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第五話

 祓いの儀式に加わることを、夫・明彦殿下にすげなく断られたあと、私はある方に謁見を申し込んだ。ある方とは──殿下の御父上であり、今上の帝であられる明石帝である。


 前回の生のとき、私はほとんど明石帝にお目通りすることはなかった。

 婚姻の儀式の際に詔を述べられた際、その後あらためて挨拶に参った際に少し言葉を交わした程度で、その後は帝の具合がどんどん悪化したこともあり、お目にかかる機会のないまま帝は静養のため山間の離宮へ移ってしまったのだ。


 皇太子である明彦親王殿下に意見できるのは、今や帝をおいてほかにいない。

 帝の病が悪化する前に、どうしても謁見して奏上しなければならなかった。 



 謁見を申し込んでから割合すぐに、私は明石帝の住まう内裏へと招かれた。

 本来ならば謁見のための「上段之間」でお目にかかるのが通例だが、明石帝が病に臥せっていることもあり、私は帝がお休みになる御殿への入室を許されたのだ。


「お目通りをお許しいただき幸甚でございます。国府宮明彦親王殿下の后、東条の娘、明日香にございます」


 御簾の向こうにおられる明石帝の影に向かって頭を下げると、帝の静かな声が返ってきた。


「──明日香の君か。よく参られた」


 齢45とは思えない、弱々しく生気のない声だった。思っていた以上にお加減が悪いようで、胸が痛む。


 病床にある帝のお心を煩わすようなことを言っていいものか一瞬迷ったけれど、ここまで来て引くわけにもいかない。

 私はできるだけ明るい声で帝のご健勝を寿いだあと(実際にはまったくご健勝ではないのだけれど、儀礼として言わなければならないのだ)、帝を疲れさせないようにと、すぐに本題に入った。


「実はこうして参りましたのは、明彦殿下のことでございます」

「──あれが入れ込んでいる、側室のことか?」


 思いがけず帝が直接的なことをおっしゃったので少し驚いたが、私はきっぱりと首を振る。


「いいえ、そのことではございませぬ。──祓いの儀のことにございます」

「どういうことだ」


 どうやら、帝は何もご存じではないようだ。

 私は、儀式に参加することを殿下が強く拒んでいること、どうやら菜の花の君の力を借りながら殿下がおひとりで祓いを行っていることを、簡潔にお伝えした。そして、再度深く頭を下げる。


「どうか、私を祓いの儀に加えていただけますよう、殿下にお申し付けくださいませ。東条の力を、どうかこの国のため、民のために使わせてくださいませ」


 しばらく、帝は御簾の向こう側で沈黙しておられた。やがて、苦しそうに二三度咳をなさってから、静かにこうおっしゃった。


「意見はしてみよう。──しかし、もはやあれが余の言うことを聞くとも思えぬ」


 帝の声が一層苦しそうにかすれる。


「あの側室が入内するのも……余は反対したのだ。しかしあれが強引に……」


 そこまで言って、帝は激しく咳き込んだ。私は思わず身を乗り出す。御簾の向こうで、女御が帝の背をさすっているのが影でわかる。


「大事ない、大事ない……。そちにも苦労をかけて、心苦しい」

「とんでもないことでございます、大君。どうぞそのようにおっしゃらないでください」


 私は恐縮して首を振りながら、そろそろお暇するべきだろうと思った。想像以上に帝の症状は重いようだ。数年前から帝を苦しめているその病は、薬師にも祈祷師にも原因がわからず、徐々に帝の体を蝕んでいた。


「そうですわ、よろしければ今度私の組んだ香を献上させてくださいませ。呼吸を楽にする効果がある香を知っていますの。香炉と一緒に私の女官に……」


 そう言いかけて、私は動きを止めた。


──今、御簾の向こうから何かの匂いがした。


「……どうしたのだ?」


 突然黙り込んだ私に、帝が優しく声をかけてくださる。私は慌てて「なんでもございません」と告げて、しどろもどろになりながらなんとか暇の挨拶をした。


 帝の寝所を出て、女官に誘われ自身の御殿へと戻りながら、私の頭は先ほどの“匂い”のことでいっぱいだった。

 あれは、通常の人間が発する匂いではない。

 ただ、怨霊や呪いの腐臭ではなかった。それは確かだ。だけど……。


 私は考えがまとまらないまま、歩を進める。


 断言はできない。これから慎重に調べる必要があるだろう。だけど、もしこれが呪いなのだとしたら……──帝の病を、治せるかもしれない。



***



 草木も眠る丑三つ時。

 私はなかなか寝付けずに、寝所で横になり暗闇を見つめていた。ゆらゆらと揺れる行灯が、天井に寝台の影を映している。

 相変わらず部屋の隅では香炉が焚かれ、濃い伽羅の香りが鼻をつく。それでも、泉のおかげで回帰前に比べればだいぶ香木を薄くして匂いを弱めてもらっている。


 私はそっと目を閉じる。

 帝にお目通りしたときの、あの匂いが忘れられない。帝の病が呪いだとは断言できないが、その可能性が少しでもあるならば、なんとか香の力を組み合わせて祓い、治して差し上げたい。


──ほんのわずかに匂った、あの香は……。


 そのとき、廊下の向こうでかすかな足音がした。

 一瞬、明彦殿下が私の寝所に向かっているのではとありえない妄想を抱いたが、すぐに自分でそれを否定する。それどころか、徐々に遠ざかっていく足音は、おそらく菜の花の君のもとへ向かっているのだろう。


 そういえば、前回の生でも一度も彼女の実物を見たことはなかったが、今生でもまだ彼女の御殿の位置さえ知らない。女官たちが「絶世の美女」だの「優雅でたおやかな所作」だのと絶賛するのを聞いたことは何度もあるけれど……。

 私はふと好奇心がもたげて、素早く寝所から起き上がった。


 手燭を手に御殿を出ると、廊下の向こうに見知った背中を見つけた。白い夜着をまとった、明彦殿下である。薄い月明かりに照らされたその横顔は、ゾッとするほど美しく、思わず見惚れそうになる。


──呆けている場合じゃないわ。一度くらい、あの朴念仁の殿下が溺愛する、菜の花の君の実物を拝まなくちゃ。


 私は手燭の明かりを吹き消し、そっと彼の後をつけることにした。


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