第一話 嬉しさ、驚き、優越感
読みずら買ったらすいません。
「私の小説を書いてくれませんか?」
そう彼女から言われたのは、高校二年生の六月の上旬頃だった。
努力をすることで今のどうしようもない現実から逃れられると思っていた中学三年生の僕は、身の丈に合わない高校を第一志望に掲げ、
「お前らとは違うんだ」
と心の中で同学年の生徒たちに向かって何度も叫ぶことで精神を保ち、勉強以外の事をしなくなった。勉強以外の事をしなくなったというと大げさに聞こえるかもしれない。でも事実、勉強に本腰を入れてから、元々これといった趣味もなかった僕は自宅ではもちろん学校の授業の休憩の合間だって、昼休憩だって、塾の授業の休憩の合間だって勉強していた。今思えば、
「僕はこんなに努力しているんだぞ」
というのを誰かに認めて欲しかっただけだったのかもしれない。惜しくも当時の僕には、僕の事を認めてくれるような親しい友人はいなかったけれど。
無事、努力の甲斐あって第一志望の高校に入学したはいいものの、中学時代の嫌忌けんきしていた自分は高校に入学したからといって、簡単には変わらなかった。
高校に入れば何かが変わると妄信していた僕にとって、この事実は絶望と呼ぶに相応しかった。髪型や眉毛を整えても、人間の根本的な欠陥は補われないのだ。
現実とは無慈悲なもので、中学時代に辛いことがあったとき、一種の希望のように思い描いていたような高校生活とは、一回りも二回りも違う高校生活を送っている自分が、惨めで仕方なく、小説を拠り所にするようになった。
別によすがとするものは何でも良かったのだ。音楽でも、映画でも、そのひと時だけ現実を忘れられれば。ただ、僕がたまたま小説を選んだだけだ。
中学の頃は勉強だけが取り柄だった僕は、高校に入ってからその唯一の取り柄すらも失った。
友人がいない僕は、授業の休憩の合間に小説を読んでいないことだけををプライドに生きていたが、ロッカーを整理するふりと寝たふりをするのもばかばかしくなり、休憩中も小説を読んだ。
孤独な人間であればあるほど、自分が周りからどう思われているかを気にするのではないかと僕は思う。信頼出来る友人や、恋人がいる普通の人間は、その信頼出来る人にだけどう思われたいかを気にすればいいわけだが、信頼できる人がいない僕のような人間は、周りのすべての人間から嫌われないためにどうすればよいかを事あるごとに考え結局は、いてもいなくてもたいして変わらない人間になる。
現実を受け入れ、これからの自分の人生の中で何回も変われるチャンスはあっても、僕はどうせ変われないのだろうと人生をあきらめ始めていた高校二年生の夏服にクラスの半分程度が衣替えをした時期に、僕は図書室でいつも通り小説を読んでいた。自室以外で本を読んでいると、絶対に誰にも見られているはずがないのに誰かに見られている気がする。そのせいで僕は小説に集中できず、図書室にいる人間の観察をする。一人で本を読んでいる人と一人で勉強している人は勝手に仲間意識を持つのと同時に、自分よりも価値の低い惨めな高校生活を送っているのだろうと想像で決めつけて、なぜあるのか自分でもわからないような自尊心を慰めていた。悲しいことにこれくらいでしか僕の傷つけられた自尊心を慰める方法は見つからなかった。
クラスの女子と日常会話はおろか授業中に無理やり隣の席のクラスメイトと話し合いをさせられることくらいでしか学校内で言葉を発さなかった僕は、前の席に座ったのが自分のクラスメイトであるとは気づかなかった。
ふと、本から目を離し、時計で時間を確認しようと顔を上げた瞬間、前の席でこちらを見つめていた水無瀬柚と目が合った――正確にはこの時点では彼女の下の名前は思い出せなかった。
やっと気づいてくれたと言わんばかりのなんとも形容しがたい表情を浮かべ、
「私の小説を書いてくれませんか?」
彼女は真面目な口調でそう言った。
水無瀬柚は、肩にかからない程度に切り揃えられた絹のような美しい黒髪が印象的だった。クラスでは大人しくて口数も少なく、声も小さい。だが、僕と違って少人数だが友人はいるし、腫物のような扱いは受けていないどころか、口には出さないが、彼女の事を目で追ってしまう男子生徒も少なからずはいると僕は思っていた。
そんな彼女に話しかけられた僕は、慌てふためくでも、思考が停止して固まってしまうでもなく意外と冷静に、僕を僕と認識して目を合わせて話しかけてくれたのは、家族以外でどれくらいぶりだろうと考えていた。
何も言わない僕に対して彼女は
「何か質問はありますか?」
と言葉には出さずに顔の表情だけで訴えかけていた。質問したいことは山ほどあるので、一つ一つ丁寧に聞いてみた。
「さっきの言葉の確認だが、僕が君が主人公の小説を書くという解釈であってる?」
「その通りですが、別に私は主人公でもヒロインでも構いません」
「なんで僕なんだ? 僕よりもっと君の事を知っている人のほうが適任じゃないか?」
「それは私も思いましたけど、どうせなら小説が好きな人に書いてもらいたかったんです。私が知っている中で一番小説が好きな人と言ったら、あなたです」
「確かに僕はいつも小説を読んでいるけど、一度も書いたことなんてないよ」
「書いたことある人なんてほとんどいないと思いますけど」
「それもそうか」
「ええ」
「もし、僕が書くとして期限はいつまでだ? あと、ページ数はどれくらいにすればいい?」
「うーん、期限は夏休みが終わるまでで、ページ数は平均的な小説程度であれば何ページでも構いません」
「もし、僕が書くとしてジャンルとかは決めてるのか?」
「なんでもいいですよ。あなたが決めてください」
「最後の質問だけど、僕が書かないって言ったら?」
「それは困りますね」
そう彼女が言ったところで授業開始五分前を告げるチャイムが鳴った。
「これIDなんで、今日中に書くか書かないか決めてください」
彼女はメモを僕に渡して席を立った。彼女がこんなに喋っているのを見たのは初めてだった。
午後の授業の間中僕は、水無瀬との会話を何度も何度も頭の中で繰り返し再現していた。久しぶりの会話と呼べる会話をしたことが嬉しかったのと、単純に女子からお願いをされるのが初めてで驚いたのと、水無瀬とあんなに喋った男子は僕だけではないかという優越感とが入り混じった感情が、僕の判断力を鈍らせていたのかもしれない。僕は帰りのホームルームが終わってすぐに、彼女にメッセージを送った。既読はすぐにつき、
「良かったです、今日は部活は休みの日なので駅前のファミレスで会いましょう」
そう返事が返ってきた。