9.一雨一度
一回雨が降るごとに1℃気温が下がっていくこと。秋の深まりを表す言葉。
豊高が教室へ入ると、デジャヴを感じた。
昨日とは違う。
絡みつく目線、ささやき声。何かするたびくすくすと笑う声が上がる。
豊高はすぐに思い出した。
入学当初の、自身の事件の噂話で持ちきりだったころのーーー。
そして男子生徒のグループが豊高を見てある生徒の背中を叩き、お前行けって、と急かす。行け行け、と周りの男子生徒にも背中を押され、その生徒は困ったような、照れ臭そうな笑顔で豊高に近づいた。
実に人の良さそうな顔だった。
そして言った。
「彼氏できたの?」
全身が、粟立った。
すべて理解してしまった。石蕗と一緒にいた所を見られたのだ。
先程の生徒はグループに戻り、一緒にげらげらと笑っていた。柵の中の猛犬へちょっかいを出して吠えるのを面白がる、小学生の悪戯のようなものだった。
時折こちらへ向けられる好奇の視線に、豊高は戦慄を覚えた。あの針の筵に座るような日々に戻ることではなく、石蕗を巻き込んでしまったかもしれない、という危機感であった。
すぐにでも石蕗の所に駆けつけたかったが、かえって騒ぎを大きくするかもしれない。噂になるかもしれない。石蕗も嘲笑の的になっているかもしれない。豊高と関わったことを後悔しているかもしれない。一言詫びたいが、顔を合わせたことによってまた周りから何か言われるかもしれない。石蕗からも嫌悪が滲み出た言葉を浴びせられたらと思うとーーー
豊高は背筋が凍りつき焦燥感に焼かれた。
授業が終わると豊高は身を隠すように下校した。ほとぼりが冷めるまで、会うのはやめようと決断したのだ。
帰宅し父親に会うことが嫌で仕方なかった。母親が守ってくれる確証はない。父親が落ち着き始めた時、ようやく許してやって欲しいと請うのみだ。
涙を浮かべて、さも自分も傷つきかつ母親の役目を果たしたような顔を思い浮かべると、胸が捩れるようだった。
がちゃり、と重い扉を開け帰宅する。
すると驚く程あっさりと
「おかえりぃ」
と母親からいつもの通りに迎え入れられた。
母親からも叱責を受けることを覚悟していた豊高は拍子抜けした。
思わず台所の母親の背中をじっと見つめる。
すると、化粧っ気のない母親の横顔が覗いた。乾いた皮膚に細かな皺が刻まれ、眉間に溝を作っている。豊高のよく知る、母親の疲れた表情だ。
「昨日、どこいってたの?」
相変わらずのおどおどした様子だったが、豊高は言葉に詰まった。
「え、いや・・・」
「ねえ、友達って、本当に?」
恐る恐る質問を重ねる母親に、苛立ちを感じ始める。
「いるし・・・普通に」
豊高は、学校で孤立していることを両親に隠していた。母親はますます自分に構い、父親には馬鹿にされることが想像できた。
「大丈夫、だったの?」
母親の顔は蒼白だった。胸が大きく上下し、息遣いに緊張が感じられる。
何故いつもそんなに怯えているのだろう、と豊高は思った。今日は殊更酷い気がした。
そして突然気づく。
あの忌まわしい事件のようなことはなかったのか、と暗に尋ねていることに。
それは豊高の心の敏感な部分に触れてしまった。
背筋に走る悪寒、羞恥による顔の紅潮、体内で内臓が蠢くような嫌悪感が一度にやってきて、豊高を掻き乱す。
「当たり前だ!バカじゃねぇの!?」
豊高は部屋に飛び込み、一晩中ぐらぐらと煮え滾る感情に耐えた。
父親にもあのような詰問をされるのだろうか、母親と父親があの事件を話題に何か話しているのではないか、と考えると、頭の中が沸騰しそうだった。
だが、朝まで何事もなかった。
それがかえって空恐ろしく感じた。豊高は眠ることができなかった。
翌日、疲労と恐ろしい程の眠気を引きずったまま登校した。
