第二話
“一度目の結婚生活”は、苦痛の日々だった。
殿下に指一本触れられることなく終わった初夜の後。
おそらく寝所のそばに控えていた女官たちが噂を広めたのだろう。翌日には、私はすっかり「愛されない正室」という目で見られるようになっていた。
今代の皇帝である明石帝は病に倒れており、私の大叔母にあたる皇后もすでに亡くなっているため、公務のほとんどは皇太子の明彦殿下が担っている。
そして怨霊を鎮める祈祷を行う明彦殿下を補助するのは、本来であれば正室の私の役割のはずだが、殿下はかたくなにそれを拒否していた。──つまり、私は日がな後宮に閉じこもるばかりで、何もさせてもらえなかったのである。
与えられた御殿は立派な造りで、中庭が見える眺めの良い部屋だった。だけどその位置は、後宮の中でも奥まったところにあった。明彦殿下の寝所からは、最も遠い場所だ。
皇太子妃付きの女官は、いつも部屋できつい伽羅の香を焚いていて、私はそれがたまらなく嫌だった。
「その伽羅の香は、少しきつすぎる気がするわ。私が代わりに焚いてもいいかしら?」
悩んだ末にそう声をかけてみても、女官の返事は冷たかった。
「こちらの香を焚くのが決まりですので」
「後宮では、香の種類まで決められているというの?」
女官の言葉が信じがたく、私は思わず立ち上がる。
「いいわ、それならほかの御殿の女官に聞いてみます」
「なりません」
ぐっと、強い力で腕を掴まれる。──主人への態度とは思えない、あまりに乱暴なふるまいだ。しかし、女官の次の言葉で私は抗議する気も失くしてしまう。
「──国府宮殿下からのお触れでございます。“明日香の君を、みだりに御殿から出さぬように。後宮を移動する際は、必ず事前に伝えて許可を取るように”と」
──まるで監禁ね。
私は心の中でそうつぶやき、小さくため息をつく。
おそらく彼は、私を会わせたくないのだ──彼の溺愛する、“菜の花の君”に。
***
後宮に暮らすようになって、すぐに私は“彼女”の存在を意識するようになった。
初夜の際に明彦殿下が告げたとおり、どうやら彼には溺愛する側室がいるようで、女官たちの噂話から察するに、彼女は菜の花の君と呼ばれていた。
なんでも先帝──つまり殿下のおじい様が、亡くなる前に年若い側室に産ませた御方だそうで、明るい濃茶色の豊かな髪に瑠璃色の瞳を持ち、菜の花色の単衣がよく似合う、たいそうな美人だという。私と殿下より2つ年上だが、1年ほど前に殿下から熱烈に乞われて入内されたということだ。
「殿下の、菜の花の君への溺愛ぶりと言ったら」
「あの贈り物の山を見ましたでしょ? 珍しい装飾具や勾玉、絹の反物、真珠の髪飾り……」
「あれだけの美貌と、優雅な物腰ですもの。殿下が夢中になって、毎晩寝所に通っていらっしゃるのもうなずけますわ」
女官たちの噂話に耳をそばだて、私は唇をかみしめる。
「一方で、正室の“あの方”は……?」
「一度も殿下のお渡りもなく、祓いのお勤めも果たさず。“空気の君”と呼んだほうがよろしいかもしれませんわね?」
女御たちの楽し気な笑い声が響く。
実際、初夜の後、殿下が私の寝所を訪れたことは一度たりともなかった。それどころか、宮中行事で顔を合わさざるを得ないときに見かけるだけで、まともに言葉を交わしたことさえない。
『──これは、偽りの結婚だ』
明彦殿下の冷たいまなざしと低い声がよみがえる。
ギリギリと胸が痛む。
──このままではいけないわ。
私は、意を決して殿下に謁見を申し出た。
***
「何用だ」
初夜以来はじめて私の御殿を訪れた明彦殿下は、入室するなり冷たい声でそう私に問うた。
私は震え出しそうな自分を律し、必死の思いで笑顔を作って上段に座した殿下を見つめる。
「殿下、桜の花が見ごろと聞いております。ぜひ殿下と桜の名所を訪れたく……」
「そなたと出かける気はない」
あまりにそっけなく言葉をさえぎられて、私はサッと頬が赤くなるのを自覚した。
──菜の花の君とは出かけるのでしょう……!
殿下を責めたくなる気持ちをなんとか抑えて、私は震える声で懇願する。
「殿下……なぜそんなに私に冷たくなさるのですか」
「特段冷たくしているつもりなどない。ただ、そなたに興味がないだけだ」
殿下の黒い瞳が、底冷えするほど冷たい光をたたえて私を見下ろしている。このままでは何も変わらない。殿下から無視され、女官たちからも馬鹿にされて、“空気の君”としてさげすまれるだけ。
恥も外聞もなく、私は殿下に頭を下げた。
「……殿下、どうかお情けを……」
彼は、何も答えない。私は涙をこらえて、消え入りそうな声で続ける。
「どうか、私の寝所にお渡りくださいませ……」
このままいけば、菜の花の君が私よりも先に子を授かるだろう。その子が男児だったならば……私は正室の座を追われるかもしれない。
父の罵倒、女官たちの嘲笑が脳裏に浮かぶ。
──せめて、殿下の子さえ授かれたなら……。
私の捨て身の懇願に対し、殿下はなかなか口を開かなかった。
永遠とも思える沈黙が続く。──その時だった。
「……明彦殿下?」
廊下のほうから、鈴の鳴るような声がした。ほのかに、沈丁花が香る。
次の瞬間、一気に空気が張り詰めて、殿下の顔色が変わった。
──まさか、この声は……菜の花の君?
