アイドルメイドと一人の仲間
「おはよ」
午後一時、インターホンを押すと、にこやかに微笑む楓が出迎えた。茶色のショートボブの髪を、ピンク色のリボンでハーフサイドアップにまとめ、白いフリルのワンピースを着用している。ばっちりメイクをした彼女を見、あたしは「もう昼過ぎだけどね」と肩を竦めた。
「どこか出かけるとこだった? ばっちり決まってるけど」
「うん。今日は久しぶりに出勤しようと思って」
そう言って笑う楓に、あたしは「やる気が出てくれてよかったわよ」と返した。楓は「うん」と笑うと、外に出て、鍵を閉めた。
「で、美玖は何の用事? もしかして、一緒に出勤しようって誘いに来てくれたの?」
「まぁ、そんなとこね」あたしはため息をつく。「店長が、様子見て来いって。ホントは昨日、行くつもりだったけど。あんた、また彼氏連れ込んでて、うるさかったから」
そう嫌味を込めて言うと、楓は頬を少し赤らめて「え、やだ。恥ずかしい」と笑った。そんな彼女に苛立ちながら「壁薄いんだから、ほんとにやめてよね」と睨んだ。
「美玖も早く作りなよぉ。恋しないと!」
「しないわよ」
あたしは楓に背を向け、コツコツと速足で階段を降り、アパートを出る。楓は「待ってよぉ」と甘ったるい声を出しながら、あたしを追いかけてきた。
「何を怒ってるのよ」
「怒ってないわよ。あたしは、彼氏なんていらないの。アイドルになるんだから」
一瞬、《化石》とあたしを呼ぶのりぽんの声が過ぎる。あたしはグ、と唇を噛むと、背後で楓は「そっか」と少し悲し気に頷いた。
「美玖は、昔から真面目だもんねぇ。ファンも多いし」
「あんたが言うと、嫌味っぽいわね……」
「嫌味じゃないよぉ。あ、でも、変なファンは多かったよね。のりぽんとか……、あ、あと、最近見ないけど、《依子ちゃん》とか」
依子、という名前にあたしは懐かしさを感じる。彼女は一年ほど前、あたしのファンを名乗り、《あいどるめいど・あらもーど》に訪れた客の一人だ。体重は軽く三桁はありそうな、巨大な身体を振り回し、キレのいいサイリウムダンスで、ライブに参加していた女性だ。当時学生だった彼女は、暇を見つけてはカフェに訪れて、なけなしのバイト代を使ってキラキラ目を輝かせながら楽しんでいてくれたことを覚えている。熱心な女性ファンだったが、一年半ほど前に、ぴたりと姿を現さなくなったのだ。
「まぁ、依子ちゃんは迷惑行為をしたわけじゃないし……。それに。今は、全然見ないし」
「風の噂じゃ、のりぽんと揉めたってぇ。犬猿の仲だったもんね、あの二人」
どこに行ったんだろね、楓は懐かしそうに呟く。あたしは「さぁ」と短く返した。楓はふふ、と小さく笑った。
「いろんなお客さんがいたよねぇ。でも、どんなに推してくれても、気がついたらいなくなっちゃう。なんか、寂しいな」
「何を感傷的になってるのよ」
あたしは小さく息を吐く。「あの人達にも、私生活ってのがあるんだから。忙しいんでしょ。その分、新規の人だって、入ってきてるんだし」
「まぁ、そうなんだけどぉ」
楓は寂しそうに笑って頷く。今日の楓は、どうも様子がおかしい。いつも、フラっと職場に現れては、何も考えていないような、能天気な笑顔で、客の視線を奪っていく。いつもと違う、妙に哀愁的な楓の様子に、あたしは違和感を抱く。そんな違和感を他所に、楓は「でもね」と言葉を続ける。
「なんか、思うの。お客さん見てると、たまに。この人達は、あたしのことを好いてくれているけれど、別に、あたしじゃなくてもいいんじゃないかって」
「楓」
「お客さんも、いなくなれば新しい人が入ってくるけど。お客さんにとっても、あたし達は《かけがえのある存在なんじゃないか》って思うの」
何を今更。そう言いたい気持ちに反して、言葉が咄嗟に出なかった。あたしが黙っていると、楓は「ごめんねぇ、急に変なこと言って」と苦笑いをした。
「今日、頑張ろうねぇ」
そう言って、あたしに背を向ける楓に、あたしは「うん」と頷くことしかできなかった。
***
「よぉ、化石」
出勤早々、にこやかに出迎えてくれたのりぽんに、あたしは「わぁ、昨日ぶり」と笑顔で手を振った。昨日のことなどなかったかのように、のりぽんは相変わらずの横暴な態度で注文をする。そういえば、今日は日曜日だったなぁ、とあたしはのんびり思い出す。のりぽんは、仕事が休みの日曜日は丸一日居座るのだ。あぁ、今日は面倒だ。注文を厨房に渡そうと彼に背を向け、こっそりため息をつく。
「おーい、みくりんさん」
視界の端で、誰かがあたしの名前を呼びながら、ぶんぶんと大きく手を振っている。その方向へ顔を向けると、しまこがニコニコと手を振っていた。
まさか、昨日の今日で来てくれるとは。一瞬動きが固まってしまったが、気を取り直し、あたしはしまこのそばまで近寄る。
「また来てくれたんだ! 嬉しい! ありがとう」
そう言ってしまことハイタッチした後、あたしは、彼女の耳元にそっと顔を近づける。
