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  作者: SF
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3.小夜時雨

夜に降る時雨のこと。

豊高はエレベーターが目的のフロアに到着した時のような、ふわりとした感覚にみまわれ目を覚ます。目に飛び込んできたのは保健室の白い天井ではなく、黒く妖艶な瞳。

あの眉目秀麗な人間が口づけをせんばかりに豊高の顔を覗き込んでいた。


「なにやってんだよ変態!」


豊高は激しく動揺し椅子から飛びのいた。


「うなされていた」


冷静に答えながら豊高の倒した椅子を元に戻している。


「あ・・・・・・」


豊高の表情が沈む。自分がどういう状況にいたのか思い出してきた。


「・・・すみません」

「いい」


豊高をじっと見つめ、椅子を二つ並べてぽんぽんと叩く。座れという意味だと解釈できたが豊高は戸惑う。

しかし深い夜のような黒い瞳に誘われ、充分に距離をとって座った。背中や尻がまだ湿っており気持ち悪い。

すると華奢な手が再び豊高の顔に伸びる。

豊高はむっとして振り払った。


「何スか?」


軽く睨んでみた。だが全く動じない。

豊高は猫のような大きい目を持ち、あどけなさが残る顔であったので、多少虚勢を張ろうが迫力はなかったのだ。


「触れたい。だめか?」


豊高は即座に拒絶出来なかった。

またあの目だ。なんでも言うことを聞いてしまいそうになる。

言い淀んでいるうちに、乾いてふわふわになった豊高の髪に、彼の手が埋もれた。

ゆっくりと、愛猫を愛でるように手を滑らせる。豊高は頭の上から警戒が溶けていくのを感じた。


「怖かったか?」


その言葉に豊高はギョッとした。体が無意識に跳ね上がる。まるで自分の過去を知っているような口ぶりだったからだ。

彼は静かに言葉を付け足す。


「夢」


なんだ、と豊高は肩の力を抜く。


「大丈夫だ」


美しい顔に浮かぶのは清らな微笑みだった。目にはあの怪しい魅力ではなく優しさを称えていた。

豊高は脱力感にも似た、なんとも言えない安心感を覚えた。何処懐かしいような感覚だ。

彼は撫でていた手を豊高の後頭部に回し、自分の胸に引き寄せる。

豊高はなすがままになっていた。

目を閉じれば心臓の鼓動が頭蓋に響く。

なんて居心地が良いのだろう。

やはりどこかでーーー

豊高がまたまどろみかけた時だった。


「ユタカ」


彼は、両腕で豊高を抱きしめた。びくりと豊高の体は震える。


「ユタカ」


耳元で囁かれれば、声が豊高の耳を震わせた。背中がぞくぞくする。


恐怖からだ。


そして彼は豊高を抱きしめたままゆっくりと体を傾け、どさりと押し倒した。豊高の体は再び警戒心に縛られていく。


「ユタカ」


優しく豊高の頭を撫で、少し顔を離す。豊高の顔に怯えが広がっていく。彼は少しだけ眉をひそめ、豊高を見つめた。


ーーー嫌だ、嫌だ、もうあんなのは嫌だ。


豊高は抵抗以前の問題だった。

体が震え、動かない。緊張で体がコンクリートのように固まっている。涙が浮かぶほど目を見開いていた。

すべての感覚を、塗り込められたような黒い瞳に吸い込まれていく。

やがて再び覆いかぶさる彼の髪がさらりと頬に触れた時だった。


「うわあああああああああああああ!!」


豊高は弾けたように起き上がり、細い身体を押しのけた。

その弾みで椅子から転げ落ちたが、手で床に落ちた眼鏡を探りだし部屋の外に飛び出した。


ーーーアイツ、その気だったんだ!最初から!

畜生・・・・・・ふざけんな!!


がむしゃらに回廊を走り抜け、階段を駆け降り、玄関の扉にかじりつく。そして取っ手を掴みこちらに引っ張る。

開かない。

豊高は顔を引き攣らせ、取っ手が壊れてもおかしくないほど揺らした。

すると、すっと扉に影が映った。豊高は手を揺らすことをやめる。振り向けば屋敷の主がすぐ後ろにいた。

豊高は息を呑む。身動き出来ないほど詰め寄られ、扉に背中をぴったりつけると汗で服が張り付いた。

手が豊高に伸びる。豊高は小さく震えていた。その手は豊高の脇腹をかすめ

ガチャリ

と金属の噛み合う音を立て、鍵を開けた。

豊高の背中は不意に軽くなった。扉が開き、つられて二、三歩後ずさる。


「・・・・・・へ?」


豊高は呆気にとられていた。

外ではまだ激しい雨が降っていた。生臭さを含んだ水煙の臭いがする。

彼は少し目を伏せ


「・・・・・・すまなかった」


と呟いた。豊高は怪訝そうに哀しげな顔を見つめる。そして豊高の胸に平べったく重いものと、細長く軽いものが押し付けられた。豊高はそれらを抱えるとバランスを崩し軽くよろけた。

