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神様、ごめんなさい・2

 筆者初の長編です。

 ありそうもない話ですが、あり得る話です。

 物語の内容は暗いですが、ちょっと変わった登場人物らが、漫才の掛け合いのごとくギャグを連発します。殺伐としたストーリーを、軽快なギャグで笑い飛ばしながら書く、というコンセプトです。

 こわいもの見たさで、読んでいただければ幸いです。

3.

 翌朝、アキの凄まじい罵声で目を覚ます。

 「てめーら、なに考えとんじゃ。とっとと起きて、張り込みに行かねえかい、こら。いつまで寝さらしとんじゃ。」

 目覚まし時計は? と、見れば、セッティングを忘れてた。はは。

 アキに叩き起こされ、A4の紙切れに印刷した地図と車のキーを渡され、着替えも早々、焦って外に出る。

 「車は、ゼストスパークだからな」と、アキ。

 裏のガレージに回りながら、「ゼストスパークって、なんなん?」と、私。

 「知るかっ」と、言いながら、おっさん、軽トラの運転席に乗り込む。

 私も続いて助手席に乗るが、おっさん、「ん? キーが入らない」

 「は?」

 おっさん、一生懸命、キーをダッシュボードの鍵穴に入れようとするが、どうにも入らない様子。

 「反対に入れようとしてない?」と、私。

 「さっきから、何度も向きを変えて試してる」と、おっさん。

 私が横から覗き込むと、昨日とキーの形が違う。

 「昨日のキーと、ちゃうやん。」

 「ん? て、ことは?」

 「ゼストスパークって、あの車とちゃう?」と、私は隣の軽自動車を指す。

 「あ」と言って、おっさん、さっさと車を降りる。

 「あのさあ、キーが違う時点で、普通、気付きません?」

 「うるさいよ。お前が、昨日、軽トラのドアの鍵を掛けないのが悪い。」

 「は? なに、その理屈。言ってる意味が、わかりませんけど。」

 「なんにしても、お前が悪い」と言いながら、おっさん、もう一台の軽自動車に乗り込み、始動を試みる。6回目で、ようやくエンジンが掛かる。


 私はダッシュボードの上に地図の紙を置き、「運河の向こう側な。」

 「見せろ」と、おっさん、地図をひったくる。「近いな。」

 「あの女の子が走って例の現場まで行ったんですから、そりゃ、近いでしょうな。」

 「今、何時だ?」

 「知りませんよ。」

 「なんで? 時計ないのか?」

 「持ってませんよ。」

 「おまえ、カシオのデジタル持ってたろ?」

 「とうの昔に捨ててしまいましたが?」

 「使えんやっちゃな。」

 「あなたに言われたくないすよ。アキさんに叩き起こされた時、目覚まし時計が8時半だったから、まだ9時前でしょ。」

 「急がんと。道案内しろ」と、おっさん、地図を突っ返す。

 「んでは、まず、運河を渡ってください。」

 「この車は水陸両用車じゃない。」

 「誰が河を渡れと。橋を渡んなさいよ。」

 「どの橋だ?」

 「どれでも、お好きな橋を。」

 「オレは橋に好みはない。」

 「なんちゅう不毛なやりとり。どこでもいいから、橋を渡んなさいよ。」

 「どっち行こう」と、おっさん、T字路で迷う。

 「左行って、私らが昨日渡った橋へ行きゃいいでしょ。」

 「ん、そうする。」

 

 なんだかんだと、現場付近に辿り着く。

 「どれだ?」と、ゆっくり車を走らせながら、おっさん。

 そこは、一方通行の細い裏道で、賑々しい商店街。

 車にカーナビはない。アキが地図に付けた目印からすると、これ、と思しき建物が見つかる。

 「このマンションじゃね?」と、私。

 「高そうなマンションだな。」

 「いや、地上、せいぜい12階建でしょう。」

 「家賃のことを言ってるんだよ。」

 「分譲かも。」

 「なんにしても、高級だ。」

 「そりゃ、そうでしょ。あのお姉さん、ベンツに乗ってらっしゃったんですから。」

 「それはそうと、こう細い道だと、車を止めにくいな。どうしよう。」

 「そこは、軽の強みを発揮して、一方通行なんだから、道の右側に寄せて止めたら?」

 すると、おっさん、コインパーキングの前に車を止める。

 「さすがに駐車場の前ってのは、まずいっしょ。」

 「お店の前は、悪いだろ?」

 「まだ、ましじゃないの?」

 おっさん、うどん屋の前に移動。そこでエンジンを切り、サイドブレーキをギギいっと掛ける。

 「出入口は、あそこだけかな?」と、おっさん。

 マンションの1階正面に、エントランスホールがあって、マンションの背後には、別の巨大な建物の背中が迫って見える。

 「裏は塞がってるみたいだから、出入口はあそこだけでしょ」と、私。

 「あのお姉さんの車は、どこから出てくるんだ?」

 「このマンションに、車を止めるスペースはなさそうだね。」マンションの隣に立体駐車場があるのに気付く。「あそこかな?」

 「あれは一般向けの駐車場だ。」

 「いや、よく見てよ。その奥に、契約者専用駐車場とある。」

 「あれは、地下に潜るタイプだな。」

 などと言っていると、その地下へと潜るスロープを、スリーポインテッド・スターを誇示した鈍色のベンツが勢いよく駆け上がって来た。そのまま、ほとんどスピードを落とさずに急角度で曲がり、走り去る。

 「姉さん、お出かけだ」と、おっさん。

 「間に合った」と、私。

 「では、張り込み開始だ」と、おっさん意気込む。

 「なにすんの?」

 「は?」

 「いや、張り込みって、なにすんの?」

 「張り込みっつったら、張り込みじゃないか。」

 「だから、なにすんの?」

 「お前、知らんの?」

 「いや、どうすると、張り込んだことになるの?」

 「ここで、じっと待つ。」

 「待つ。何を?」

 「あの子が出掛けるのを。」

 「出掛けんかったら?」

 「どっか行くだろう。お姉さんの監視から逃げたいだろうから。」

 「いつ、出掛けんのさ?」

 「知るかっ。それが分からんから、こうしてじっと張り込むんだろうが。」

 「あのう、ひとつ、質問していいですか?」

 「質問によりけりだが?」

 「いつ出掛けるかも分からんのに、ここでじいっと待機するわけ?」

 「それが張り込みだ。」

 「はあん」と、私は既にうんざりする。「もうひとつ、質問していい?」

 「は?」

 「そんなことに、我々が耐えられると思う根拠を訊きたい。」

 「ただ、座って見ているだけだろ? そんなにつらいか?」

 「あのね、5分、10分のことじゃないんすよ。下手すりゃ、ここに一日中いて、見てなきゃならんのですよ。その間中、ずっと絶え間なく、マンションの玄関を見てなきゃならんのよ。目を離した隙に、あの子が出掛けたら、おじゃんなんすよ。ずううううっと、見てなきゃならんのですよ。できます? そんなこと。無理っしょ。できませんって。無理、無理、無理、無理。」

 「うるさいね」と、言いつつも、おっさん、自信減少の様子。私に指摘されて、初めてことの大変さに気づいた態。「まあ、なんだな。こっちはふたりいるわけだから。代わりべんたん、代わりべんたん、で見りゃいいんじゃないのか。」

 「代わりべんたん?」

 「うん。ずっとふたりして集中して見ている必要はなかろうってもんだ。交代で見てりゃよろしい。そういうわけで、まず、お前な。」

 「なんで、私?」

 「オレは運転を担当した。見張りは、お前。」

 「運転した勢いで、おっさんが見る。」

 「オレは、眠い。」

 「あたしゃ、おっさん以上に眠い。ちゃんと朝に起きるのは久しぶり。」

 「昨日は、朝起きたじゃないか。」

 「昨日は、死ぬつもりでしたから。眠いのは気にならないわけで。今日はそうはいかないわけで。」

 「オレは今から睡眠を取る」と言うや、おっさん、腕を組んで俯いて目を閉じる。わざとらしく鼻から音を立てて息をする。

 「はあん。そう出るんすか。」私は、おっさんの方を向いて、「前々から、このおっさんは良い根性してると思ってたけど、なるほどねえ。そう出ますか。」

 「うっさいよ。」おっさん、目を閉じたまま言う。「ちゃんと見てろ。」

 「見てろ、と言われりゃ、見ますがね。人生というものは、おうおうにして皮肉なものでしてね。例えば1時間のうち、59分57秒の間、ずっと目を凝らして見ていたが、わずか3秒目を離した隙に、まさにその隙に、ことが起こって見逃した、なんてことは、良くあることで。こうして」と、私はマンションの玄関口の方に視線を移して、「じっと見ていても、ふと、本当に、ふと、何の気なしに目を離した隙に」とまで言った時、玄関から出てくる人物が約1名。「ああして、出て行くわけですよ。」

