなのよ。」
「あ、その点なら、大丈夫です。おそらく、良きにはからえ、てな感じです。」
「あら、そうなの。あたしの好きにやって良いわけね?」
「そりゃ、もう。先生にやっていただけるなら、全部、一切合切お任せいたします。」
もちろん、私は根拠があって言っているわけではない。アキの性格を、アテ推量して言っているにすぎない。外れていたら、その時は、その時のこと。
「ちなみに」と、私はスマホを取り出そう、と思ったら、預けたコートのポケットの中だった。そこで、スパンコールの女の子に、コートを持って来るように頼む。女の子は、すぐさま飛んで行ってくれた。キビキビした動作で気持ちいい。さらに、素早く動くその両脚が美しい。
コートがやって来ると、早速スマホを取り出し、「雇い主が出している広告を見ていただけますか?」と、件のページを出して、先生に見せる。
先生、それ見て、「ふふん」と、鼻でせせら笑う。「これじゃ、客、来ないわよ。つまり要するに、あたしは、この面倒ごと一掃屋さんに、お客さんが来るようにすれば、いいわけね?」
「そのとおりです。お願いします。」
「もういいわよ」と、先生、私のスマホを邪険に手で払い除け、ぷはあっと、煙を吐いて、にんまっと少しく微笑む。
「あの、依頼の趣旨は、ですね」と、私は続ける。「単に広告の改善、というだけではなく、例えば、誰かがググった時、真っ先に出る、とか、つまり、ネット上での広告効果全般の改善でして」と言うや、
先生、「そんなことは、言うまでもなく、分かってんのよ。九十九も承知よ。」
「は? あの、そういうときは、百も承知、と言うのでは?」
「一個減らすところが、あたしの奥ゆかしいところよ。」
すると、にわかに、BGMの音量が大きくなった。その音量は、ライブ会場の生演奏の音量に匹敵するほどのものになる。
「なにごと?」と言う顔で、周囲を見回すと、
「ショーが始まるわよ」と、先生。
席に着いていた二人の女の子は、立ち上がり、厨房とは逆の方向、店の奥へと小走りで行く。そこには幕が張られていて、待機中の他の女の子たちも一斉に幕の後ろへと消えて行った。
私は、店内を見回して、「でも、他に客いませんよ。客、私たちだけですが?」
「それでも、ショータイムになれば、律儀にショーをやるのよ。以前なんか、私一人しかお客いなかったけど、私一人のために完璧にショーをやってくれたの。そういう店なの、ここは。」
店内の証明は消され、スポットライトの光線が無秩序に動き回る。
BGMの曲が止む。すると、大音量で男性ヴォーカルの声が響き渡る曲へと変わる。それが延々と続く。とても会話ができる状況ではない。
ビリッヒ先生、訳知り顔で、淡々とシガリロを吹かしておられる。
ふと、音楽が止まる。
幕が開く。
女の子たちの静止したシルエットが浮かび上がった。
エキゾティックな前奏が始まり、証明が点灯する。
女の子たちは皆、へそ出しルックで、腰にぴったりと張り付くショートパンツを着用。
その姿に見惚れていると、図太いベースの音と伴にダンスが始まった。いわゆるジャズダンス、というものか。リズミカルな曲に合わせ、女の子たちの肢体が激しく躍動する。
狭いスペースで10人ほどの女の子が踊るので、大きく移動するような動きはない。しかし、女の子の体の動きは、本格的で、プロフェッショナルなもの。高度で、スピーディーで、テクニカルな動き。激しい息遣いまで伝わって来る。セクシーなだけの、おざなりのショーなんかじゃない。
酔っ払いどもに見せるには、もったいない本物のダンス。
やがて、ダンサーたちは、フロアの客席の間に出て来て、私たちの目の前で列をなして踊り出す。