「菜子、今参る!」
殿下はすごい勢いで立ち上がると、鋭い目で私を睨みつけた。
「言っただろう、そなたとは“偽りの結婚”だと。ともかくそなたは、“空気の君”らしく、この御殿にこもっておとなしくしていろ!」
──まるで、仇を見るかのような冷たい視線だった。
そして、殿下は慌ただしく部屋を出て行った。
私は茫然としてその場に取り残され……そして、嫁いできて初めて、自分の目から涙があふれだしたことに気づいた。
殿下からは露ほども愛されず、誰からも認められず、必要とされず、これまで辛い修行に耐えて磨いてきた“祓いの力”を使うこともできない。
──菜の花の君さえいなければ……。
そして、そのやり場のない苦しみは──すべて、菜の花の君への嫉妬となって、胸の奥でくすぶり続けたのだった。
***
いつの間にか、明彦殿下に嫁いでから2年の月日が経っていた。
結局、初夜の後、殿下が私の寝所を訪れることは一度たりともなかった。ほかに側室を娶ることもなく、彼は一途に菜の花の君だけを愛し続けていたのである。
そして私は、相変わらず“空気の君”と呼ばれ、無為な日々を過ごしていた。
そのころには、実家から持参した大切な香炉にもほぼ触らなくなり、部屋に焚きしめられた強すぎる伽羅の香にもすっかり慣れてしまった。
──どうでもいい。祓いの力さえも必要とされていないのだから。
私はただ御殿に引きこもり、書物を読んだり縫物をしたりして過ごしていた。
そんな私を女官たちはますます見下して、最近では食事の膳や衣装の手入れもかなり手抜きされている気がする。そして、もはや私はそれに抗議する気力も残っていなかった。
それでも、私に流れる東条の血は消えていなかった。
──最近、怨霊や呪いの匂いが絶えず都を覆っている気がする。そしてどんどん、それが強くなっているような……。
本来ならば帝と后がともに助け合って行う「大祓い」の儀式を、この2年間は皇太子が一人で担っているのだ。おそらく、大変な負担のはずだ。
何度謁見を申し出ても、冷たくあしらわれる明彦殿下の顔を思い浮かべると、胸がぎゅっと締め付けられるように痛む。
──だけど……私を拒否しているのは殿下だもの。私にできることなど何もないわ。
そのとき、廊下を歩く女官たちの噂話が耳に入った。
「聞きまして? 菜の花の君、とうとうご懐妊ですって」
「まぁ本当に! おめでたいこと」
「待望のご懐妊ですわね。これで菜の花の君は、正室に格上げでは? 男児だとしたら、世継ぎの君ですもの」
それは、私が一番恐れていた事態だった。
葉の花の君の懐妊。
──許せない……。
心の奥から、どす黒い感情があふれだす。
この2年間、殿下が徹底的に守り抜いたことで、私はとうとう一度も彼女の姿を見ることはかなわなかった。
一度だけ聞いたことがあるのは、彼の名を呼ぶ鈴の鳴るような可愛らしい声だけ。
『……明彦殿下?』
菜の花の君の声が耳元でよみがえり──私は血がにじむほど唇をかみしめた。
私にはまるで手の届かなかったもの……殿下の愛も、世継ぎの子も、何もかもを手に入れた彼女を、憎まずにはいられない。
無意識のうちに、私は香炉を手繰り寄せていた。
妊婦には禁忌といわれる香があったはずだ。そう、確かこの香木とこの香油を組み合わせて……。
灰を温めて、香木をおく。香炉から、香が立ち上る。甘く、鼻にこびりつくような香り。
そう、この香を彼女に贈ればいいのだ。そうすれば子は流れて……。
そこまで考えて、我に返った。
──私、何をしているのだろう……。
すっと、頬を涙が伝う。その時だった。
『見つけた』
どこからか、声がした。
──え?
次の瞬間、私の目の前に見たこともない禍々しい“気”が現れた。
──怨霊っ……!
まさか、そんなはずはない。怨霊が近づいてきたら、私は必ずその腐臭を嗅ぎ分けることができる。
私は混乱しながらも、必死で香炉に手を伸ばす。
──香を焚かなくちゃ……! だけど、何の匂いもしないのに、どうやって祓えばいいの?
そう思った時には、すでに遅かった。
逃れる間もなく、どす黒い渦の中から白い手が伸びてきて、私の胸に深々と突き刺さり──私は、為すすべなく絶命した。
そう、私は確かに死んだのだ。
全身の血の気が引き、生気をすべて怨霊に吸われていくのを感じた。そして意識が薄れ、完全に途切れた、はずだった。
それなのに、なぜ……──私は2年前の、殿下との初夜に戻っているのだろう?