神様、ごめんなさい・1
筆者初の長編です。
ありそうもない話ですが、あり得る話です。
物語の内容は暗いですが、ちょっと変わった登場人物らが、漫才の掛け合いのごとくギャグを連発します。殺伐としたストーリーを、軽快なギャグで笑い飛ばしながら書く、というコンセプトです。
こわいもの見たさで、読んでいただければ幸いです。
1.
色彩のない灰色の大気の中で、それは、ゆっくりと揺れている。
ゆらあり、ゆらりと。
それは、細い縄で吊り下がって、揺れている。
なんだろう?
と、思った時、目が覚めた。
夢の意味を考えるのは、やめる。
今日が、私の命日だから。
午前9時27分。
床の上に、敷いたままの布団、目覚まし時計。
淡い乳白色の光に包まれた部屋の中、他には、なにもない。
身支度を整えた私は、ドアの前に立つ。
右手に18リットル入りの赤いポリタンク。
左手で、ドアノブを握る。
勢いよくドアを開けた。
すると、だしぬけに、おっさんの赤ら顔が、目の前に現れた。
「おわっ」と思わず、叫ぶ。「ずっと、そこに立ってたんかい。」
「いや、今、着いたところだ。」おっさん、平然と答える。
「でも、足音に気付かなかった。」
「これだもんな。」おっさん、片足を蹴り出すように上げて見せる。上げ角度はせいぜい5度。その足には、履いているから靴だが、脱げばボロというべきものが、へばりついている。これじゃ足音もせんわけだ。
おっさんを部屋に入れるでもなく、私は外に出る。
外も暗い。鉛色の厚い雲が、空に濃い陰影を描いている。
ふたり、賃貸マンションの外壁の吹きさらしの廊下を行く。
狭く、嫌な匂いのする、動きの怪しいエレベーターで、1階へ。
灰色の空。灰色の町。灰色の道。
廃業したラブホテルの前を通って、運河に掛かった橋を渡る。
淀んだ運河に沿って行くと、町は次第に陽の顔を見せてくる。
「どこで、やる?」と、おっさん。
「決めてない」と、私。「死に場所として、ふさわしい所がいい。」
「なら、探す必要もない。おまえ、死に場所を選ぶほどの人物か?」
「死に場所くらい、選びたい。」
「とりあえず、路上は、よせ。迷惑だ。」
「うん。人が通る所は、避けよう。」
「あそこは、どうだ?」
おっさんが指さす方を見る。
そこは、舗道と運河の間に設けられた張り出しテラスのような場所。舗道より一段低く、小綺麗な舗石が敷き詰められ、小さな広場の様相を呈している。ベンチが置かれてあるが、今は誰もいない。
私は周囲を見回す。
車道を挟んだ対岸には、真新しいビル。開放的な窓の中、真っ白なブラインド越しに天井照明の光が見える。
「いや、ここは、どうも。」
「どうした? いやか?」
「ここは、人目に付くよね。」
「人に見られたくないのか?」
「なんとなく、やだな。」
「気おくれするのか?」
私は、重いポリタンクを足元に降ろして、疲れた手の筋肉をほぐす。
「思い切って、やれ。誰も気にしやしない」と、おっさん。
「いや、ここは、まずい。」私は足下の綺麗な舗石を見る。「汚すと悪いよ。」
「ん?」おっさんも足元を見る。「ふん」と、河岸の手摺りの方を見て、「なるほど。まずいな。」
「でしょ?」
「うん。『ゴミはすてずに もちかえってください』と、書いてある。」
「は?」
「お前の焼け焦げた死体を、持ち帰るのは、つらい。」
「あたしゃ、ゴミかい。」
「お前じゃない。お前の遺体だ。」
「あ、そ。」私は考える。「いや、持ち帰らんでも、いいでしょ。」
「どうして。誰が後始末するんだ?」
「いや、知りませんよ。そんなこと、考えたこともない。焼身自殺した人の遺体を誰が始末するかなんて、調べたこともない。」
「なんで、調べないんだよ。そのぐらい調べてからにしろよ。」
「そこまで考えが及ばなかった。」
「いつも、そうだ。お前のやることは何でも中途半端だ。」
「ごめんねっ。てか、んなこと、考えんでしょ、普通。」
「もういい。で、どうすんだ? どこでやる?」
「思うんだけど。そもそも、こういう華やかな場所でやろうということ自体が間違ってた。もっと殺伐とした淋しい所へ行くべきだった。」
「んじゃ、戻るか?」
「戻る?」
「お前のアパートの周辺の方が、殺伐として淋しい。」
「んん。そうかも。」
私は再びポリタンクを持ち上げる。中で灯油が、たっぷんと波打つのを感じる。
元来た道を引き返す。
橋を渡る。
交差点の角を曲がり、廃業したラブホテルの前に差し掛かった時だった。
ラブホテルは1階全体が駐車場になっている。その駐車場の中から、黒い服を着た男がひとり、地面に伏せた姿勢で、匍匐前進の態で這い出て来た。
それは、薄暗い陰の中から歩道へと、難儀な様子で、両肘で地べたを掻き招くようにしながら、麻痺して動かない下半身を引きずり、ゆっくりと私たちの目前を横切って行く。男の顔は蒼白、呼吸は荒い。小さな呻き声を発すると、力尽きたように、顔面を地べたに伏せた。まぶたに痙攣が走る。そのまま静止する。
男が這いずった後には、赤黒い液体が、軟体動物が這った後の粘液のように伸びている。
「見た?」と、私。
「見てる」と、おっさん。「映画の撮影か?」
「カメラがいない。照明もない。スタッフもいない。」
「リアルか?」
「たぶん。」
ふたり、立ち尽くしたまま、十数秒間が経過する。
「関わり合いに、ならない方がいいんじゃないのか?」おっさんが風貌に似合わない弱気なことを言う。
「いや。」私の中で、恐怖心よりも好奇心がうずく。「気になる。」
「りんご?」
「は?」
「柿?」
「なんの話?」
「いや、木になる。」
「あたしゃ、こういう時、何が起こってるのか、知りたくなる。」
「で、どうする?」
「中見る。」
私は、ポリタンクをその場に置き、ラブホテル特有の薄汚いビラビラカーテンをくぐって、暗い駐車場の中へと、歩を進める。
ほの暗い空間の中、目が慣れると、人体が二つ、床に横たわっているのが分かる。
そして、その背後、人がひとり、奥の壁を背にして、小さく固まって座っている。
横たわっている人体の方は、いずれも男に見える。ラフな外出着という格好だが、横たわったまま微動だにしない。それぞれの下に赤い水溜りがあって、その面積が、徐々に広がっている。二つの人体の間に、淡い光を反射する物体が転がっている。よく見ると、優美な曲線の大型のナイフ。刃の長さ20センチはありそうで、刃幅が広く、木目の握りに血のりが付いている。
座っている方は、女性のようだ。
遺体と思われる二つの物体の狭間を通って、女に近づいてみる。
若い。化粧気がなく、長いストレートの髪を後ろで縛っている。上下ともに紺色のジャージ姿で、体育座りの姿勢で、立てた膝を両手でしっかり抱え込んでいる。両目を見開いているが、瞳の焦点はどこか遠くにあって、私たちの存在は眼中にないと見える。大きく喘ぐような息をして、時々軽くむせる。茫然たる無表情で、歯の根が合わないほど、震えている。ジャージの上着のジッパーが開いていて、下に黒のスウェットが見えているが、その裾の片側が少しばかりめくれ上がっていて、腹筋のふくらみと臍の穴が見えている。スウェットの胸には、「DROP DEAD」の文字。
私が体をかがめて、顔を近づけても、彼女の様子は変わらない。激しく震えているのは、寒さのせいばかりではなさそうだ。
「おい、どうすんだ?」背後から、おっさんの声。
私は、姿勢を立て直し、「どうすんだって? どうしよう?」
と、その時、車のエンジン音とタイヤの摩擦音が、すぐ間近に迫って来た。振り向くと、おっさんが慌てて飛び退くのが見える。スリーポインテッド・スターを誇示した鈍色の車が、頭から駐車場の中へと突っ込んで来た。
車は床に横たわる遺体のすぐ近くに止まる。エンジン音が止むと、ドアが開き、ダークレッドの裾の長いトレンチコートを着た女性が降り立った。長身で、長髪で、一見して落ち着いた風格を漂わせている。
茫然と見ている私とおっさんを無視して、トレンチコートの女性は足早にジャージ女のそばへ。しゃがみ込み、相手の表情を見つめながら、肩に手をかけ、「りな」と、声を掛ける。優しさのこもった低い声だ。
ジャージの女は、しばらく無反応だったが、やがて、緩慢な動作で顔をトレンチコートの女に向けた。
トレンチコートの女は、「終わった。済んだんだ。もういいよ。帰ろう。」
すると、ジャージの女は、少し落ち着きを取り戻したようで、深く、長い息をし、あたかも救いを求めるように両手をトレンチコートの女の方に伸ばす。トレンチコートの腕が、ジャージの女の体を抱きすくめるようにすると、ふたり一体となって、ゆっくりと立ち上がる。トレンチコートがジャージを支えるようにして、車の方へと歩幅狭く歩いて行く。トレンチコートの女は車の後部のドアを開けてジャージの女を優しく車内に入れ、シートに座らせる。ジャージの裾を挟まないように気を使いながら後部ドアを閉めると、自ら運転席に乗り込んだ。
エンジンが掛かる。車はバックし、車道に出たところで、道路沿いに少し後方に進んで停止する。
トレンチコートの女は、車を止めると、車内で体をひねって後ろ向きになり、後部座席の相手にしきりに話し掛けている。
「おい」と、おっさん。
「は?」
「どうすんだい。」
「いや。」何の考えもない。「行こう。」
車は一向に走り出さない。まだ、なんか話しているようだ。私は、時々ちらっと車内の様子を見ながら、忍び足で駐車場を出ようとした。
ところが、その私の目の前、歩道上に立ちはだかる人物が、約1名。
いつの間に現れた?