この若い女の子たちの一生懸命の踊りを見ているうちに、私の中に、ある種の不可思議な感情が湧いてきた。忘れていた何か、というべきか。躍動する命に触れたときの、無条件の、というか、留保なしの悦びのようなもの。なんだろう。的確な言葉が見つからない、と考えているうち、曲が終わり、ダンサーたちは幕の裏に引っ込んだ。
先生、拍手で送る。私も、思わず、一生懸命手を叩く。
照明が消え、しばしの静寂。
頭に孔雀の羽のような派手な飾りを付けた女の子がひとり、現れた。
その姿は、リオのカーニバルで踊るサンバダンサーのもの。
証明が点き、激しいサンバのリズムが始まった。
女の子が踊り始める。
素早い足づかいに合わせて、胸と腰だけを覆う衣装が証明の光を眩く反射する。
ダンサーは両脚を激しく動かしながら、ゆっくりと前進を始める。そして、私たちに近付き、やがて私の前を通り過ぎる。すると、私はダンサーを背後から見ることになる。
若い女の生のお尻が、眼前を通り過ぎる。
分かってはいるが、サンバの衣装は背後がTバックになっていて、お尻を覆うものがない。その事実を、ここで改めて目の当たりにすることになる。
しかし、これはエロではないのだ。リオのカーニバルにおける伝統の衣装なのだ。
でも、手を伸ばせば届く所で、女の子のお尻が揺れている。
思わず、触りなくなる。
いや、これはエロではない。文化なのだ。
冒涜は許されない。
などと煩悶しながら見ていると、曲が止み、暗転する。
次に現れたのは、フラダンスの衣装を付けた女の子がひとり。
長身の女の子が、トロピカル風の曲に合わせて踊りだす。
これは後から知ったことだが、フラダンスではなく、タヒチアンダンスというものらしい。
ダンサーの腰の動きは激しく、厳しい修練の賜物であることが見て取れる。
衣装の露出は少ないが、それだけに、本物でなければ魅せることはできない。
私自身、いささか酩酊しているが、粗野な酔っ払いどもに、この価値が理解できるのか、という疑問が、ふと頭をよぎる。
タヒチアンダンスが終わると、次に現れたのは、二人のダンサー。
二人とも、胸だけを覆う短いトップスと、腰に小さな黒いタイトミニの巻きスカートを纏っている。
よく見ると、二人のうちの一人は、さっき私たちの席に座ったマイクロミニの女の子だ。
ビートの効いた曲が始まると、二人は、少しの軽めのダンスの後、意味ありげな笑みを浮かべて、やおらトップスのボタンを外して脱ぎ、さらにスカートも脱いで放り投げる。
ブラジャーとショーツのみの姿になった二人は、全身を波打たせるような動きを見せながら、ポールの元へと行き、まず一人がポールを握って昇ると、続いてもう一人、ポールに掴まった。
二人の体が、ポールの周囲を回り始める。
私は、ポールダンスについての知識がない。だから彼女らの技をなんと言うのかは分からないが、たった一本のポールに支えられているとは信じられない動きが、次から次へと展開する。
二人のダンサーの美しい肢体が、あたかも重力を無視するかのように、跳ね上がり、回転し、縦横無尽に舞う。
世にポールダンスなるものがあることは知っていたが、それを現実にこの目で見て、その技の、あまりに高度なのに、ひたすら驚くしかない。これほどのものを、単に性的な興味でエロ目線で見る者がいるなら、その者は野蛮人の謗りを免れないだろう。
見事というよりほかにない。
彼女たちのビキニ姿も、セクシーに見せるというより、鍛え上げられた肉体を誇示するものと見える。
ただ、ただ、見惚れているうち、パフォーマンスは終わった。
その次に現れた二人は、少し趣向が違っていた。
今度は、キュート路線か。
短いトップスと、マイクロミニのスカート姿なのは同じだが、スカートは真っ白の、プリーツの付いたフワフワと裾が広がるタイプ。
コミカルな曲と伴に、可愛さを強調したダンスが始まる。
