とある悪魔と、とある少女
注意!
この作品は、同作者が執筆中の『ロードテール』という小説の関連小説です。ですが、もちろん単体で読んでも十分話を楽しむことができます。
できれば、『ロードテール』も読んでね!(下心丸出し)
昔々あるところに、大きな大きな館がありました。
そこに住んでいるのは、この国の公爵様と、そのおつきの人々。
公爵様には、一人の妻と、一人の娘がおりました。その娘は、輝かしい金色の髪に澄んだ翡翠色の瞳の公爵様とは全く違い、夜空を切り取ったかのような黒の髪に、森の木陰のように深い碧の瞳。似ても似つかぬ姿でしたが、しかし、確かに二人の血のつながった娘でした。
理由は簡単。公爵様も、妻も、その娘も、非常に高潔な魂をしていたからです。
この世界では、ヒトと神様がすぐ近くに暮らしておりました。
人々は己の信仰で神様を支え、神様はその力で人々の暮らしを支えておりました。
しかし、そんな暮らしでも、日々に不満を、あくなき欲求を抱くものはいました。その代表が、公爵様の弟様でした。
公爵様の弟様は、生まれた日たった一年の違いで、己が公爵家の当主になれなかったことを、腹の底から怒っておりました。
己には、確かに実力があるのに。己には、確かな血筋もあるのに。なのにもかかわらず、弟様は兄である公爵様に、何一つ勝つことはできませんでした。
そんな鬱憤を抱えた弟様は、ある日、悪魔に魅入られてしまいます。
醜い嫉妬心が、巨大な劣等感が、僻みが、悪魔を呼び出してしまったのです。
悪魔は誘い掛けます。
「どうだ、お前の息子の魂と引き換えに、お前を公爵にしてやろうじゃないか」
「……ああ、いいだろう。息子を好きにしろ。ただ、俺を公爵にするにはことを忘れるな!」
やけくそ気味に言った弟様の願いを、悪魔は確かに叶えました。
公爵様と、公爵様との子供を孕んでいた妻を、八つ裂きにしてその魂を食べたのです。
公爵様の子供は、娘一人だけ。爵位を継ぐことができるのは、男の人だけだったため、娘は当主にはなれません。弟様は、悪魔に願った通り、その日から、公爵家の当主となりました。
もちろん、悪魔との取引は、神様との約束を破ることになるので、バレてしまえば大変なことになってしまいます。ですので、弟様は、ある言い訳をすることにしました。
弟様は、領民と王様にこう言ったのです。
「あんなに高潔な魂を持っていた兄上が、まさか悪魔を呼び出すなど……! 娘の悪癖を治したいと常日頃から行っておりましたが、まさかこんなことになるなんて……!」
嘘の涙を浮かべながら言う弟様に、王様は問います。
「娘の悪癖? それはなんだ?」
弟様は答えます。
「あの黒髪の娘は、ありえないほどにウソつきなのです。いつもいつも嘘をつき、他人を乏しめるのが大好きなのです。なぜあの娘に、あれだけ高潔な魂が宿っているのか理解できないほどに」
「嘘つきな娘とな。それはいけないな。神は嘘を嫌う」
「ええ。ですので、兄上はいつもそれに頭を悩ませておりました」
いけしゃあしゃあと嘘をつく弟様。ですが、この嘘は、領民にも、王様にも、国中の人にも信じられてしまったのです。
カラスのような黒髪に、淀んだ水たまりのような碧の瞳。その性根はねじ曲がり、うそつきの女。この女のせいで、良い領主様は死んでしまった。
毎日毎日、彼女は誹謗中傷されるようになりました。
いつも黒髪の手入れをしてくれていたメイドはその髪を無理やり切り、いつもその瞳の美しさをほめてくれていた騎士はまるで汚水溜めを見るような目で少女を見るのです。
娘は何が何だかわかりませんでした。
たった一日で愛する両親がなくなり、その悲しみに暮れる間もなく周り全ての人間が敵になってしまったのですから。
ばらばらに切られてしまった黒髪を握り締め、公爵様の娘はいつも地下室に閉じ込められるようになりました。
