塗り潰された平和の上の薄氷を踏む
私は思った。
あの日を境に見えるこれらはきっと、私にとって不要な物なのだと。
人の隣に寄り添うように見える人の影のようなもの、キラキラと光を纏った魚達、岩石をくっつけた亀、うっすら光に映されると透けてしまうそれらの存在は酷く脆く私が存在を確認させなければ見えない、一種の幻想だ。
どこかの世界にはあれらの名を知る人が居るのだろうか。
たゆたう水のような、緩やかでいながらも流れの速いこの世界では私の存在は希有だった。
見えるもの、感じるものは多数居た。
だけれど「確立させてしまう人間」は居なかったからだ。
視線で名を与え言葉で存在を確立させてしまう能力は「ノウン」と呼ばれ、私達人間を創り出した神の名から取ったとされている。
ノウンはこの世界にある生き物、あるいは現象、あるいは行いに結果を紐付けて存在を与えてしまう行動である。
人ならざる所業だとして、その存在は秘匿とされて来た。
私は一般の生まれであり現在までその能力は隠し続けて来たが……とある事件で浮き彫りとなり、研究機関「アヴリウス」に捕まってしまった。
ノウンは現代の魔法と呼ばれている。
その視線は百の魂を救済し、その声は千の人々を震え立たせ、その行動は神に等しい。
人には過ぎたる力は時に恐れられ、嫌悪される。
隠すべき能力だと理解した気で居た。
アヴリウスは研究機関であり、国と直接の繋がりは無い。
ノウンの能力の研究、解明を主に行っており基本的には表に出ない様なものが多く、私も自身の存在があって初めてこの機関を知ることになった。
捕獲された私はてっきり研究材料として飼育されるのかと思いきや、思った以上に待遇が良く。
日々提供される食事は今まで食べていた以上に栄養が豊富だった。
私をモルモットとして飼うつもりなのだろうか。
黙々と食事を口に運びながら、毎夜血を取られる。
それはきっと私の血を媒体に怪しいところが無いか探っているのだなと当たりをつけた。
「…………」
無機質な部屋にはベッドと机、そして少し高い位置に嵌め込み型の出窓と、カウチが置かれている。
一人には過ぎる広さの部屋と、綺麗なトイレと風呂。
牢屋に入れられるかと思えばこの扱いで正直びっくりしてしまった私は、今日も変わる事なくやって来た朝にため息を吐き出してしまったのだった。
時間は10時ジャスト。
白衣を着た男が私の置かれている部屋へと入って来た。
扉にはロックが掛かっていて、自由に出ても良いとされたが出た事が無い。
白衣の男の名は高城と言うらしく、私がここに来てから毎日熱心に私に語り掛けて居た。
「……おはよう、今日は気分はどう?」
「いつも通りすこぶる普通です」
「良い夢は見られたかい?」
「黒い霧に飲み込まれる夢を見たけれど、すぐに切り替わって海の中に居た。
今日は砂漠の中でリンゴを拾って、ジュースにして飲んだ。
いつもの通り美味しかったし、砂漠では熱気も感じてすごく暑かった」
「そう……やはり君は毎日夢を見ていて、それを忘れていないんだね」
嬉しそうに笑みを浮かべた高城は「今日はお知らせがあるんだ」と私の方へ視線を送る。
お知らせと言われても、代わり映えしない日々を過ごす身としてはあまり波風を立てたく無いのだがと難色を示すと「変な事じゃないよ」と苦笑する。
「バイタルも安定しているし、この研究所内であれば出歩いたり出来るように許可を貰ったんだ。
君はノウンが使えるから目をよく使うでしょう?
それを制御する為のメガネがようやく完成したんだ!」
嬉しそうな理由はそれか。
私は手渡されたメガネを見て目を細める。
繊細なセルフレームのメガネには側面にオレンジ色の細工が浮かんでいる。
パッと見る限りでは変なものは付いていないようだが……。
「隊員の女性達に案を出してもらって、年頃の女の子の喜びそうな細工を入れたんだけど……どうかな、気に入ってもらえたかな?」
「……はい、好みです」
そう答えてメガネを付けると、高城は笑みを深めた。
ノウンは否応無しに価値を決める行為であり、そこに私の意思は存在しない。
これはあれ、あれはこれと存在を確立させて分類してしまうのだ。
私に見える世界は他の人とは違い情報がまとまっていないデスクトップのようなものだ。
様々なソフトやファイルが乱雑に並んでおり、私はその分類に名前を付けファイル分けする機械。
自分の脳味噌が焼け焦げても自動的に処理しようとするのですぐに疲れるし熱が出てしまう。
このメガネは恐らくそれを防ぐ為のものだろう。
人に見えない物の多くは霞のようで、不確かなそれは名付けを待っている方が多かった。
自分自身の存在に意思を持ったそれらはこの世界に数多く存在し、古くからある人間達のエゴが形作った幻想。
言葉の意図を色彩として見たり、匂いが光に見えたり、視覚だけの情報では足りず固形化する何かも居る。
それら全てを確立して現象として理解、そして認めてしまうとそれらは私以外にも見えるようになってしまう、それがノウンだ。
昔から気味悪がられ親からも捨てられた私が、どうしてこの場でこの様な施しを受けているのか不思議でならない。
私は消されなければいけないはずだ。
よく言う「世界を知り過ぎた」存在であると考えている。
なのに毎日ご飯を食べさせてもらって、綺麗な部屋でごろごろと。
私はなぜ生きているのか?と、日々疑問を持たずには居られない。
てっきり私を取り込んで研究する為のモルモットにするつもりだろうと思っていた研究者の高城でさえ、毎日笑みを浮かべて朝10時には「元気かい?」と朝食を持って現れるのだ。
調子が狂う。
それに、今日貰ったメガネはとても素敵な物だ。
色も匂いも、そして私の目に見える異形が薄れて見える。
これは恐らく普通の人間と同じ様に見えて居るのだろう。
昨日まで足元にくっついていた青く綺麗な魚も、空中を泳ぐ人の子も居ないのだから。
「それじゃあ、外に出てみようか」
差し出された手を取ると、私は初めてこの部屋から出るのだった。