スタートライン
一年後、小さなライブハウスの前で、ウロウロとしている、素朴な女性がいた。パンツスーツに眼鏡、至って地味な印象の彼女は、ライブハウスの入り口を行ったり来たりしている。扉を開けようとしては、手を離し、ため息をついて、また一周。その影を遠方から見つめていた人物は、ずんずんと足音を立て、その背中を勢いよくはたいた。
「痛い!」
女性はそう悲鳴をあげると、恐る恐るこちらを見つめる。相変わらず、呑気そうな顔だ。
「久しぶりね」
あたしがそう告げると、女性――依子は「あぁ、もう」と少し怒った顔をする。
「驚かさないでくださいよ。というか、こんなところで、何をしているんです?」
「何って、様子見よ。客がどんだけ来ているか。なんていったって、今日は初日だからねぇ」
「あぁ、なるほど……」
依子は大袈裟に背中をさすりながら頷く。そんな彼女を、あたしは少し睨んだ。
「で、何をしていたのよ。すごい不審だったわよ?」
「いやぁ、この手のライブハウスって、なんか緊張して」
「そんな危険じゃないわよ」
「そういえば、のりぽんさんは先に入っているみたいですよ」
「さっき、ちらって見えた。よろしく伝えておいて」
「えぇ。彼、喜んでましたよ。初めて、SNSで情報を見た時。アカウント、作ってくれてありがとうって」
「それはよかったわ」
あたしは、店を辞めたあの日、SNSのアイドル用アカウントを作成した。ブログは、あの店の管轄の物だ。辞めた今、もう使えない。今の時代は、やはりインターネットを活用しないと。
「そういえば、《あいどるめいど・あらもーど》の店長さんも来てましたよ。少し、立ち話をしていたら、お店の名前の由来を聞きましてね。聞きたいですか?」
「へぇ、どんなの?」
「《アイドルを作る》って意味みたいですよ」
そう言って、何故か依子が得意げに笑う。
「《めいど》は、メイドさんの《めいど》ではなく、《Make》。作るって意味の《めいど》みたいですよ」
「……へぇ」
だから、謎のライブシステムがあるのか。あたしはそっと微笑む。
「じゃあ、伝えておいて。その名前、本物にしてあげるからって」
「わかりました。あ、あと、楓さんも」
楓、という名前にあたしの心臓はドキリと大きく脈打つ。楓とは、あの《告白》の日以来会っていない。いつのまにか、楓はあの家を出て行っていた。今では、連絡先すらわからない。
「楓、どうだった?」
「えっと、お元気そうでしたよ。赤ちゃんを抱いて。あと、隣に、男性の方がいました。いやぁ、ご結婚されていたんですね。全然知らなかった」
めでたいですねぇ、と依子はパチパチと拍手をする。あたしは「そうね」とそっと息を吐き出した。
「あれ、みくりん、笑ってませんか?」
「笑ってないわよ。で、あんたはどうなの?」
「私は相変わらず社畜でオタクです」
「そう」
そう言ってあたしは小さく笑う。こうして、道が途切れても、この場所でまた再会できるというのは、ありがたいことだ。
たとえ、今日が、最初で最後になったとしても。きっと、今日があたしの永遠になる。
「ていうか、そんなに知り合いがいるなら、会った時に一緒に入ってもらえばよかったのに」
「いや、なんというか。やっぱ緊張して」
「なんで、依子ちゃんが緊張するのよ……。じゃあ、あたしは行くわね」
「あ、待ってください」
そう言って、依子は両手を差し出す。
「握手を」
そう言う彼女の手を、あたしは静かに握りしめる。懐かしい感触に、あたしはそっと口元を緩ませた。
「じゃあね。そろそろ始まるから、さっさと中に入りなさいよ」
「はい」
そう笑うと、依子はあたしに背を向けて入り口の中へ駆けていく。相変わらず、変わった女性だ。
あたしはそっと裏手に回ると、ライブハウス関係者専用の入り口に手を掛ける。その入り口には、五人組の女性が写った、カラフルなポスターが飾られていた。
その中心に映る、一人の女性の顔を見つめる。あたしだ。紙の中のあたしは、満面の笑みを浮かべて、ガッツポーズをしている。
今日から、あたしのステージはここから始まる。
その輪郭をそっとなぞると、ドアノブに手を下ろし、そっと扉を開けた。