ですが、誹謗されても、馬鹿にされても、憎まれても、彼女の魂の高潔さは変わりませんでした。毎晩毎朝神にお祈りし、日課の掃除と、弟様から押し付けられた雑事を済ませ、粗末な食事を食べて、眠る。
誹謗されても言い返さず、馬鹿にされても怒らず、憎まれても許す彼女は、次第に領民たちに疑念の心を抱かせ始めました。
嘘つきなのに、言い返さない。
性根の曲がった女なのに、怒らない。
公爵様を殺した人間なのに、悲しんでいる。
どうしてなのか。なぜなのか。
次第に領民たちに詰め寄られることも多くなった弟様。そんな彼は、一つ、いい案を思いつきました。
「これ以上嘘をつくのが難しいなら、悪魔に頼んで嘘を本当にしてもらえばいいじゃないか」
そんな安易な思いで、公爵となった弟様は儀式の準備を始めます。
呼び出した悪魔は、まるで雄羊のようなねじ曲がった角を頭に生やした悪魔でした。その悪魔に、公爵様は言います。
「小娘を嘘つきで性根の悪い女にしてくれ」
そう頼んだ弟様に、悪魔は言います。
「フム、でしたら、ワタクシは貴方の舌を要求しましょう。よく回るので、水車の動力源として高値で売れるでしょう」
「何で俺の舌をお前みたいな悪魔にやらなきゃいけない。いいから従え」
「願い事を叶えるのに代償はいるものですとも。舌がお嫌でしたら、目玉の片方はいかがでしょうか。貴方様の碧の瞳は、小瓶に詰めたらいいインテリアになるでしょう」
「黙って従え、悪魔め! 俺は公爵だぞ!」
そう怒鳴った公爵に、悪魔は困ったように首をかしげます。
「貴方様は、ワタクシに対価なしで働けと言うのでしょうか?」
「そうだ! 公爵である俺の役に立てることを誇りに思え!」
「そうですか、そうですか。では、貴方様の願いを叶えましょう」
ニタリと笑ってそう言う悪魔に、公爵は「最初からそう言えばよかっただろうが!」と憤慨します。しかし、続けて言われた悪魔の言葉に、弟様は顔を真っ青にしました。
「対価は、ワタクシが勝手に持っていきますので。そうですね、この館にいるすべての人間の魂でいいでしょう__もちろん、貴方様の魂も含めて、ですとも」
そう言い放った悪魔は、館中をめぐり、出会った人すべてを悪魔の使う魔法によって爆散させ、その魂を胃の腑に収めていきます。弟様は特にひどく、脳髄は天井にへばりつき、目玉は地に転がり、臓腑はもはや原型をとどめてはおりませんでした。
悪魔は鼻歌交じりに館中の人間を虐殺し、すべての人間の魂を食らいつくしました。そんなとき、丁度弟様の命令で外に働きに出ていた娘が、戻ってきました。
あまりにも様変わりした屋敷にひどく驚く少女。彼女は、悪魔から見ても非常に魅力的な、汚れ無き乙女の、高潔な魂をしておりました。
ですが、悪魔はそんな少女に手を出すことはできません。
理由は二つ、この娘が弟様と契約し、嘘つきで性根の悪い女にしなければならない少女であること、そして、もう一つが、弟様と契約した時に館にいなかったため、契約によって魂を奪えなかったためです。
そして、悪魔はさらに困ることになります。
悪魔は、少女を嘘つきで性根の悪い女になるように魔法をかけたのですが、その魔法がまるで効かないのです。あまりにも純粋で高潔で、そして、いつもいつも神に祈りをささげたその魂は、悪魔の魔法さえはねのけてしまうほどに頑強で、美しくて、かけがえのないものだったのです。
しかも、少女は館の惨状を見て涙を流し、死体の埋葬さえも始めました。
少女の黒髪を切り刻んだメイドにも、まともな食事を作らずご飯の美味しくないところばかりをよこしたコックにも、少女を邪険に扱い時には手さえ上げた騎士にも、平等に涙をこぼしました。
すべてを憎まず、すべてを許し、そして、すべてに等しく悲しみの涙をこぼしたのです。
悪魔は困りました。このままでは、契約を遂行したことにはなりません。少女は嘘つきでも性根の悪い女でもないのですから。そこで、苦肉の策を行使することにしました。