黒い革のライダーズジャケット、デニムのパンツ、黒のライダーズブーツ、という出で立ちの女が、片手に赤いポリタンクを持ちながら、私を見ている。そのポリタンクは、どう見ても私が持って来たものだ。
その女は、空いている手の親指で背後のベンツを指して、「知り合いか?」
「いえ」と、私は思わず素直に答える。「わたしら、通りすがりのもんで。」
「そうか」と女は言うと、ポリタンクを持ったまま、私のアパートの方へと歩き出した。
「いや、ちょっと待ってください。」
私とおっさんは、とっとと歩いて行く女の後を追って行く。重いポリタンクを持っているのに、女の足は速い。焦って追い付こうとしたが、私とおっさん、歩道に横たわる男の死体に蹴つまずいて、ふたり揃って前のめりにころんだ。
私は、立ち上がり、「それ、わたしんですけど。」背後から叫ぶが、女は気にしない。
やがて女は、道路脇に止めてある車、巨大な黒いバンの後部ドアを開けると、ポリタンクを車内に放り込み、さっさと運転席に乗り込んで走り出した。場違いな大きさのその車は、シボレーの大型のバンのようだ。
「盗られた」と、私。
「うん、盗られたな」と、ゆっくりと立ち直りながら、おっさん。
「追いかけよう。」
「無理だよ。」
構わず私はシボレーの後を追いかける。おっさんも不承不承ついてくる。
しかし、私は、ここ何年も「走る」という行為から離れている。おっさんも、子供の早足程度の速度しか出せない。20メートルも走らないうちに、私は息が切れる。
シボレーは、人の物を盗って行ったのだから、速度を上げて逃げるかと思いきや、意外にも、そろそろと低速度で進んでいる。どころか、道路脇に寄って、止まった。車に不具合でもあるのか、と思って見ていると、やがて再びゆっくりと走り出す。
「おちょくられてんのと、違うか?」おっさんが、息切れしながら言う。
「なんにしても、灯油を取り返さないと。」
シボレーは、ゆるゆると走行して行き、私のアパートを通り過ぎたあたりで、道路の中央に寄り、右のウインカーを点滅させて停止する。道路の左側は運河で、右側には細い脇道がある。車は、右折待ちの態勢でじっと止まっている。ここらあたりは、都会の真っ只中なのに、なぜか忘れられ、取り残されたような寂寞とした地域。運河沿いに、空きの目立つ駐車場やら、朽ち果てた廃屋なんぞが散在する所。交通量は少なく、対向車線からやって来る車もないのに、シボレーは停止したまま待っている。
「また、止まってるよ」と、私。
「俺たちが追いつくのを、待ってんじゃないのか?」
走るのをやめて、咳込みながら見ていると、黒いバンは走り出し、脇道に入って行く。
私とおっさんも、息を整えてから道を渡り、T字路の角を曲がって脇道へ。
すると、居た。
車は、こちらを向いて路肩に止まっている。運転席に女の姿はない。してみると、私らが来るまでの間に、器用にUターンして車を止めて、降りてどこかに行ったとみえる。
「悪いやつだよな」と、おっさん。
「ああ。」
「一方通行を逆走しおった。」
「そっちかよ。」私は周囲を見回しながら、「道路交通法違反より、窃盗の方が重いだろうが。」
「灯油は、また買えばいいだろ。」
「そうはいかない。なけなしの金で買った。」
「諦めろ。逃げられた。」
「まだ、遠くへは行ってないでしょ」とは言ってみたが、どこへとも探しに行けるものではない。
私は路上にへたり込んで、頭を抱える。おっさんは、立ったまま私を冷たく見下ろす。
数分間、そうした挙句、「帰ろうぜ」と、おっさん。
すると、頭上から、バチッ、キュルルル、とアルミサッシの開く音がして、「探し物は、こっちだ」と、女の声。
見上げると、背後の2階建ての小さなビルの上の階の窓から、女が顔を出してこっちを見ている。
女は、愉快そうに私らを見ている。ふざけたやつだ。
「返してくださいよ。」私は、見上げながら言う。
「上がって来いよ」と、女は言うや、窓を閉めて引っ込んだ。
ためらっていると、「行くのか?」と、おっさん。
「取り返す。」
私はビルの入り口を探す。そのビルは、薄汚れたスレートの外壁で、かつては何かの社屋だったようだが、今は空き家然としている。看板もなく、味気ない直方体の箱のような建物で、真ん中に、凝った装飾を施した木製のドアがある。そのドアの嵌めガラスには、うっすらと、「有限会社 黒岩商會」の文字が、ほとんど剥げかけてはいるが、かろうじて判読できる程度に残っている。
私は木製ドアのノブを握る。アンティークな丸っこい真鍮のノブで、握ると手が冷やっとした。ひねると、ギシギシ錆びた音がする。押すのか? 引くのか? とりあえず、引いてみると、ギリバキばひっと音をたてて、重たい扉が開いた。開けたというより、ひっぺがした感じだ。
中に入ると、うっすらとカビの臭いがする。灰色の光に満たされた薄暗い室内は、味気ない事務机と中身のない書類棚が並ぶありきたりなオフィスだが、どの机にも埃が積もり、書類も筆記具も電話器も何もない。
部屋の奥に、2階に上がる階段。
意を決して、すり減ったリノリウムの床の上、歩を進める。おっさんも私に続いて入ってきたものの、所在なげに部屋の中に立っている。
私は手摺りの付いた金属製の階段を、一歩一歩慎重に昇って行く。踏み板が、嫌な音をたてて軋む。
2階に上がると、そこは1階とは様子が異なって、小綺麗に掃除されていて、人間が滞在するのに適した環境のようだ。
だだっ広い部屋に、白木の板の四隅に金属の脚を取り付けただけの机が一つ。その周囲に安価なオフィスチェアが3個、それぞれ勝手な方を向いている。机の上には閉じられたノートパソコンが一個、斜めに無造作に置かれている。机の脇、少し離れた場所に組み立て式のスチールラックがあるが、壁に沿ってなくて、漠然と部屋の中に置かれている。ラックには、小さな書類ケースやら整理箱の類が乱雑に並んでいる。床の上に低いテーブルが、これも壁に平行にではなく、微妙に斜めに配置され、その上にオーディオスピーカーが2個、アンプの類、そして、書籍やら雑誌の類が乱雑に堆積している。部屋の奥の隅を見ると、昔の住宅によくあった古いタイプの流し台とコンロ台、吊り戸棚、年代物のガス瞬間湯沸かし器なんぞがある。吊り戸棚には食器の類が、シンクの隣には急須や魔法瓶などがゴチャッと置かれ、そこだけに生活臭が漂っている。
部屋の片隅に、クラシカルな円筒形の石油ストーブが一つ、室内の空気を温めている。
件の女は、机からちょっと離れた場所で、ヘッドレストの付いた値の張りそうな大きなオフィスチェアにふんぞり返って座っている。その脇には、よく昭和のころ駅の待合室などで見かけた、一本足のスタンド灰皿が置いてあり、女の口には、火のついた太い葉巻がくわえられている。
この部屋の中で高価なものは、女が座っている椅子と、女が履いているブーツと、女がくわえる葉巻だけのようだ。
女は、私の登場を意外そうな目で見て、「おまえ、正面玄関から入って来たのか。厚かましいやつだな。」
「上がれ、て言ったのは、あんたですよ。てか、貴方様におまえ呼ばわりされるいわれはありません。そも、玄関から入らなきゃ、どっから入れってんです。」
「非常階段を昇って来て欲しかった」と言いながら、女は建物の脇の壁を指す。その壁には灰色の鉄扉があるが、扉に嵌め込まれた磨りガラス越しに、その向こうは屋外であることがわかる。ドアの足元の床の上には、泥落としの足拭きマットが敷かれてある。
