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Garden~2人と季節の短編集~  作者: 葛生雪人
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第1話 春の桜

 彼からの便りが届いた日、花はすでに散り始めていた。

 まだまだ寒い日が続いているらしい。教室のストーブも充分活躍していると言う。人一倍寒がりな彼が背中を丸める姿が目に浮かぶ。

かといって暑さに強いわけでもなく、春だけが彼の季節だった。

 本州が初夏を迎えるころようやく桜が咲く。桜が咲くと彼は狂ったようにピアノを引き続けた。



 背中を伝わる温もりのせいで、ほんの少し眠くなる。温もりだけじゃない。ピアノを弾く彼の、起伏のある体の揺れが、ゆりかごのそれを思わせる。春の陽気の中ではなおさら睡魔に勝てはしない。

 放課後の音楽室、聴いたことのない旋律が流れる。ゆったりとしたメトロノームの呟きに、急かすような旋律が重なる。かと思えば、幼子の歩みのような頼りない、しかし微笑ましいメロディーが音楽室を占領した。

放課後に奏でられる曲は、どれも彼のオリジナルだ。いつも悲しげなメロディーばかりで、それなのに彼の顔はいつも優しい表情だった。時折、微笑みさえ見せた。

桜が咲き、やがて舞い散り、その後にやって来る蝦夷梅雨が終わるまで。その期間だけ、彼は口癖のように

『俺、天才かも』

と言う。天才月間らしい。

 そんな彼と背中を合わせるのが好きだった。

 背もたれのない椅子を並べ、お互いの背に寄りかかる。視線はけして彼を見ず、窓の外を眺めていた。気の利いた会話などもできず、愚痴をこぼすので手一杯で、彼もまた演奏で手一杯……いや、きっとそっちのほうが大切だっただろう。

 そう。いつでもこの口をついて出る言葉は愚痴ばかりだった。授業中の失敗。親が望む進路。友人たちとの会話。初めは世間話のつもりが話しているうちに愚痴へと変わっていった。どうして彼に打ち明けたのかわからない。そもそも、打ち明けなければならないようなことが自分の中に存在していたとは思いもよらなかったことだ。

大きな挫折を味わったことはない。よく、人に羨ましがられる。親にも褒められ、先生たちにも「自慢の生徒だ」と言われる。友達にも不満はない。誰もが望む、そんな人生を生きていると、そう思う。なのにその上、何を望んでいたのか。聞いているのかわからない相手に延々と話し続けた。彼は本当に何も応えずに演奏を続けるのだ。

そして帰るときになって

「大変だね」

と微笑む。それ以上何も言わない。それは本当に欲しかった答えではないのだけれど、何故かその言葉とその顔、そして背中の温もりに元気づけられた。



「今日は桜のために、一曲」

 桜が散り始めたあの日。彼のピアノはいつよりも速いテンポの曲を奏でていた。背中越しに伝わる鼓動が違う。

 散り逝く桜への鎮魂歌だと思っていた。去る季節を惜しむあまり激しい曲になってしまったのだと。それほどに彼にとって桜は特別であり、春と言う季節はやはり『天才月間』なのだと思っていた。そして、今年だけは、その『天才月間』が悲しい季節になってしまったことも知っていた。

 彼の演奏の途中、思わず目蓋を閉じた。

 小刻みに震えていたのは彼の背中ではなかっただろう。

 彼のプライベートはよく知らない。

 こうして音楽室で会うだけの存在。廊下ですれ違っても軽く会釈する程度だ。でも、彼が誰かに恋をして、その恋が儚く散っていったことは知りたくなくても知ってしまった。

 今年の『天才月間』は、悲しい季節なのだ。

音が途切れた。

 彼の手が止まった。しかし二人の背中は震えていた。

「桜、散っちゃった、ね」

 ごまかしきれない感情が声に宿る。声をかけてしまったことを少し後悔した。

 彼の体重が背中にかかった。

「??」

 どんどん重さが増していく。彼の重さのせいで、私の小さな胸は太ももにくっついた。

「ちょ、ちょっと、苦しいんだけど……」

 うめき声を上げると彼は大声で笑った。

「桜が散るのは悲しい?」

 いたずらな表情をしている気がした。幼子が意味のない問答をするように、彼は無邪気に笑う。笑いたいだけ笑って、その後に大きく伸びをした。彼の体重から解放される。背中の温もりはそのままで。

 彼の温もりを感じながら、窓の外の桜を見つめた。

鈍い光を放つ窓枠の額縁が切り取った青い色の中に、他の何ものよりも強い存在感をもつ穢れのない桜の花弁。風に舞い、青の上を泳いでいく。

 青を渡り、真白な陽と重なったとき、白の輝きよりも桜花の輝きに目がくらみ目をそむけた。

「悲壮感。今日、国語の田中が言ってた。悲しいに決まってるよ。昔の人も歌に詠んでたりするわけだし」

「そうだね。でも、それは《当然》の意見」

 彼の指がまた鍵盤の上で踊りだす。

「俺は桜の勇姿を称えたかった」

 教室に響く音。彼の背中から伝わる音。音に誘われ桜が舞う。

「何者をも凌駕し、全てを魅了する。にもかかわらず、散るときは迷いなく潔い。儚くなどない。散る様は雄々しく感じる。人が望む『永遠』が愚かにさえ思える」

「今年もそう言える? 本当に淋しくない? 悲しくない?」

「天才は《当然》とは違う見方ができるのさ。どんな時であろうともね。

……っていうか、変に気を遣うなよ」

彼の指が襲いかかる。

腰をくすぐられ、思わず声を上げてしまった。笑い転げ、椅子から落ちそうになったところで、彼の腕に抱え上げられる。無様な体勢でとどまり、背後の彼の顔を見上げた。

 笑い声に、荒い息が混じる。

 静まり返った部屋で聞こえるのは、二人の吐息だけだった。グラウンドの運動部員たちの荒々しい掛け声、向かいの教室から聞こえる机を引きずる音、全ての音が確かに存在しているのだが、何故か吐息の音だけが残り、繰り返すごとに、鼓動と重なっていく。

 二人の吐息だけがそこに在り、二人の視線だけが活きている。いや、もう一つの視線。二人を見つめる、桜の円舞。

 彼は鼻で笑って見せた。うさんくさい天才が強がったように見えた。

 だから、いつもと同じように愚痴をこぼしてしまった。

 彼もいつもと同じように、何も言わず演奏を続ける。

 違うのは彼のメロディー。

 そして帰りの一言。

「ありがとな」

 そう言って、彼は二十センチ下にある、私の肩におでこを寄せた。

 校門の外、冷たい風が春の匂いを連れてくる。見上げた空には星の代わりに桜の花びらが舞っていた。



 彼のもとはまだ吐く息も白い。

 それでも、少しずつ春はやってくる。気づかぬ間につぼみが膨らみ、天才月間がやってくる。離れた場所で迎える天才月間。

 決意したとき、皆は驚きながらも快く背中を押してくれた。何を望んでいたのか。その時に得た温もりは彼の背中の温もりと何らかわらぬものだった。



朝の公園。

春霞が包んだ桜の道は、あの夜のように冷たい空気。そして同じように桜の匂いが立ち込めている。

 手に持っていた手紙に花びらが舞い降りる。

「一足先に、勇姿を眺めてるよ」

 応えもなく笑う姿が目に浮かぶ。

 天才の旋律は変わらぬ響きで、今もこの胸の奥、力強く、桜の勇姿を称えていた。


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