第六話
御所の奥にある後宮の、御殿と御殿をつなぐ長い渡り廊下。私は夫である明彦殿下の後を追い、息を殺して歩いていた。
後宮の中でも南端にある私の御殿から、殿下はほぼ逆方向に向かって歩いている。予想通りではあったが、殿下は私の居室からもっとも遠い位置に、愛する側室の御殿を与えたらしい。
──あれ? それでは殿下は、後宮の南奥の私の寝所近くまで、何をしに来ていたのだろう。
ふとそんな疑問がよぎったが、それ以上考える余裕はなかった。ふいに殿下が立ち止まったのだ。
「──何奴だ」
背を向けたままで発せられた低い声が、廊下に響く。私は両手で口元をおさえて息を殺し、廊下の柱の陰に隠れた。
あれだけ私を菜の花の君から遠ざけようとしている殿下のことだ。万が一後をつけていたことがばれたら、激怒させてしまうに違いない。
しばらく殿下は黙って、そこに佇んでいた。張り詰めた空気が渡り廊下に満ちる。春の濃厚な風が、ふわりと渡り廊下を吹き抜けていく。
やがて殿下はふっと肩の力を抜いて、また歩き出した。
私は内心安堵のため息をつきながら、彼の足音が遠ざかっていくのをその場で動かずに聞いていた。尾行に勘づかれた以上、これ以上彼の後を追うのは危険すぎる。
踵を返そうとしたときだった。あっと思う間もなく、私は力強い腕に後ろから抱きとめられていた。
反射的に悲鳴を上げようとした口元を、骨ばった手が押さえる。
「何をしている?」
耳元でささやく声も、ふわりと背後から香る沈丁花も、間違えようのない……明彦殿下のものだった。
私は身を固くして、なんとか殿下の腕から逃れようとするが、見た目からは想像もつかないほど彼の腕は力強く私を抱きすくめている。
「で、殿下……私です、明日香です……」
不審者ではないことをわかってもらおうと、なんとかか細い声を絞り出すと、殿下が呆れたように耳元で息を吐く。
「そんなことはわかっておる。──ここで、何をしているのだ」
こんなに近くで殿下の体温を感じたのは初めてだ。殿下の手の熱さを感じて、自然と自分の頬も熱くなっていくのがわかる。心臓が早鐘のように鳴り、混乱と昂ぶりで、今にも泣きだしてしまいそうだ。
「殿下……どうか、離してくださいませ……」
私の懇願に、背後の殿下は少し迷う気配を見せ……やっと、腕を緩めてくれた。ほっとして体を離そうとすると、今度は正面から肩を掴まれて、顔を覗き込まれる。
渡り廊下に点々と置かれた行灯と、薄い月明かりが、精巧な彫り物のように美しい殿下の顔を照らし出す。私は呼吸すら忘れて、引き込まれるように彼の瞳を見つめ返す。
殿下の漆黒の鏡のような瞳に、私の姿がぼんやりと映っているのが、信じられない気分だった。
「余の後をつけたのか」
言葉少なに問われて、私はごまかすこともできず、素直にうなずく。
「申し訳ございません……。夜半に殿下の足音が聞こえまして、つい……」
「つい、間諜のようなまねを?」
「いえ、あの、そのようなつもりは……」
必死で言い繕おうとして、ふと彼の目がおかしそうに細められていることに気づいた。
──もしかして、からかわれた……?
どう答えたものか、顔を赤らめて口をつぐんだ私を見て、殿下は笑いをかみ殺すように視線を逸らした。
「まったく、そなたは好奇心が旺盛だな……。日嗣の皇子の後をつけるなど、その場で切り捨てられても文句は言えまい」
「は、反省しております……」
「しかし尾行に関しては、なかなかの腕を持っている」
口ごもりながら頭を下げる私に、殿下は優しい目を向ける。──まるで、8歳の自分はじめて顔を合わせたときのような、親しみのこもったまなざしで。
──なぜ、今更……こんな目で私を見るの?
「お褒めに預かり光栄でございます」
「こら、調子に乗るな。褒めてなどおらぬ」
つられるようにして軽口をたたいた私に、殿下はひとつ咳払いをしてみせ、すっと表情を厳しくした。
「尾行にとどまらず、そなたがこそこそと帝に進言したことも知っている。だが、余の考えは変わらぬ。そなたを祓いに参加させる気はない」
──殿下にはすべてお見通しだった……!
帝へ謁見したことも、その内容もすべて殿下に把握されていたことに気づいて、私は怖れと恥ずかしさに顔を赤らめる。
これが、この国に君臨する“大王”の風格というものなのか。先ほどまでの柔らかな表情など幻だったかのように、殿下の顔には威厳に満ちた影が落ち、鋭く細められた瞳は研ぎ澄ました刃のようだ。
「かような真似、二度とするな。次は決して許さぬ」
「──はい」
私は震え出しそうになる自分の体を必死で律して、小さく返事をする。
その返答を聞いて、殿下は厳しい表情のまま、しかし少し雰囲気を和らげて、大きくうなずいた。
「よろしい。さぁ寝所に戻れ」
「はい……おやすみなさいませ」
私は彼に深く頭を下げ、足早にその場を辞した。
背中に、強く彼の視線を感じる。それはおそらく、愛する人の寝所に私を近づけまいとする、敵意を込めた牽制の視線。
──わかってはいたけれど、殿下からそこまで深く愛されるなんて……。
嫉妬とも、悔しさとも違う、複雑な感情が胸にうずまいた。
こうして2年前に回帰して、今度こそ彼に心を乱されないように生きようと誓ったというのに、私はまだ殿下の支配から完全に逃れることができずにいる。そんな無力感に襲われながら、私は冷たい廊下を早足で進んでいく。
──とはいえ、何も収穫がなかったわけではない。少なくとも、菜の花の君の御殿の方角はなんとなくわかった。これで、いずれ顔を拝める機会もあるだろう。
私はそう自分に言い聞かせ、暗闇の中自室へと戻っていった。