「非常階段?」見覚えがない。「そんなん、ありましたっけ?」
「自慢の螺旋階段なのに。気付かんとは。不注意なやつ。」
そこへ、背後からギシギシと音をたてて、おっさんが階段を昇って来た。
振り向くと、おっさん、両手で赤いポリタンクを抱えている。「これを、取り返しに来たんだろ。」おっさん、ポリタンクを軽々と私に向かって放り投げた。
私は、飛んで来たポリタンクを受け止めると、それを片手に持ち直し、振ってみる。チャポン、とも言わない。
「からやん」と、私。
「小澤征爾」と、おっさん。
「いや、からですやん。」
「うん。からだよ。それが、どうした?」と、女。
「中身は、どうしたんです?」
「一部は、あの中に」と、石油ストーブを指差す。「そして、残りは、別のタンクに。」
「困りますね。」私は声に怒気を込めて言う。「中身を返していただかないと。」
「無茶言うなよ。」そう言うと、女は鼻から煙草の煙を吐き出し、「灯油は、俺がもらった。」
「灯油は、私のもんです。」
「ふうん」と、女は、葉巻の灰を、ツンツン、と灰皿に落として、「ぜんたい、おまえは、あの灯油を何に使うつもりだったんだ?」
「そんなん、私の勝手ですよ。」
すると、背後からおっさんが、「こやつめは、焼身自殺するつもりだったんさ」と、暴露する。
「そうかい。」女は、ふふん、と鼻でせせら笑って、「焼身自殺かい」と、葉巻を音をたてて吸い、「おまえが死んでも、誰も喜ばねえよ。どうせなら、もっと誰かを喜ばせることに使え」と、のたまう。
「どう使えば、誰が喜ぶってんですよ。」
「俺に寄付しろ。そうすりゃ、俺が喜ぶ。」女はそう言うと、立ち上がり、窓際へ行く。葉巻を吹かしながら、窓の外を見る。
「あきれた人ですね。あなたは。」私が言うと、
「俺は、アキってんだ。」
「は?」
「俺の名は、アキ。栗石アキ。よろしくな。」葉巻を片手に持ち、窓の外を見たまま、言う。
「あなたの名前なんぞ、訊いてませんよ。」私は憤然として言う。
アキは、振り向き、「まあ、座れや。」
「あの」おっさんが割り込む。「あたしら、疲れてんで。帰らさせていただきます。」
「まあ、そう言うな。」アキは言うと、意味ありげな微笑を浮かべて我々を見る。そして、「茶でも、一杯飲んでけ」と言うや、重厚な足音を立てて灰皿のある所に戻り、吸いかけの葉巻を乗っけると、踵を返して流し台の方へ行く。「掛けて待ってな。」
すると、おっさんは、何を思ったか、突然、両手を軽く握って、腰の高さに持ち上げ、その場で、「ほっ、ほっ、ほっ」と、駆け足を始めた。
私は、驚き、「おっさん。何してんねん?」
「いや、駆けて待つようにって言われたろ?」
「おっさん!」私は語気を思い切り強める。「やめな。」
おっさん。駆け足をやめて、素直に机のそばへ行く。
私は気に入らない。「なんで、茶なんぞ呼ばれなきゃならんのよ。」
「疲れてんだ。茶ぐらい飲んで行こう」と、おっさん。
「あほくさ」と、言いながら、正直、私も疲れている。
結局、ふたり、てんでに勝手な方を向いている椅子の背をひっつかんで、机に向かって並んで座ることにした。
アキは、鼻歌まじりに流し台に向かって、何やらゴソゴソ作業している。
「灯油は、どうすんだよ」と、私。
「知るか」と、おっさん。
やがて、アキが、両手でお盆を持ってやって来る。見ると、意外や、その盆の上には、きちんと茶たくに乗せられた小さな湯飲みが二つと、急須が乗っかっている。
アキは、ガサッとお盆を机の上に置くと、「ほれ」と言って、二つの湯飲みをそれぞれ私とおっさんの前に置いた。湯飲みからは、ほわっと湯気が立っている。
アキが机の反対側の安物の椅子に腰掛けると、おっさんは、「いただきます」と、従順に右手で湯飲みを持ち、左手を湯飲みの底に当てて、ズズッと音を立てて茶をすする。その様子を横目で見てから、私も仕方なく、茶を飲む。味が薄い。出がらしか? でも、熱い。
思わず、「こほっ」と咳をする。
「ところで」と、アキが切り出す。「おまえさん、死ぬつもりだったんだよな。だったら、ここはひとつ、俺のために働かねえか?」
「は?」私は呆気に取られる。「いったい、何を言い出されるんですか。あなたは。」
「今言った通りのことを、言い出したつもりだが。」アキは平然と答えると、立ち上がり、低いテーブルの方へ行く。書籍の山の中からスマホを取り出し、持って来て、私の前に座る。そして、スマホをポチポチいじると、「ネットに広告を出したんだ。見てみろ」と、スマホを私の目の前に差し出す。
出された画面を見ると、アキの顔写真がどんと出ていて、その下に、「面倒ごと一掃します。あなたに代わって、犯罪以外なら、どんなことでもやってのける。お気軽に相談を。料金応相談。まずは面談で。当事務所の場所はこちら」とある。スクロールすると、今いる建物の写真が出て来る。入る時、気付かなかったが、アキの言う通り、建物の脇の外壁に円筒形の白い螺旋階段がある。広角レンズで、その螺旋階段が一番手前に来るアングルで撮影されていて、写真の下に「螺旋階段上がって2階へどうぞ」と書いてある。さらにその下、「栗石アキ 面倒ごと一掃屋」とあって、この場所の住所が書いてある。
「なんすか、これ?」私は言うと、さっきからスマホを一生懸命覗き込もうとしているおっさんに、そのままスマホを手渡す。
「広告だよ。俺が出した」と、アキ。
「いかがわしい商売だな」と、おっさん。
「いかがわしいたあ、言ってくれるじゃねえか。」そう言うと、アキは身を乗り出して、おっさんの手からスマホを奪い返し、ボテっと机の上に置く。
「要するに、なんすか。あなたは、私に、このいかがわしい商売の手助けをしろ、とおっしゃりたいわけで?」と、私は問う。
「うん、つまり、俺が始めたこの輝かしい事業の遂行のために、おまえを雇用しよう、というわけだ」と、アキ。
「残念ながら、それはお受け致しかねます。」
「なんで?」
「あのね、アキさんとやら。こんな訳のわからない広告を見せられて、それで雇いたいって言われて、はあ、そうですか、それは有り難いですねえ、と引き受ける人が、この世に一人でもいると本気で考えておられるなら、あなたって人は、全くもって常識ってものがないと思わざるを得ませんよ。」
「するってえと、なにかい。おまえさん、俺の頭の中には、常識ってもんが欠如してるって、言いてえのか?」
「まことに、その通り。」
「てれるな。」
「いや、褒めてないし。」
「俺は、常識ってやつが嫌いだ。」アキはそう言うと、立ち上がり、華麗に身を翻すと、背後のヘッドレスト付の高級椅子に座り直す。「悪い話じゃ、ねえと思うが?」
「それと、もう一つ」と、私は続ける。「私自身、やる気ありません。死のうと思ってんですから。誰かに雇われて生きて行こうなんて、思ってないんすから。」
「死ぬくらいなら、働けよ。」
「いやです」と、きっぱり。「この寒空の下で、ホームレスになって生きていく自信はありません。」
「ホームレス?」と、アキは意外そうに言う。「アパートにでも住んでんだろ?」
「家賃滞納で、立ち退きくらいましたよ。」
「んなら、ここに住みゃいい。」
「は?」