彼女にとりつき、悪魔憑きの少女にすることで、性根の悪い女にし、話す言葉全てを悪魔自身が言い換え嘘つきにするという、驚くほど手間のかかる力技です。館での虐殺で、魂のストックは十分にありましたので、少女が死ぬまでとりついても十分に利益は出ました。それゆえの決断ともいえるでしょう。
ですが、小娘一人にこんな手間のかかる方法をとらなければならないことに、悪魔は内心はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えておりました。隙あらばこの娘を殺し、さっさと自分の巣に戻ろうと思うくらいには。
さて、館にいた人々の埋葬を終えた彼女は、少女は館にいた人々の家族全てに見舞金を渡し、今度は領主になることのできる人間を探しに行くことにしました。
領主様とその弟様の叔父は、少し遠くの町に住んでいます。場所は、『アレンディア』という大聖堂のある街です。
さっさと旅の準備を終えた少女は、大きな荷物を抱えて外へ出ます。いやいやながらも、契約をしたことですので、悪魔もまた、少女についていきました。
アレンディアまでは、とても長い距離があるため、馬車に乗っていく必要があります。少女はまず、乗合馬車の待合所に向かいました。
馬を手入れしていた主人に、少女は声をかけます。
「ごめんください」
「あら、お嬢さん。どこまで行きますか?」
『東の町の、アレンディアまで』
「西の町の、サルアディアまで」
少女の言葉に合わせるように、悪魔は言います。サルアディアはアレンディアの真反対にある街です。少女は慌てて言葉を重ねようとして、はっとして言葉を変え、口を開きます。
『次の領主様になれる人間がいる場所に行きたいです』
「次の領主様になれる人間がいない場所に行きたいです」
またもや少女の言葉に重ねるようにして悪魔が口を開きます。
少女は困惑しました。このままだと乗合馬車に乗れません。
「ああ、お嬢さん、西の町サルアディア行きの馬車はあっちよ」
優しくそう声をかけてきた馬の主人に、少女は申し訳なさそうに頭を下げると、今度は手紙を書こうと紙を広げました。
しかし、今度は悪魔が書き上げた手紙を奪い取り、あっという間に魔法の炎で燃やしてしまいました。紙では嘘はつけませんが、そもそも言えなければ関係のないことですから。
困ってしまった少女ですが、新しい領主様は必要です。少女の言葉を嘘に変えてしまう悪魔は、離れる気が無いようです。
少女は諦めて徒歩で東の町のアレンディアに向かうことにしました。
この世界は、とても危険です。旅と言っても、普通の道はありませんし、獣も魔物も盗賊もいるのですから。
ですので、少女もきちんと支度をしてから旅に出ました。もちろん、悪魔もついてきます。
領主様の弟様に様々な仕事を命じられていたおかげで、少女は様々なことができました。獣に襲われても返り討ちにしてその日の晩御飯にしてしまい、魔物がやってくればあっという間に逃げ出し、盗賊には正しい教えをし罪を償う道を選ぶように諭しました。
旅の途中で死んでくれるだろうと思っていた悪魔は、またまた困ってしまいました。獣をけしかけても食べられてしまい、魔獣を呼び出せば逃げられ、盗賊に至っては自分がどれだけ反対のことを言おうとも、諭されてしまうのですから。
一つの領土を超え、二つの山を越え、三つの橋と四つの川を越え、五つの町を通り抜け、そして少女は、ようやくアレンディアの前までたどり着きました。
もう一日でアレンディアの町にたどり着く、と言うところで、少女は悪魔に尋ねました。
「ねえ、悪魔さん。もしも私が嘘をつけば、貴方は私の言葉を遮らないの?」
「ふむ、不思議なことを言いますね。ワタクシは貴女様が嘘をついたところなど、見たこともないのですが」