ほっと、力を抜いて見ていると、やがて、二人は、フロアの隅におかれたバスケットから、プラスチック製の水鉄砲を拾い上げた。
二人、その水鉄砲を構えて、こっちへ来る。
それぞれが先生と私の前に立つと、先生は、口をあんぐりと開けた。
私の前の女の子は、私に、口を開けろ、というジェスチャーをする。
そこで、先生の真似して口を開くと、女の子は水鉄砲の銃口を私の口に向けて引き金を引く。
口の中に、テキーラが飛び込んで来た。
女の子たちは、私らの口に目一杯テキーラを吹き込むと、ダンスに戻る。そして、曲が終わると同時に、キュートなポーズを決めてパフォーマンスは終わった。
その次の演し物は、さらにコミカルなものだった。
競泳水着の女の子が数人出て来る。そして、ステージに水面を模した幕が張られ、アーティスティック・スイミングの真似事が始まる。
もちろん、水は一切ない。ただ、幕の上に女の子の素足が突き出て、それがくるくる回る、という態のものである。
これは、まあ、息抜きのパフォーマンスとして、楽しんで見ていられる類のものだ。
コミカルなショーが終わると、暗転。
暗い中、天井から、白い布がするすると降りて来た。
それは細長い2本の布で、床近くまで降りて来る。
すると、一人、裾の長いドレスを着た女の子が現れた。先ほど、私らの席に付いたスパンコールの子。
スローテンポの曲が始まる。
スパンコールの子は、曲に合わせて、私たちの前、フロアの中央あたりまでをゆったりと使って優雅なダンスを踊る。
そして、天井から垂れ下がった布の所へ行き、両手でしっかりと布をつかんだ。
何をするんだろう? と思って見ていると、彼女は、布を持ったまま激しく回転する。そして、床から飛び跳ねると、布に体を委ねるようにしながら昇って行き、彼女の体は空中に舞った。天井から下がった2本の布だけが、彼女を支えている。その状態で、空中に留まったまま、彼女はしなやかな肢体を駆使して様々なポーズを取る。やがて、彼女は、両の足首に布を絡み付けると、両脚を大きく開き、180度を超える開脚を保ったまま、ゆっくりと回転した。そして次の瞬間、彼女は体を素早く反転させ、足で布をさばきながら、天井近くまで上がって行く。彼女は天井に手を付き、思い切り自らの体に回転を与えた。彼女はほぼ逆さになりながら、我々の頭上高く高速で回っている。ドレスの裾がめくれ、スパンコールに覆われたショーツが美しく輝いた。
彼女の体の回転速度が遅くなったころ、照明と音楽が伴にフェードアウトし、華麗なパフォーマンスの終わりを告げた。
夢の如き美しいパフォーマンスの余韻に浸っていると、突然、マリリン・モンローの、I wanna be loved by youが、店内に流れ始めた。
すると先生、「ママの登場よ。この店のオーナーだから、失礼のないように」と、のたまう。
ステージとは逆の方向、厨房の方から、小太りの中年女性が現れた。ゴージャスなワンピースに身を包み、ほわっほわの金髪のカツラを頭に乗せている。片手には、なぜか、台所用品のサランラップの箱を持っている。
ママは、音楽に合わせて陽気に踊りながら歩いて来る。もとより人の良さそうな顔付きだが、愛嬌たっぷりに近付いて来て、まず、座っている先生の上半身を抱き締め、先生の顔面を自らの胸に押し当てる。そして、サランラップを箱から引っ張り出して、それを自らの顔と先生の顔の間に広げ、サランラップ越しに、唇を重ねて濃厚なキスをした。
その光景を唖然として見ていると、ママは再度、サランラップを引き出し、それを自らと私の顔の間に広げ、同じようにサランラップ越しに私の唇にムギュッと口付けする。
その後、ママはさっさと厨房に引っ込んだ。
曲が変わり、アップテンポの軽快な音楽が鳴り響く。
女の子が総出で現れ、激しいジャズダンスが始まった。