「ここに住めよ。見ろ」と、流し台のある方と反対方向の隅を指す。「ちゃんとトイレも風呂もある。」
言われて見ると、部屋の隅に小さなバスユニットが、取って付けたように置いてある。
「あの」と、おっさんが横から口出す。「ひとつ、質問してよろしいですかな?」
「なんでえ」と、アキ。
「先ほどから、あなた様は、ここで我が物顔で振る舞っておられますが、ひょっとしたら、あなた様は、不法占拠者様でいらっしゃるんではないでしょうか?」
「不法占拠者たあ、失礼な。俺はこのビルの所有者だ。」
私とおっさん、あからさまに不信の目で見る。
「疑いのまなこだな。」アキは、灰皿から火の消えた葉巻を取り上げてくわえると、ジャケットの内ポケットから小さな長細い箱を取り出す。箱の中から軸が妙に長いマッチを取り出し、箱の側面で擦って火をつけ、くわえた葉巻に、すぱっすぱっと火を付ける。「ここは、俺の親父がやってた会社だった。親父が死んで、俺が会社の株の全部を相続した。そしたら、従業員がみんな辞めちまった。会社は解散、清算した。このビルは親父の個人所有で、会社に事務所として貸していたことが分かり、このビルも俺が相続したってわけ。やっと先月、相続税を払い終えた。」
「ふうん」と言いながら、私は少し冷めた茶を飲む。「親父さんが亡くなったの、いつです?」
「もう10年にもなるかな、親父が死んでから。」
「ご病気か、何かで?」
「いや、上から人が落ちてきた。」
「は?」
「歩いてたら、ビルの屋上から投身自殺の人が降ってきて、当たった。」
「え?」
「自殺って、迷惑だろ?」
「はあ。」私が言うと、おっさんが意味ありげな目で私を見る。めげずに、私は質問を続ける。自殺の話題から離れたい。「会社の清算やら、相続税の支払いやら、大変だったでしょう。」
「そうでもねえよ。会社の債務は自宅を売っぱらって全部きれいにできたし、相続税も分納で払い終わった。今は借金ゼロ。身軽なもんだ。」
「自宅を売った? あなたは、どこで生活してるんです?」
「ここだよ。ここが俺の家だ。」
私は周囲を見回す。ベッド、寝具の類は見当たらない。「ここで寝てるんですか?」
「外。」
「は?」
「俺は車で寝てる。」
「はあ。」確かに、あの車なら、寝るスペースは十分にある。
ずずッと、おっさんが茶をすする音がする。
私もお茶を飲もうとしたが、湯飲みが空であることに気付く。
すると、アキは、「お代わり、入れよう」と、椅子から立ち上がる。そして、急須の蓋を開けて中を覗き込むや、眉間に皺を寄せて、「ん?」と、不思議そうに言う。
何かあったのか? と、見ていると、アキは、急須の中を見つめながら、「あ、ごめん」と言う。
「どうしたんです?」
「中で、ゴキブリが死んどる。」
ぶふっと、おっさんがお茶を吹く。
「中って、急須の?」私は、素っ頓狂な声を上げた。
「うん」と、アキ。
「おえええええ。」私は、両手で胃の辺りを押さえながら、「ゴキブリのお茶を飲んでまった。ひ、ひえええええ。ゴキブリ茶、飲まされた。」
すると、アキは不愉快そうに、「騒ぐなよ。ゴキブリは生物学的には清潔な生き物だ。」
「生物学、知りません。ゴ、ゴキブリ茶。くわああああ。」
アキは、平然と我々の湯飲みを盆に乗せると、「ったく、ゴキブリなんぞ、食っても無害なのに。アホな連中」と言いながら、お盆を流し台の方へ持って行く。
ゼイゼイ言っていると、表の道に、車の豪勢なエンジン音が近付いて来た。すぐ真近で、エンジンが止まる。車のドアの開く音。ボンッと閉まる音。コツコツ、という靴音に続いて、ギュイイイ、ベリッ、ばひっという音。聞き覚えのある音だ。
やがて、階段を、コツ、ギシ、コツ、ギシ、と昇る音。
苦しむのをやめて、階段の方を見ていると、長髪の女性の頭部が床下から現れた。
ダークレッドのトレンチコートを着た、さっきラブホの駐車場に現れた女。
女は、階段を昇り切る前に、立ち止まって、部屋の中の様子を見ている。階段の手すり越しに見える女の顔には、警戒心と猜疑心が溢れている。
アキが戻って来て、「あ、いらっしゃい」と、元気よく女に声を掛けた。
数秒間の沈黙の後、「あの」と、トレンチの女が厳かな声を出す。「上がって、よろしいかしら?」
すると、アキ、「どうぞ、お上がりください」と、愛想よく答える。
トレンチの女は、ゆっくりと階段を軋ませながら昇り切ると、優雅な身のこなしで軽く手すりの端に片手の指先を触れて、しばし、立ち止まった。もう一方の手に、小さな本革のトートバッグを下げている。
「おい」と、アキは我々に向かって、「お客様だ。」高飛車な態度だ。
「だから?」と、私。
「ご案内して、椅子に掛けてもらえ。」
すると、トレンチの女は、困惑気味に、「いえ、私は、別に」と言いかける。
ところが、最後まで言わせずにアキが、「広告をご覧になって、いらっしゃったんでしょ? 面倒ごと一掃屋の栗石アキってのは、俺です」と、親指で自らを指す。
「は? 広告?」トレンチの女、呆然。
「仕事のご依頼じゃ、ないんで?」と、アキ。
「ええ、なんのことやら」と、トレンチの女は微笑して言う。
「ああんと、んじゃ、何の御用で?」アキの表情から笑みが消える。
「あの、あなた方」と、トレンチの女は言い掛けて、少しの間を置いてから、「ご覧になりましたよね?」
この質問は、私たちを固まらせた。
私は、おっさんを見る。
おっさんは、私をちら、と見てから、アキを見る。
アキは、立ったまま、超然と、トレンチの女を見ている。そして、真面目くさった顔で、声を低め、「タルコフスキーの『ノスタルジア』なら、見た。」
「え?」トレンチの女の眉間に縦皺が寄る。
「いい映画だった」と、アキ。
ぶふふふっと、おっさんが、閉じた唇から息を吹き出す。「ひどい返しだ。」
「わけわからん」と、私。
「あの」と、トレンチの女。「その種の冗談は、やめていただけません?」
「んじゃあ、どんな種類の冗談がいい?」アキは、明るく挑発的に訊く。
「そうですね」トレンチの女は、冷静さを失わない。「とりあえず、掛けさせていただきたいのですが、よろしい?」
「どうぞ、どうぞ」と、アキは、わざとらしく愛想よくする。そして、我々に、「さっさと椅子を勧めねえか。」
私とおっさんは、立ち上がる。おっさんが所在なげに突っ立っている間、私は机を周り、ヘッドレスト付きの高価なオフィスチェアの背もたれを持って、「どうぞ、こちらへ。」
すると、アキ、「その椅子じゃねえ。」
「へ? あ、そうですか」と、私は、安っぽい方の椅子をトレンチの女に向けて、「どうぞ、お掛けください。」
トレンチの女は、全身から警戒のオーラを発しながらも、コツコツと落ち着いた足取りで部屋の中を進み、私が勧めた椅子に腰掛ける。
すると、アキ、「俺に背中を向けさせて、どうすんじゃい。」
「あ」と言って、私は、トレンチの女性に、「すみません。少し、腰を浮かせていただけません?」
トレンチの女は、眉間に皺を寄せながら、腰を浮かす。私は、椅子の背もたれを持って、椅子を机に向かって横向きにした。
トレンチの女が座り直すと、アキはヘッドレスト付きのチェアを引っ張って、トレンチの斜め前あたりに持って来て、座った。
そして、我々に、「おまえら、なに突っ立ってんだ?」
私とおっさん、慌てて机に向かって並んで座る。
「さて」と、アキ。「なんの話だっけ?」
2.