「ちょっと、《さん付け》で呼ばないで。一応、のりぽんの前じゃ、友達って設定なんだから」
そう耳打ちすると、しまこはキョトンとした顔で「のりぽん?」と首を傾げる。あたしが、目線でのりぽんを指すと、しまこは「あぁ」と納得した様子で頷いた。
「今日もいらっしゃったんですね。わぁ、めっちゃ睨んでますね」
笑顔を崩さず、呑気にそう言うしまこに、あたしは「声がでかい!」と小声で叱咤した。
「来てくれたのは、嬉しいけど。たぶん、のりぽん、今日は一日中いると思うわよ」
「あら、それは仲良くなるチャンスですねぇ」
そう言うしまこに、あたしは耳を疑った。彼女は昨日の出来事を忘れたのだろうか。何も言えずに固まるあたしに、しまこはグッと親指を立てる。
「オタクに生まれた時点で、みんなベストフレンドです」
そう決め顔で言い切るしまこ。少年漫画の主人公のような笑顔を向けるしまこに、どこか眩しさを感じながら、あたしは「あぁ、そう」と目を細めた。
「まぁ、ほどほどにね……。あ、注文は?」
「さっき頼んだので大丈夫ですよ。楓ちゃんに」
「お待たせしましたぁ」
しまこの声を遮るように、甲高い間延びした声が聞こえる。声の主は、あたしとしまこの間に割って入るように、強引に登場し、テーブルの上にケーキセットを置いた。
「しまこお嬢様、お待たせいたしましたぁ。《めいどちゃん手作りの萌え萌えケーキセット》ですっ」
そう言って楓は、にっこりとしまこに笑顔を向ける。しまこは鼻の下を伸ばしながら、楓と一緒に「萌え萌えきゅん」と呪文を唱えていた。いつもの手口だ。他のメイドに目を奪われている客の前に素早く現れ、その屈託ない笑顔で魅了していく。通勤中のしおらしい様子はどこへ行ったのか。絶好調じゃないか。あたしは、しまこに会釈してその場を離れる。
ふと、店内を見る。日曜だということもあり、大勢の客で賑わっている。若いメイド達に顔を綻ばせる客達に、あたしはそっと唇を噛む。平日の、客が少ない日では気にならないが、こうやって大勢の客が集まる週末、特に新しい客が入りやすい時には、酷く情けない気持ちになる。みんな、十代や二十代になったばかりの、若くて可愛いメイドばかりを指名し、あたしには見向きもしない。誰にも呼び止められることがなく、あたしは注文をキッチンのスタッフに渡す。そして、フロアに戻ると、のりぽんが今日も不機嫌そうに、「化石」と乱暴にあたしを呼びつけていた。
「無駄話してないで、さっさと注文を持って行けよ。ただここにいるだけでも、金がかかるんだからな」
そう嫌味っぽく言い捨て、のりぽんはこちらを睨む。いつも何時間も居座っているじゃないか。どこか情けない気持ちになりながら、あたしは「ごめんね、もうすぐ来るから」と笑いかけた。
「なんだよ。友人だからって贔屓しやがって。俺はな、客なんだぞ?」
「うん、のりぽんは大切なご主人様だからね」
そう言って、あたしはのりぽんの両手を取る。こうすれば、のりぽんの機嫌は大概戻るのだ。この男は、ただ女の子と触れ合いたいだけの、寂しい男なのだ。しかし、のりぽんは、不機嫌そうに視線を逸らし、「あ、そう」とぶっきらぼうに呟く。普段ならすぐにデレっと表情を崩すのに、今日はどうも一筋縄ではいかないようだ。面倒なことになった。
「ご主人様のみんな! 楓、今から歌います!」
あたしがため息を堪えていると、楓の楽し気な声が聞こえる。軽やかな足取りでステージに上がる楓。久々の出勤だというのに、客に《ライブ》を注文させるとは。人気は衰えていないようだ。
こんなに人気なのに、よくあんな卑屈なことが言えたものだ。
さて、楓が歌うとなると、あたし達も準備をしなくてはいけない。他の客が楽しめるように、盛り上げ役に徹するのもメイドの役目だ。
のりぽんに「また来るね」と告げて手を離す。のりぽんが太々しく頷くのを確認すると、あたしはもう一度のりぽんに笑顔を向けて両手を振り、バックヤードへ向かう。楓の十八番の曲はしばらく使われていない。盛り上がりが冷めないうちに、探し出さないと。バックヤードの扉を開くと、フロアから、しっとりとしたバラードのイントロが聴こえる。どうやら、別の誰かが準備をしたようだ。
一時期気まぐれに所属していた地下アイドル時代に鍛え上げた、キレのいいダンスとポップな歌声を売りにしている楓は、いつも明るいアイドル曲を選択する。そんな楓が、バラードを選ぶなんて珍しい。あたしがフロアに戻ると、楓は出だしの歌詞を歌い始めていた。アクロバティックでキレのあるダンスが特徴の楓は、今日は静かに椅子に座り、ゆっくりと身体を左右に揺らしながら、しっとりと歌っている。曲に合わせてゆっくりとサイリウムを振る客達に紛れて、しまこも神妙な面持ちでサイリウムを振っていた。
相変わらずの溶け込みの速さに、いっそ感心する。
曲も終盤に差し掛かると、楓は椅子から立ち上がり「今日はありがとう」と客に笑いかける。
「あたしは、今月末で《あいどるめいど・あらもーど》を卒業します」