 「は?」と、おっさん、開眼して顔を上げる。

 その人物は、つば付きキャップを深めに被り、黒のセーター、レザーのパンツ、黒靴下に灰色のスニーカー、男物の野暮ったいステンカラーのコートを羽織って、小さなショルダーバッグを襷に掛けているが、一見して若い女性と分かる。前髪は全部キャップの中にしまい込んで、後ろ髪をなびかせて、颯爽と歩いて行く。

 「あれだろ、梨紗だ」と、おっさん。

 「梨奈でしょ」と、私。

 「ん? どっちがどっちだ?」

 「梨紗がお姉さん。梨奈が妹。」

 「あ、そ。早く出て来てくれたな。」

 「尾行する?」

 「どこへ行くか、見届けんと。」

 彼女は、北へ向かって歩いて行く。

 「反対方向へ、行って欲しかった」と、おっさん。

 「なんで?」

 「この道路は、南向きの一方通行だ。車で追えない。」

 「んじゃ、どうすんのさ?」

 「とりあえず、お前、歩いて後を付けろ。オレは適当に走って合流する。」

 「適当に走って、どう合流するのさ?」

 「いいから、早く降りろ。ぐずぐずしてたら見逃す。とっとと降りれ。」

 「降りれ?」と、言いながら、私は素直に車から出る。あまり大きな音が出ないように、優しく車のドアを閉めると、彼女との距離が十数メートルほどになったのを見計って、さりげなく後に付いて歩き出す。

 クリーニング屋、眼科医院、今どき珍しい町の本屋、凝ったデザインの貸しビル、寿司屋、こじゃれた喫茶店、本格的バーなど、商店街を通り抜け、交差点で信号待ち。悟られないように、少し離れた場所で立って待つ。青信号。幹線道路を渡ると、オフィス街の真っ只中へ。角を曲がって、公園の前を通り過ぎると、そこそこ大きめのオフィスビルの中へ。そのビルには、多数のテナントが入っている。

 さて、どうする?

 「これこれのビルに入りました」では、報告にならない。そのビルの中の、どこへ行ったかが問題だ。

 やむを得まい。後に続いて、ビルの中に入るか。

 入り口を入るとすぐ、エレベーターホールになっている。彼女は、エレベーターを待っている。

 同じエレベーターの箱に乗る?

 そうせざるを得まい。

 エレベーターを待つ人が、他に約1名。スーツにネクタイ姿の紳士然とした初老の男性。私は場違いな雰囲気。いいのかな、一緒にエレベーターに乗っても。

 ドアが開く。さりげなく、彼女の後に続いて中へ。彼女は9階のボタンを押す。スーツの男は、横からさっと手を伸ばして、4階のボタンを押す。私は、素知らぬ顔で、アクションなし。

 ドアが閉じる。エレベーターが上昇する。4階に到着。ドアが開く。男が降りる。彼女は、閉のボタンを押す。エレベーター、再び上昇を始める。

 狭い箱の中にふたり。気まずい。でも、耐えるしかない。

 9階に到着。彼女が降りる。私も、そっと足音を立てずに、降りる。彼女は、エレベーター前の案内板の前に進み出て、行き先を確かめている。私も、彼女の左斜め後方、2メートルばかり離れて、案内板を見ているふりをする。

 彼女は、素早い足取りで、左側に歩き出す。もろに顔を見られた。覚えているだろうか、私の顔を。だとすると、まずい。でも、どうしようもない。私は、ゆっくりと歩いて彼女の後を付ける。彼女は、廊下の突き当たりを左折すると、すぐ近くにある扉の前に立ち、インターホンを押した。これで、行き先はわかった。

 しかし、立ち止まっていてはあまりに不自然。わざと彼女と同じ方向に行き、彼女の背後を通り過ぎて、さらに廊下の突き当たりを左折。左折したところで、立ち止まって、聞き耳を立てる。彼女が、インターホン越しに名前を告げる声が聞こえて、ドアの開く音、閉まる音がした。そこで、廊下を戻り、彼女が入っていったドア横の表札を見る。「横水法律事務所」とある。

 さて、どうする?

 行き先はわかった。しかし、これから、どうする?

 引き続き、彼女が出てくるのを待って、さらに尾行を続行する必要がある。

 しかし、どうやって?

 オフィスビルの廊下で、ぼさっと立っていたら、不審者になる。身を隠す場所もない。

 どうしようもなく、とりあえず、エレベーターに乗る。良い考えもないので、1階のボタンを押す。

 そろそろと、エレベーターの箱は降りて行く。頭上の階数表示を見上げていると、降下の速度が鈍り、2階を表示したところで、止まる。まだ、1階じゃないよ。

 ドアが開く。若いサラリーマン風の男が乗って来る。1階のボタンが押されているのを見て、閉のボタンを押す。

 すぐ1階に到着。若い男は、さっさと降りて、小走りでビルの外へ出て行く。

 「ったく、いい若いもんが、2階から1階へ降りるのに、エレベーターなんぞ使うなよ。階段使え」と、口には出さずに、腹の中で言う。

 いや、今はそれどころじゃない。

 こういう時、携帯を持っていないということは、致命的に不便だな。

 おっさん、どこ走ってんねん。

 所在なく、ビルの入り口付近に佇む。

 どうする? こんな所で立ち尽くしていたら、やはり不審者に違いない。

 どこか、人目に付かずにビルの入り口を見張れる場所は?

 あった。ちょうどビルの真正面に当たる場所、道路の反対側に喫茶店がある。あの店の窓際の席が空いていたら、そこに座ってビルの入り口を見ていられるかも。道路は片側3車線もあって幅が広いが、私の視力なら、彼女が出て来るのを見届けられるかも。

 よし、行こう。と、思った瞬間、大切なことを思い出す。

 所持金がないんだ。喫茶店には、入れません。

 ガーン。

 どうする?

 こういう時、タイミング良くおっさんがやって来たら、車の中から見ていられるのに。

 いかん。既に不審者になりかけている。ビルから少し、離れなければ。

 仕方ない。そこら辺を、ウロウロするか。

 おっさん、ほんま、どこ走ってんねん。使えない奴。

 いや、待て。喫茶店の2軒隣に、コンビニがある。喫茶店には入れないが、コンビニなら、何も買わずに居られる。だいたいコンビニの本棚は窓際にある。雑誌でも立ち読みしながら、窓からビルの入り口を監視できないか?

 こういうことを思い付くだけ、まだ私は使えるわけだ。よし、実行。

 横断歩道を渡る。コンビニへ。

 しかし、案に反して、イートイン用の空間があって、本棚は窓からかなり離れている。ちょっと外が見にくいが、仕方がない。今はイートインの客がいないから、一応、外は見える。作戦、実行。

 さりげなく、本棚に寄り、適当な雑誌を物色。

 漫画本は、ダメでしょう。長時間、同じページを見つめているわけにはいかんから。意外と時間がつぶせません。じっと同じページを開いていても、不審に思われない雑誌は?

 アルバイトの情報誌かな? 中古車情報誌でも、いいか。

 カーセンサーみっけ。そっと取り出し、適当なページを開いて、立ち読みする態で窓の外を見る。

 外が見にくい。彼女が出て来るのに、気付けるかな?

 しかし、雑誌を読みふける風を装いながら外を見るのは、意外に難しい。ページを開いて、うつ向きながら、目だけ前を見る。疲れるね。時々、ページをめくらないと、不自然だし。

 長いこと、そうしていて、いいかげん疲れた。カーセンサーは棚に戻し、他にいい雑誌はないか物色。

 やはり中古車情報誌だが、軽自動車の特集のがある。これにしましょう。

 ほほう、軽自動車といっても、いろいろあるんですね。

 一台、一台、丁寧に記事を読んでいくと、意外と長時間、退屈せずに過ごせます。

 あ、あった。ホンダのゼスト。これか、乗って来たのは。古いのに、意外と高価だな。

 軽自動車って、こんなに高くて、よく売れるもんだな。他にもいろいろあるけど、なんで、こう高額なんだ?

 コンビニのドアが開く音がする。

 まずい。かなり長い時間、雑誌の記事に気を取られていた。

 ふと、入って来た客の姿を見ると、ダサい男物のコートを着た若い女性。暗い表情の梨奈さんです。

 「ぶほっ」と、思わず咳き込んだ。

 いつの間に?