再び教室に閉じこもり、狂おしい倦怠と気ままな孤独の中に身を投じる。
つまり、あっさりと、元の日常に戻ったのであった。
睡眠不足のせいで体と頭は錆びつき上手く動かなかった。
昼休みに購買に向かうと、フレンチトーストが目に止まる。何気なく手に取り缶コーヒーも買う。
ふと周りを見渡すが、生徒たちでごった返して誰が誰やら分からない。顔を判別する前に流れていく。
豊高は自分が胸に穴の空いた銅像のように感じた。
人の気配や生暖かい風が胸をすり抜けていく。
だが、これも、豊高の日常の一つでしかなかった。
豊高が部室に行かなくなってから、半月が過ぎた。
教室に到着するなり、学生服に身を包んだ生徒が暑い暑いとぼやきながら学生服を脱ぎカッターシャツになる。
教室にかかるカレンダーは10月に変わっていた。
豊高は、相変わらず自分の殻の中で過ごしている。周りから突つかれることもなくなった。
だが、部室には、石蕗の元には行く気分にはなれなかった。
石蕗とコンタクトを取ることへの執着も薄れてきており、当たり障りのない日常に身を浸していることの気楽さに慣れてしまっていた。
ただ、思い出というには大袈裟だが、石蕗と過ごした時を思い出すと心が温かくなり、チクリと痛むのだった。
誰かと、話したい。
石蕗の存在は、豊高の淀んだ心に吹き抜けた一陣の風だった。
心がざわめき立ち感情が言葉になるのを待ち詫びている。
豊高は肘をつく手と足を組換え、身体の動きで解消しようとした。
だが、どうにもじっとしていられなくなり、誰となら当たり障りなく話せるだろうか、と考えて始めてしまい、ほどなくしてそんなことを考えてしまう自分が虚しくなってしまったのだった。
授業が終わると豊高は職員室に向かった。授業の質問をするくらいなら、変に思われないだろうと考えたのだ。他の生徒の目も少ない。
中を見渡し、先程の数学の授業をしていた教師を探す。
すぐに見つかったが、生憎他の女性教師と話していた。諦めて踵を返そうとした身体を、声に絡め取られる。
「もしかして、立花君?」
数学の教師とは違う、女性の声。
背後に気配と化粧品の匂いがした。
振り返ると先程数学の教師と話していた女性教師がいた。
肩まで切られたダークブラウンの髪。色白で、頬に丸みを帯びた幼さの残る輪郭。その顔に女性教諭は自身の指を指す。
「ほら、保健室の」
豊高はハッとした。
中学生の時の、養護教諭だった。
「すいません、ちょっと・・・」
豊高は咄嗟に知らない振りをした。
「そうだよね、そんなもんだよね」
養護教諭は落胆したような言葉を落とす。
「少しの間だけど、よろしくね」
控えめな声色と話し方だが、しっかりした口調と真っ直ぐ見据える瞳。豊高の知る養護教諭とはまるで違っていた。直視できず視線が彷徨う。
また、過去に散々邪険に接したことに罪悪感を覚えた。
豊高は曖昧に相槌をうち挨拶もそこそこに、逃げるように教室に戻ったのだった。
数日後の全校集会では、産休を取る養護教諭の代わりに、あの養護教諭が入ることが発表された。
豊高は苦い顔でそれを聞いていた。
当時の豊高にとって、あの養護教諭のおどおどした態度は事件にあった自分を気遣うものであったのだろうが、それが事件のことを思い起こさせ不快でしかなかった。
また、邪険に扱ってもひたすら豊高と関わろうとし、姿を見たり声を聞くだけで胃が痛むようになってしまった。
だが、職員室で出会った彼女は、悪戯に慰めの言葉をかけるばかりだった当時の姿とは違っていた。
確かな意思と、教師としてのオーラやプライドを纏っているように思えた。
今となっては、彼女なりに傷ついた生徒を癒そうとしていたのだろうと考えることもできた。
