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スコーバレーの雪に照らせ  作者: 山手順一郎
2/9

悪意から始まる夏の予報

 梅雨が終わっても雨は降るらしい。上陸した台風の所為で外に出られないからアトリエに隠れて絵を描く。萎んだ紫陽花も、散った百日紅も、完成できずに捨ててしまった。僕は今日も彼女の自画像を描き始めた。

「みゃあ」と、澪が鳴いた。皿に餌を入れてやると食べた。

 僕は筆を持ってキャンバスに向き合い、自分の内面に意識を向けた。記憶の中の面影をなぞる。

「また、僕を描いているのかい」爪を研ぎながら澪が言うのだ。「よく飽きないね」

「君を復活させるためだよ」

「僕はこの躰も気に入っているけどな」澪は膝に乗ってきた。優しく撫でると彼女は脚の上に丸まって落ち着いた。「君の触り方もね。前とは違うけれど、気持ちいい」

 澪の猫撫で声には僕も落ち着く。彼女が彼女であったとき、人間だったときには、僕の恋人として、甘えた声にいつも癒されていた。囁かれて興奮もしていたけれど。

 付き合っていた大学生が自殺したんです。自殺というのはマイルドな言葉だ。言うと、市原という初めて知り合った女性は同情してくれて、時折家に様子を見に来るようになった。そして世話をする。放っておくと僕は風呂も入らなかったが、彼女を抱くためには躰を洗った。

 医師の立場とか、権限とか、越えて初対面でいきなり連絡先の交換とか。飢えていたのか。それでも面倒を見てくれるのはありがたい。大事なのは澪の食事まで用意してくれたこと。猫の世話を放棄して、彼女がもう一度死んでしまったら、今度は僕が殺したことになるから。

 内面化。復讐を考えるよりもそれに力を注いだ。澪を、僕の脳で具現化する。そのために絵を描く。ここは画家だった彼女の作業場。だから僕の油絵は女の影響ではない。人間を抱いていた頃には、興味がなかった。仕事のない日に薬は絶対飲まない。僕は幻覚を視たいんだ。

 先生に自画像を見せたことはない。この小屋は広く、近くに民家もないから密会には良いが僕は本心を隠していた。作業中、澪の温もりを別の肌に重ねている。彼女と朝を迎えることは拒否した。朝食後に薬を出せと言われたら困る。起き抜けに誰かと間違えるかもしれない。

 だから事が終わると彼女は家に帰る。いつも僕のために夕食を拵えて、一緒に酒を飲んでいるが、車で街に戻った。考えてみれば、僕はあの人の名前を知らなかった。いつも「先生、先生」と呼んでいた。そういえば澪が育てていたこの猫は、昔の名はなんと言っただろうか。

「相変わらず、君は下手だね」と澪。描き上げた絵はひどい出来だ。アトリエに在る遺作とは比べ物にならない。猫になる前の彼女が描いた絵には魂が込められていた。生前似顔絵を描いてくれたとき、差した光に照らされて輝くもう一人の僕を見て、自信を失ったことがある。そのときは彼女が責任をもって慰めてくれたけれど。彼女が自画像を遺さなかったのはそんな理由。自分に負けた気がするから。そして、

「僕が僕に嫉妬するなんて許せない」見蕩れる僕からその絵を取り上げて燃やしてしまった。「僕だけを見て」とベッドに引き摺られた。

 だけど仕方なかったんだ。本物の澪を何時間もじっと凝視するわけにはいかないから。その綺麗な顔を見つめているだけでも幸せになれた。でも彼女は僕にキスをして、裸を見せて触らせてくれた。抱きしめると気持ちいい。絵にそんなことができるか?