 彼女は、店に入るや、とっとと「お酒のコーナー」に向かう。

 私は、引き続き雑誌を見ているふりをしながら、気付かれないように、彼女の動静をうかがう。

 彼女は、酒類の冷蔵庫から無造作にいくつか缶を取り出すと、両腕に抱えてレジに行く。レジを済ますと、購入した缶を全部ショルダーバッグに詰め込んで、そこはかとない怒気のオーラを放ちながら、足早に店を出て行った。

 追跡開始。

 彼女の足は、まっすぐに自宅に向かう。付かず離れず後を追うと、やはり自宅マンションの前に来て、とっととエントランスに入って行った。

 さて、どうする?

 まさか、マンションの前で、ぼさっと突っ立っているわけにもいくまい。

 どうする?

 通りすがりを装って、マンション前を通り過ぎたが、これからどうすべきか、良い考えが浮かばない。

 しばらく、当てもなく、周辺をそぞろ歩く。

 ええい、こうしてウロウロしていたって、仕方がない。ままよ、基地に帰ろう。

 


4.

 「たらいまっ」と、徒歩で黒岩商會の元社屋に戻り、冷たい真鍮のノブを握って建付の悪いドアを開け、薄汚い部屋を通り抜けて嫌な音で軋む階段を昇り、2階の居室に立ち入って、やけくそ気味のから元気でこう挨拶した時、アキは、

 「おかえり」と、気楽に言ってのけた。

 アキは高級椅子のヘッドレストに頭をもたせて葉巻の煙を吐いている。

 おっさんはテーブルに向かい、テーブル上に置かれた黒いへらべったい物を夢中でいじっている様子。

 おっさんの脇には、大小、二つの箱が置かれてある。

 「あのねえ、あんたたち」と、私は呆れ声で言う。

 「なんだ?」と、アキ。

 「いったい、なんですね? この体たらくは」

 「なんか、気に入らねえか?」

 「あたしゃ、こうして戻って来たんすよ。おっさんは、そこで何かやってるし。張り込みは、どうなってんすか? なんで、おっさんが、ここに居る?」

 「うん」と、アキは気楽に続ける。「お前らが出てからじきに、あの姉さんから電話があってな。姉さん、出掛けた直後に、妹が自宅に居ないことに気付いたってえんだ。おっさんの話じゃ、お前が尾行したって言うじゃねえか。そいで、たった今さっき、また姉さんから電話があって、妹、自宅に戻ったって。お前、尾行の首尾はどうだった?」

 「ちゃんと、最後まで後をつけましたよ。マンションに戻るまで見届けて、それから、こうして帰ってきたわけで。」

 「そうか。偉いな。んで、あの妹、どこ行った?」

 「弁護士の事務所ですよ。マンション出てから、その足で真っ直ぐ弁護士の事務所へ行って、しばらくしたら出てきて、コンビニで酒買って、そのまままっすぐ帰りましたよ。」

 「ふうん、なんていう弁護士だ?」

 「横水とか、なんとかいうんです。場所も確かめました。」

 「変わった弁護士だな。いつも前だけ見て歩いてるのかな?」

 「なんで?」

 「よこみずっ、てえくれえだ。」

 「横水は名前っ。横水法律事務所っての。」

 「あ、そ。どこにあるんだ?」

 「とあるビルの9階ですよ。」

 「なんてビルだ?」

 「ビルの名前は、どうも。現地に行きゃ、案内はできますけど。」

 すると、アキは、高級椅子から跳ね起きて、テーブルに向かって安物椅子に座り、ノートパソコンの蓋を開けると、なにやらカチャカチャ打ち込んで、ディスプレイの画面を私に向けた。

 「これで、案内しろ。」

 見ると、ディスプレイには、怪しげな女の子の顔写真がずらっと並んでいる。

 「なんすか? これ」

 「ん?」と、アキはパソコンを自分の方に向けて見る。「あ、ごめん」と言って、再びカチャカチャ。そして、あらためて画面を私に向ける。

 見ると、今度は、どこか外国の街の風景。「なんだろう?」と見ていると、画面中央に一匹の猫が現れる。その猫が近付いて来ると、カメラは異例のローアングルで撮っていることが分かる。やがて画面いっぱいに猫の顔がアップで捉えられる。「あの」と、私。

 「ん? なんだ?」

 「この種の動画を見せる趣味が、おありで?」

 「なんなんだ?」と、アキは再びパソコンを自分の方に向ける。

 「私にも見せてくださいよ」と、私はアキの隣へ椅子ごと移動。

 「あれ? なんで、こんなのが出るんだ?」と、アキ。

 一緒に画面を見ていると、岩合光昭の世界ネコ歩き、とタイトルが出た。

 「保存したんですか?」

 「ブックマーク付けておいた」と、アキ。「これが、なかなか良い。」

 ふたり、しばらく見入る。

 立派な体格の猫が、路上でエサをもらって食べている。

 「この猫、毛並みがいいよな」と、アキ。

 「品格がありますね。」

 「猫は、みんな、凛としているよな。」

 「ここは、ニューオーリンズですかね?」

 「一度は、行きたい所だな。」

 「あ、白猫が出て来た。」

 「俺は、キジトラが好きだ。」

 「ムスリムに人気がありますよね。」

 「なんで?」

 「額の模様が、Mの字に見えるって。ムハンマドの頭文字ね。」

 「ムハンマド? マホメットと、違うのか?」

 「近ごろは、ムハンマドって言わなきゃならんそうです。コーランも、クルアーン、て言うんだそうで。」

 「ややこしいな。なんで、長年慣れ親しんだ言い方を変えにゃならんのかね?」

 「世の中には、いろいろとうるさい人がいるんです。」

 「んじゃあ、ブッダも、ブットビとか、言い換えるのか?」

 「ブッダは、ブッダのままです。変わってません。」

 「やはり、ブッダは偉大だな。しかし、行きてえなあ、ニューオーリンズ。」

 「いい街ですよね。」

 ふたり、しばし、動画鑑賞。

 「俺もいつか、ジャズ浸り、猫浸りの日々を送りてえ」と、アキ。

 「国内の猫島に移り住んだら、どうです?」

 「猫島? んな島があるのか?」

 「猫だらけで、猫がそこらを自由に闊歩している島が、あちこちあるそうですよ。」

 などと言っているうちに、動画、終了。

 「良かったろ? 最後まで見る価値はあろうってもんだ」と、アキ。

 「同意します。」

 「ところで、俺たち、何をしてたんだっけ?」

 「例の妹さんが訪ねた弁護士の事務所のあるビルを見るんじゃありませんでしたっけね?」

 「そうじゃねえか」と、アキは、再々度、キーボードに打ち込む。

 パソコン画面に、グーグルマップが映る。

 「今まで、何を打ち込んでたんです?」と、私。

 「うっせえよ」と、アキは言いつつ、パッドを操作する。

 ようやく、御蔵姉妹が住むマンション前のストリートビューが現れた。

 「ここから、どっちへ行った?」と、アキ。

 「あ、北の方です。」

 アキは、パッドを操作して、画面は南へと移動。私は、それを見ながら、「なんで、反対方向へ行くのさ」と、声に出さずに腹の中でつぶやく。

 「おい、案内しろ」と、アキ。

 「では、言いますけどね、あなたは今、反対方向へ移動しておられます。」

 「は?」

 「そっち、南ですから。」

 「早く言わねえかい。どアホ。」

 戻って、北へ。

 私も気を取り直して、そこをまっすぐ、とか、ここを曲がって、などと案内する。やがて、件のビルが画面に現れる。

 「このビル」と私が言うや、アキは、画面を自分に向けて見て、

 「アンダーパークビルか」

 おっさんは、相変わらず、テーブル上の平たい物体をいじっている。

 「おっさん、さっきから、何してんねん。」

 すると、おっさん、「これだよ。アキさんが買ってくれた」と、平たい物体を取り上げて見せる。なんのことはない、スマホだ。

 「おっさん、スマホいじってたんかい。」

 「おい」と、アキが私に、「お前、なにボサッとしてんでい。」

 「なんすか?」

 「メモを取らんかい。」

 「何のメモです?」

 「ビルの名前だ。今、言ったろ?」

 「なんで私がメモしなけりゃならんのですよ。」

 「お前が報告書を書くんだよ。」

 「は? んなこと言われても、紙もペンも持ってないすけど。」

 「使えんやっちゃな」と、アキはラックから小さな紙片とサインペンを取り出し、私の前に放り出す。

 私は、紙に「アンダーパークビル」と書いて、「あのねえ、アキさん。」

 「なんだ?」

 「報告書を書けとおっしゃいますがね。手書きでいいんすか? 道具がないんですけど。」

 「パソコンは貸してやる。プリンターも買った」と、アキは大きい方の箱を指差す。そして、「お前らのスマホも買ってやった」と、小さい方の箱を取り上げると、私に向かってテーブルの上を滑らせる。「俺はこういうことは早えんだ。」

