1話『Largo』
「……起きてください〜」
「あの〜……白木さん……?」
優しそうな女性の声が聞こえる。
何故だろう。僕は……
「起きろ!拓人!」
今度は別な女性から呼ばれ、頭に重い一撃が加わる。
「痛い!何をするんだ!」
思わず上げてしまった大声。
シンと静まり返っていた音楽室は爆笑に包まれた。
どうやら寝落ちしていたようだ。
横に座っている2ndトランペットの2年生、相澤優香は大きなため息をついた。
強い言葉と頭への強打は彼女がやった事だろう。
そして優しく呼んでいたのは、顧問の先生、永山ゆきな先生だった。
僕は永山先生の機嫌を取ろうとして
「今日もスーツ姿がお綺麗ですね。先生」
と言う。
永山先生は少し呆れたように
「……トランペットパート、14小節からお願いします」
と言った。
実際、寝起きにはキツい場所だった。
「参ったな……」
相澤は相変わらずツーンとしたままだ。
後輩二人組も僕に呆れてる事だろう。
*
その日の合奏が終わり、最終下校時刻までの自由練習になった。
合奏の終わりに、バストロンボーンを務める2年生、友人の山下裕二に指をさされて笑われた。
「ははは!拓人!最近多いよなぁ!寝落ち!今月入ってもう3から4回やってんぜ!」
「笑うなよ、山下。暖房が適度に効いた音楽室で、吹いてない時、眠くならない方がおかしい」
「そのくせ、自由参加の朝練には一番乗りで来てるくせにな」
「それは……そうなんだが」
山下は痛い所を突き、さらに畳み掛けるように
「なんか悩みでもあんのかぁ?恋か?なぁ?恋なのか!?」
なんて茶化してくる。もちろん悩んでいることは、恋の悩みではない。
「いや、そういうんじゃなくてさ……」
「あるのかよ!?悩み!」
山下は食い気味に言う。僕に悩みがある事が、そんなに意外なんだろうか。
だが、ここは正直に山下に打ち明けるべきだ。友人だし、聞いてくれるだろう。
「いや、演奏や、楽しい事には終わりが来るってなんでかな……って考え始めたら、止まんなくてさ……」
僕のその発言に、山下は驚いた様子だった。
「なんだよ。妙に哲学的だな?」
驚いた山下に対し、真剣に悩んでいる僕はちょっとだけ山下を睨み、言う。
「悪いかよ」
山下は僕の顔色に気づいて悪かったよ、と言う顔をしながら
「いや、すまんな。拓人が真剣に悩んでるのに……」
そして山下は話を戻す。
「あー……楽しいことの終わりについてはアレだが、音楽に終わりが来るってのはだな……」
「何かあるのか?」
山下が答えを持っているかもしれない。そう思った僕は、驚きつつも、期待をする。
「ずっと演奏が続いて、ずっと吹いてたら疲れるだろ」
山下の答えは単純だった。
「違うんだよなぁ。なんか、言いたいことはそうじゃないんだよ」
僕の考えてることとは違う。僕は少し弁解する。
「単に演奏が続けば良いという問題ではなくて……そうだな……そう、フェルマータみたいな感覚……?」
山下は笑いながら
「やっぱり、ずっと吹き続けるって事じゃんか!フェルマータが永遠に続いたら死んでまうわ!」
と言う。
僕は山下との考えの差異みたいなものに少し、悩まされてしまった。
僕がうーんと唸っていると、山下は
「ま、あんまり難しく考えんな。確かに進路指導とか活発になって大変だったけどさ。聞いた感じ、お前の考えてるモンに、俺は答えられそうにもないって感じだな」
と言い、
「この後ちょいと用事あるんで先帰るわ。また明日な、拓人」
そして楽器を片付けると、足速に音楽室を出て行った。
山下は山下なりに考えてくれたが、ずっと吹き続けるというのは、僕の求めていた答えとは違う。
フェルマータを例えに出してしまったが故だろうが、どうにも例えようがないのだ。
一番近いのがフェルマータのような感覚なのだ。
最後の音になっても、余韻が残り続けるような……
そう、ずっと音楽の余韻が残って、会場も、メンバーも、僕もそのまま一体化して、それを閉じ込めるような、そんな感覚。
その瞬間、その演奏は一度きりしかない。
それは、寂しい事じゃないか。
録音とかとも違う。メンバーの息遣い、そして会場の雰囲気、それは、その時、壇上にいなければ、伝わらない。
こうして考えてみると、僕は望みすぎなのかもしれない。
でも、望んでしまった事は変えられない。
僕はこのモヤモヤを抱えながら、残りの演奏を続ける事になるんだろう。
僕は音楽室の椅子、自分の定位置、1stトランペットの場所で、ずっと座ったまま考え込んでいた。
そうすると声がかかる。
「あの〜……白木先輩……?」
声の主は4thトランペットの1年生、高橋佳奈だった。
「ん?あぁごめん。ちょっと考え事をしていたよ。どうした、佳奈さん」
「えっと、最近寝たりしてるので、具合とか悪いのかと思って……今も、凄く疲れた表情をしてましたし……」
確かに、さっきまで考え込んでたから、無理もないだろう。
多分、山下と違って、悩みを話したら、佳奈さんまで同じ事で悩みかねない。佳奈さんはそんなタイプの人だからだ。
僕は咄嗟に
「そうだ!」
と言ってトランペットを取る。
そして、ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』二楽章の有名なフレーズを吹く。
窓を見ると外はもう夕暮れとなっており、辺りはもう暗くなり始めていた。
冬の期間は最終下校時刻は早く設定されている。
残っている部員も、僕が奏でたこのメロディーを聴いて、そろそろ片付けるかという雰囲気になっている。
「あの……?白木先輩?」
佳奈さんは僕の咄嗟に取った行動に困惑してる様子だった。
僕は
「新世界の二楽章には、家路って副題があるそうでね。そろそろ帰らないと。さぁ、楽器を片付けよう」
佳奈さんは不安そうに聞く。
「調子とか、本当に大丈夫なんですか……?」
「大丈夫!ちょっとしたことで悩んでるだけだから。今日は早く帰って、ちゃんと寝て、明日また練習で会おう」
佳奈さんはさらに不安そうに
「悩みがあるんですか……?」
と僕に聞く。
しまったな。これは話さざるを得ないか……?
いや、ここは山下の言っていた事に話をすり替えよう。
「いや、進路とかの事でね……」
佳奈さんは納得した様子で
「そうですよね。もうそろそろ、先輩も3年生ですもんね」
そう言って佳奈さんは続ける。
「まだ進路とか何もわかってない私ですが、先輩が選ぶ道が、きっといい道である事を祈ってますね」
そう言ってにこっと笑う。
「ああ、なんていい後輩を持ったんだ。僕は」
と口走ってしまった。
佳奈さんは照れた様子で、
「わ、私もそろそろ片付けますね!」
と言った。
*
外に出ると、寒さが身に染みる。
宮城県立太白北高等学校。
僕が通うこの学校は、そんなに高くはないが、山の上に位置する高校だ。山の上と言う事は寒さも少しだけ厳しい。
11月の末にあった定期試験も終わり、一息つく間も無く、12月24日に控えるクリスマスコンサートがある。
「後1週間ほどか……本当、寝落ちとかしていられないな……」
そう考えてると、帰りのバスが来る。
イヤホンを耳につけ、僕はさっき吹いていたドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』二楽章をスマートフォンで再生させる。
そうしてバスに乗り込んだ。
2話へ続く。