8.風雲急を告げる
大ごとが起こりそうな、不穏な気配が忍び寄るさま。
豊高はその後、制服と荷物を取りに帰ってから登校した。
両親はすでに家にいなかったが、母親からの夥しい着信とメールが携帯電話に残されていた。
豊高は友達の家に泊まった、とだけ返した。
「おい、立花起きろ」
ハッと顔を挙げると中年の男性教師が頭上から睨みを効かせていた。
授業中にも関わらず眠っていたらしい。
座ったまま眠っていたためか、ひどく体がだるく熱を持っている。
喉が張り付き、すいません、という一言も出ずぺこりと頭を下げる。
教師は小さく文句をいいながら黒板の前に戻った。そして針金のような体を震わせ、滑舌がよくない、嗄れた声で授業を続ける。
丁度、教室の天井に取り付けられた扇風機が低く唸るのに似ていた。
昼下がりの熱気を孕んだ生ぬるい空気と抑揚のない低い音は、生徒たちの眠気を誘う。
豊高はまた目蓋が重くなっていくのを感じた。
帰りのホームルームになっても、豊高は眠りこけていたらしい。
クラスメイトたちはくすくす笑い、豊高を見ながら教室を次々に出て行く。
豊高は熱く重くなった目蓋をこじ開け、まだふらつく足で部室に向かった。
ただ、家に帰りたくなかったのだ。
部室に行くと、石蕗がいて、「また来たのか、えらいじゃん」などと声をかけてくるのが少し煩わしい。
というような想像をしていた豊高は、石蕗がいない部室に少々拍子抜けし、石蕗に会うことにどこか期待を抱いていた自分に恥ずかしくなった。
部屋の中では、あの時と同じようにだれも豊高を気にせずパソコンの画面や問題集に向かっていた。
豊高は、それでも一瞬躊躇したが、部室に入り周りに人がいないスペースを選んで座った。
背もたれに全体重を預け、何気なく天井を見つめる。天井に等間隔に開けられた小さな通気孔を凝視するうち、ふるふると動いているように見えてきた。
酔いそう、と思い視線を戻すと、
石蕗が隣に座っていた。
目が合うと、よっ、と小さく声と手を挙げて挨拶された。
豊高は安堵と疎ましさの混じったため息を吐いた。
石蕗はむっとした様に、しかしふざけた調子で
「やる気がないやつは帰れ」
と言った。
「・・・・・・帰りたくない」
「なんで?」
「・・・・・・なんとなく」
「あーわかるわかる。なんとなく帰りたくない時ある」
石蕗はいたずらっぽい声で応えた。
「違・・・やっぱいいや」
「んー?そっか」
石蕗は穏やかに笑みを零し、明るくなったディスプレイに顔を戻す。長い指がキーボードを跳ね回る。マウスをすっぽり包み込む手は大きくがっしりしている。
その手に自分が触れられたら、と空想する。
カタカタと規則正しく刻まれる音は心地よく、意識が遠のいて行き、体は机に沈んでいった。
「おい、立花起きろ」
デジャヴを感じながら豊高が目を覚ますと、少し心配そうな石蕗の顔が頭上にあった。
「お前、体あっついぞ、大丈夫か?
ポカリ飲むか?あ、ウーロン茶しかないわ・・・」
「んー・・・いいッス」
「部活終わったから、ほら早く帰れ」
帰れ、という言葉に豊高の瞳が揺れる。
唇がきゅっと結ばれた。
石蕗もなにか察したようだったが、
「いいから帰れよ、なっ。喧嘩か?んなもん部屋にこもっときゃいいって」
となだめる。
豊高は根負けしたように目尻を下げ、こくりと頷いた。石蕗はほっと表情を緩め、豊高とともに部室を後にする。
少々心配しながらも、石蕗は自転車置き場で豊高と別れた。
豊高は、家とは反対方向に歩き出した。
どうしても、帰りたくなかった。ただの意地である。
熱い身体を引きずりながら、コンビニや公衆トイレ、駅の中のベンチなど休む場所を探しながら小さな町をぐるぐると彷徨った。
しかし、日が落ちると流石に限界がきた。
息があがり、全身が脈打ち熱を放出し続ける。
もはや横になることしか考えられなくなった豊高は、学校に戻り一夜をすごすことにした。
まだ職員が残っているはずだ。見つからずに入れさえすれば・・・。
そんな短絡的な思考に陥った豊高は鉛のように重い体を必死に駆動させた。
校門の前に来た時、職員室の灯りはまだ点いていた。
豊高はホッとする。
しかし、目の前が急に明るくなる。右手側が眩しい。
放射状に広がる光の後ろに、人影が黒く佇んでいた。
しまった、警備員だ、と豊高の背中がぞくりとする。
「なにやってんの?お前」
人影が近づき、顔があらわになる。
「・・・・・・センパイ」
豊高の目線より少し上に、石蕗のきょとんとした顔があった。
薄手のグレーのパーカーに奇抜な柄のTシャツ。どうやら普段着のようだ。
自転車を引いている。明かりはヘッドライトのようだった。
「何?忘れ物?」
「いや・・・・・・」
豊高は目を逸らす。
「どうした?」
「帰りたく、なかった、から」
みるみるうちに石蕗の顔が歪み、ピリピリと怒りが空気を伝ってきた。
「このっ・・・ぶぁーーーーーっか!!!」
吠える石蕗に、豊高は肩をすくめる。
「そんっなに家に帰りたくないってか!!