屋敷の主は名残惜しそうに扉を閉める。手元には学生鞄と一本の黒い傘が残った。

豊高はしばらく扉の前で呆けていた。彼の意図が分からなかった。だが何故か罪悪感が胸に滲む。

豊高は黒い傘を広げ、何度も振り返りながら家路に着いた。


少々寂れた団地が建ち並ぶところから少し離れたところにある、嫌味なほど綺麗で高いマンション。最上階から数えて3つ目の階に、豊高の自宅はあった。いつもはジャンボジェットの機体のようにぴかぴかと光って見えるが、この雨の中では全体的に煤けてみすぼらしく見えた。

豊高は憂鬱そうに灰色の雲を背負う建物を、いい気味だとせせら笑い惨めな自分を慰める。


ただいま、も言わず玄関のドアを開ける。

傘は閉じて下駄箱に掛けておいた。フローリングの廊下に足を置くと、自分の靴下がぐっしょり濡れていたことに気づいた。

ぺたり、ぺたりと歩くたびに足跡がつく。


「おかえりぃ」


母親の声が聞こえた。おそらくキッチンからだろう。廊下の照明は点いておらず、キッチンから光が漏れていた。

豊高は母親に応えることなく薄暗い廊下を歩く。

不愉快だった。

濡れた衣服の感覚も。媚びるような母親の声も。目に眩しい光も。

キッチンから四十代前後の女性が出てきた。

化粧をし髪を巻いている。ノースリーブのフリルシャツに黒いボレロ。

どう見てもよそ行きの服の上から、ペラペラの安物のエプロンをかけた違和感を覚える格好だった。

母親は豊高の後を追うように歩く。


「お腹すいた?何かいらない?」


濡れて帰ってきた豊高に対して的外れな気遣いの言葉。

豊高は母親を無視して自室に篭り、無造作にドアを閉めた。


「夕飯、もう少しだから待っててねえ」


猫撫で声がドアの外から聞こえた。豊高はやはり返事もせず学生鞄を乱暴に勉強机の上に置き、ベッドに寝転んだ。

母親の、おどおどしたような、顔色を窺うような態度は今に始まったことではない。豊高が物心ついたときからそうだった。

父親とはろくに話したこともない。

いや、父親が話し掛けるなと言ったのだ。

父親が嫌いな豊高にとっては好都合だったが。

そう言われたのは豊高が中学生の、いや、登校拒否を始めた時だった。


「もう出てこなくていい。話し掛けるな。世間に、顔を見せるな」


ドアの外から放たれたその言葉は、どろりと真っ暗な自室に広がり、瞬く間に自分を窒息させていったことを豊高は覚えている。

日が立つごとに、父親の悪意に満ちた言葉が部屋に充満していく。


ここにいては、本当に気が狂ってしまう。


そう悟った豊高は、中学校を卒業するまで保健室登校を行っていた。同級生とすれ違う時等は白い目で見られることはあったが、暴力を振るわれることは二度となくなった。

傷害事件になりかけたので教師が釘を刺しておいたのだろう。

だが陰湿な嫌がらせは度々あり、ある日豊高の中でぷつんと何かが切れた。

豊高は落書きだらけの教科書を一式、自ら教室のごみ箱に捨てごみ箱ごと燃やした。

それをきっかけに、教師は嫌がらせを見て見ぬ振りをするようになった。

ただ一人、あの若い女性の養護教諭を除いて。

壊れかけていた豊高をギリギリの状態で引き止めていたのは彼女だった。

唯一の豊高の味方であった。

だが豊高はそれを疎ましく思っていた。

態度や声の掛け方が母親に似ているような気がして。むしろ憎んでもいた。

いっそ、壊れてしまった方が楽だったのに、と。

人間は無駄にしぶとい、と豊高は感じていた。

自分を追い込んでも追い込んでも、豊高は狂いきれなかった。

豊高は、今でも、自分が心底嫌いだ。


「ユタカ、晩御飯できたわよお」


母親の声が遠くから聞こえた。

豊高は白昼夢に似た回想から現在へ意識を引き戻される。豊高は返事をせず寝返りを打った。

ーーどうせ


「お母さん、これから用事があるから、食べておいてねえ」


ーーー男のとこに、行くんだろ?


夫の顔色を伺い、息子の機嫌を取り、世間の目に怯える。そんな生活をしていればストレスが溜まらないはずがない。

豊高は少しだけ同情し、安心していた。

哀れな人間が自分だけでないと確認出来たからだ。

今やそうやって自分を慰めることも叶わなくなったが。


豊高は一度、駅前のロータリーで若い男性の運転する車から母親が出てくるのを見たことがある。

一瞬別人かと疑った。

生き生きとした瞳、会話する度に弾む紅をさした頬。

普段とはまるで違う。

疲れきった目元に何か言いたげに張り詰める唇の線。それが豊高の知っている母親の顔であった。


ーーー何だよそれ。


豊高は腹が立った。


ーーーなんであんな顔するんだよ。

俺には笑いかけたことすらないのに。

ほっとけばいいのに。俺や親父なんか。

ほっといて、そいつと、

幸せにでも何にでもなればいいのに。


「ユタカ?分かった?ちゃんと食べてね」


「・・・もうほっといてくれよ」


その呟きは、いってきます、という声と、重く扉が閉まる音に押し潰された。


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