 私は、箱を取り上げる。中を開けると、新品のスマホ。

 「いまどき、携帯持ってねえ奴らって、珍しいぜ、ったく。それから、お前ら、言うまでもないことだけどな、俺の仕事以外でスマホ使うなよ。厳しくチェックするからな。」

 おっさん、ピクッとして、指の動きが止まる。

 アキは、「おっさん、お前さんは、何しとんじゃ?」

 「あ、いえ」おっさん、うろたえる。「あっしは、ガラケーしか使ったことないんで、スマホって、どういうもんかなって、見ているわけで。」

 「貸してみい」と、アキは、片手のひらを上に向けて突き出す。

 おっさん、一瞬のためらいの後、渋々スマホをその手の上に乗っける。

 アキは、ちょいちょい、とスマホをいじって、「何を見とったんじゃい。」

 「いえ、別に、どうというほどのものでもなく」と、おっさん。

 「いやに設定に時間を掛けてると思ったら」と、アキは、スクロールする指を止めて、「これか?」と、画面をおっさんに見せる。

 「え? いや、まあね、それはね、そうかも」と、おっさん、口ごもる。

 「なんすか?」と、私。

 「台湾チアガール、だとさ」と、アキ。

 「あ、いいすね」と、私。「この仕事が終わったら、みんなして台湾に野球観戦にいきましょう。」

 「チアガール見るためにか?」

 「ダメっすか?」と、私。

 アキ、ひとつため息をつくと、ジャケットのポケットから、くしゃくしゃの千円札を二枚取り出し、テーブルに放り投げて、「お前ら、直ちに張り込み続行。昼飯はこれで食え。」

 「あの、今日は、弁護士の事務所を突き止めたってことで、良しとしませんか?」

 「アホ。姉さんが帰るまで、張り込みっ。とっとと行け。」アキは、おっさんに向けてスマホを放り投げる。

 おっさん、焦って受け取り、立ち上がって、とっとと階段を降りる。

 「同じ車で行くなよ」と、アキが我々の背中から声かける。



5.

 今度は私が軽トラを運転して、また例のマンションの前へ。

 しかし、同じ場所に、今度は白の軽トラが止まっていて、怪しまれないだろか? ま、いいか。

 「おっさん」と、私。「今回は、どっちから張り込みを?」

 「お前」と、おっさん。

 「なんで? さっき私からだったよね。今度は、おっさんだよね。」

 「お前は尾行に成功した。実績のある方が先だ。」

 「んな理屈ないでしょ。第一、あたしゃ空腹です。昼飯食べに行きたい。」

 「では、オレが先だ」と、おっさん、なぜか車のドアを開けて出ようとする。

 「ちょい待ち」と、私はおっさんの右腕を掴んで引き止める。「なんで、出て行くんすか?」

 「つまり、オレが先にメシを食う。」

 「張り込みが先。メシは私。」

 「食事は年長者が先。それが社会のルール。」

 「そのルールは、近年、改定されました。」

 「んじゃ、よろしく」と、おっさん、私の手を振り切って出て行く。

 「あ、ちょっと」と言うが、既におっさんは車外の人。「どゆこと?」

 このような不条理に堪えてゆくのが人生か。アホくさ。やってられん。早速、スマホを活用。アキに電話する。短いコールで、すぐアキが出た。

 「なんでい。」

 「あのね、頼みがあんすけど。」

 「なんだ。」

 「おっさん、クビにしてやってくれませんかね。とっとと食事に出て行ったし。態度悪いんだから。」

 「は? んなことでいちいち電話してくんな、どアホ。しっかり見張っとれ。ボケ。穀潰し。カス。」

 電話がぶち切れる。

 「なんちゅう言い草。」

 こうしている間も、ずっとマンションの玄関口を見ていなければならない。

 「おっさん、早よ帰りいや。」

 20分が経った。30分が経った。40分が経った。

 「おっさん、何してんねん。」

 おっさんに電話する。長いコールの後、一度電話が切れて、すぐ向こうから掛け直してきて、

 おっさん、「あ?」

 「あ、じゃないでしょ。何やっとんの?」

 「何やってるって、食事する場所、探してんじゃないか。」

 「は? まだ、食べてないの?」

 「まだって、まださ。なかなかいい店がなくてな。」

 「いい店がなくてな、じゃないでしょっ。こっちゃ待ってんすよ。さっさと食って、さっさと帰ったらどうなのさ。」

 「そう言うな。オレは店を選ぶタチだ。」

 「人を待たせてるって感覚ないんすか? 急いでくださいよ。だいたい、この都会の真っ只中で、ランチの店なんか、いっくらでもあんでしょが。」

 「意外と、それがダメでね。」

 「贅沢言ってないで、適当な店で適当に食べて、急いで帰ってくんさい。」電話を切る。腹立つわ、もう。

 

 まずい。トイレに行きたくなってきた。再び、おっさんに架電。一度電話がぶち切れてから、返しで掛かってくる。

 「ん? 何?」と、おっさん。

 「いつも、なんで、一度切るのさ。」

 「どうも、使い方がようわからん。出ようとすると、電話が切れる。」

 「慣れでしょ。それはそうと、やばいんすけど。」

 「なにが?」

 「トイレ行きたくなってきた。」

 「行きゃ、いいだろ。」

 「アホですか、あなたは。トイレに行くのと、張り込みと、どう両立するんすか。」

 「だったら、我慢しろ。」

 「いつまで我慢させるつもりなんすか? いいかげん、さっさと帰ってきてください。」

 「うるさいな。適当に食って帰るから、それまで我慢しろ。」電話が切れる。

 「まだ、食ってないんかい。」腹立つわ、ほんま。

 10分経過。15分経過。20分経過。

 「ああ、もう、殺す気かい。」

 本気で、任務を放棄しようと思い始めたころ、ようやく、おっさんが姿を現す。おっさん、特に急ぐ風でもなく、眉間に皺を寄せながら、のんびりと歩いて来る。

 おっさんが車に乗り込む前に、私は外に出る。

 「ちゃんと、見てろよ」と、おっさん。

 「交替ですよ。それは、こっちのセリフ。ちゃんと見てて下さいよ。」

 私は、背後におっさんが車に乗り込むドアの音を聞いて、小走りに大通りの方に向かう。

 「ランチなんて、なんでもいいやん。いったい、何を選んどったんじゃろか。」

 しかし、ここで、ふと思い出す。わしら、どこに車を止めたっけ?

 うどん屋さんの前だったよね?

 んで、なんで、そのうどん屋さんに入らずに、わざわざ遠くへ行くわけ?

 アホですやん。

 足が止まる。戻ろうか?

 しかし、それもシャクだな。いや、むしろ、わざとらしく戻って、これ見よがしに、おっさんの目の前でうどん屋さんに入ったろか。

 でも、ここから戻る、というのは、どうかな。あまりに不自然な行動だ。張り込み中だから、目立つ行動は控えなければ。

 で、結局、歩き出す。早足で、まずコンビニ探して、トイレ借りよう。

 しかし、なにか、おっさんへの当てこすりになること、ないかな?

