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第一話


「──これは、偽りの結婚だ」


 伽羅の香が焚きしめられた、新婚の夫婦が“初夜の契り”を交わすための「交誼の間」。帳に囲まれた御帳台を前に、純白の夜着をまとって正座する私に向かって、夫──この国の皇太子である国府宮殿下はそう告げた。

 切りそろえた黒い前髪の下の、まだ幼さの残る冷たいまなざしを前にして、私は言葉も返せないほどに混乱していた。


──これは……殿下と私の初夜? 死ぬ前に人が見るという、願望を現した明晰夢だろうか?


 それにしては、あまりに現実じみた夢だ。絹の夜着が肌に触れる感触も、鼻をくすぐる伽羅の濃い香も、そして目の前で私を睨みつけるように見据えている殿下も──すべてが、あまりに生々しく存在している。


 押し黙っている私を見て、殿下は不審げに眉根を寄せた。


「聞いているのか?」

「あっ……」


 思わずよろめいた私の肩に、殿下の手が触れる。はっきりと、彼の体温を感じる。

 間違いない。これは、現実だ。そう確信すると同時に、全身に震えが走った。


──ありえないわ……私は、()()()()()()()()()()()……!



***



 香道の名家である東条家の分家に生まれた私──東条明日香は、幼い頃から「将来は帝となる皇太子殿下に嫁ぐのだ」と言い聞かされて育ってきた。

 東条家は公家の中でも特別な家で、代々帝を支える皇后を輩出してきた家柄である。というのも、東条家の女には“香りの力”で怨霊を祓う能力があったからだ。


 古代、この世界には怨霊や妖魔がはびこっていたという。

 陰陽師の家系でもある帝の祖先は、東条家の始祖と婚姻して彼女の香の力を借り、怨霊たちを祓って帝国に平安をもたらしたというのが、皇国建国の始まりとされている。


 実際のところ、今の世においても怨霊の存在は完全に消えていない。霊の姿で人に憑りつき命を奪うだけでなく、ときに思いがけない天災や災い事となって、怨霊たちの“呪い”は降りかかってくるのである。

 そこで必要となるのが、“祓いの力”。帝と皇后が日々祈祷を捧げて怨霊たちを祓い鎮めることで、この国の平安は保たれているのだった。



 今代の東条家で、もっとも色濃く祓いの力を受け継いだ女児として生まれた私も、幼い頃から怨霊を祓うための厳しい修行を受けてきた。


「さあ明日香、この呪いを祓う香を焚いてみせろ」


 父が怨霊の残り香が染みついた“呪物”を私の目の前に置く。

怨霊というのは、独特の腐臭を放っている。それを感じ取ることができるのも、東条家に代々受け継がれている特殊能力のひとつだ。


 私は吐き気のするようなその匂いを大きく吸い込む。怨霊によって、腐臭の香りは様々だ。うまく表現できないけれど、幼い頃から数千という匂いを嗅いできた私は、怨霊の匂いを嗅いだ瞬間すぐにそれを中和する香を組み合わせることができる。


 私は急いで香炭に火をつけて灰を温めると、香炉の中に慎重に白檀の枝と麝香を入れる。すると、思った通りの清らかな香りが立ち上り、怨霊の匂いが消えていった。同時に、呪物に残っていた呪いの力が祓われていく。