「あなた方」と、女は話し出す。「見ましたよね?」
「あの、ラブホテルでのことか?」今度は、アキはまともに返す。
「もちろんですとも。」女は、少し安堵した様子を見せる。
「俺は、通りがかっただけだ」と、アキ。「歩いてたら、ポリタンクと野郎が転がってた。そんで、俺は、ポリタンクを拾って、野郎をまたいで去った。それだけだ。」
すると、女は、我々に向かって、「あなた方は?」
「私?」と、私はびくっとしながら、「いや、私も似たようなもんで。歩いていたら、男が這いずりながら目の前を横切って、息も絶え絶えで、すぐ死んじゃったみたいで、そいで、中に入って見たら、あと二つ、死体がころがってて、女の子が座ってて、それから、あなたが現れた。」
おっさんは、黙っている。
すると、女は、「それだけ?」
「それだけです。それから、ポリタンクは私のなんで、追い掛けて行って」とまで言うと、
「関係ないだろ」と、おっさんが制止した。
「そう」と、女は、少しく考察にふけった。そして、「あの連中が刺されたところを、見なかった?」
「見てません」と、私はきっぱり答える。
「刺した犯人は?」と、女。
「知りません。」
「そう」と、女は、再び熟考にふける。
アキは、いつの間にか、どこからか新しい葉巻を取り出して、軸の長いマッチで火を付けている。
「あの」と、女は、そんなアキに顔を向けて、「さっき、なんか、おっしゃいましたね。なんとか、一掃屋とか。」
「ああ、そうね」と、アキ。「面倒事は、なんでも俺に言ってくれたら、一掃するぜってことさ。普通じゃできねえことでも、犯罪以外なら、なんでもやってのけるってわけでね。」
「そう」と、さらに女は、考える。「探偵みたいなことも?」
「もちの、ろん」と、アキ。「得意な分野だ。」
すうううっと、おっさんが息を漏らす音がする。
「それなら」と、構わず女。「お願いがあるの。」
「なんでも、言ってくれ。」アキが活気付いたように言う。
「妹は、ショックを受けてます。」
妹、というのが、誰を指しているか、直ちに察しは付いた。
「凄惨な現場を見たってことでね?」と、アキが受ける。
「そう。今は、落ち着きを取り戻していますが、あの子は、少し神経が不安定なところがあって、このままですと、なにをしでかすか、と少々不安なんです。」
「前に、何かやらかしたことが、あるんで?」とアキが訊く。
「自殺未遂をね」と、女は答える。「とても繊細な子で。自分とは全く関係のないことにも、すぐ深く傷付く傾向がありましてね。例えば、ニュースかなんかで、どこかの国の軍隊が民衆を虐殺したとか、空爆で大勢の市民が死んだ、などの報道を目にしますとね、まるで自分の家族が殺されたように悲しむんです。」
「素晴らしい」と、アキ。「他人に起こっていることを、あたかも我が身に起こっているように感じる。貴重な感性だ。大切になさい。」
「は?」と、言いたかったが、言わずにおいた。
「そんな子ですのでね。」女は続ける。「数年前のことですけど、あの子が勝手に、レンタルビデオ屋さんから、ある古い映画を借りて来たんです。あの子は古い映画が好きで。ロッセリーニの『ドイツ零年』でした。ちょうどその時、中東のある国の政府が占領地に軍事攻撃を仕掛けた、ということがあって、幼い子供も含めて大勢の犠牲者が出ました。あの子は、突然、熱に浮かされたようになり、『国家による殺人を止めるには、どうすれば良い?』と、うわ言のように繰り返すようになったんです。私は、『そんなこと、あなたが心配しても、どうにもならないでしょう?』と、たしなめたんですが、あの子のうわ言は止まりません。そのことと、映画のテーマとは全然関係ないんですけど、あの子は、何かの刺激を受けたんでしょう。ある日、私がたまたま仕事に空きができて、家に帰ると、あの子がいません。部屋に置き手紙がありまして、いや、あれを置き手紙というべきかは疑問ですが、とにかく、机の上に紙が置かれ、あの子の手書きで、『神様、私の命と引き換えに、虐殺を止めてください。』とありました。私はそれを見て血の気が引く思いでした。でも、どうすることできません。探すにしても、どこへ行ったのか、皆目見当も付きません。ところが、私の携帯が鳴って、見ると、あの子の携帯からです。電話に出ると、男の声で、実は警察官だったのですが、警察に保護されている、と。すぐに警察署に飛んでいってみると、妹は半ば放心状態で座っていました。なんでも、あるオフィスビルに無断で侵入して、屋上から飛び降りようとしているのを、たまたま屋上に上がって来た人に取り押さえられた、とのことで。あの時は、それはこっぴどく叱ってやりました。『あなたが死んで、どうにかなるもんじゃないでしょう』と言いましたが、あの子は夢想家で、浮世離れしているので、理解したかどうか。そんな風ですから、なにをしでかすか。あの」と、女は、謎の微笑を浮かべて、「さきほど、あなたは、タルコフスキーのノスタルジアを見た、とおっしゃいましたね?」
すると、アキ、少しうろたえ気味に、「ん? ああ、まあね、ふん、そう言ったな。確かに。」
「私も見ました。おっしゃる通り、いい映画でしたね。でも、私はあの映画は、絶対にあの子に見せないようにしているのです。あんなものを見せたら、また、刺激されて、真似して焼身自殺をやりかねませんから。」
「ふん、なるほど」と、アキ。「今日は、自殺の話が多く出る日だな。」
すると、おっさん、意味ありげな横目で私を見る。私は、あからさまに嫌な顔をして、睨み返す。
女は続ける。「私は仕事があって、日中、家を開けなくてはなりません。その間に、あの子が何かしやしないかと気が気じゃないわけです。幸い、今は監視カメラというものがあって、それを家中に設置しておりましてね。私は外出先でも、いつでも家の中の様子を、こうして」と、トートバッグの中からスマホを取り出し、ケースを開いて、「見ることができるんです。」すると、おっさんが、スマホの画面を覗き込もこうと、身を伸ばす。机を挟んだ距離で見えるわけのものでもないが、女は、ぱちっとスマホのケースを閉じて、「あの子が家の中にいる分には、こうして見ることができますし、監視カメラが設置されていることはあの子も知っていますので、家じゃ大人しくしてるんです。でも、外に出られると、どこで何をしているのか、全くの野放し状態になりますので、わからないのです。」
「野放し?」と、私は口に出しては言わずに反復する。上品な口調に似つかわしくない違和感ある用語。
女は、続ける。「そこで、お願いしたいというのは、私が仕事に出ている際に、あの子が外出したら、その行動を監視していただきたいのです。」
「なるほど」と、アキ。「しかし、妹さんがどこへ行ったかは、携帯の位置情報を見れば、分かるんじゃないかな。」
「あの子は、近ごろ外出する時は、スマホを置いて出るんです。スマホに位置情報が残ることを知っているようで。」
「ふうん。しかし、外出した時だけの監視、と言っても、いつ外出するか、わからねえわけだから、要するに、あなたが仕事に出ている間中、ずっと張り込んでなきゃならねえってわけだな。」
「そういうことになりますね」と、女。
「ご依頼の趣旨は、良く、わかりました」と、アキは真面目くさって言う。「引き受けましょう。幸い、うちは、優秀なスタッフが2名いるので、ご要望にお応えできます。」
え? え? え? いったい、何を言っとるんだ、この人は?
