あたしばかり
しかし、気持ちが軽くなったのもほんのつかの間だった。
時刻が夜間帯に入り、今日も店の中心に鎮座しているのりぽんを遠くから眺め、あたしは重いため息を吐く。やはり、昨日の脅迫状はのりぽんだったのだろうか。しかし、冷静になって考えてみれば、彼が犯人だという証拠がない。あたしは再びため息を吐いた。
「長いため息ねぇ」
苦笑交じりの声に、あたしは後ろを見る。そこには楓が少し悲しそうな顔でこちらを見ていた。
「一緒に行こうって言ったのにぃ。なんで置いて行ったの?」
「あぁ、ごめん……。ちょっと、予定があったから」
「じゃあ、メールしてよぉ。今日ずっと悲しかったんだからぁ」
そう言って頬を膨らませ、楓は可愛らしくこちらを睨んでいる。あたしは「うん」と頷いた。
「ごめんね、楓」
あたしが謝ると、楓はしばらくあたしの顔を睨み、そして、いつものようににっこり笑った。
「いいよぉ。あと、のりぽん。美玖のこと探してた」
「あー、うん……」
あたしは肩を竦めると「行ってくる」と頷き、のりぽんの所へ向かった。
「こんばんは、のりぽん! 今日も来てくれたんだ!」
「あ、えっと……。あぁ」
少しバツの悪そうな顔でのりぽんは頷く。今日は《化石》呼ばわりをせずに、素直に頷く彼に違和感を感じたが、大人しいに越したことはない。
「ご注文は、どうしますかぁ? お酒飲むー?」
「あ、えっと。今日は、生ビールと。あと、《ライブ》を」
一瞬耳を疑った。
いつもは、面倒な駆け引きや嫌味をたっぷり堪能した後で《ライブ》を注文するのに、こんなにあっさり注文するだなんて珍しい。あたしはどうにか悟られないように、にっこり笑いかけた。
「わぁい、ありがと! さっそく準備してくるね!」
「あぁ」
頷くのりぽんに手を振って、あたしはステージに上がる。やはり様子がおかしい。こんなにしおらしいのりぽんなど、初めて入店した時以来だろうか。
まさか。
あたしの脳裏に、一つの可能性が過ぎる。
まさか、あの脅迫状を送り付けた、罪悪感を感じているのか。
流れ出すポップなイントロに、あたしはハッとなる。《いぶにんぐ・がーるず》の《どりーむ・めいきんぐ》。あたしの十八番だ。
マイクを手に取り、あたしは歌いながらステップを踏む。のりぽんは、神妙な面持ちでサイリウムを振っていた。手を振るも、いつものように嫌味っぽい笑顔はない。ただ気まずそうな顔で、サイリウムを振るだけだった。
のりぽんは、ライブが終わった後も、ずっとそんな調子だった。
一体どうしたというのか。もしかして、予想通り、彼があの脅迫状の犯人なのだろうか。そんな疑惑を抱えながら、あたしは一回バックヤードへと戻る。中では、妙に重い空気を放ちながら、一枚の紙を見つめる店長と楓の姿があった。退職に向けての話を進めているのだろうか。邪魔をしまいと、あたしはそっとフロアへ戻ろうと扉に手を掛ける。
「あ、美玖。待って」
店長に呼び止められ、あたしは振り返る。一体どうしたのだろう。強張った店長の声に不安を感じながら、楓と店長の輪に交じる。
店長の手にあったのは、昨日送られてきた紙と同じ、赤い絵の具で書かれた脅迫状だった。
《みくをやめさせろ》
その狂気めいた文字に、あたしは一歩後ずさる。
「これ、楓が見つけたの。さっき、外に宣伝に行った時に。店の壁に貼られてたんですって」
店長の説明に、楓は気まずそうに俯いている。そして、恐る恐るあたしの顔を見上げた。
「ねぇ、美玖。まさか、のりぽんが……」
「楓、滅多なこと言わないで。それに、あの人は今日、ずっとお店にいたじゃない」
「でも、来る前に貼ってきた可能性も」
「大丈夫です」
言い争う店長と楓の声を遮るように、あたしはそう言って精いっぱいの笑顔を向けた。これ以上、この脅迫状のことを考えたくなかった。
「あたし、フロアに戻りますね! お客さんいっぱいいるし」
「ねぇ、美玖。今日は帰りなさい」
店長は、まっすぐにあたしの顔を見つめてそう言った。あたしの肩に手を置き、優し気な笑顔を向けて、店長は言葉を続ける。
「動揺してるの、よくわかるわ。一回、家に帰って休みなさい。明日も、休んでいいから。そして、元気になったら、また出勤して」
店長の言葉に何も言えず、あたしは「はい」と頷く。その隣で、楓がおろおろと狼狽え、何かあたしに言葉を掛けようとしていたが、それに気が付かないふりをして、彼女の脇を通り過ぎ、更衣室に向かった。
店長の対応が気遣いなのはわかっている。
ただ、どこか見放されたような気分で、あたしは更衣室の扉を開けた。
「待って!」
追いかけてきたのは楓だった。あたしが閉めようとした扉を無理矢理こじ開けて、中に入ってくる彼女に「ちょっと」とあたしは睨みつけた。
「危ないじゃない。あんた、お腹に赤ちゃんいるのに」
「大丈夫。走ってないし、負担になるようなこと、してないからぁ」
そう言って、楓はにっこり無邪気な笑みを向ける。
「ね、一緒に帰ろぉ。あともう少しで、深夜担当の子が来るから」
「ごめん、楓」
彼女を拒絶するのは二度目だ。そんなことを考えながら、あたしは視線を外したまま「あたし、一人で帰りたいから」
「でも、一人じゃ危な……」
「大丈夫だから。ごめん」
そう楓の言葉を遮ると、少し泣きそうな顔で彼女は頷き「わかった」と扉を閉めた。あたしは、ブラウスのボタンに手を掛ける。
震える手で、ボタンを外し、二つ目のボタンに手を掛け、そのまま外せず座り込んだ。
「なんで、あたしばかり」