「お父様、できました」


 ほっと笑顔になる私に、父から容赦ない鉄拳が飛ぶ。

バシン! 思い切り頬を叩かれて、私は悲鳴を上げることすらできず、その場にうずくまった。


「遅い! 灰に熱が回るのが遅れたせいで、香が立つまでに時間がかかりすぎだ!」

「は、はい……」

「これは単なる呪物だからいいものの、真の怨霊を前にしたら、香を立てる前におまえが呪いを受けてしまうぞ!」


 頬に広がった痛みが涙腺を刺激して、険しい父の顔が涙でゆがんでいく。


──泣いちゃ駄目。


 私は唇をかみしめて、なんとか涙をこらえた。


「さあ、次の呪いだ」


 休む間もなく、父は次の呪物を私の前に差し出す。また、吐き気のするような臭いが鼻を刺す。


──泣いている場合じゃないわ。私は、明彦殿下を支える皇后になるのだから……。


 私は必死で匂いを吸い込み、清めの香りを探っていく。

 幼い私が、どんなにつらい修行でも耐えられたのは、明彦殿下のためだった。



***



 婚約者である国府宮明彦殿下と初めて出会ったのは、私が8歳の時だった。

 すでに婚約は内定しており、形ばかりの顔合わせではあったが、私は緊張のあまり震えが止まらなかったことをよく覚えている。


 謁見に使用される「上段之間」に通され、私は父の隣で言い聞かされていた通りに額を床に擦り付けて皇太子殿下のご降臨を待っていた。

 衣擦れの音がして、誰かが入ってきた気配がする。心臓がこれ以上ないくらいドキドキと高鳴る。


「面を上げい」


 凛とした声がして、私はおそるおそる顔を上げる。

 そこには、きらびやかな衣装をまとった少年──私と同じ8歳の明彦殿下が座っていた。


──なんて深い……漆黒の瞳。


 私は思わずその大きな黒い目に見とれてしまう。子供とは思えない整った美貌は少し冷たい印象を与えるが、黒曜石のような瞳は優しげに輝いて見えた。


 父に促されて、私は慌てて覚えてきたとおりに挨拶の言葉を述べる。


「国府宮明彦親王殿下、お初にお目にかかります。東条家が長女、明日香にございます」


 何か無礼があってはいけないと思えば思うほど、体がこわばって声が震えてしまう。


「……ふむ」


 目を伏せる私をじっくりと見つめたあと、明彦殿下は何かを考える顔をした。


──何か不興を買ってしまったのかも……。


 全身に汗が噴き出す。

 すると、唐突に殿下は高座から降りて、私のほうへ歩み寄ってきた。驚いて固まる私の前にひざまずき、明彦殿下はキラキラと目を輝かせて微笑んだ。


「そなたが余の后となるのか」

「……は、はい……恐れながら」

「ならば我らは、ともにこの国を治めていく同志だ。ともに励み、歩んでゆこう」


 ……この言葉を聞いた瞬間から、彼は定められた婚約者でもなく、畏怖すべき皇太子でもなく、ただ私の「初恋の人」となったのだった。


 良き皇太子妃、良き皇后となって、彼を支えていこう。彼と一緒に、帝国の未来を守っていこう。


 そう固く決意して以来、私は一切弱音を吐かなくなった。厳しい修行にも耐え、ときには父から折檻を受けても、文句ひとつ言わなかった。


──すべては、彼とともに歩む未来のために。



***



 そして10年後。

 18歳になった私は、定められていたとおりに明彦殿下のもとに嫁いだ。


 婚儀の日は、とにかくせわしなかったことを覚えている。

 女房たちの手によって髪を結いあげられて化粧を施され、艶やかな十二単を着せられて、私は胸を高鳴らせながら儀式の間へと向かった。


 殿下と会うのは、8歳のときの顔合わせ以来。束帯を身に着け頭に冠を被った殿下は、整った顔立ちはそのままに、すらりと背が伸びている。

 私は儀式の間中、花嫁は重い十二単を着て目を伏せていなければならず、隣に立つ殿下の表情をうかがうことはできなかったけれど、近くにいるだけで胸がときめいた。


──とうとう、明彦殿下と夫婦になるのだ。


 隣に立つ殿下からは、沈丁花の香りがした。その大人びた香に、彼がもはや記憶の中の無邪気な少年ではないことを思い知る。

 私はただ、彼の妻となる喜びをかみしめていた。その後、何が起こるかも知らずに……。



 婚姻の儀を終えたあとは、女官たちの手によって、湯殿でよく体を清められた。それから純白の夜着をまとうと、私は後宮にある“初夜の契り”を交わすための寝所「交誼の間」へと向かった。

 男女の契りがどんなものか、嫁ぐ前日になって母に教えを乞うたけれど、「黙って殿下に身を任せれば良いのです」と言われただけで、何が起こるのか正直よくわからない。

 怖くない──と言えば嘘になるけれど、殿下にすべてお任せしよう、と私は覚悟を決める。


 寝所に入ると、強い伽羅の香が匂い立った。薄暗い部屋の中、行灯の明かりが明彦殿下の影を浮かび上がらせている。


「失礼いたします。明日香にございます」


 御帳台の前で膝を揃え、帳の向こうの殿下に声をかけると、「入れ」と短い言葉が返ってきた。私はひとつ息をついてから、帳を上げて中へ進み入る。

 そこには、同じように白い夜着に身を包んだ殿下が胡坐をかいていた。


 少年の面影を残しながらも、精悍な青年に成長した明彦殿下は、その美貌が恐ろしいほどに冴えわたっている。切りそろえた前髪がまだ子供っぽい印象を与えるが、すらりとした体躯と落ち着いた物腰が、ひどく大人びて見えた。

 記憶の中と同じ、澄んだ漆黒の瞳が真っすぐに私を見据える。──黒曜石のような、美しい瞳。


 思わず見とれてしまっていた自分を律し、私は慌てて深く頭を下げる。


「不束者ではございますが……幾久しくよろしくお願い申し上げます」


 寝台に、冷たい沈黙が広がる。


──私、何かまずいことを言ったのかしら……。


 おそるおそる顔を上げて……私は自分でも顔色が変わるのが分かった。

 明彦殿下は、底冷えするような冷たい目で、私を見つめていたのだ。


「で、殿下……?」

「初めに言っておこう。──これは、偽りの結婚だ」


──偽りの結婚……?


 思いがけない言葉に、目を見開いて固まるしかない私に、殿下はいらだちを隠さずに顔をしかめてから低い声で続ける。


「そなたを娶ったのは、東条の家の娘だから。それだけだ」


 幼い日、「ともに励み、歩んでゆこう」と言ってくれた殿下の言葉が、あの笑顔が、ガラガラと崩れ落ちていく。


「余にはすでに愛する側室がいる。ゆめゆめ、余に愛されようなど思わぬことだ」


 そう言い終えると、殿下は不快そうに顔をそむけて立ち上がり、私に何か言い返す間も与えず出て行ってしまう。

 帳が降り、御簾越しに殿下の影が遠く離れていくのを私はただ見送ることしかできなかった。


──これが、私のあまりに辛い後宮での“結婚生活”の始まりだった。



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