 素早く店を決めて、素早く食べて、驚くべき早さで帰る。そして、「早かったな」などと言うおっさんに、「あなたも、今後はこれくらい早くしてください」と言う。

 インパクト弱いな。おっさん、「あ、そ」とでも言って、軽くいなすに違いない。

 腹立つな。

 あ、そうだ。まともにお店でランチを食す、などという贅沢をしなけりゃいい。

 模範を示しましょう。張り込み中の食事ってものが、どういうものであるべきか、私が行動で示す。

 コンビニに入る。

 まず、トイレ借りてから、サンドイッチのコーナーへ行き、タマゴサンド、カツサンド、ミックスサンドを取ってレジへ。レジで袋とブレンドコーヒーのホットSサイズの紙コップを受け取り、コーヒーメーカーでコーヒーを抽出すると、蓋をして外へ。

 軽トラに帰ると、おっさんが運転席に移動していたので、片手でサンドイッチを入れた袋とコーヒーを持ちながら助手席のドアを開ける。

 「ええい、しょっと」と、シートに座る。

 「ありがとう」と、おっさんが言ってのける。

 「いや、これは、わたしんですから。」

 「オレの分は、ないのか。」

 「食べて来たんでしょう? なんで、おっさんの分があり得るんです。」

 「食い足りないんだよ。お前が妙にせかすもんだから、十分に熟慮して食事を選べんかった。」

 「なに、食べたんですよ。」

 「わけのわからん店で、スパゲティを一杯。」

 「スパゲティ一人前食べたなら、それで、いいでしょ。」

 「お前、アホか。スパゲティってのは、一食分にならない。普通、前菜がいく種類か出て、スープがわりにスパゲティが出て、その後、魚料理、口直し、そして、メインディッシュの肉料理、デザート、最後にグラッパ、てなもんだろう。スパゲティなんてものはな、スープがわりなんだ。」

 「日本人は、昔から、スパゲティだけ食べて、それで満足なんです。」

 「実に貧困だ。和食にすべきだった。」

 「今度から、ここでうどん食ったら?」と、うどん屋さんを親指で指す。

 「ん?」と、おっさん、うどん屋の方を見る。

 「目を逸らしちゃダメ」と、私。「張り込み中でしょ。」

 「うっさいね、ほんとに、お前は。」

 「ああ、もう。耐えられん。こんなん、やっぱ無理っしょ。」

 「初日で音を上げる奴があるか。」

 「組んでる相手が悪いと思う。」

 「オレは真面目に仕事してる。お前に胆力がないだけだ。」

 「いいでしょう。今日一日は、なんとか耐えましょう。でも、これが明日からも続くとなると、おそらく、どっちかが発狂しますね。間違いない。」

 「オレは、お前が早く発狂する方に賭ける。」

 「あたしゃ、私が早く発狂する方に賭ける。」

 「それじゃ賭けが成立せんだろが。」

 「あたしゃ、もう持ちませんから。」

 「お前は、オレが早く発狂する方に賭けろ。そうすりゃ、お互い、賭けに負けないように頑張ろうってなもんだ。」

 「んで、何を賭けるんすか?」

 「昼食代だな。」

 「てことは、負けた方はランチ抜き?」

 「そういうことだ。」

 「そりゃ、残酷ですな。発狂したうえに、ランチ抜き?」

 「発狂したら、腹は減らんだろ?」

 「ほほう、そりゃ、なんか根拠があるんですかね? 発狂者は空腹を感じない、という医学的知見でもあるんすか?」

 「医学に『発狂者』という概念はない。」

 「んじゃ、根拠もないわけでしょ? いい加減なことを言っては、いけませんな。」

 「うっさいな。ほんとに。黙ってしゃべれんのか。」

 「黙っては、しゃべれません。どうして、できますか、んなこと。」

 「だったら、しゃべるな。うるさい。」

 「しゃべらず黙ることはできますが、そうしましょうか。」

 すると、おっさん、怒気を含んだ目でこっちを見る。

 「目を逸らさない。張り込み中っ」と、私。

 おっさん、怒りのため息をついて、マンションの玄関に視線を戻す。

 私は、買ってきたサンドイッチを食べる。ひたすら食べる。必然的に無口になる。

 車内に、私の咀嚼の音と、おっさんの息の音だけがする。

 コーヒーを飲み終えて、私は、「エンジン掛けてくださいよ。寒い。」

 「オレもさっきから、寒いって思ってんだ。」

 「んじゃ、なんでエンジン切ってんですよ。そのうち、凍えますよ。」

 「アイドリングしっぱなしじゃ、近隣の迷惑だろ。」

 「風邪ひいちゃいますよ。」

 「ええ、もう」と言いつつ、おっさん、キーをひねる。

 苦しげな音を立てて、エンジンが目覚める。

 沈黙。

 退屈。

 私は思わず「ぶひっ」と独り言。

 約5分後、再び、「ぶひっ。」

 そして、その約5分後、また「ぶひっ。」

 さらにその約5分後、「ぶひっ。」

 「あのなあ」と、おっさん。「その、ぶひっての、やめてもらえんかな。イラッとする。」

 「ダメっすか?」

 「禁止する」

 「あ、そ。」

 そこで、その約5分後、「むにゅっ」と、私。

 そして、さらにその約5分後、「むにゅっ。」

 「あのな」と、おっさん。「ぶひってのが、いけなくて、その、むにゅってのは良いと思うのは、どうしてなんだ?」

 「禁止されたのは、ぶひってやつで、ぶひっ以外は、禁止の対象とはされておりませんので。」

 「ぶひってのを禁止する趣旨は、むにゅってのにも及ぶって考えはないのか?」

 「それは、拡張解釈ですね。あるいは類推解釈か。」

 「だから、なんだってんだよ。イラッとすることに、変わりはないんだ。無意味な言葉を吐くな。」

 そこで、私は考える。そして、「Declare independence!」

 そして、約5分後、「Declare independence!」

 すると、おっさん、「なんなんだ、それ。」

 「いえ、無意味な言葉を吐くな、とおっしゃったんで、意味ある言葉を吐いているわけで。」

 「誰に向かって言ってんだよ。」

 「まずは、スコットランドの人民にですね。それから、そのほか、抑圧された総ての民族へ。」

 「誰もお前に言われたくないわな。」

 「なんでさ?」

 「お前が自立する方が先だろうが。」

 ぶっほん、と咳払いする。そして、少し考えて、「神はサイコロを振らない。ん? ほんと? 神はサイコロを振らない? 神はサイコロを振るかな? 神はサイコロを振っちゃったかな? あ、振るのかな? どうかな? やっぱ振りますか? おーっと、振っちまった。振っちゃったよ、おい。振りました。ああ振った、振った。きゃあ振った。どうする? どうする? 振っちまいましたあ!」

 「あのなあ」と、おっさん。「お前、なんかしゃべってないと、気が済まんわけ?」

 「ま、そうですね。」

 「オレはよく思うんだが、お前の頭蓋骨を一度切り開いて、脳を取り出して、天日で干してから入れ直したらどうかと思うんだがね。」

 「乾燥した脳は、電気羊の夢を見るか?」

 「お前のたわ言聞いてたら疲れた。オレは寝る。見張り、交替な」と、おっさん、目を閉じる。

 「あ、ちょっと」と、私はおっさんを見る。おっさん、腕を組んだまま寝息を立てる。

 つん、つん、と肩を突いたが、反応なし。おっさん、無視して、わざとらしく寝息の音量を上げる。

 腹立つわ、ほんまに。

 やむを得ず、マンションの玄関口の見張り、再開。

 いや、絶対耐えられませんよ、こんなこと。明日からどうするか、考えなくては。

 

 手にしたスマホの振動で、目を覚ます。

 目を覚ました、ということは、今まで眠っていた、ということになる。

 「え?」と、思いつつ、周囲を見回す。車外は、既に黄昏の色に染まっている。

 おっさんは? と見ると、これまた呑気に眠り込んでおられる。

 焦って電話に出ようとして、画面をスワイプしようとした、つもりだが、電話が切れた。

 履歴を見ると、アキさんから。すぐ掛け直す。

 「はい、はい、はい、はい。なんざんしょ。」

 「お前ら、もう退却していいぞ。帰って来い。」

 「ふぁい、ふぁい、ふぁい、ふぁあい。」

 ブチっと電話が切れる。



6.

