卒業と孤独
「めずらしいじゃない、バラードなんて」
バックヤードで水を飲む楓に、あたしはそう声を掛ける。楓は「えへへ」と笑いながら、ペットボトルのキャップを閉めた。
「大人っぽくて、いいでしょ」
「いつから、辞めるって決めていたの?」
そう言うあたしの声は震えていた。おそらく、あたしは今、酷い顔をしているだろう。楓は泣きそうな顔で笑いながら「ごめんね」と告げた。
「あたしね、結婚するの。……出来ちゃって」
そう言って楓は、自分のお腹をそっと撫でる。《できちゃった》の意味がわからないほど、あたしは子供ではない。
「できちゃったって、あんた……」
「ごめん」
あたしの声を遮るように、楓はあたしの隣を通り過ぎ、ドアを開ける。
「フロアに戻るね」
パタン、と扉が閉まる音がバックヤードに響く。あたしは冷蔵庫から自分の麦茶のペットボトルを取り出し、蓋を開け、口をつける。すると水分が気管に入り、あたし激しく何度もせき込んだ。
「けほっ……はぁ、もう」
あたしは、荒い息を何度も吐き出すと、その場にしゃがみ込み、膝に顔をうずめる。
予想をしていなかったわけではなかった。いや、きっとスタッフ全員、店長も楓の退職を予想していたと思う。毎日、暇さえあれば出勤し、客に笑顔を振りまいていた楓は、九年間、この店で見てきたどのメイド達よりも、花があって、明るくて、客想いで熱心だった。そんな楓が男を作り、出勤日数もまばらになっていった。誰もが思っていただろう。《まだ、辞めてなかったんだ》と。
まぁ、《化石》のあたしも、思われているんだろうけど。
着々と卑屈になっていく思考から抜けるため、あたしは二回、首を横に振る。ここのところ、あたしの精神はどうも歪んでいる。
いい加減戻らなきゃ。あたしは立ち上がると、鏡の前でニコリと笑った。どこか歪な自分の笑顔に、あたしは涙が出そうになった。
「美玖」
バックヤードの外から声が聞こえる。店長だ。戻るのが遅いと呼びに来たのだろう。慌てて外に出ると、やはり店長が困った顔で立っていた。
「いつもの客が呼んでるわよ」
反射的に眉を寄せる。《いつもの客》とは、のりぽんのことだろう。そんなあたしの気持ちを悟ったようで、店長は「ちょっと」と苦い顔をする。
「気持ちはわかるけどさ、堪えてよ。一応、毎日来てくれている、ありがたいお客さんなんだからさ」
ね、とあたしを宥めるように、にこりと店長は笑う。そんな彼女を見て、どこか情けない気持ちになる。
「わかりました」
あたしは頷くと、店長の脇を抜けフロアに出る。
「遅いぞ、《化石》」
いつものように、のりぽんは嫌味な笑顔で、偉そうにあたしを呼びつける。あたしは「はぁい」とにっこりと笑って彼の席に向かう。
一瞬、視界の隅に、何か言いたそうな瞳でこちらを見ているしまこが写ったが、あたしは見えないふりをした。
***
気が付くと、しまこは帰宅していた。また、別のメイド喫茶にでも行ったのだろう。
のりぽんも、今日は珍しく、早々に帰宅していた。彼のいないカフェは平和で、化石と呼ばれることもない。しかし、あたしの気持ちは晴れなかった。
ため息をつく気力もなく、鬱屈した気持ちで更衣室から出る。
「美玖」
更衣室の外には、楓が立っていた。彼女は着替え終わっており、こちらを見て穏やかに微笑んでいる。
「あんた、先帰ったんじゃなかったの?」
「帰らないよぉ。同じアパートじゃん。一緒に帰ろう」
「……うん」
あたしはそう頷くと、彼女から視線を外し少し前を歩く。その後を、楓は「待ってよ」と速足で追いかけ、隣を歩き始めた。
「あのさ、美玖。今日、夕食一緒に食べようよ。ラーメン、好きでしょ?」
「ごめん、昨日食べたから」
顔を見られないまま、あたしはそう短く返す。反射で口調が冷たくなってしまったが、楓はいつもの調子で「そっかぁ、残念」と笑った。
「あたしさ、卒業まで毎日出勤することにしたから。と言っても、あと一週間だけだけど……。だから、明日も、一緒に行こう?」
「大丈夫なの? 身重なのに」
そうあたしが返すと、楓は気まずそうな顔でコクリと頷いた。
「もう、つわりの時期は過ぎたから。今は調子がいいの。さすがに、踊るのは無理だから。怪我ってことにしてもらってる」
「そう」
「さすがに、お客さんに妊娠してるだなんて、言えないしね」
そう言って、楓は苦笑いした。なんとなく、その笑顔に苛立ちを感じて、あたしは「あのさ」と口を開く。
「楓が店をやめるのって、本当にデキ婚が原因?」
「そうだよぉ」
あたしの質問に、楓はいつもの無邪気な笑顔で頷く。その笑顔に何も言う気になれず、あたしは「そうなんだ」と口元だけで笑みを浮かべた。
「ごめん、楓。あたし、コンビニ寄って帰るから、先に帰ってて」
楓が店をやめることを責める義理はないが、これ以上、彼女と一緒にいると厳しい言葉を投げかけてしまいそうだ。そんなあたしの気持ちを察したのか、楓はすんなり「わかった」と頷いた。