ダンサーたちの衣装は、やはり胸までの短いトップスとショートパンツだが、今度はデニムのショートパンツを着用している。
若い命の炸裂を陶然と見ていると、やがてダンサーたちは、フロアの真ん中のスペースを目一杯使って、列をなし、蟹のような横歩き、いや、横走りで走り回り始めた。そうすると、私たちは一人一人のダンサーの前姿と、後ろ姿を順々に見ることになる。
曲の終わりと伴に、ダンサー全員がポーズを決めてジャズダンスが終わる、すると、テキーラを称える曲が鳴り始めた。
女の子たちは、ステージ部分に角形のスツールを出す。
先生が立ち上がる。
何をするのかな? と見ていると、一人の女の子が、テキーラのボトルと、ショットグラスを持って、スツールの背後に立つ。
先生は、女の子に向かってスツールに座った。すると、女の子はショットグラスにテキーラを注ぎ込み、それを自らの胸の谷間に差し込んだ。
先生、そっと女の子の腰に手を回すと、女の子の胸の谷間にあるグラスに口を付ける。女の子は、体を屈めてグラスを傾けると、先生はテキーラを飲み干した。
他の女の子が、私に、おいで、おいで、と促す。
そこで、私も調子に乗って、先生が席を離れた後、スツールに腰掛けた。
目の前で、女の子がテキーラを入れたショットグラスを胸の谷間に差し込む。私も見様見真似で、女の子の腰に手を回して、グラスに口を付ける。
テキーラは飲みにくかったが、全部飲み干すことはできた。
しかし、私には、テキーラの味よりも、女の子の腰に手を触れた時、その肌にじわっと汗が滲んでいるのを感じたことに、何か妙な喜びを覚えた。それは、女の子の一生懸命の象徴のようだった。
私たちがテキーラを飲み干すと、さらに角形のスツールが持って来られて、ソファのごとく並べられた。
背後に流れる曲が、なにやら怪しげなメロディーに変わる。
お次は、何事? と見ていると、女の子の一人が、先生が立っている所へ来て、先生のジャケットの前を縛っている紐を引っ張って、ほどく。そして、シャツのボタンまで、順次、外していった。
先生、すっかり上半身裸になる。
先生がソファ状のスツールの上に仰向けに寝ると、そこに黒い革のボンデージに身を包んだ女の子が現れた。その手には、先っちょが無数に分かれた短いムチ、バラムチというものらしい、が握られている。
他の女の子が、火の点いた太い赤い蝋燭を持って来る。そして、先生の腹の上で蝋燭を傾けて、蝋を垂らした。先生の腹の上に赤い蝋の滴が流れると、ボンデージの女の子が、ムチでその上を叩いた。本気ではないが、音は派手だ。先生がむくっと上半身を起こすと、女の子は先生におしぼりを手渡す。先生、お腹の赤い蝋をせっせと拭っている。
その光景を見ている私の前に、女の子がやって来て、シャツのボタンを外し始めた。
え? 私も? と思っているうち、上半身を裸にされ、スツールの上に寝かされる。そして、同じように蝋を垂らされ、ムチで叩かれた。
蝋はさほど熱くない。ムチも痛くない。これは単なるお遊びのようだ。
私もおしぼりを渡され、起き上がる。
すると、女の子たちは、素早くスツールを撤去する。曲が変わって、ディスコティックな音楽が始まる。
先生、いつの間にかすっかり元通りに服を着て、女の子たちと一緒に踊り出した。踵の高い厚底パンプスを履いているのに、先生は器用に軽快なステップを踏んで、時にくるっと回転したりして楽しげに踊る。
私も腹の蝋を拭って、シャツを着て、不器用に踊ってみた。
いい加減、疲れたころ、音楽が止んで、私たちは席に戻った。
店内が、明るくなる。
すると、女の子たちが一斉に出て来て、一人一人、私らの前に来て、礼を言いながら、手を差し伸べる。
先生は、その手を取って、来る女の子、女の子に握手する。