私もさすがに黙っていられなくなって、発言しようとするや、おっさんが、再び意味ありげな横目で私を見て、訳知り顔で人差し指を立てて自らの唇に押し当てる。
「費用は、いかほどかしら?」と、女。
「期間は、どのくらい必要かな? それによるが」と、アキ。
「まず、試しに1週間、お願いできるかしら?」
「1週間ね。その場合は」と、アキは少し考えて、「35万てとこかな。プラス消費税。」
「お願いします」と、あっさり女は言う。実に奇妙な展開だ。
「んじゃ、まず、あなたのお名前と住所をください。それから、妹さんの名前も。」アキが問うと、女はバッグから名刺入れを出し、アキに名刺を一枚手渡す。アキはそれを子細に見て、「おくら? みくら?」
「みくら、と読みます。御蔵梨紗です」と、女。
「マンションにお住まいなんですね。ご自宅ですか?」
「自宅です。事務所も兼ねてます。」
「お仕事は?」
「化粧品の販売をしております。」
「お勤めで?」
「独立した事業者です。」
「あ、そ」と、アキ。「んで、妹さんのお名前は?」
「梨奈です。」
「妹さんは、何をしておられるのです? 学生さん?」
「大学は中退して、今、無職です。」
「引きこもっておられるわけで?」
「引きこもっていてくれれば、いいんでしょうけど。近ごろ外出がちで。どこへ行ったのかと訊いても、頑として答えてくれません。そのために、お願いするわけです。」
「なるほどね」と、アキは少し考えて、「どこへ行ってるのか、全く心当たりはないんで?」
「それが、最近、体力の低下を気にしているみたいで、そこら辺を走ってるみたいなんです。」
「走ってる?」不思議そうに、アキが訊く。
「ええ。今日もそのようでした。ランニングに適した格好でしたから。」
「今日のこと、訊いていいです?」アキは質問を続ける。「現場に転がってた野郎どもと、妹さんの関係は?」
すると、女は少し怒気を含んだ声で「関係ありません。赤の他人です」と、きっぱり答える。
「妹さんが、あそこに居合わせたのは、どうして?」
「きっと、走ってて、事件に巻き込まれたのでしょう。詳しいことは分かりません。あの子が、話したがらないので。」
「あ、そう」と、アキ。「監視は、明日からでいいんですか?」
「ええ、お願いします。」
「明日は、何時からお出掛けで?」
「私は9時ころ家を出ます。」
「お帰りは?」
「いつも夕方6時ころになります。」
「では」と、アキは立ち上がり、素早くスチールラックの方へ行くと、書類ケースから小さな紙切れを取り出し、女に手渡す。「ここへ振り込みを。俺の電話番号も書いてある。俺たちから、あなたへの報告は、どんな方法で?」
「名刺のメールアドレスにお願いします。報告書を、毎日いただけます?」
「毎日ね。いいですよ。」
「では、なにとぞ、くれぐれもお願いします」と、御蔵梨紗と名乗る女は、優雅な身のこなしで立ち上がると、階段に向かう。
すると、アキ、「あ、ちょっと待った。」女が、不審そうに振り向くと、「そっちは正規の出入口じゃないんで。お帰りは、あちらへ」と、脇の壁の鉄扉を指差す。
女は、ちょっとためらってから、指された扉の前までゆっくり歩いて行き、扉の前の足拭きマットの上に立つ。そして、慎重にノブを握って引く。こっちのは、スムーズに開いた。女は、安堵の表情を浮かべると、螺旋階段の踊り場に出て、扉を閉める。カツン、カツン、と金属的な靴音が、次第に下がって行くのが聞こえた。
「と、いうわけだ」と、アキ。
「なにが、というわけ、ですよ。」私は、呆れ果てて言う。
「聞いてたろ。仕事が入ったんだ。頑張ってくれたまえ。」
「は?」
「は、じゃねえだろ。明日から張り込みだ。」
「あのね、なんで、私らがやらなきゃ、ならないんです? あんたが引き受けたんだから、あんたがやんなさいよ。私ら、関係ない。」
「おまえらも、あの現場に居合わせたんだ。これも何かの縁だろう。」
「あのね」と、私が言い掛けると、おっさんが
「お金はくれるんですかい?」と、問う。余計なことを、と思っていると
「まさか。俺は35万しか受け取らねえんだぜ。どうやって、そこから給与が出せるんだい。」
「では、ただ働きをさせようってんで?」と、おっさん。
「そうさな。俺が提供できるのは、寝場所と食料かな。ここを寝場所として提供しよう。それから、食い物は、全部おごる。」
「最小限の生活費は?」と、しつこくおっさん。
「最低限、必要なものは、俺が全部買ってやる」と、アキ。
「で、私もここに住んでいいんで?」と、おっさん。
「ちょい待て」と、私は割り込む。「おっさん、あんた、住むとこあんじゃない。」
「いや、実はオレも、家賃を半年滞納してる。」
「半年?」初めて聞いて、私は驚く。「それで、よく立ち退かずに居座っていられるよね。」
「大家が破産したんでね。所有者入れ替わりのどさくさに、半年滞納してやった。でも、立ち退き請求されるのは、時間の問題だな。」
すると、アキ、「ふたりとも、ここに住んでいいぜ。おまえらの寝場所は、1階な。」
「1階?」私はさっき見た下の状況を思い浮かべる。「あの、打ち捨てられた、カビ臭い、ほっこりまるけの、薄汚い所で寝ろと?」
「掃除しろい。ここは俺の神聖な職場だ。穢すな。」
「あのね」と、私が言い掛けるのを無視して、おっさん、「そうと決まれば、あっしは、荷物を運びたいんですけどね。金も車もないんで、どうしようかな。」
「いや、まだ何も決まってないし」と、私。
「裏のガレージに軽トラがある。好きに使っていいぜ。」アキは言うと、書類ケースから車の鍵を取り出して、おっさんに向かって放る。
おっさん、器用にキャッチして、「行こう。」
「なにを運ぶんですよ。」私は憤然として言う。
「家財道具一式だよ。それと衣類も」と、おっさん。
「なんで、そうなるんですよ。」
「いいから、引越しの手伝いしてくれ」と、おっさんは気楽に言って、車の鍵を持って、脇の壁の鉄扉に向かう。
「あ、ちょっと待った」と、アキ。「そっちは、お客さん用だ。おまえらは、あっち」と、室内の階段を指差す。
おっさんは、方向転換して、とっとと階段を降りて行く。
仕方なく、私も後に続く。1階に降りてあらためて周囲を見たが、埃の積もったデスクが並び、殺伐としている。
おっさんは、構わず、鼻歌まじりで建て付けの悪いドアを開けて外に出て行く。二人、建物の周囲を回って、裏へ。そこには、波型スレート板で囲まれた、だだっ広いガレージがあり、あずき色のホンダの箱型軽自動車と、白い軽トラが並んでいる。
しかし、我々の目を引いたのは、その横に立ててある大型の黒いバイク。薄汚れてくすんでいる2台の軽自動車の横で、そのバイクは全身艶消しの黒に塗られているが、不思議な輝きを放っている。
「いいバイクだな」と、おっさん。
「うん。」私も、思わず、見入ってしまう。