そうではあっても、簡単には許せない、という点が、豊高の幼さだった。
彼女は成長した、ということを認めたくなかった。
でなければ、自分はあの時からーーー
しかし彼女は早速、豊高にとっての利益をもたらした。
養護教諭は背が低く、くるりと大きな瞳の愛らしい容姿をしていた。可愛らしい若い女性の教師に生徒たちの関心が集まるのは必然であった。
休み時間には生徒たちが保健室に詰めかけ、人がまばらになった教室で豊高はしばらく静かに過ごすことができるようになった。
自由に思考する時間が許され、豊高の悩みの種はまた一つ増えるのであった。
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「あ、立花君、最近元気?」
廊下ですれ違ったのは、養護教諭だった。白衣のネームプレートには"漆間奏子"と明朝体で刻まれている。そういえばそんな名前だったな、と思い出す。
「元気そうだね」
豊高は顔をしかめる。この不機嫌そうな顔のどこがそう見えるんだと苛ついた。
だが、やはり嫌な人物だと感じ、安堵感を覚えたのも事実だった。
「何かあったら、いつでも言ってね」
養護教諭は歯を見せニコリと健康的な笑顔を見せる。豊高にはそれが薄っぺらく感じた。
廊下の先で生徒達がソーコちゃーん、と養護教諭を呼ぶ。またね、と養護教諭は生徒達に向けて足を進めていった。
豊高は詮索されずほっとしたが、胸の中に嫌悪や苛つきが燻り立ち込め始めた。顔つきも険しくなる。
何より、自分が小さな人間に思えて唇を噛んだ。
豊高は反対方向に歩き出す。
が、堪らず振り向いた。
養護教諭と周りに集まり話す数人の生徒。
その中に、石蕗の姿を見つけたのだ。
豊高と話す時と同じように、笑い、おどけ、はつらつとした表情を見せる。胸がきゅっと締まった。
話しかけて貰いたい。
豊高は込み上がった感情に任せて歩み寄ろうとしたが、一歩踏み出したところで身体が揺れ、我に返った。
周りに人がいることに怖じ気づいたのだ。
更に、養護教諭と視線が合う。彼女が怪訝そうに眉を寄せるのを見た瞬間、豊高は早足で教室に戻った。
案の定、放課後になると養護教諭に捕まった。
さりげなく、なにか用事があった?と聞かれ、ないです、と答える。
そして、身の毛がよだつ一言を言いはなったのだ。
「好きなの?石蕗君のこと」
養護教諭は柔らかな笑みを浮かべていた。
豊高にはそれが得体が知れなく不気味で、自分を追い詰める魔女と対峙しているような錯覚に陥った。
「違います」
「そう・・・」
養護教諭は口に笑みを作ったまま目尻を下げる。
「ちゃんと自分を、自分の気持ちを、大切にしてね」
なんなんだコイツは、大きなお世話だ、と叫びたいのを必死に堪え、養護教諭が立ち去るのを待った。
そして足音荒く下駄箱に向かい、多少大げさにガタガタと音を立て、シューズから靴に履き替える。
「くそっ・・・・・」
豊高はキリキリと胃が痛むほど感情が昂ぶっていた。叫び散らし目に入ったものを片っ端から壊したい衝動に駆られた。喉元まで出かかっているそれをぐっと押し込み、霧散するまでじっと耐える。
帰宅すると真っ直ぐ部屋に入り鍵を掛けた。ベッドに倒れこむ。
気分はいくらか晴れており、はあ、とため息を吐く。
養護教諭から石蕗の名が出て、豊高の心臓は跳ね上がった。まさかあんなに簡単に自分の心の中を、石蕗に好意を持っていること見抜かれるとは思わなかった。石蕗と自分はなんら関係ないと押せばよかったと反省する。
怒りは晴れたが胸に靄がかかる。
楓の顔が浮かんだ。
話したい。
なんでもいいから、言葉にして吐き出してしまいたい。
楽になれる気がする、きっと・・・
豊高はそんな想いを、眠くなった身体と共に布団に押し込んだ。