不信
フラフラと繁華街を歩いていると、チラシを配っている若い女子が視界に入る。おそらく近所のメイド喫茶の店員だろう。自分よりも明らかに若い少女達の横を通り過ぎながら、あたしはふらりと覚束ない足取りで街を歩く。
ドン、と肩に鈍い痛みが走る。どうやら、誰かにぶつかったようだ。謝ろうと顔をあげると、そこには誰もいなかった。
「あれ?」
首を傾げると、どさりと鈍い音が足元で聞こえる。視線を下ろすと、そこにはストライプ柄のパンツスーツを着た女性が、うつぶせで倒れていた。やばい。一気に目が覚め、あたしは慌てて女性を抱き起す。彼女はしまこで、漫画のように、目をクルクルと回していた。
「ちょっと、しまこちゃん! 大丈夫?」
「え、あぁ……。みくりん……。今日は、よく会いますねぇ」
焦点の合わない瞳で笑いかけるしまこに、あたしは「喋らないで」とポケットからアイフォンを取り出す。手が震えて、何回か落ちそうになるアイフォンを必死に掴んで、通話画面を開いた。
「どうしよう、救急車……」
「大丈夫ですよ……。いつものことなので、これを飲めば治ります」
そう言って、しまこは持っていたコンビニのビニール袋から栄養ドリンクを取り出す。そして、力の入らない手でどうにかこじ開けると、一気に飲み干し、ぷは、と大袈裟に息を吐いた。
「生き返りました」
そう目を輝かせながら、勢いよく起き上がるしまこ。あたしは「そう、よかったわ」と苦笑いすると、腰と膝を曲げて彼女に手を差し伸べた。
「立てる?」
「はい。でも、手をお借りします」
そう笑ってしまこはあたしの手を掴むと、すくっと立ち上がった。あんなにフラフラだったのに、今ではぴしっと姿勢よく立ち上がっている。そんなしまこを眺めて、あたしはクスりと笑った。
「結構タフなのね。しまこちゃん」
「社畜ですからね。推しに貢ぐためなら、えんやこらですよ」
「推し、ね」あたしは俯き気味に言葉を続ける。「その推しってさ、あたしも入ってる?」
あたしは何を聞いているのだろう。我に返り、慌てて「ごめん、忘れて」と俯いたまま言葉を重ねる。しまこの顔を見れずにいると、しまこは再びしゃがみ込み、あたしの顔を見上げて、優しく微笑んだ。
「もちろんです。あなたに会いに行かないとですからね」
その顔に、またあたしは泣きそうになるのをグッと堪えて「ありがとう」と笑った。
「少しは元気、出ましたか?」
「えぇ」
「それは、よかった」
そう言って、しまこは立ち上がると、ビニール袋から栄養ドリンクをあたしに渡す。
「これ、元気出ますよ」
そう笑って、しまこは颯爽と夜道に消えていく。彼女が向かったのはオフィス街。こんな夜中から仕事に向かうのだろうか。戦地へ消える彼女を見送り、あたしは自宅に向かって歩き出した。
「美玖」
背後から、あたしを呼び止める声が聞こえる。楓だ。
長い髪を風に靡かせながら、楓は険しい顔でこちらを見ている。
「楓、あんた、仕事は?」
「終わったよぉ。美玖、今、誰と話していたの?」
今までに見たことがない、厳しい表情のまま、楓はあたしを見つめていた。
「何、どうしたの?」
困惑するあたしに、楓は小さく息を吐く。
「今話してたの、しまこちゃんよね?」
「そうだけど」
そう答えながら、あたしは眉を寄せる。なぜ、しまこと話していて楓が怒るのだろうか? 首を傾げると、楓は「あのね」と口を開く。
「あたし、しまこちゃんのこと疑っているの」
「え?」
疑っているとは、恐らく脅迫状のことだろう。しかし、どこにしまこを疑う要素があるのだろうか。理解できず、さらに困惑をしていると、楓は「あたし、見ちゃったの」と続けた。
「しまこちゃんが、店の前を歩いているのを」
「あぁ……」
なんだ、と安堵しながら、あたしは苦笑いをする。
「あの子、職場がこの近くなの。さっきも休憩で外に出てきたみたい」
「……でも、それって簡単に脅迫状貼りにこれるってことよね?」
「ちょっと」
あまりに雑すぎる推測に、あたしは眉を寄せる。日頃からあたしに暴言を吐いているのりぽんならともかく、しまこは最近通い始めたばかりの新規客だ。あたしを脅迫する理由がない。
「あんた、のりぽんが怪しいって言ってなかった?」
「あたし、見たの。昨日、のりぽんとしまこちゃんが、公園で話し込んでいるところ」
「なんで? のりぽん、昨日しまこちゃんのこと、すごい睨んでいたのに」
動揺し、早口になるあたしとは対照的に、楓は平静で「わからない」と首を横に振る。
「でも、すごく仲が良さそうだった。あの二人、昨日は早めに帰っていったじゃない? ずっと二人で話していたんじゃないかな? さっきだって、偶然にしてはタイミングが良すぎない? ずっと、この辺りで、あんたが来るのを待っていたんじゃ」
「やめて」
これ以上、楓の推理は聞きたくなかった。思い返せば、しまこの行動は不自然なことばかりなのだ。一番最初、のりぽんから助けられた時、一緒にラーメンを食べた時も。昼間、カフェですれ違った時も。さっきだってそうだ。彼女の登場は、全てタイミングが良すぎる。彼女の声を遮り、あたしは「理由がないじゃない」とどうにか返す。
「……そうだね、ごめん」
楓は、そう謝ると、あたしの隣まで早歩きで寄ってくる。
「しまこちゃんは、美玖のお気に入りだもんね」
「別に、そんなんじゃないわよ」
「そんなことあるよ。だって、美玖が店の外で、自分からお客さんに話しかけるなんて、初めてじゃない?」
そう笑う楓の笑顔には、どこか含みがあるようだった。その笑みを浮かべたまま、楓はこう続ける。
「でも、覚えておいて。ファンの存在はありがたいけど、同時に敵にもなりえるんだから」