そのバイクはアメリカンタイプで、腹に巨大なVツインエンジンを抱えている。リアの両サイドには、金属の鋲が打ち込まれ、バックルを3個ぶら下げた派手な革製のバッグを備えている。燃料タンクには、ネイティブアメリカンの横顔のイラストがうっすらと浮かんでいる。
「なんだろう?」と、目を見張りながら私。
「ハーレーじゃないよな。見たことないバイクだ」と、おっさんも感嘆を隠さない。
しばらくバイクに見惚れていると、おっさんが軽トラに乗り込む音がする。私も我に返り、軽トラの助手席に乗り込む。と、その前に、シートに積もったホコリを払う。
「えらい古いね」と、私。
「どれだけ動かしてないんだろ」と、おっさんも不安げに言う。キーを回すと、車は苦しげな呻き声を上げるが、始動しない。
「長年、走らせてないんじゃない? 動くかな?」
ようやく、4回目の試みで、エンジンが回り出した。
私たちは、ガレージの脇の細い通路を通って、路上へ。
「ところで、おっさん」私は不安になって尋ねる。「免許、持ってんの?」
「昔取った杵柄だ。運転は任せろ。」
「免許の更新は?」
「してない。」
「んじゃ、無免許じゃん。」
「おまえは、どうなんだ?」
「あたしゃ、免許切れてませんよ。もっとも、免許証はなくした。」
「それじゃ、運転できんじゃないか。免許証不携帯で罰金だ。」
「無免許よりマシですよ。」
しかし、おっさんの運転の腕は確かなようで、普通に、無難に街中を走って行く。
おっさんのアパートの前に到着。
そのアパートは、小さな2階建の典型的な安アパートで、倒壊寸前の様相を呈している。駐車場はないが、塩梅よく隣地が空き地なので、そこに軽トラを止める。
おっさん、「オレは荷物を取ってくるから、おまえ、積んでくれ」と言うや、さっさとアパートの中に入って行った。
荷台の中を見てみると、荷締め用の太めのロープがとぐろを巻いている。手に持つと、意外と重く、丈夫そうだ。
おっさんは、まず、毛布を持って来ると、それを委細構わず草の生えた空き地の上に広げて敷く。そして、次から次へと色々な物を持って来て、毛布の上に置いていった。まず、布団や枕を包みもせずに持って来る。そして、卓上の照明器具、中にぐちゃぐちゃに衣類の詰まった衣類収納ケース、ドライヤー、目覚まし時計、大量のタオル、雑巾、物干しロープ、ゴミ箱、歯ブラシ、石鹸、シャンプー、ゴミ袋、頭陀袋、小さな電気ストーブを持ってきたところで、「積んでくれ。」
「は? これだけ? さっき、家財道具一式って、言ったじゃん。」
「これで十分だろう。これを機に、オレはミニマリズムに目覚めるつもりだ。」
「食器戸棚と、食器は? 炊飯器とか、冷蔵庫は?」
「メシはおごってくれるってんだから、要らんだろ。」
「机や、椅子は?」
「あるだろ。」
「洗濯機は?」
「コインランドリーが近くにあるじゃないか。」
「すると、まだ大量の荷物が、部屋に残っているわけだよね。それじゃ、部屋を明け渡したことに、ならんのじゃないの?」
「鍵と一緒に、置き手紙を置いといた。『部屋を明け渡します。残っている物の全部につき、所有権を放棄します。自由に処分してくださって、異議ありません。』と書いておいた。」
「いいのか、それで。」
「良くないとしても、どうしようもないな。」
私は、目の前の荷物を眺めて、「ま、いいか。」これ以上積荷が増えると厄介だ。
二人でおっさんの持ち出した物を順次軽トラの荷台に乗せる。全部乗せ終わったところで、下に敷いていた毛布を荷物の上にかぶせて、私は荷締め用のロープに取り掛かる。トラックの荷物を固定するためのロープ掛けは、技術を要する。私は過去に零細の運送業者に勤めた経験から、心得はある。時間を掛けて、苦労してロープを掛け終えると、おっさん、「あ、忘れてた」と、アパートの中に入って行く。
「あ?」と思って見ていると、おっさん、大きな掃除機を手にして出て来る。
「なにそれ?」
「これが掃除機以外の何かに見えるのなら、おまえは医者に診てもらった方がいいぞ」と、言いながら、おっさん、掃除機を毛包の上に置こうとする。
「そんな所に置いたら、運搬中に落ちますよ。」
「あ、そう」と言って、おっさん、掃除機を毛布の隙間からねじ込もうとする。
「おっさん、そんなん、無理。しっかり縛ったんですから。やめてください。」
「んなら、どうしたら、いい?」
「それ持って、運転してください。」
「アホか、おまえ。こんな物を持って運転できるわけないじゃないか。」
「でも、もう荷物はしっかり縛っちゃったんですから。そうするしか、ないですよ。」
「ほどけよ、ロープ。」
「どんだけ苦労したと思ってんです。荷締めって、大変なんすよ。」
「知るか。全部積み終わらんうちに、ロープを掛ける方が悪い。」
「積んでくれって言ったの、おっさんですよ。」
「とにかく、ほどいてくれ。」
「いやです。持って運転できないのなら、掃除機は諦めたら?」
「あの、ほこりまるけの事務所を、掃除せずに寝るのか? 荷台に乗らなきゃ、おまえが持ってりゃ、いいじゃないか。」
ということで、おっさんは運転席へ。私が掃除機を引き受けて助手席に、乗ろうと思うが、掃除機の本体を抱えて乗り込むと、どうしてもホースの大部分が運転席にはみ出る。
「ええい、鬱陶しい。運転の邪魔」と、おっさん、文句を言う。
「どうして、こんな大きな掃除機買ったのさ。」
「強力なやつが欲しかった。」
「にしても、デカすぎ。」
「ホース邪魔っ。邪魔、邪魔、邪魔、邪魔。」
「うるさいんでないかい? でかい掃除機買ったのが悪い。」
「ホースをはずして、足元に置け。」
「ん、なるほど」と、ホースをはずしに掛かる。しかし、私の意図に反して、はずれたのはホースではなく、本体がパッカッと二つに割れた。「え?」
「なに、しとん?」
焦って、元に戻そうとすると、あに図らんや、本体の一部がひっくり返って、中から大量のホコリがどっと吐き出てきた。
軽トラの運転席全体に、ホコリの霧が舞う。
おっさん、前方の一点を見つめたまま、動かない。ただ、目はしばたいている。
私は、そっと掃除機の本体を元に戻し、ホースをはずして、「こほ、こほ、こほ」と、3回咳をした。
おっさん、無言で下方を指差す。促されて見ると、おっさんのズボンもシートも灰色のホコリにまみれている。
「どうして、おまえさんは、オレの助けになることを、しようとしないんだ?」と、おっさん。
私は、はずしたホースの本体側の端に口をつけて、吸い込み口の方をおっさんの膝に向け、「ふうっ」と息を吹きかけた。ぱっとホコリが舞い散る。
「なにやっとん?」と、おっさん。
私は咳払いして、「早く行きましょう。お腹が減った。」
