第四話
湯殿で丁寧に体を清められたあと、私は女官たちに髪を梳かれ化粧を施されながら、この先の計画について考えていた。
やはり前回の生で私が死んだのは、皇太子の后としての役目──“祓いの儀”を行わなかったために、私の祓いの力が弱まり、怨霊たちが力を増していったからではないだろうか。
あの“匂いのない怨霊”の正体はわからないけれど、ひとまず一番重要なことは、殿下に祓いの儀への参加を許可してもらうことだ、と私は心を決めた。
一度目の生のとき。殿下に愛されないことや女官たちから見下されることも悲しかったけれど、今思うと最もつらかったのは、怨霊を鎮めるための祈祷の補佐さえ許されなかったことかもしれない。
帝の公務として、日々の祈祷に加えて重要なのが、月に一度の「大祓い」だ。
この日は御所の中にある退魔殿に都中の陰陽師たちが一斉に集い、祓いの儀式を行う。儀式の中心となるのは、帝と皇后の“器の祓い”だ。二人が“器”となって皇国中の怨霊の気を集め、帝の神通力と皇后の香の力を合わせることで、一気に怨霊を祓うのである。
いくら皇太子が陰陽師の血筋で強大な神通力を持つとはいっても、東条家の香の力を借りずに怨霊の器となって祓い続けることは、大変な負担だったはず。
──なぜ殿下は、かたくなに私の力を拒んだのだろう。
どんなに私を厭っていたとしても、祓いの儀式に参加させたって良かったはずだ。そのほうが、ご自身の負担を減らすこともできたのに……。
「お仕度が整いましてございます」
女官たちが丁寧に一礼して、私は我に返った。渡された手鏡をのぞくと、綺麗に化粧され、髪を結われた18歳の自分が映っている。
死ぬ直前の私は女官たちからすっかり馬鹿にされて、まともに支度も手伝ってもらえなかったから、こんなふうに美しく装ったのはずいぶん久しぶりな気がする。
「……綺麗な色の紅ね」
ぽつりとつぶやくと、若い女官が嬉しそうに微笑んだ。
「素敵なお色でしょう。国府宮殿下が唐から取り寄せたものなのです。もともとは菜の花の君のために……」
そこまで言って、彼女は「あっ」と気まずそうな顔で口をつぐんだ。その素直な表情を見て、私は思わず笑ってしまう。
「いいわ、彼女のことは殿下から聞いています。側室のおひとりくらい、私はまったく気にしていないから」
「──そうだったのですか」
驚いたように目を見開いてから、彼女はほっとしたように胸に手を当てた。
「私、後宮ならではの会話の機微に疎くて、うっかり余計な事ばかり言ってしまうのです。だからすぐに女官の仕事も暇を出されるんじゃないかと気が気じゃなくて……」
そういえば、確かに彼女を見かけた記憶はほとんどない気がする。おそらく、前回の生のときは、私が入内してまもなくくびになってしまったのだろう。いかにも権謀に疎そうな、純粋で素朴な丸い目をしている。
「──あなた、お名前は?」
「菅原村国の娘、泉と申します」
「そう、泉ね……あなたのこと気に入ったわ」
私はにっこりと泉に微笑みかけた。
「私、あなたに身の回りのお世話をお願いしたいわ」
「わ、私にですか?」
泉がパッと頬を赤くする。新人の女官にとって、主人から身の回りの世話を頼まれることは大変名誉なことなのだ。
年かさの女官たちが不満げにこちらを見ているが、私は意に介さず泉の手を取る。
「よろしく頼むわね」
泉は紅潮したまま何度もうなずき、「精一杯務めさせていただきます」と頭を下げた。
***
泉を側仕えの女官に任命してから、私の後宮での生活は順調そのものだった。
「明日香さま、こちらが本日の朝餉の膳でございます」
「ありがとう、泉」
泉が誇らしげに私の前に食事の膳を並べる。前回の生では、出されたものをただ黙って食べていたが、今生では泉が私の好みに合わせて後宮の司に指示を出し、膳を用意してくれていた。
ふっくらと焼き上げた鮎や、貝の汁が美味しい。泉は思った以上に気の利く子で、私の好みや趣味をすぐに覚えてくれた。
「本日はどのように過ごされますか? 都の商人が仕入れた珍しい反物を御覧になれますわ」
「そうね、それもいいのだけど……」
食事だけでなく、珍しいお茶やお菓子を所望することもできる。皇太子の后に割り当てられる予算の範囲内であれば、着物や装飾品も好きなだけ購入して楽しむこともできる。
後宮で面白おかしく暮らそうと思えば、それもかなうだろう。だけど……。
私はいつも手元に置いている香炉にそっと手を伸ばす。
今生も私の御殿には常に濃い伽羅の香が焚かれており、何度泉に伽羅の香をやめるように言っても、「これだけは国府宮殿下からのご指示ですので……」と困った顔で断られていた。
こんな強い香が焚かれていては、私が香を組んで祓いの修行を行うこともできない。つまりこれは、明彦殿下が私の香を禁じている、ということだろう。
──たとえどんなに冷たくされても、殿下から愛されなくても……これだけは譲ってはいけなかったのだわ。怨霊を祓うのは私の使命なのだから。
『我らは、ともにこの国を治めていく同志だ。ともに励み、歩んでゆこう』
宝物のように大切にしてきた、殿下の言葉。