 「ご苦労さん。つぶやん、報告書作れ」と、アキ。相変わらず、高級椅子にふんぞりかえって、鼻から葉巻の煙を出しながらの業務命令。

 「あの、実は」と、私は言いにくいことを切り出す。

 おっさんは、私の傍で、机の上にうっ伏して、寝息を立てている。運転中だけ目を覚ましたが、帰ったら、早速居眠りの続きを始めたわけだ。

 「なんだ?」と、アキ。

 「実は、私ら、午後の部の後半部分においてですね、あの、いわゆる、ひとつの、何と申しましょうか、ある種の、即ち、日常用語で言うところの、つまり、どう言うべきか」

 とまで言うと、アキ、「はっきり言え。こら。何が言いてえんじゃ。」

 「要するに、端的に言えばですね、我々は、つまり、居眠りこいてまった、というわけなんすよ。あは。」

 「あは?」

 「そう、あは。」

 「ふうん。あは、かい。」

 「そうっす。あは、です。」

 「それは問題だな」と、アキは言うと、音を立てて葉巻を吸い込み、ふうっと煙を吐く。そして、「ちょと、こっち来な」と、天井を見ながら言う。

 「へ?」

 「へ、じゃねえ。こっちへ来な。」

 私は、嫌な予感を抱きつつ、安物椅子から立ち上がり、ゆっくりとした動作で机を回って、アキが座っている方へと摺り足で行く。

 「なんすか?」アキの斜め正面、約1メートルの所で訊く。

 「もうちょい、近くへ」と、アキ。

 私は、アキとの距離をそっと詰める。

 「もうちょい、もっと近くへ」と、アキ。

 こわごわ近付く。アキは、もっと近寄れ、と言わんばかりに、人差し指の先を、ちょいちょい、と招くように動かす。

 そこで、ぐっと上体を傾げて顔を近づけると、突如、バキッと鼻に衝撃を感じた。

 「くくくく」私は、両手で鼻を押さえて、悶える。アキのパンチが私の顔の中央に炸裂したわけだ。「ひどいっすね。」

 「信賞必罰。これ、俺の方針」と、アキ。

 「おっさんも、寝てましたよ」と、私。

 「おっさんは、存在すること自体で、既に罰せられている。」

 「意味わかりません。」私は苦痛から立ち直りつつ、「いや、分かるかも。確かに、なんとなく、そんな気がします。」

 「でも」と、アキ。「実害はなかったのさ。あの気色悪いお姉さんから電話があってな。」

 「気色悪いお姉さん?」

 「うん。姉さん曰く、あの妹、午後は部屋から一歩も出ずに、飲んだくれていたそうだ。そいで、ぐでんぐでんになって、姉さんが帰ったころは、正体不明になっていたそうな。姉さんから、帰宅した、と連絡あったんで、お前らに帰還命令したってわけ。結果的に、あの妹、今日は弁護士の事務所に行ったきりで、その後はどこにも出かけてねえってわけ。」

 「あ、そうすか。で、報告書を書けと?」

 「うん。報告書を書け。書けたら、俺が送る」と、アキは高級椅子から離れ、机の上のパソコンを開いて私に向ける。

 「雛形とか、ないんすか?」

 「ねーよ。書式は好きにしろ。それらしく書けよ。」

 「報告書は書きますけど、明日からのこと、考えてください。」

 「ん? 何を考えるんだ?」

 「今日の居眠りは、偶然じゃありませんよ。朝から一日中、いつ出掛けるとも分からんのに、ずっと玄関口を見張ってるってのは、尋常じゃありません。無理です。今日は、たまたま妹さんの外出先を突き止めましたがね。今後もこう、うまく行くとは思えませんね。」

 「それは俺も考えてる。言われんでも分かる。その程度の想像力は俺にはあるんだ。心配するな。手は打ってある。」

 「どんな手ですか?」

 「明日話す。大丈夫だ。任せろ。」


 私は、パソコンを前にして、「ひさしぶりいいいいい。」

 「何が久しぶりだ?」アキが問う。

 「キーボードですよ。キーボード打つの、ひさしぶりいいいいいいいい。」

 「語尾を伸ばさにゃ、言えんのか?」

 「んじゃ、ひさしぶりっ。」

 「言い直すな、アホ。とっとと打て。報告書が上がったら、メシ食いに行くからな。」

 報告書作りに取り掛かる。

 しかし、探偵の報告書って、どんなものかな? 見たことないな。ま、いいか。適当にそれらしく作ろ。

 書式は後で整えるとして、まずはベタ打ち。

 タイトルは? 「報告書」かな。いや、「調査報告書」でしょう。

 それから、何書く?

 調査対象者か。いや、まず依頼者名な。

 「アキさん。」

 「は?」

 「あの姉さん、名前教えて。」

 「知ってんだろ?」

 「書くんですよ。漢字教えて。」

 「は?」

 「いや、は、じゃなくって。調査報告書なんですから。依頼者の名前は必須事項でしょ。」

 アキ、数秒間、私を不快そうな目で見つめて、「めんどくせえ野郎だな。」

 「おせーて。」

 「苗字は、みくら。」

 「字は?」

 「確か、御中の御に、くら。」

 「くらは、どっちの? 簡単な方? 難しい方?」

 「確か、難しい方。」

 「下の名前は?」

 「りさ、だったな。確か。」

 「字は?」

 「えっと、なんだったっけ。確か、利用の利って字みたいだったけど、違うんだよな。下が木だっけ。」

 「それ、どんな字?」

 「だからさあ、利するって字の下に木があってな。」

 「リする? なにそれ? 下にき? きって何?」

 「わからんのかい。あ、そうだ。なしだよ、なし。」

 「やけにならないでください。」

 「別に、やけになってねえよ。」

 「なしって言い方は、ないでしょ。字は、あるでしょ。」

 「いや、そういう意味じゃなくってな。なしなんだってえの。」

 「何が無いんです?」

 「アホか。なに言っとんじゃ。なしだって言うのに。」

 「はあ?」

 「ああ、もう、めんどくせえ」と、アキは立ち上がる。

 「どこへ?」

 「名刺を探すっ。」

 最初から名刺見せりゃいいのに。

 アキは、スチールラックの前へ行き、書類ケースの中をゴソゴソ探し始める。

 「すぐ、出ないんすかあ?」

 「うっせえよ」と、言いつつ、ガサゴソ引っ掻き回している。

 「なくしたんすかあ?」

 「うっせえっつってんだよ。なくしゃしねえ。」書類ケースの別の段を、ゴソゴソ。

 そこで、私、「かの名刺は、いずこへ消えた? 流れ流れて、風来坊。どこへ行こうか、あてもない。さすらう旅の行く末は、異国の果てか、異世界か。ああ、我が名刺の命運は。ゆくえ知れずで終わるのか。」

 アキ、名刺を探す手をピタッと止め、横目で私を見て、ドスのきいた声で、「てめえ、もう一個、俺のパンチが欲しいか。」

 「あたし、パンチ、いらないのことよ。名刺ほしいよ。名前、書きたいよ。」

 アキは、「ふうっ」とため息をつくと、ふと、片手をジャケットのポケットに突っ込む。そして、「ん?」ポケットから、白い小さな紙を取り出す。「あんじゃねえか。ここに」と、取り出した紙を私の目の前に放り投げる。

 「御蔵梨紗ね。」私は名刺を見ながら、「依頼者」として、名前を打ち込む。

 「んで、妹の方の名前は?」と、私。

 「なんだったっけ。」

 「りな、でしょ。」

 「知ってんじゃねえか。」

 「漢字ですよ。どう書くんでしょう。」

 「苗字は、同じだ。」

 「そりゃ、そうでしょ。姉妹なんだから。下の名前ですよっ。」

 「りな、の『り』は、どうせ同じだろう。」

 「そうでしょうな。問題は、『な』です。」

 「な?」と、アキ。「な? な? な? な? なんだろう。」

 「聞いてないんですか?」

 「そういや、聞かなかったな。字まではな。」

 「なんでしょうね?」

 「この際、適当に書いとけ。」

 「でも、人の名前ですよ。間違えたら、失礼でしょうが。」

 「よくまあ、そういう常識的なことを言うよな。お前の口から出るとは思えんな。」

 「この際、電話でお姉さんに訊いたら?」

 「それも気まずいな。今さら間抜けだよな。」

 「いいじゃないですか。『報告書を書きたいんですけど、そういえば、妹さんのお名前、字をどう書くか、お伺いしてませんでした』、て訊けばいいでしょ。」

 「ふん」と、アキ。「確かに。そうだな」と言うや、内ポケットからスマホを取り出して私に手渡し、「お前、かけろ。」

 「は? なんで? 私がですか?」

 「お前の今の言い方、良かった。俺にはできねえ。お前やれ。」

 ったく、もう、と思いながら、着信履歴を見る。「あん?」履歴にちゃんと「御蔵梨紗」と名前が出てるじゃん。これ見せりゃ良かったのに。

 コール4回で姉が出る。「はい。」冷たそうな声だ。

 「あ、あの、私、アキの、え、えーっと、栗石アキの、なんと申しましょうか、実働部隊、あ、いや、部下のですね、その」とまで言うと、

 「栗石アキさんの事務所の方ですね?」

 「あ、そうです。そのとおりです。」

 「なんでしょう?」

 「あ、あの、実は、今、報告書を書いておるんですけど、その、あの、妹様のお名前ですね、いや、いやいや、りなさんとおっしゃることは、十分に承知しておりますのでますのですのですけれど、その、漢字がですね、どう書くのか、わかりませんで、もし、あれですね、お差し支えなければ、字を、どう書くか教えていただければ、と思いまして、あは、あは。」