「……どうしても、嘘をつかなくてはならないの。嘘に嘘を重ねてしまったら、本当のことを言うことになってしまうでしょう?」
「そうですねェ……貴女様が自主的に嘘をついてくださったり、悪い人になってくださるのでしたら大歓迎です」
「そうですか」
焚火の前で、少女は薪をつぎ足しながらも言います。
「……悪魔さん、今までありがとうございました」
「?」
悪魔は首をかしげました。お礼を言われる理由などなかったのですから。
理解できないという表情を浮かべる悪魔に、少女は言葉を続けます。
「一緒に旅をしてくれて、ありがとうございました。私、一人だけだったらきっと途中でやめてしまったかもしれないのです。
だって、獣も魔獣も盗賊だって怖かったのですから。貴方がいてくれたから、私は先に進まなくては、と思えたのです」
笑顔で言う少女を、悪魔は理解できませんでした。
何故なら、悪魔が全ての元凶だからです。獣も魔獣も盗賊だって呼び寄せ、少女を強制的に嘘つきに変えて乗合馬車に乗せず、悪魔付きだからという理由で街に入らせないことだってしたというのに。
ですが、少女は笑顔でした。
「一人はさみしいのです。一人だったら、私はきっと心が折れていました。どんなに怖いことがあっても、絶対に貴方がそばにいるから、私は旅を続けられたのです。だから、ありがとうと、言いました」
「……?」
笑いながらも、少しずつ涙をこぼす少女に、悪魔は気が付けば手を伸ばしていました。ですが、鋭い爪の手でどこに振れればいいのかわからず、悪魔の手は空を切りました。
「悪魔さん。私は、貴方がうらやましいのです。貴方は、私の魂が欲しいと言いました。実際に、お屋敷中の人々の魂を欲し、手にしました。ですが、私には欲がないのです。欲しいものがないのです」
「……それの何がいけないのでしょう? 貴女様は食事をし、睡眠もとるではないですか。欲を満たしているのではないのでしょうか?」
「今は新しい領主様になれる人のために食事をし、体を動かすために睡眠をとっています。そこに、『私』はないのです」
「欲さず人のために生きる。それこそが清い魂の在り方ではないのでしょうか?」
理解できない悪魔は、茫然とした表情で少女を見ます。
少女はそっと首を横に振りました。
「悪魔さん。貴方が言うなら、きっと私は清い魂なのかもしれません。ですが、私は人間として正しくないのです。どれだけけなされても、どれだけ馬鹿にされても、私は涙一つこぼせませんでした。悔しいとも悲しいとも思えなかったのです」
「ですが、貴女様は屋敷の住人たちに涙をこぼしました」
「あの涙は、確かに悲しかったからです。ですが、その涙も死んでしまった彼らの家族を思ってのことです。決して、怖かったからだとか、親しかったから、という理由ではないのです」
少女はぽろぽろと涙をこぼしながら、悪魔に言います。
「私は、貴方がうらやましい。まっとうに、欲を抱ける貴方が。」
「……?」
悪魔は、少女が何を言いたいのかわかりませんでした。何故泣いているのかもわかりませんでした。そして、少女に何を言えばいいかもわかりませんでした。
少女は、清い魂でした。
清い魂だからこそ、本来なら持っていたはずの『欲望』を持っていなかったのです。うらやましいという感情も、持ち合わせていないはずのものでした。
悪魔はおろおろとしながらも少女に聞きます。
「では、貴女様は何故、今泣いているのでしょうか?」
「……わからないのです。ただ、もうすぐ旅が終わってしまうから。酷く寂しいのです」
「……? ワタクシは、この旅が終わっても、貴女様を嘘つきにしなくてはいけないので、ついて行きますよ?」
首をかしげる悪魔に、少女は笑います。
「いいえ、旅は、アレンディアでおしまいです。おしまいにします」
次の朝。
アレンディアにたどり着いた少女は、悪魔憑きの容疑で教会まで連行されました。大聖堂のあるアレンディアでは、悪魔憑きは大罪だったのです。