我々がアキの事務所に着くと、アキは、「昼メシ買っておいてやったぜ」と、我々を2階に上がらせてくれた。机の上に、テイクアウトのランチが二人分、乗っている。アキは、「お茶を入れてやる」と、急須にお湯を入れようとするので、「お茶は、私が入れます」と、急須を奪い取った。流し台へ行き、シンクの三角コーナーに出がらしのお茶っ葉を捨てると、中にゴキブリの死骸。「お、おえっ」と、あらためてえづいた。
私とおっさんは、昼食を済ますと、早速、1階の掃除に取り掛かる。おっさんが掃除機をかけている間、私は自ら軽トラを運転して、部屋に残してきた布団と目覚まし時計を持って来る。
なんだかんだ、半日かけて1階事務所を人間が住める環境に整え、事務机を1箇所に集め、私らが寝るスペースを空ける。床に直に布団を敷かなくてはならないが、やむを得ない。冷たい床の上に、布団やら、おっさんの衣類収納ケースなどを並べて、一息付くと、アキが、「メシ食いに行こうぜ。」
シボレーバンのフロントシートはベンチシート。3人、前列に並んで座れる。
アキは、巨大な車をゆっくり走らせ、町の中心部を素通りして、オフィス街のはずれへ。
幅の広い道路の脇に、スペイン国旗をなびかせた店。その前に車を止める。
「うーっす」と、言いながらアキは店内に入る。
「いらっしゃい」と、店主と思しき髭面の人物が、カウンターの奥から応える。
アキは、案内も請わずに4人掛けのテーブル席に着く。おっさん、なんの躊躇いもなく意気揚々とアキの対面に座る。私もおっさんの隣に着席。
店主が、おしぼりを持ってやって来ると、アキ、「俺の新しい部下を紹介する。」
「部下?」と、私。
かまわず、アキは、私を指差し、「こいつは、『つぶやん』。そいで、こいつは」と、おっさんを指差す。
私は、「ちょっと、待ってください。」
すると、アキ、「なんでえ。」
「なんすか、その『つぶやん』ってのは?」
「おまえの名前だ」と、アキ。
「なんで、私が『つぶやん』なんですよ?」
「穀つぶしだから。」
「きついねっ。」
「そいで、こいつは」と、アキは、おっさんを指差しながら、「ええっと。」
そこで、私、間髪を入れず、「『おっさん』と、呼んでやってください。」
「あ、そ。んじゃ、『おっさん』だ。よろしく。」
おっさん、何も言わない。
「お飲み物は、どうしましょう?」
との店主の質問に、アキは、「おまえら、ビールで良いよな」と、店主に「こいつらにビール、俺はノンアルコールのビール。」
私、「アキさんは、アルコールは飲まないんで?」
すると、アキ、「飲もうと思えば、いくらでも飲める。でも、別に好きじゃねえ。」
まずは、乾杯。
「さてと、おまえら」と、アキ。「明日の朝は8時半から張り込み開始だ。しっかりやってくれよ。」
「そこなんですけどね。なんで、私らが張り込みやるんで?」と、私。
「おまえらの仕事じゃねえか。」
「アキさんは、その間、なにをしておられるのです?」
「俺は司令塔だ。」
「は?」
「それで思い出したが、おまえら、携帯持ってるか?」と、アキ。
「あたしゃ持ってません。とっくの昔に解約しました」と、私。
「オレは料金未払いで解約された」と、おっさん。
「アホども。困った奴らだな。とりあえず、早急にスマホ2個調達か。人を雇うってのも、大変だな。」アキはひとりごちる。
料理は最高だった。
久しぶりに良いワインを飲まされて、いささか酩酊したころ、アキが切り出す。
「しっかし、あの気どりっぺの女、どう?」
「依頼者のこと?」と、私。
「ああ。」
「どうって言われても?」
「女のくせに、女言葉使いやがって。」
「女が、女言葉使って、何か、いけませんかね?」
「なんか、あの女、胡散臭いんだよな。」
「だったら、断れば良かったのに。」
「金払いは良さそうだ」と、アキはパエリアを口に含んで、「でも、なんか、いかがわしい。」
「それは、『るいとも』でしょう。」
「るいとも?」
「類は友を呼ぶ。いかがわしい人物の所へは、いかがわしい人物がやって来る。」
「俺は明朗快活、公明正大、善良な市民だぜ。」
私は、おっさんを見る。何か、ツッコミを入れないかな、と思ったが、おっさん、じっと手にしたワイングラスを見つめている。物思い顔で、くるり、くるりと、ワイングラスを回しながら、金色に輝く白ワインに見入っている。
「今日は、口数が少ないね」と、私。
「オレの口は、もともと一つしかない」と、おっさん。
「いつも酔うと説教垂れるくせに、今日はおとなしいね。」
「どんな説教、垂れるんだ?」と、アキ。
「なんか、格言めいたことを言ったり。」
「格言なんぞ、言っとらん」と、おっさん、怒る。
「だから、格言め・い・たことって言ってんの。人類の未来を呪ったり。」
すると、おっさん、「呪ったりなんぞ、しとらん。警告を発しとるんじゃ。」
「警告? 誰に対してだ?」と、アキが訊く。
おっさんは、顔を上げ、アキを睨みながら「世間にだよ。警告しなかった、などと言わせないようにな。」
「んで、今日の有り難い警告は?」私が調子に乗って訊く。
すると、おっさん、「それより、気になることがある。」
「なに?」
「あの子、なんとか梨奈って言ったな。」
「あの妹? 御蔵梨奈のことか?」と、アキ。
「うん。」おっさんは、再び手にしたワイングラスを見つめながら、「『神様、私の命と引き換えに、虐殺を止めてください』。まるで、少女マンガだ。」
「今どき、少女マンガだって、そんなベタなセリフは使わんぜ」と、アキ。
「だから、あのお姉さん曰く、浮世離れしておられるんでしょうね」と、私。
「違う。浮世離れじゃない。逆だ。現実を見てるんだ、あの子は。あの子の目には、この地球上で起こっていることが、よく見えているのさ。」おっさんは、ぐいっとグラスのワインを飲み干して、ふうっと息を吐くと、「宇宙会議を知っているか?」
「始まった」と、私。
「全宇宙の目が、この地球に注がれている。この地球上で起こることは、全宇宙の関心事なのだが、そうとも知らずに我々地球人は、いい気になって、やりたい放題だ。このままだと、そのうち、人類は宇宙から見捨てられる。」おっさん、からのワイングラスを持ち上げ、カウンターの向こうにいる店主の方をじっと見つめる。店主がやってきて、グラスにワインを注ぐ。おっさん、一口飲んで、「数千年間、いや、おそらく数万年間、人類は進化してこなかった。古代も現代も同じことだ。同じことを繰り返している。世界を我と彼に分けて、我を守るために彼と戦う。それしか能がない。それ以外のことを、したことがない。調和の作り方なんか、知らない。自然法則に従う知恵もない。生命の意味すら知らない。無知で、無能で、野卑で、野蛮だ。宇宙会議は、この地球をなんと呼んでいるだろう。苦しみの星? 悲しみの星? 無知が支配する闇の星?」おっさんは、ぐいっと飲んで、「いずれにせよ、ろくなもんじゃない。地球は地獄だ。」
「うん。地球は地獄だ」と、アキ。「で、その地獄を見つめる女の子に関心があるんだろ、おっさん。んなら、明日から、頼むぜ。しっかりやってくれ。」