 「りなの『り』は、果物の梨です。『な』は、奈良の奈です。」

 「あ、奈良の奈ですか。そうですか。どうも、どうも、どうも、わかりましたでございます。あ、ありがとうございます。」

 ブチっと電話が切れた。

 「ふうい」と、私は額の汗をぬぐう。スマホを持つ手が震えている。

 「電話一本かけるのに、どんだけエネルギー使ってんだよ」と、アキ。

 「あなただって、嫌がったじゃありませんか。」

 「うん」と、素直にアキ。「なんか、あの姉さん、苦手だ。」そう言うと、アキは私からスマホを奪い取って、高級椅子に戻り、居眠りを始めた。

 私は、「ともあれ、御蔵梨奈ね」と、調査対象の名前を打ち込む。

 では、次の項目は? 調査の内容? ダサい。「の」を取って、「調査内容」。いや、「調査事項」か。あ、これで行こ。

 「調査事項っと。」さて、どう書く? ここは考えなくては。

 ふと、おっさんを見る。気持ちよさそうに、寝息を立てておられる。

 「いつまで寝とんじゃ。」おっさんの背中をつついてみる。

 「んん?」おっさん、むくっと起き上がり、寝起きの息を整える。そして、「うん、ありがとう。」

 「何が?」と、私。

 「は? なんだ?」

 「いや、何が、ありがたいの?」

 「なにを言ってる?」

 「今、ありがとうって、言いましたやん。」

 「誰が。」

 「おっさん。おっさんが、言いました。」

 「何を。」

 「だから、ありがとうって、言った。」

 「誰が。」

 「イラッとするなあ、もう。おっさんが、ありがとうって言ったんです。」

 「どうして?」

 「だから、それを訊いてるんですよ。何がありがとうなんです?」

 「知るかっ。別にありがたくとも、なんともない。アホか、お前。」

 「なんちゅう言い草。もういいです。ちょっと、手伝ってくれませんかね。」

 「断る。」

 「のっけから、断るんかい。普通、『なにを』とか、訊くもんでしょ。」

 「聞くまでもない。どうせ、ろくなもんじゃない。」

 「ろくなもんか、そうじゃないか、聞いてから決めては、どうです?」

 「うるさいな。なんだよ。」

 「報告書、書いてるんです。」

 「どうぞ、お書きください。」

 「いや、だからさあ。どう書くか、ちょいと相談に乗ってもらえませんかね?」

 「今、何かに乗る気分じゃない。」

 「でも、椅子には、乗っておられますよ。」

 「椅子には、座っているのだ。乗ってるのとは、違う。」

 「ああ、もう、なんで、おっさんと話してると、こう話がこじれていくのかね。あのねえ、報告書のうち、調査事項って、どう書いたらいいですかね?」

 「そのまま書く。」

 「はあ?」

 「そのまま書く。」

 「何を、そのまま書くんです?」

 「調査事項を、そのまま書く。」

 「禅問答かよ。」しばし、私は考える。「そのまま書く、か。」

 打ち込み開始。

 依頼者不在の間、調査対象者の動静を探る。

 「こんなん、どう?」と、私は読み上げる。

 すると、おっさん、「やっぱり、お前はアホだった。」

 「なんで?」

 「なんだよ、その、動静を探るってのは。」

 「いけませんか?」

 「わけ分からん。もっと具体的に書けよ。」

 「具体的って?」

 「だからさあ、俺たち、何を頼まれたっけ?」

 「お姉さんの留守中、妹さんがどっか行かないかって、調べる。」

 「うん、だから、それを表現すると?」

 「こう?」

 依頼者不在の間、調査対象者の外出の有無を調査する。

 「少しマシになったが、なんか、こう、違うなあ」と、おっさん。

 「なにが、いかんのさ。」

 「外出の有無、だけじゃないだろ。どこで、なにをしているとか、どうして、そこへ行ったとか。」

 「ははあん。そういうことですか。」

 依頼者不在の間、調査対象者の外出の有無、行先、目的、及び外出先での行動について調査する。

 「だいぶ、良くなったかな」と、おっさん。「しかし、外出の有無、行先、目的と、外出先での行動とは、少し異質な気がするな。これらを並列するのは、どうか。」

 「は? んじゃ、こうするわけ?」

 依頼者不在の間、調査対象者の外出の有無、その行先及び目的、並びに外出先での行動について調査する。

 「よろしい。かなり良くなった。しかし、そこまで具体的に列記するなら、その前に、やはりもっと抽象的で包括的な表現があった方が、おとなの感じがするな。」

 「あのさあ、できれば改善点は、まとめて言っていただけませんかね。そうやって、さみだれ的に言うのは、やめていただけませんかね。」

 「少しずつしか、気付かないんだから、仕方ないだろ? ごちゃごちゃ言わずに、続けろよ。」

 「包括的な表現かよ。最初から言えよな。んじゃ、こうかな?」

 依頼者不在の間の調査対象者の行動調査。特に、外出の有無、その行先及び目的、並びに外出先での行動について調査する。

 「いいじゃん。それで行こ」と、おっさん。

 「やっと、調査事項か。先が思いやられるな。えっと、次は、なんだっけ?」

 「調査方法だろ?」

 「うわあ、また、めんどくさそう。それ、やめて、結果だけ書きませんか?」

 「俺たちが、どんだけ苦労したかをアピールせにゃならんだろう。調査方法に、それが現れるんだ。」

 「あ、そ。つまり、こうですか? 発狂しそうになりながら、ずっと張り込んでましたって、書くわけ?」

 「当たらずとも、遠からず。さりげなく、大変だったってことを表現する。」

 「できるかよ、そんなこと」と、言いつつ、考える。そして、「こんなんすかねえ。」

 依頼者不在の間、絶えず、いっときたりとも油断なく、調査対象者の外出を見逃すことなかれと、トイレ、飲食をも顧みず、ひたすら張り込む。

 「やっぱり、お前はアホだった」と、おっさん。

 「同じセリフを2度言わんでください。」

 「同じセリフを2度言わせるな。」

 「なにが、いかんのですよ。」

 「あからさま過ぎるだろうが。ガキか、お前は。客観的な事実を淡々と書けばいいんだ。」

 「あ、そ。淡々とね。」

 「言っとくが、『たんたん』と書くなよ。」

 「なんぼなんでも、あたしゃ、そこまでアホじゃありません」と、キーボードを叩く。そして、「今、私がキーボードを打つ音、聞きました?」

 「は? それが、どうした?」

 「タンタン、って聞こえませんでした?」

 すると、おっさん、無言で、怒りと軽蔑をミックスした細い横目で私を睨む。

 「あ、もういいです。こんなん、どうです?」

 依頼者不在の間、調査対象者が住むマンション玄関口を常時見張り、その外出を確認し次第、追跡尾行を実施し、行先、目的、外出先での行動を確認する。

 「初めからそう書け、アホ」と、おっさん。「しかし、細かい点で、気になることが多々ある。」

 「なんすか?」

 「まず、依頼者不在の間、てのは、さっき調査事項の所で使われた表現だよな。同じ表現の重複は避けるべきだ。んで、『見張り』って表現がダサい。幼稚くさいから、もっと大人の言葉で書け。で、さらに、行先、目的、外出先での行動、ってのも、調査事項の所で使った表現だから、いちいち繰り返すのは鬱陶しい。行先等、でいいだろう。」

 「あ、そ。んじゃ、こんなん。」

 依頼者の出勤より帰宅に至るまでの間、調査対象者が住むマンション玄関口を常時監視し、その外出を確認し次第、追跡尾行を実施し、行先等を確認する。

 「うん、いいけど、その、『調査対象者が住むマンション』って表現も、もっと大人にしよう。そいで、マンションの後にカッコ書きで、その所在地とマンション名を記入すれば完璧だ」と、おっさん。

 「所在地? 住所のこと? 知らんけど?」

 「アキに渡された地図の打ち出しに書いてあったと思う。」

 「持ってたかな? あの紙」と、上着、スボン、シャツ、あらゆるポケットを探ってみた。指先が紙片に触れる。「あ」、と言って紙を一枚、取り出したが、それはさっきアキに言われて書いた、弁護士事務所のビルの名前。

 「なくしたのか?」と、おっさん。

 「いや、そんなことを言われてもね、そもそも保存しておくもんだって意識がないもので。」とは言え、存在していた物が無くなる、というのは気味が悪い。

 「使えんやつ。役立たず」と、言いながら、おっさんも、気分的に自らのポケットを探る。そして、大きめの紙を取り出し、「あ、俺が持ってた。」

 「ったく、もう」と、奪い取る。早速、「調査対象者が住む」を、「調査対象者が居住する」に訂正し、マンションの住所と名前を打ち込む。そして、「さて、いよいよ、調査結果ですよ。クライマックスですよ。」

