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第三話


「──これは、偽りの結婚だ」


 伽羅の香が焚きしめられた、新婚の夫婦が“初夜の契り”を交わすための「交誼の間」。

 2年前とまったく同じ場面に、私はただ混乱していた。


──ありえないわ……私は、確かに死んだはずなのに……!


 間違いなく、怨霊は私の命を奪っていった。悔しいけれど、香を焚く間もなかった。私は……あの化け物じみた“匂いのない怨霊”に負けたのだ。


──お父様の言う通りだったわ……。少しでも修行を怠れば、怨霊に付け入る隙を与えてしまう。


 これまでに感じたほどがないほど凶悪な力を持っていたあの怨霊の姿を思い出すと、全身が震え出す。何の匂いもしない怨霊に対して、私は手も足も出ず、惨めに死んだのだ。

 そこで私の人生は終わったはずだったのに──なぜかわからないけれど……私は時をさかのぼり、2年前の結婚初夜に戻ってきたらしい。


 真っ青になって押し黙っている私に、目の前で明彦殿下は不審げに眉根を寄せた。


「聞いているのか?」

「あっ……」


 顔を上げた瞬間、思わずよろめいてしまう。すると、殿下が反射的に手を出して私の肩を支えてくれた。


「あ、ありがとうございます……」


 思わず礼を言うと、明彦殿下の顔がぱっと朱に染まった。──初めて見る表情だった。

 殿下は慌てたように私の肩から手を放し、不機嫌そうに顔をそむける。


「……気をつけろ」


──2年前の殿下って、こんなに幼かったのね。


 私は思わずまじまじと殿下の顔を見つめた。

 初夜の日、あんなに冷たく恐ろしく感じた殿下が、今はいたいけな少年のようにさえ思える。殿下は不機嫌な顔のまま視線をさまよわせ、目を逸らした。


「──そのような目で、こちらを見るな」

「あ…失礼いたしました」


 見られるのも不快なほど彼に嫌われていたのだと思うと少し寂しい。しかし、殿下の愛を追い続けて心を痛めた2年を経て、私はすっかり彼への想いが冷めていることに気づいた。


──嫉妬に心をさいなまれ、祓いの力を高める修行を怠ってしまったのが悪かったのだわ。


 あの怨霊の匂いがしなかったのは、嫉妬で心が曇ってしまったからなのかもしれない。そう考えて、私は唇をかむ。


 なぜ時を戻ったのかはわからない。だけど、これが私に与えられた“やり直し”の機会なのだとしたら……私はもう絶対に、彼を愛したりしない。


 私はにっこりと、殿下に笑いかけた。


「大丈夫ですわ、殿下。私、決して殿下に懸想したりいたしません」

「……なに?」


 驚いたように殿下が目を見開く。私がかつて恋焦がれた漆黒の瞳が、わずかに揺れる。


「殿下には、ほかに愛する方がいらっしゃるのでしょう。大丈夫ですわ。私、お二方の邪魔はしないと約束いたします」


 呆気に取られて言葉を失っている殿下に向かって、私は丁寧に頭を下げた。


「初夜の儀はこれでおしまいでしょう? ──それでは殿下、おやすみなさいませ」

「……っ…そのとおりだ」


 言葉少なにそう言うと、殿下はなぜか苦しげに顔を歪めて息をつき、立ち上がった。前回の初夜と同じように、彼はここを出て愛しい菜の花の君のもとへ行くのだろう。だけど、私にはもう関係のないことだ。


 私は殿下に背を向けて、いそいそと寝台に横になる。疲労感が眠気となって襲ってくる。何しろ、いろいろな事がありすぎた。

 そのまま目をつぶろうとしたとき──帳を上げて出ていこうとしていた殿下が、ふいに私を振り返った。


「……まだ何か?」

「──いや。今日はご苦労であった。ゆっくり休め」


 意外な言葉だった。殿下は早口でそう言うと、私の返答を待たずに背を向けて、今度こそ寝所を後にしていく。


──一度目の初夜では、こんなことは言わなかったわよね。


 彼の背中を見送って、私は眉をひそめて過去の記憶をたどってみた。初夜だけじゃない。殿下からねぎらいの言葉をかけられたことなど、結婚していた2年のあいだ一度もなかった気がする。


──いずれにせよ、明日からまた“結婚生活”が始まるのだ。


「そうだ、あれを準備しておかないと」


 私は慌てて体を起こし、寝所の脇に置いてあった簪を手に取る。


──今回は、絶対に失敗しないわ。


 そう強く心に誓って、私はその“準備”を整えてから、眠りへと落ちて行った。



***



 一度目の生と同様、殿下に指一本触れられることなく終わった初夜の翌朝。

 目覚めると同時に、女官たちが世話をしにやってきた。


「失礼いたします」


 続々と入室してくる女官たちの顔は、どれも見覚えがあった。

 一度目の結婚の際は、色あでやかな唐衣をまとって正装した美しい後宮の女官たちに、気後れしてしまったものだった。今思えば、私は皇太子の正式な后だったのだから、あんなに女官たちに遠慮する必要はなかったのだ。


 着替えの単衣を用意しながら、女官たちが興味津々の表情で寝具をめくっている。──おそらく、破瓜の証を探しているのだろう。


──一度目の朝も、こうして契りの証を探していたわね。


 破瓜の証が見つからなかったことで、女官たちは私と殿下が契りを交わさなかったことを確信したのだろう。

 だから今回は、先手を打っておいた。


「あ……!」


 女官の一人が、小さく声を上げる。寝具の中央につけられた、()()()()を見つけたのだ。


 ……実は、これは昨夜寝る前に、私が自分で指に簪を刺して血を出してつけておいたものだ。

 一度目の初夜のとき、幼かった私は“破瓜”のことも知らなかった。その後女官たちの噂話を聞いて、なぜ初夜のあとには寝具を確認するのか、それがどんな意味を持つものなのかを初めて知ったのだ。


──今回は、しっかりと準備しておいたわよ。


 寝具の上に広がる破瓜の証を見つけた途端に、彼女たちの私を見る目が変わった気がする。

 私はにっこりと微笑んで、女官たちに告げた。


「昨夜は初めてのことで少し疲れましたわ。──湯殿を用意してくださる?」

「かしこまりました」


 女官たちがあわただしく部屋を出ていく。その背中を見送って、私はひそかに笑みを浮かべた。


──これで、彼女たちは私が殿下と“夫婦”になったと噂を広めるはず。


 殿下にとっては不本意かもしれないが、自分の身を守るために、これくらいの嘘は許されるだろう。前回のように、女官たちに見下され馬鹿にされ続ける日々は御免だ。


──そして、この後の計画も進めていかなければ。


 せっかくやり直す機会を与えられたのだ。今度は絶対に、怨霊に負けて死ぬわけにはいかない。

 私は一度目の初夜の後とはまるで違う、恭しい態度の女官たちの案内で、悠々と湯殿へと向かったのだった。


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