私たちの間に、残念ながら愛は生まれなかった。だけど、彼とともにこの国を守るために、私はつらい修行に耐えてきたのだ。
私は覚悟を固めると、泉に向かって殿下に謁見を申し込むように伝えた。
***
「大祓いの儀式に参加させてくださいませ」
初夜以来はじめて私の御殿を訪れた殿下に、私は率直な言葉でそう頼んだ。
殿下は驚いたように少し眉を上げ、不快そうな声で短く答えた。
「ならぬ」
その冷たい反応に一瞬心が折れそうになったが、これくらいで負けるわけにはいかない。私は呼吸をととのえて、冷静に問い返した。
「殿下もよくご存じのとおり、私は東条家の娘でございます。香の力で殿下をお助けし、怨霊を祓うために嫁いできた身なのです。それなのになぜ……殿下は私に祓いの力を使わせてくださらないのでしょう?」
殿下は表情ひとつ変えず、冷たいまなざしで私を見据える。
「そなたが東条の出であることは知っている。しかし、これまでに東条の力を借りずとも怨霊を抑えてきた帝も多数おられる」
殿下の言うことは、実はそのとおりだった。
祓いの力を持つのは東条の家だけではない。東条の香の力には劣るものの、五大公家と呼ばれる貴族の名家は、いずれも血統で守られてきた力を持っている。
──確か、菜の花の君は歌声で怨霊を祓う力のある、井澄家の血統だったはず。
「もしかして、殿下の祈祷を……菜の花の君が助けていらっしゃるのですか?」
私の問いに、殿下は黒い瞳をギラリと光らせた。背筋が凍るような、冷たい光。
「──そなたが、その名を口にするな」
鋭い刃のような声に、思わずビクッと体が震えてしまう。殿下は私を睨みつけたまま、言葉をつづけた。
「ともかく、余にそなたの力は必要ない。ただ帝の決めた通りにそなたを娶っただけだ。今後も、そなたを必要とすることはない」
これで話は終わりだ、とばかりに明彦殿下は目を伏せる。そして立ち上がろうと腰を浮かしかけ──私は慌てて声を上げた。
「お待ちください!」
殿下が動きを止める。ここで、引くわけにはいかない。
「殿下が私を必要となさっていないことはよくわかりました。もちろん、殿下の愛を乞う気はございません。ですが……」
殿下の黒い瞳がわずかに揺れている。──こんなふうに正面から視線を合わせるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
「私は、この国を支えるため、民を守るために后となったのです。そのために、東条家の香の力を高めてまいりました」
「……」
「殿下があの方のお力を借りるというのであれば、もちろんかまいません。決して邪魔にならぬよう、必要な時にだけ力を使えるよう、儀式の間に控えているだけでもよいのです。ですから……どうか、私にもお勤めを果たさせてくださいませ」
上段に座した殿下に向かい、私は額を床にこすりつけて懇願した。
「どうか、お願いいたします……!」
そういえば……この場面に既視感があった。私は目を閉じて、一度目の生のことを思い出す。そう、前回は──「寝所に渡ってほしい」と、恥を忍んで懇願したのだった。
あの時と同じように、沈黙が広がる。殿下は微動だにしない。
──そしてあの時は……確か、菜の花の君の声がして……。
そこまで思い返したとき、殿下の小さな声が耳に届いた。
「……そなたは、変わらないな」
「──え?」
意外な言葉に、思わず顔を上げる。殿下はこれまで見たことのないような──複雑な表情をしていた。昔を懐かしむような、優しいまなざし。黒曜石の瞳がきらりと光る。
「……私も変わりましたわ。大人になりましたもの」
ぽつりとそう返すと、殿下はふっと表情を緩めた。
「背はほとんど伸びなかったようだが」
「まぁそんな! 8歳のころから比べたら、二回りは大きくなったはずですわ……!」
思わず大声を出してしまったことに気づいて、頬を赤らめる。そんな私の様子を見て、殿下がおかしそうに微笑みかけた、そのときだった。
「……明彦殿下?」
廊下のほうから、鈴の鳴るような声がした。ほのかに、沈丁花が香る。
──菜の花の君…!!
やはり今回も、菜の花の君が現れた。
反射的に殿下の表情を確認すると、明らかに顔色が変わっている。
「菜緒、今参る!」
殿下はすごい勢いで立ち上がると、鋭い目で私を睨みつけた。先ほどまでの、柔らいだ雰囲気は跡形もなく消え失せている。
「ともかく、そなたに祓いを手伝わせるつもりはない。このようなことで、二度と余をわずらわせるな。……そして、二度と“彼女”に関わろうとするな」
まるで仇を見るかのようなその目つきには、見覚えがあった
そして逆行前と同様に、殿下は慌ただしく部屋を出て行く。
私は茫然としてその場に取り残され……そして、ふっとため息をつき腕を組んだ。ある意味で、ここまでは予想通りだ。あれほどかたくなに私が力を使うことを拒んでいた殿下が、一度お願いしたくらいであっさり許可をくれるはずがない。
そしてもちろん、これくらいで諦めるつもりもない。
「──次の手を、使うしかないわね」
私は小さくつぶやいて、頬に手を当てた。