薄い膜一枚を隔てた先にあるのは
「……ノーアに、命じる?」
衝撃的なその言葉に、私はハッとして首を振った。
「むっ、無理だよ無理!ノーアは私の言う事を聞くような存在じゃないって、相楽くんもよく知っているでしょう!?」
ノーアは現象に満たない存在の事を言う。
それは私の視線や声で形作られ、初めて現界するのだ。
今まで無意識にして来た事を悔みこそすれ、自分から生み出すなんて危険な事出来るはずがない。
「元々望み薄だ、やれるだけやってみないか」
「何が目的なの?私は出来ない、やってしまったら最後、私にだってどうなるか分からないのよ!?」
目の前の暴走したノーア達は、着々と黒く染まりサラリーマンの彼を触媒に大きくなっていた。
時間が無いのは分かっているものの、そんな危険な策に出なくても緒方さん達を待てば良いのに。
「……時間勝負なんだ、あと数分であのサラリーマンは死ぬぞ」
「え」
「何を驚いている?ノーアは人を殺さないとでも思っていたのか?」
嘲笑うかの様に、相楽は鼻で笑った。
「俺が言った言葉、もしかして時間稼ぎの為だと思ったのか?
待っていれば緒方さん達が助けてくれるって??
やっぱりお前は甘ったれだ。
出来ないなら良い、俺があの人を殺してやる」
「なん……で、殺すって」
落ちるだけ落ちれば楽になれると頭では理解しているが、言葉が追い付かない。
それは、どう言う事なんだろう、ノーアは、人を殺すのか?
「ノーアをばらけさせる事が、仕事だって」
「ノーアの心臓、連結部分を壊す事。
それは取り憑かれた人間の心臓を壊す事だ、要するに殺すんだ」
「そんな……」
なんでも無い事の様に話していた、それは私の見間違い?
驚きとショックで言葉が出ない私に「期待しただけ無駄だったか」と相楽は小さく呟いた。
「動かないならもう良い、別にそこまで期待していないからな。
お前はここで待っていろ。
どうせ緒方さん達が来たら日向の奴がお前を保護してくれるだろう」
それは暗に「役立たず」と言われた様なものだった。
もちろん私にそんな力は無いし、今も怖くて足が震えている。
この1週間程でなんとなく理解していたぼんやりした輪郭は、さらに複雑に見えてしまってまるで迷路の様だ。
私は何もしなくても良いはずだった。
私が動けば無意識にノーア達を呼び集め、そして生み出してしまうからだ。
けれど彼等はただ行き場を探しているだけのモノや、どうしてここに在るのか分かっていないモノの集まりであり、人の思いや意思に寄り縋って集まるかよわきモノ。
それらを束ねるだけの力が、私に在るとは思えない。
それに、出来たとしてどうすれば彼等を自由に出来るのか。
「下がってろ」
僅かに緊張した声で相楽は歩き出す。
彼は殺すと言った。
そして日向はばらけさせると言った。
相楽はノウンされたノーアを殺す事は取り憑かれた人間の心臓を壊し、殺す事だと。
日向はノーアの核を突いてばらけさせると。
確かに今言われた言葉通りなのだとしたら、取り憑かれた人間の核とノーアの核が同調してしまう限り、殺さなければならないのだろう。
だけど、私なら。
グッと相楽の服の裾を掴むと苛立った様に振り返ったが「覚悟は決まったのか」と問われ、私は頷いた。
「相楽くんの言っている意味は、よく分かる。
怒る理由も。
だからこそ、何か違う事をやってみる必要があると、私も感じた」
眼鏡を取って、改めて黒く深い色を覗き込んで、分かる。
ちゃんと核は二つある。
ノーアの核と、サラリーマンの彼の核。
同調はしているけれど、彼等はやはり別の存在だ。
生きている人間に完全には溶け込めていない。
そして彼の方も、理性が残っている分はっきりと自身の色を持っていた。
どの位置で私自身を確立する必要があるのか、加減は出来るのか、それら全ての感覚はさじ加減だった。
思うまま動くしか道は無く、私のしようとしている事に関して誰に聞く事も出来ない。
だからあえて、問い掛けるのでは無く命令として声を発する事にした。
「……お前達、私の声が届いている?
もしまだ私の声が聞こえているのなら、その人から離れなさい。
お前達を生み出したのは私よ、よそ見なんてさせないわ!」
意思をぶつけるかの如く、私の声にノーア達は狼狽えた気配を見せた。
目に見えて黒から赤く、青く、黄色に点滅を繰り返す。
その隙に「核は左胸、浅く!」と相楽に叫ぶと「了解」と不敵に笑って拳を繰り出す。
何かが小さく光った様に見えたが、ドスッと言う鈍い音と共に繰り出された相楽の拳に、サラリーマンがその場に倒れ込むと。
彼の「生きてる」との声を聞いてホッとして私もそちらへと駆け寄った。
「……こちらも大丈夫みたい」
ふわりと肩にそよぐ風が意思を持って私に触れる。
こんなに穏やかにノーアに触れたのは初めてだった。
「怒っているわけじゃないの、お前達は自由で良いのよ」
触れるわけでも無いけれど、その場に在ると頭で決め付けてしまった。
その時、小さく光ったノーア達は小さな猫の形を取って私の腕に落ちて来た。
それにギョッとしたのは私だけでは無いらしい。
「えっ、お前……そう言う事も出来ちゃうの?」
「いや……えっと、なにこれ」
「……やっと、話せた!」
子供の様な甘い声で、甘える様に私の手に頬を寄せる猫に、相楽と見合って黙り込む。
「ハルコ!ハルコ、ハルコ〜!!」
「えっえっ、どうしよう、懐かれた……さ、相楽くん!」
「いやいや、生み出したのはお前だろ」
「どうしよう、どうすれば良い!?」
「ハルコ!僕達ずっと待ってたんだ!!」
頭の中に直接響く声と同時に、みゃーおと鳴かれてさらに困る。
「待ってたって?」
「ハルコと話しが出来れば良いのにって!
やっと、僕達の声を聞いてくれるんだね」
嬉しそうにてのひらに、胸に擦り寄ってくる子猫の姿をしたノーア達。
達、と言うからには複合体なのだろうけれど、これはいくつものノーアが見せる幻覚なのだろうか?
「……ヤバいな」
「うん」
ゴロゴロと喉を鳴らすノーアが可愛く思えて来て困り果てた頃、相楽からのメールに驚いてすっ飛んで来たであろう緒方と日向がやって来て、取り敢えずサラリーマンの彼は事情を聞くべく別の班に連れられ、私達も荷物と子猫と共にアヴリウスに帰る事になった。
とんでもない事をしでかした気もするが、ひとまず何かを変えるには自分から動き出さなくてはいけないと頭の中で整理しつつ、生み出したもののヤバさに肝を冷やすのだった。