アレンディアの町の領主と、領主様になれる叔父様は、貴族だったため少女の裁判に参加しました。
少女は、生まれてから初めての大ウソをつきました。
「私が両親と館の人間すべてを悪魔に捧げました」
裁判官は、眉をひそめて尋ねます。
「何故そんなことを?」
手足を荒縄で縛られ、教会の固いタイルの上に膝をつかされた少女は言います。
「女の私が領主になれないなど、ありえないからです。ですから、両親を殺しました。両親を殺しても領主になれなかったので、領主になった男を殺し、私に反対意見を吐いた館の人間すべてを殺しました」
「__!」
怒りの表情を浮かべる裁判官。しかし、少女を知っていた叔父は言います。
「ならなぜ、大聖堂のあるこの町に来たのだ? この町に来なければ、君は今捕まることもなかったじゃあないか!」
その言葉に、少女は半笑いで答えます。
「貴方が次の領主になると思ったからです。領主になれる人間がいなければ、私が領主になれますから」
その言葉に、叔父は真っ青な顔をしました。まさか命を狙われているとは知らなかったからです。
突拍子もない嘘に、悪魔は困惑しながらも口を挟みませんでした。少女はまるで事実無根のことしか言っていないのですから、口を挟む理由もなかったのです。
悪魔憑きで人殺しで、次期領主を殺そうとした少女は、あっという間に死刑が確定しました。もちろん、ただ首を切ったり、毒の盃を飲まされるだけではありません。十字架に両手と足首を釘で打ち付けられ、アレンディアの門の前にさらされる、と言う刑でした。
アレンディアに入ろうとする商人や旅人は、悪魔憑きで人殺しの罪の少女に石を投げたり、泥水をかけたり、罵りの言葉をぶつけたりします。
しかし、少女は反応を返しませんでした。ただただ、彼等を許し続けました。
十字架にかけられてから丸三日。酷い土砂降りの雨の中、ふと悪魔は十字架にかけられた少女に問いかけます。
「何であんな嘘をついたのですか?」
「……私が悪者になれば、誰も苦しまないからです。お父様も私のために悪魔を呼んだという汚名が消え、叔父様の嘘も館の住人達も悪ではなくなります。だって、彼等は私によって殺されることになった、被害者になるのですから」
「……理由になっておりませんよ? ワタクシが質問したのは、何故嘘をつく必要があったのか、ではなく、何故嘘をついたか、です」
再度質問をした悪魔に、少女は微笑みました。十字架に張り付けられた腕は酷く傷み、動かせない体に酷い負担がかかりますが、少女は答えます。
「私が、何もほしくないからです。このまま生きていなくても、構わないからです」
「……死んでも構わないから、全ての罪を引き受けたと?」
悪魔の問いかけに、少女は小さく頷きました。
「後悔はないのですか?」
「無いです。多分、これが私の存在意義だったのかもしれません。ただ、生まれて初めて嘘をついて、少しだけドキドキしましたし、騙してしまって申し訳ないきもちになりました。ですが、嘘ってハラハラするのですね」
そう言って笑う少女に、悪魔はにこりとも笑いませんでした。ただ、ブスッとした表情で少女を睨みます。酷い雨に打たれた少女は、頭の先からつま先までびしょぬれになっていました。
ふと、あることを思いついた悪魔は、少女にニタリと笑みを浮かべて問いかけます。
「そう言えば、ワタクシは貴女様に旅の途中、食事を分けていただいたことがありましたね。どうです? 取引をしませんか?」
「__それは、悪魔の取引、というものでしょうか?」
「もちろんですとも。食事と同等の交換、もしくは、貴女様からそれ以上が頂けるなら、等しく取引いたしましょう」
ニタニタと笑みを浮かべる悪魔に、少女は笑って言います。
「すごく悪いことですね。ですが、私、そろそろ死んでしまいますし、少しくらい悪いことをしたっていいですよね」
