あたしの居場所
「あ、美玖。おつかれ」
いつものメイド服に着替え、更衣室から出ると、店長が穏やかに出迎えてくれた。あたしは、「早退させていただき、すみませんでした」と頭を下げる。店長は困ったように笑いながら「もういいのよ」と両手を胸の前で振った。
「……ねぇ、美玖。脅迫状の件なんだけど……。犯人が見つかってね。それで」
「はい、直接聞きました」
あたしがそう答えると、店長は一度目を丸くし、そして「そう」と何か言いたげな瞳を俯かせた。
「じゃあ、こちらから言うことはないわね……」
「あの、自分から言ってきたんですか? その、楓は……」
「えぇ。あの子は、もう店には来ないわ」
店長は肩を竦めると、少し残念そうに微笑む。
「いいメイドだったのにね。もちろん、あんたにやったことは、許されることじゃあないけど」
「そう、ですね」
あたしはそう頷くと、楓のロッカーに目をやる。普段は貼られている楓の名前が、その扉から消えていた。
「でも、ちゃんと自分で言ったのね。楓。それだけ、あんたとの関係を大切にしていたのね」
「……どうでしょう」あたしは小さく首を傾げる「そうだと、いいんですけど」
「そういうことにしておきましょう。じゃあ、美玖、これからもよろしくね」
そう言って、店長は握手をあたしに差し出す。その手に、あたしは嬉しさに口元をほころばせる。
あぁ、まだあたしは必要とされていたんだ。
あたしはバッグから一枚の白封筒を取り出すと、店長に差し出す。
《退職届》
そう書かれた封筒に、店長は大きく目を見開く。
「美玖、あんたこれ」
「あたしは、もう夢をみられないんです」
そう答えると、あたしは店長に背中を向け、ホールに向かう。店長の焦った声が聞こえたが、あたしは振り返らず進んだ。これでよかったんだ。あたしはホールへつながる扉を開く。
そこには、土下座したのりぽんがそこにいた。周囲の客は、そんなのりぽんの奇行を止めるわけもなく、訝し気に彼を取り囲んでいる。
「え、ちょっと、どうしたの?」
いつもの接客用の甘い声を咄嗟に出すことが出来なかった。九年間この店で働いてきて、客とトラブルはなかったわけではないが、出勤早々土下座をされたのは初めての経験だった。
「今まで、本当にごめん」
のりぽんは、頭を床に擦り付けたまま、そう謝罪をする。今まで、数々の暴言を浴びせられても、悪びれもせずニヤニヤと笑っていた彼が、一体どういう心境の変化だろう。とにもかくにも、この状況は他の客の心証的にもよくはなかった。
「あの、顔をあげてよ。何の話よ……?」
「全部だよ! 《化石》呼ばわりしたことも、この前、店の外でしつこく夕食を誘ったこととか、日頃の暴言とか、全部」
全部自覚があったのか。その事実に驚きながら、あたしは「えぇ……」と間抜けな声を出した。
「あの、ホントに顔をあげてよ……。もういいから」
「あの女に言われたんだ」
あの女、とは誰のことだろうか。最近ののりぽんの態度は、特にひどいものだった。さすがに見かねた店長から何か言われたのだろうか。顔を勢いよくあげるのりぽんに、あたしは「えっと、誰の事?」と顔が引きつるのを自覚しながら、出来るだけ穏やかに接するよう心掛ける。のりぽんは「あの眼鏡の女に言われたんだよ。お互い、それぞれの用事で別々に帰った時にさ、《しまこ》さんに」と答える。
しまこ、という懐かしい名前が、あたしの心臓をチクりと指す。彼女とは今朝、気まずい雰囲気で別れたままだった。そんなあたしに構わず、のりぽんは話を続ける。
「女慣れしてないんだ。それで、それがバレないように、強気の姿勢で行こうとして、あんなことに。でも、本当に、ごめん。今更だけど。ダメだなぁ。昔、言われたのに」
「言われたって?」
「依子だよ。あの太い眼鏡の女」
依子、という懐かしい名前に、あたしは目を細める。のりぽんは「本当にごめん」ともう一度頭を下げた。
「もう《化石》なんて呼ばないから。絶対呼ばないから。みくりん、これからも、応援させてください」
《応援》という言葉を聞いたのは何年ぶりだろう。
「……勝手なこと言わないでよ。今まで、酷いこといっぱい言ってきたくせに」
「え、あ、うん……そう、だよな。うん」
いつもの横柄な態度は微塵もなく、ただただオロオロと視線を泳がせる。どうやら、本当に反省しているようだった。一体、しまこは何を吹き込んだのだろう。
「……もういいよ。ありがとう」
そう言って、あたしは肩を竦める。どのみち、あたしの夢はここで終わりだ。ようやく素直に《応援》してくれる気持ちになったのりぽんには申し訳ないが、もうやめると決めたのだ。
「ねぇ、のりぽん。あたしの歌、聴いてくれる?」
「あ、うん。じゃあ、ライブの注文を」
「ううん、いらないよ」
あたしはそう言ってステージに上がる。戸惑うのりぽんは、首を傾げながらステージ前に移動し、サイリウムの準備をした。
九年間歌い続けた、ポップなメロディのアイドル曲。これが、最後のステージ。
あたしが歌うと、サイリウムの光が動き出す。のりぽんに混ざるように、他の客達も、サイリウムを振り始めた。
その光に、あたしは眩しくて目を閉じる。ポロリと頬に涙が伝う。ザワッ、と客達の困惑する声が聞こえ、あたしは慌てて涙をぬぐい、歌を歌いだした。
あぁ、そうか。あたしは救われていたんだ。
唯一歌える、この場所に。