だったらもううちに来い!一晩くらいなんとかする!」
目を丸くする豊高を無理矢理自転車に乗せ、捕まってろ、と言い放つと石蕗はペダルを軋ませ脚に力を入れる。スピードはぐんぐん上がっていった。
「お前あっちい!ぜってぇ熱あんだろ!」
「なんで、学校」
「帰り道。カノジョと会ってきた」
石蕗の放り出される一言一言は荒い。
背中からも不機嫌な様子がひしひしと伝わってきた。
豊高は唇をきゅっと締め、もう何も言わなかった。
石蕗の家は2階建ての一軒家だった。
猫の額ほどの庭に自転車をねじ込むと、石蕗は先に家に入った。
話し声が聞こえる。
しばらくして白髪交じりの頭髪を後ろでちょこんと結った、色白のふくよかな女性が玄関から顔をだす。
石蕗の母親らしかった。
上がっておいでー、と石蕗にどことなく似た、人懐こい笑顔を浮かべた。
「ほんとに夕飯はいいの?」
「おう、食べて来た」
石蕗の部屋に続く階段を登りながら答える。
「あんた、どんだけ食べるのよ。うちで食べてったでしょ」
石蕗の母親は呆れたように言う。
「育ち盛りなんで」
「それ以上でっかくなってどうすんの。
あ、立花くん、ゆっくりしてってね」
豊高は出来るだけ愛想の良い顔を浮かべ会釈した。
石蕗の部屋は、鞄やゴミが入ったビニール袋、漫画本が散乱し、足の踏み場もなかった。
「お前が熱出したって母さんには言ってないからな。帰されたくないんだろ?」
石蕗はそう言いながら、無理矢理ビニール袋をすみに寄せ、あるいはゴミ箱に押し込み、なんとかスペースを開けて行く。豊高は思わず呟く。
「部屋汚」
「どこになにがあるか完璧に把握してる」
豊高が言い終わる前に石蕗がすかさず割り込んだ。
「ほら、寝ろ」
一人分の布団が敷かれた。
豊高の背中をたたく。豊高は顔をしかめ棒のように立ち尽くす。
「ホントに俺、泊まっても・・・」
「いいから寝ろって!」
強く背中を押し、布団を敷いた所に組み敷くように寝かせる。
豊高はヒッと小さく悲鳴をあげ、じたばたと手足を動かす。
「この、おま、大人しく寝てろって!」
石蕗が抑えるとますます激しく暴れる。
「あーもう分かった!お前が頑固なのは分かった!いい加減」.
石蕗はハッとして豊高からゆっくり身体を離した。
豊高は身体を丸めて頭を抱え、ぶるぶると震えていた。石蕗はゆっくり後ずさり、壁に背中がぶつかると力無い声で、ごめん、と呟いた。
「・・・センパイの、せいじゃ・・・」
豊高は震える声を必死に絞り出す。
「俺が、・・・ごめん、震え、止まらな・・・」
豊高は更に身体を縮めた。
石蕗は、なす術がなく、ただ立ち尽くした。
豊高の様子は、石蕗に衝撃を与えた。
心に負った傷から噴き出したものに。
その傷の、深さに。
鳥肌がたった。気色悪ささえ感じていた。
彼の思い描く高校生は、彼の同級生のように絶えず冗談めかしたことを言ったり、お互いの些細な言動を取り上げ、いちいち声を張り上げ笑ったりしていた。
こんな、高校生がいるのだと受け入れ難かった。
また、例の事件は石蕗にとっても豊高にとっても過去のことであると思い込んでおり、未だ豊高を蝕んでいることなど、ちっとも、考えもしなかった。
「くそっ・・・・」
石蕗は歯をぎり、と軋ませる。
それに気づけなかったことも、何も出来なかった自分も、情けなかった。
最高学年になり、部長を任され、恋人も得た。
教師にも後輩にも同級生にも慕われている。
なんでもできるような気がしていた。大人に近づいたような気がしていた。
だが、石蕗は、まだまだ人生経験の少ない子どもでしかなかったのだ。
それに、気づいてしまったのだった。
しばらくすると豊高の四肢が緊張から解放され、ゆっくりと伸びていった。
石蕗は手負いの獣に近づくようにそっと側にいく。
豊高は、聞き取れないほど小さなうわ言を口の中で呟きながらも落ちついたようだった。注意して見ると微かに震えているようだったが、寒気から来ているようだ。掛け布団を掛けると豊高は大きく息を吸い胸を膨らませた。
また暴れだすのでは
とドキリとしたが、規則正しく寝息を立て始め胸を撫で下ろした。
石蕗にどっと疲れが押し寄せ、ため息とともに吐き出された。
「また、面倒くせぇこと背負いこんだか?俺・・・・・・」
石蕗はしばらく放心していた。
やがて、よっこいしょ、と年寄りくさく立ち上がり、部屋の灯りを落とした。
翌朝、豊高の熱はすっかり下がっていた。
石蕗は自転車をゆっくり引きながら豊高と学校に向かう。
9月の朝は涼やかだった。
冷んやりとした湿り気を帯びた空気が少し肌寒い。太陽は雲に包まれ、灰色の空に白く滲んでいる。
豊高は終始無愛想だったが、石蕗は心底明るく楽しそうに話した。豊高は石蕗に何か言われて答えることが心地よかった。言葉を貯め続けた心と身体が軽くなっていくようだった。
校門の前に着くと、石蕗は自転車置き場に向かったため、豊高とそこで分かれた。
豊高は昨日より少し軽くなった身体を弾ませ、教室へ足を運ぶ。
周りの好奇な視線や無邪気な悪意が込められたささやき声には、気づかずに。
太陽が雲から少しずつ解き放たれ、強い日差しがちりちりと肌を焼き始めた。