「じゃあ、また明日ねぇ」
「うん」
そう短く頷くと、あたしは近くのコンビニの中に入る。楓の姿が見えなくなるのを、雑誌棚の隙間から確認すると、ほっと一息吐いた。
あたしは、楓の何に怒っているのだろう。
ずっと一緒に頑張ってきたのに。アイドル志望がデキ婚なんてありえない。裏切られた。そんな気持ちがないわけではないが、もしそれが原因なら、楓が不定期出勤になった半年前に、とっくに敬遠している。
ジーンズのポケットの中で、アイフォンが短く震えた。ポケットから取り出すと、メールが一件届いている。内容はただのメールマガジンで、よくわからない化粧品の通知にため息をつく。そのメール履歴に、昨日届いたオーディションの不合格通知が目に入り、あたしはさらに肩を落とした。
帰ろう。あたし達の住むアパートはこのコンビニから遠くない。楓も、家に着いた頃だろう。
ひっそりとため息をつくと、あたしは店を出る。冷たい夜風に吹かれながら、あたしはぶるっと身を震わせた。もうすぐ夏が来るというのに、日が落ちればまだ肌寒い日が続いている。
早く帰ろう。少し早歩きで進みながら、あたしはアパートへ向かう。
暗闇の向こうで、楽し気な男女の声が聞こえる。どうやらカップルのようで、肌寒いというのに妙に露出が多い服に身を包んだ男女現れた。二人は、腕を組んで歩きながら、時々、お互いの顔を見つめあって、穏やかに笑いあっている。アイドルを目指して、九年間。オーディションを受けながら、毎日メイド喫茶のバイトに明け暮れていたが、全く異性と交流がなかったわけではなかった。十代や二十歳の頃は、あたしに興味を持ってくれるお客さんや異性がたくさんいたし、彼氏ももちろんいた。でも、ひらすら夢を追うことを優先し、疎かにし続けた恋人との関係は、いつだって長続きはしない。次第に面倒になっていった。最後に、他人のぬくもりを感じたのはいつだろう。
楓も、あのカップルのように、恋人と腕を組んで歩くのだろうか。すれ違ったカップルが気になり、なんとなく振り返る。二人はニコニコと楽し気に笑いあいながら、どこかへ向かって歩いていた。ずっと一緒にいようね。そんな甘い言葉を囁きあっている。今は特別、異性のぬくもりが欲しいとは思わないが、この先行きの見えない生活の中では、確かな居場所があるというのは心底羨ましい。
あぁ、そうか。あたしはあることに気が付く。
あたしは羨ましかったのか。
《結婚》という、確かで、幸せな進路を手に入れた、楓のことが。
気がつけば、目の前に、あたしの住む古びた木造アパートがそこに建っていた。
少々ぼんやりしすぎた。よく車に引かれなかったな、あたしは自嘲しながらアパートの中に入り、ポストを開く。
開いた瞬間、大量の紙がバサバサと音を立てて足元に落下する。
「え、何……?」
あたしは紙の一枚を拾い、「ヒッ」と反射的に悲鳴をあげ、それを手放した。
ドク、ドクと鼓動が早くなるのを感じる、冷や汗が頬を伝うのを感じながら、もう一度紙を手に取り、内容を確認した。
《やめてしまえ》
白い紙に、赤い絵の具でそう殴り書きされていた。
――……なんで、誰が。
そう呟こうとして、一人の人物が頭に浮かぶ。
のりぽんだ。
違う、あたしは頭の中でその可能性を否定する。のりぽんは客だ。住所どころが、あたしの個人的な連絡先だって知らない。
でも、もし後を付けていたのだとしたら。
昨日、帰り道で鉢合わせたのりぽんが頭を過ぎり、あたしは背後を振り返る。そこには、誰もいないアパートの廊下が広がっているだけだった。
ぎゅ、と唇を結ぶと、あたしは自分の部屋まで走る。部屋の前に着くと、あたしは震える手でバックから鍵を取り出し、ガチャガチャと激しく音を立てて、鍵を開けて中に入る。玄関のカギと、チェーンロックを掛け、あたしはぺたりとその場に座り込んだ。
「どうしよう……」
警察に連絡しようと、ジーンズのポケットに手を持っていこうとして、あたしはその手を止める。脅迫状を送られただけで、あたし自身は無事だ。真剣に取り合ってくれるとも思えない。
《お店の人に相談した方がいいのではないですか?》
しまこの声が蘇る。そうだ、明日出勤したら店に相談しよう。脅迫状を持って行けば、対応してもらえるかも。あたしはそう言ってバッグを漁る。そこに脅迫状はなかった。気が動転して、持って帰るという判断ができなかったのだ。取りに行こうとして、足が動かないことに気が付く。もう一度、大量の脅迫状を見る勇気は、あたしにはなかった。
それに、あたしに対するのりぽんの態度があまりに酷いことを、店長はよく知っている。その上で「堪えてよ」とあたしに言うのだ。従業員のあたしの気持ちよりも、のりぽんによる店の利益を優先した。きっと、相談しても無駄だろう。むしろ、邪魔者扱いされるのは、あたしの方かもしれない。
どうして、あたしばかり。
どうしようもない孤独感に、あたしは涙が止まらなくなった。