 肉体的な接触を。猫を依り代にしたのも、僕の中の彼女の精神と触れ合うため。心で会話するのは集中力が必要で、すぐに疲弊してしまうから。視覚による補助も有力だった。それは僕が目指している外見とは違うけれど、筆が上達するまで毛並みを愛でている。幸い雌猫はとても可愛かった。

「おや、お客様だ」澪が喉を鳴らしたので振り返るとドアの横に美少女がいた。僕は立ち上がる。

「こんにちは」

「誰だ君は?」

「私だよ。瑠璃」

「幻覚か。帰ってくれ。それとも今度こそ僕を殺しに来たのか? そうはさせないぞ。僕は死ねないんだ。澪を助けるまで」

「私は本物の瑠璃だよ。蝶野君」彼女は僕に微笑みかける。すると澪が僕の膝から飛び降りて、女の子――瑠璃の足許に近寄って鳴き声を出した。「おお、良い子だねー」と優しく撫でている。「この子の餌も持ってきたんだよ」

「ああ、ありがとう」僕は素直に礼を言った。澪に触れるということは実体を持っている。こいつは頭木瑠璃の本人だ。「それで? 人殺しが何の用かな」

「酷い言いぐさ」瑠璃はやれやれといったように肩を竦めてみせ、溜め息をついた。「お姉ちゃんが天に召されてからは、私がアトリエの管理を任されているんだよ」

「つまり僕は、不法侵入者ということかな」

「そうなるね」にべもなく。「この子ご飯食べないね」と澪を見て言った。

「さっきあげたからね」

「そっか。それで、あなたは?」

「さっき食ったからいらない」

「そこにあるカップラーメンでしょ。それじゃ足りないなあ」空になった容器を指差して言う。

「僕の健康状態なんて、君には関係がない」

「あるよ」瑠璃は突然服を脱ぎはじめた。下着を外すと大きな胸が露れて、揺れた。「家賃は躰で払って貰うんだから」

「そうだったな」僕も全裸になると、澪を残して瑠璃とベッドで絡まった。

 そして情事の後に、瑠璃がぽろりと思っていたことを洩らした。「恋人の仇なんてよく抱けるよね」

 確かにその通りだった。彼女の抱いた悪意によって澪は死に追い込まれたのだから。

「惰性ってやつさ」僕は言う。「最初は可愛かったから手を出した。誘惑されたし」澪が個展の準備のためアトリエに缶詰だった隙を狙って、大胆にも瑠璃と僕は二人の実家で浮気をした。妹の部屋のベッドで。僕も瑠璃も、作業の邪魔だと言われて出入り禁止だったから、澪が小屋で寝泊まりしている間は好き放題できた。瑠璃の親が共働きだったおかげで。

 好意を抱いた女子高生が不登校だったことに感謝すべきか。先に近付いてきたのは彼女の方だったとしても、弱っていた心に悪意を持って歩み寄ったことは間違いない。

 あの頃はお互い寂しかった。

 姉のいないところで僕を誘った瑠璃が悪い。澪の部屋でするなんて。

「興奮するでしょ」と瑠璃が言って、僕は興奮した。瑠璃もスリルに燃えていて。しかし、燃え上がったのは僕と瑠璃以外にもいた。

 激昂。行為の最中に澪が帰ってきたのだ。彼女はそのまま家を飛び出し、アトリエに立て籠って何日か過ぎた。次に会うと躰は燃えていた。ガソリンをぶっかけて火を着けた。アトリエが、絵が、燃えなかったのは奇跡だ。そして、地獄だけが遺された。澪はロベリアの如く散った。

 僕が絵を描くのは彼女への贖罪だった。瑠璃を抱くのは魂の救済だった。誰のか。僕のだ。死んだ恋人の代わりに画家を目指して。それだけのために生きていると自覚できる。幻覚も幻聴も忘れて、澪のことも忘れられる。前に進めるんだ。新しい恋人の、先生との性活。そして瑠璃との浮気。会話が終わると彼女の裸体は空間に散った。感じていたはずの温もりは毛布だった。

「みゃあ」と、僕は泣いた。

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