三題噺 「挫折」・「背中越し」・「金木犀の香り」 タイトル「双曲線の香り」
「私、戦国時代に生まれてくればよかった」
曲輪葵23歳は語る。
「だってさ、失敗したら死ぬじゃん。戦国なんだから。殺されるか、切腹だよ」
彼女の唯一といっていい親友の『彼』は、そんな物騒なことを嬉しそうに語る彼女に、苦い笑いを見せることしかできなかった。
彼女の言葉にいちいち反論なんてしていられない、というのは毎度のことだけれど、今日は何より彼女を励ますためにココにいるのだから。
「もう二度と夢が叶わないと分かっているのに、そんでも生きてかないといけないって残酷よね。現代社会ってサイテー。私は生きる廃品です。早くリサイクル工場に連れてってよ」
クリームソーダをすすり、一気に吸い尽くす。そして、余韻もなくおかわりを注文。彼女の食べっぷりはいつ見ても気持ちいい。
いつもと変わらない立ち振る舞い。だけど、今日の彼女はひどく傷ついている。どんなときだって動いていればお腹が減る、それだけのことだと彼女ならいうだろう。
彼は彼女を優しく見守っている。
大学入試に失敗したそのときも、彼は彼女のそばにいた。弱音なんて一度だって吐かなかった。
父親の死も、複雑な人間関係のトラブルも一人で乗り越えてきた。
それが、憧れの研究職の道を閉ざされたというだけで、憔悴するものかと不思議に思う者もいるだろう。
「私、命を懸けていなかったのかなぁ」
いつもと変わらない、どこか冗談めいた調子の語り口。
それでも聞いている方は心臓を針で突かれたような気持になる。
殺してだとか言い出さないだろうか、そのときは自分が介錯人かと、その場面を想像すると少し笑える。
「挫折が人を強くするって嘘よね。挫折を知らない人は、失敗を恐れないし、自分を大切にできる。そういう人こそやっぱり成功するのよ。成功者ほど余裕があるから、人にも優しくできるし、そういう人のところに他人は寄ってくるものでしょ? 」
つまりその正反対が自分だって言いたいのだ。
激しく同意。それがキミだと彼は心の中で納得する。
でも、キミには才能があるし、自分のことをもっと大切にしてほしい。言葉にせずにそう伝えられたら、どれだけ素敵なことか。
彼は頭の中に双曲線を描く。
二つの線は限りなく近づき、交わることなく離れていく。二度と近づくことなく果てしなく遠ざかっていく。
断崖絶壁を飛び移るチャンスは一度だけ。
彼女にとって夢がすべてだったことを、彼は知っている。
その夢にどれほどの価値があるのかは彼には分らない。
だが、そのゴールに向かって彼女はその存在のすべてを傾けた。
追い込んだ、追い立てた、追いつめた。そして、失敗した。
だから、彼女は死ぬしかない。
信念も、価値観も。動機も、誓いも、道理も、理屈も、パラダイムも、すべて投げ捨てて新しい彼女にならなければならない。
双曲線の呪縛から解き放たれて、ガウス平面に自由な曲線を描くのだ。
生まれ変わることは自分自身の否定。とてもつらく苦しいことだ。それは彼自身深く理解している。
「ありがとう、もういくね」
そういって彼女は立ち去る。その感謝の言葉にどれほど「想い」が乗せられていることやら。
背中越し。何かかける言葉はないか。一瞬の逡巡。
彼は席に戻るとスマホ取り出し、ラインを送る。次の予定決めなかったな、どうしようか。
店を出ると金木犀の香りがする。
また、この季節が来た。甘たるいその香りがただただ苦々しい。
二人の距離は今日も少しづつ遠ざかっている。