 「余計なこと言ってないで、とっと書けよ」と、おっさん。

 「ここが難しいんですよ。まず、妹さんが出掛けた時刻ですけどね、正確に分かりますかね?」

 「知らんよ、そんなこと。」

 「でも、何時何分に出掛けたか、書かにゃならんでしょ。」

 「その前に、いつから現場で監視を始めたかを書け。」

 「8時半に起こされて、慌てて出て、車で行って、現場に着いたのが?」

 「適当に書いとけ。向こうは分かりゃしないんだから。8時40分ころ、監視開始。」

 「じゃ、そうしましょう。で、妹さんが出掛けたのは?」

 「お姉さんが出掛けてから、じきだったな。9時ころ? 9時過ぎかな?」

 「アキさんの話では、我々が出た後に、お姉さんから電話があって、妹さんが家にいないのに気づいた、ってことだから、その電話より前じゃないと、辻褄が合わないでしょ。電話より後の時刻を書いたら、いい加減なことを書いてるって、バレまっせ。」

 「お姉さんからの電話のあった時刻が、正確に分かれば、いいわけだな?」

 ふたり、アキを見る。椅子の上で、熟睡しておられる。

 「まいったな」と、おっさん。

 「どこかにスマホ、置いてないすか? こっそり見ましょうよ。」

 「どこだ?」

 ふたり、部屋の中を見回す。

 「あ、みっけ。」高級椅子の足下、床の上にアキのスマホ発見。

 「ああして平気でスマホを落とすことに、本人さんの性格が滲み出てるな」と、おっさん。

 私は、そっと静かに歩いて、スマホを拾って来る。ケースを開き、「あ、でも、暗証番号を打ち込まないと、開かない。」

 「そうか。そこが問題だな。アキが起きてから、訊くか。」

 「んでも、目を覚ますまでに報告書が上がってないと、ひと騒ぎになりますよ。」

 「騒がせりゃいい。」

 「んなこと言って。もう、パンチは要りませんよ。あきらめず、なんとかしましょう。」

 「パスワード分からなきゃ、どうしようもないだろうが。」

 「推理しましょう。どうせ4桁の数字ですよ。」

 「まさか、0000から順番に打ち込む気じゃないだろな?」

 「しません、そんなこと。考えるんです。4桁の数字、何かに関連付けて決めるはず。」

 「そうだとしても、アキの生年月日も知らんのに。」

 「生年月日に関連づける人は、意外と少ないですよ。」

 「あれかな? バイクがあったろ。大好きなバイクのナンバーなんて、あり得るんじゃないか? ガレージに見に行こうか?」

 「いや、違うと思う。バイクのナンバーは公衆に見せてますよね。もし、スマホをバイクに載せ忘れて盗まれたら、暗証番号もバレちゃう。そんな無用心なこと、しますかね?」

 「んじゃ、なんだと思う?」

 「んんと、この建物、なんていう会社の事務所でしたっけ?」

 「確か、黒岩商會だったな。」

 9、6、1、0、と打ち込む。

 「ビンゴ!」ホーム画面が出た。

 「ふうん」と、おっさん。「お前、こういうことは、才能あるな。アホと天才は紙一重だな。」

 「なんちゅう言い草。」早速、着信履歴を拝見。「2回、着信があるな。1回目が、9時27分。んで、2回目が、10時22分。て、ことは、妹さんが出掛けたのは、9時25分にしましょうか。」

 「そうギリギリにせんでも。もう少し早めでも、いいんじゃないか? それに、ちょうど25分、てのも、なんとなく、嘘っぽい。」

 「んじゃ、9時8分。」

 「あのさあ、あまり早い時間ってのも、まずいんじゃね? あの姉さんが出た後じゃなくちゃ、辻褄が合わんだろ。」

 「ふん、なるほど。9時21分、てのは、どう?」

 「いいだろう。」

 8時40分、監視開始。

 9時21分、調査対象者の外出を確認。尾行開始。

 調査対象者は徒歩で北方へと向かう。

 「んで、弁護士事務所のビルに着いたのは、何時にしよう?」と、私。

 「適当に書いとけ。距離は、どのぐらいだ?」

 「せいぜい4、5百メートル。」

 「んなら、5、6分ほどで着くわな。」

 9時27分、調査対象者は、アンダーパークビル前に到着。同ビル正面入口より入館するのを確認。

 調査対象者は、同ビルのエレベーターにて9階に移動。同階の「横水法律事務所」に入室。

 「さて、出て来た時間ですよ。これも適当でいいすよね。」

 「でも、気を付けろ。さっきお姉さんから2回目の電話があったろ。その電話の時は、既に妹は帰ってるんだからな。」

 もう一度、アキのスマホを確認。2回目の着信は、10時22分。

 10時10分、調査対象者がアンダーパークビルを出る。その後、調査対象者は道路反対側のコンビニエンスストアに直行し、大量のアルコール飲料を購入。帰途につく。

 10時20分、調査対象者、帰宅。

 その後、調査対象者の外出は確認されない。

 「こんで、どう?」と、私。

 「なんか、ビルを出た時刻と、帰宅の時刻が、ちょうど10分と20分なんて、丸い数字になっているのが気になる。それと、そのアンダーパークビルの所在地も書かにゃあかんだろ。」

 「あ、そ」と、訂正。

 10時11分、調査対象者がアンダーパークビルを出る。その後、調査対象者は道路反対側のコンビニエンスストアに直行し、大量のアルコール飲料を購入。帰途につく。

 10時19分、調査対象者、帰宅。

 その後、調査対象者の外出は確認されない。

 「1分ずつ、ずらしやがったな。ま、いいか。」と、おっさん。

 「でも、アンダーパークビルの住所なんか、知らんよ。どうしよう。」

 「なんかで、調べられないかな?」

 「なんかって。あ、そういや、わたしら、スマホ持ってましたよね。ビルの名前でググったら、住所が出るんじゃないですかね?」

 やってみる。出た。これで、完璧。

 書式を整える。この作業は、楽しい。レイアウト、フォント等を、それらしく調整して見栄を良くしたところで、私は、アキのスマホを、そっと高級椅子の足下の床に戻し、「ええ、すんまへんなあ、すんまへんなあ」と、声を上げてアキを起こす。

 「ん? なんだ?」と、アキは半分眠りから覚めて、私を見る。

 「報告書が上がったんすよ。」

 「ふん、そうか」と、アキは、半覚醒状態から完全に覚めて、私に向かって片手を伸ばす。そして、「俺がひと眠りしている間に報告書が出来上がる。こういう生活に憧れてたんだ」と言ってのけて、おいで、おいで、と手招きの動作。

 「ひと眠りしている間に報告書が出来上がったのは、誰のおかげか、わかってますか?」

 「今夜のメシにありつけるのは、誰のおかげか、わかってるか?」

 「ほう、そう来ますか。なるほど。ところで、何を、招いておられるんです?」

 「報告書だよ。見せろ。」

 「まだデータの状態ですよ。」

 「プリントアウトしろ。」

 「どうやって?」

 「お前の目は節穴か? パソコンにつながっているケーブルを見ろ。」

 「へ?」なぜか気付かなかった。そういえば、パソコンの脇からケーブルが1本出ていて、机の縁から床に降りている。机の下を覗いて見ると、床の上にプリンターが転がっていて、ケーブルがそれに接続されていた。

 「おや、いつの間に」と、私。

 「俺は、こういうことは、早えんだ」と、アキ。

 「これは、あなたがセッティングなさったので?」

 「あたりめえだろ。俺がやらなきゃ、誰がやる?」

 「あたしゃ、てっきり、プリンターさんが、自発的にパソコンに繋がったのかと。」

 「ほう、んじゃ、なにかい。プリンターが、自らの意思で、箱から飛び出したってえのかい。」

 「いえ、飛び出した、とは言いませんよ。よっこらしょ、と這い出たのかも。」

 「ふうん、そうかい」と、アキは、指先をちょいちょい、と動かし、「こっちへ来な。」

 「あ、いや、もうパンチ要りません。反省すました。印刷します。」

 プリンターが、耳障りな音を立てて私が作った報告書を吐き出す。

 アキは、それを取り上げて見て、しばし、黙読。そして、「これ、お前が書いたのか?」

 「そうですよ。なんか変?」

 「あっしらの、合作でして」と、おっさん。

 「お前らみたいなアホでも、この種の書面は書けるんだな」と、アキ。

 「なんちゅう言い草。」

 「ま、いいだろ。これは俺が送る」と、アキは椅子から立ち上がると、私に「どけ」と言って、パソコンの前に座って作業する。無事、報告書が送信できたのを確認すると、「メシ、食いに行こうぜ。」

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