そこで、私も一人ずつ握手した。
スパンコールの女の子が握手に来た時、先生は、チケットを半分取り分けて、それを女の子の胸のトップスとブラジャーの間へと押し込んだ。女の子、礼を言う。
先生、「あんたも、気に入った女の子に、これ上げてね」と、私にチケットの残りを渡す。
そう言われても、初めて来た店で、気に入った女の子もなにもないんだが、と戸惑う。そこで、さっき席に着いたマイクロミニの女の子が握手に来た際、その子の胸の中に、そっとチケットを挿し入れた。女の子、「ありがとうございます」と朗らかに礼を言う。
「このチケット、なんの意味があんすか?」と先生に訊くと、
「その子の成績になんのよ。」
女の子全員の握手が終わると、店は、来訪した時の状態に戻る。
すると、先生、「も一度、さっきのあんたの雇い主の広告見せて。」
そこで、私が改めてスマホのページを開いて見せると、先生、眼光鋭く、じっと数秒間、見つめる。
そして、「もう、いいわ。」私がスマホを引っ込めると、先生、「明日、あなたの雇い主に会える?」
「ええ、いいと思います。ちょっと連絡して、かまいませんか?」
「早速、訊いてちょうだい。」
私は、アキに電話を掛けた。アキは、「どこで、なにしとんじゃ?」
私が先生の意向を伝えると、「明日、朝10時はどうだ?」と、アキ。そこで、先生に尋ねると、OK。先生が、「明日10時にそっちの事務所へ行くわ」と、おっしゃるので、その旨アキに伝えると、「よろしく」との回答。
私の任務は、一応、達せられたわけだ。
そこで、私、「あの、すみません。」
「ぬあんなの?」
「実は、もう一つ、お願いしたいことが。」
「ぬああに?」
「私の雇い主とは別に、もう一人、先生に依頼したい人物がおりまして。」
「どあれ?」
「私と同様、同じ雇い主に雇われたおっさんです。私もそのおっさんも、明日お越しいただく事務所にいそうろうしてるんですが、おっさんも、なんか依頼したいそうで。」
「どんな依頼なのよ?」
「わかりません。私には、言いたくないみたいです。でも、なんか真面目な様子でした。」
「あ、そう。真剣な依頼なら、聞いてあげる。いずれにしろ、そのおっさんとやらも、そこにいるの?」
「ええ。事務所は2階になっておりまして、1階で私らが寝起きしてます。」
女の子たちが、着替えを済ましてフロアに戻って来た。
再び、スパンコールの子とマイクロミニの子が私たちの席に着く。
先生、シガリロを取り出し、スパンコールに火をつけてもらうと、「今日のショーも良かったわよ」などと話し掛ける。後は、なにやら他愛無さそうな会話を先生と女の子たちとで交わしていたが、私は会話に入り込めずに黙っていた。相変わらずマイクロミニの裾あたりに目が行くが、しかし、女の子たちの真剣なパフォーマンスを思うと、彼女たちをエロ目線で見ていたことが、少し恥ずかしくなる。
しばらくして、先生、左腕をぐっと差し出す。手首の内側の腕時計を見て、「そろそろ帰るわ。明日は、朝っぱらから仕事だから。」
「えーっ、もうお帰りですか?」と、マイクロミニ。
「そうよ。今日は、ハシゴせずに、素直に帰るわよ。」
そこで、私、「あの、明日は10時でいいんですが? そのために、お早くお帰りで?」
「あたしは、ハシゴし始めたら、止まらないの。だから、とっとと帰る。あたしって、案外、こういうわきまえは、あるのよ。あたしは、こう見えても、見識と良識と常識のかたまりなの。」
私は、先生の足元を見て、「その黄色い靴下は?」
「これは、ちゃんと意味があるのよ。あたし、夜歩き回るでしょ? この色は、車の運転手から見やすいの。身の安全のために履いてるのよ。」
「ははっ。左様でしたか。これは失礼しました。」
二人の女の子、私らの会話を、感心した様子で聞いていた。