「もちろんですとも。貴女様を磔にしているくぎを外すことも、こんな刑に処した裁判官の命を奪うことだって構いませんとも」
悪魔は、少女の清い魂を手に入れるためにささやきかけました。取引をしてしまえば、その魂をどうしたっていいのですから。
少女は、少しだけ悩んでから、にこりと笑って言います。
「なら、傘を一本、下さい。足りないなら、私の魂をあなたにあげます」
「……傘、ですか?」
突然の言葉に、悪魔は首をかしげます。
そんな悪魔に、少女はいたずらっぽく言いました。
「だって、今日は酷い雨じゃあないですか。傘を差さなければ、貴方の体が濡れてしまうでしょう?」
こんな時でも、人のため、ただの悪魔のためにそう言った少女に、悪魔はあきれるほかありませんでした。
少女の願い通り、悪魔は魔法で傘を作りました。まるでこうもりのような、真っ黒な傘です。
傘を作り出した悪魔に、少女は言います。
「どうぞ、それをお使いください。死にゆく私には、不要なものですから」
「……」
悪魔は、無言で傘を差しました。
雨は、一晩中降り続け、そして、翌朝になってようやく日が差すころには、少女は死んでいました。旅を続け、石を投げられ、全身ずぶ濡れになり、少女はもう限界だったのです。
悪魔は、すっかりぬれた傘を携えたまま、少女の磔になった十字架を眺めます。
少女の死体はただ、満足そうに笑顔を浮かべていました。
少女が死んだことで、悪魔の手にはあの少女の清い……いえ、悪魔の取引と、少しばかりの嘘でほんの少しだけ薄汚れてしまっていましたが……魂を手に入れることができました。
悪魔は少しだけ悩んだ後、その魂を捨てることにしました。なぜなら、最初に見たときよりも薄汚れた魂に、魅力を感じられなかったからです。
決して、悪魔に食べられた魂が輪廻転生の輪に入れないから、と言う理由ではありません。もちろん、またあの少女と旅をしたいと思ったからでもありません。そうです、悪魔ですから、そんな無利益なことを思うはずがないのです。
何故なら、悪魔には、感情が無いのですから。
数百年の放浪と契約を繰り返し、力を蓄えた悪魔は、ある日、天使に声をかけられました。
「ねえ、悪魔さん。ある世界を救う手伝いをしてくれるなら、なんでも願いを叶えてあげるよ?」
そう声をかけられた悪魔は、肩をすくめます。
「何を言いますか。ワタクシ、寿命も娯楽も破滅的な人生を眺める趣味も、充実しておりますとも。ですが……ですが、そうですね。なんでも、ですか」
悪魔はニタリと笑いました。
なんでも。その言葉は、悪魔にとっては果物よりも砂糖よりも蜜よりも甘美なことです。その言葉さえ引き出せれば、相手の魂も人生も家族もすべてを射に収め、最悪な結末を眺めることができるのですから。
悪魔の心に、ふと興味がもたげました。
「でしたら……そうですね、人間の言う、『感情』というものを要求しましょう。悪魔であるワタクシには持ちようのないものですからね」
手元の黒傘を撫でながら、悪魔は言います。
悪魔の了承の言葉に、天使は良い笑顔を浮かべました。
「なら、いいでしょう。悪魔メフィストフェレス。貴方を異世界に送ります。がんばって、世界を救って見せてください」
メフィストフェレスは、ニタリと笑うと傘を手にかけ、天使に向かって手を伸ばした。
悪魔は、拳銃を携えた少女を見る。
高潔で、清くて、あまりにも美しく、魅力的な魂。
悪魔の脳裏に、ちらりと少女の姿がよぎる。
__よかったですね。今世では、望みも、願いも、抱けたじゃあないですか。
「……メフィストフェレス。暇なら、部屋の掃除でもしていてくれないかしら?」
「フフフフ、かしこまりましたとも、お嬢様」
ノートパソコンを前に作業を続ける少女に、悪魔は笑みを浮かべた。その笑みが、幸せという感情だと理解しながら。